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12巻
12-1
しおりを挟むプロローグ
朝の慌ただしい時間が過ぎ、もうすぐお昼という頃。王都の正門に程近い駅馬車の駅から一人の青年が乗車した。
薄汚れた服にボサボサの髪。旅をしているのかと思えば、荷物はほんの小さな鞄だけ。
その上、意識がどこかへ行ってしまっているような、ぼーっとした顔をしている。
少し不審な彼から、車内にいる乗客はさりげなく距離を取った。
フェリフォミア王国の駅馬車は前払い制。行き先に合わせて代金を払う。
車掌が青年に目的地を聞くと、とある国の大使館に行きたいという。こんな怪しい人物が大使館になんの用だ!? と車掌は内心で驚くものの、駅の名前と金額を伝えた。
青年はそれに頷いて、鞄の中からお金を取り出す。
どうやらお金はちゃんと持っていたらしい。
ひとまず代金をもらえたことに、車掌はホッと胸を撫で下ろす。
青年のあとから乗り込んでくる客はおらず、出発の時間になった。車掌は運転用の魔術具を操作し、馬車を発車させる。
馬車と呼ばれているが、魔術式の馬車なので、馬が牽いているわけではない。
駅馬車は趣のある石畳の街を進んでいく。
いくつかの駅を過ぎ、王都の中心部へとさしかかる。老舗や高級店が立ち並ぶ中央通りで、一人の乗客が降りていった。
ここで降りるのは一人だけのはずだと、車掌は次の駅へ向かうべく馬車を動かそうとする。
だが、その時――
例の青年が馬車から降りてしまった。
「おい、あんたの降りる駅はここじゃ……」
車掌が呼び止めるも、青年はあっという間にいなくなる。
大使館はここから二駅先。歩いて行けない距離ではないが……
車掌は唖然としつつも、客一人に気を取られてばかりもいられない。一度止めた手をまた動かし、馬車を発車させた。
一方、青年はといえば、見慣れない景色の中に立ちすくんでいた。
「ここ、どこ?」
あたりを見回すと、大通りにたくさんの店が並んでいる。煌びやかな王都の中心街だ。
でも彼の行きたかった場所はここではない。
ぐぅ~……
「ふぁああああ」
彼のお腹から音が鳴り、口からは大きなあくびが出る。
空腹感と眠気に襲われながら、彼はふらふらと歩き出す。
少し歩いたところで緑の匂いがした。そちらへ行ってみると、小さな広場がある。その周囲を囲むように低木が植えられ、内側には綺麗な花壇があった。
青年はおぼつかない足取りで歩いていく。
そして、花壇と低木の間に倒れ込んだ。
それから、ものの三秒。
青年は安らかな寝息を立て始める。食欲より睡眠欲が勝ったらしい。
低木の茂みに埋もれるようにして彼は眠る。
広場の上には、初秋の晴れ渡った青空が広がっていた。
第一章 過保護じゃないでしょうか?
それは夏の終わりのある日のこと。
どこか慌ただしい感じがする朝の王都を、その馬車は比較的ゆったりと走っていた。
やがて馬車が停まったのは、道具街の一角にある小さなお店の前。
初老の御者が馬車のドアを開けると、銀色の髪の男性が降りてきた。彼は、同乗してきた女性に向かって手を差し出す。
「ほら」
「えっ!」
黒髪の女性は戸惑うが、男性は彼女の体を軽々と持ち上げた。女性が驚いて目を見開いている間に、両足が石畳の地面に着地する。
「そんなに心配しなくても、一人で降りられるってば」
「万が一、足を踏み外したりしたら危ないだろう」
彼は涼しい顔でしれっと言った。
「初めて乗ったわけじゃないのに大げさな……」
どこか不満げな顔で呟く女性は、リサ・クロカワ・クロード。今馬車が停まっているお店――カフェ・おむすびのオーナー兼店長である。
そして、未だにリサの腰を支えるようにして立つ銀髪の男性は、ジーク・ブラウン・クロード。彼はリサの夫であり、カフェ・おむすびの副店長なのだ。
そこで、リサの肩から小さな影が飛び出した。
「ジークさん、大丈夫ですよ! 何かあればバジルがマスターをお助けしますから!」
緑色の服を着た、体長二十センチほどの存在。それはリサと契約しているバジルという名の精霊だ。
バジルは緑を司る精霊で、植物を操ったり、風を起こしたりする力がある。そのため、リサがピンチの時は、その力でたびたび助けてくれていた。
ただ、バジルの姿を見たり声を聞いたりすることは、残念ながらジークにはできない。
リサは苦笑しつつ、バジルの言葉をジークに伝える。
「バジルちゃんが、何かあれば私を助けてくれるって」
「そうか。俺がいない時はよろしく頼むよ」
暗に自分がいる時は大丈夫だと言うジークに、リサはやれやれと肩をすくめた。
先日、リサが妊娠していることがわかってから、ジークは常にこの調子なのだ。
心配してくれるのは嬉しいけれど、今からこんなに過保護になっていては先が思いやられるなぁ、とリサは思っていた。
馬車がクロード家に戻っていくのを見送り、リサとジーク、そしてバジルはカフェ・おむすびの店内に入る。
一晩閉め切った状態だった店内には熱がこもっているので、リサたちは窓を開け、冷房の魔術具を起動させる。
そうしているうちに、他の従業員たちも次々と出勤してきた。
「おはようございます!」
一番にやってきたのは大柄な青年だ。少し垂れ目で、ホットケーキのような髪色の彼は、ヘクター・アディントン。カフェではリサやジークと同じく調理を担当している。
ヘクターのすぐあとから、二人の女性もやってきた。
「おはよう、今日も暑くなりそうね」
首すじに白いハンカチを当てながら言うのは、ミルクティー色の長い髪を持つ女性。彼女は、オリヴィア・シャーレイン。主に接客を担当している。まだ若々しいオリヴィアだが、こう見えて九歳の息子がいるシングルマザーだ。
「夏も終わりだっていうのに、まだ暑さは続きそうよね」
そう嘆く焦げ茶色の髪の女性は、デリア・オーウェン。彼女も接客を担当していて、同じく九歳の娘がいる。
オリヴィアの息子とデリアの娘は同い年で仲がいい。その縁から、デリアはカフェで働くことになったのだ。
全員揃ったところでカフェの開店準備が始まった。
調理担当は厨房でランチタイムの準備。接客担当はホールでお客さんを迎える準備に入る。
「俺とヘクターでやるから、リサは座っててくれ」
「えー! さっきも言ったけど、そんなに心配しなくて大丈夫だってば!」
厨房に入るなりジークに止められ、リサは不満を露わにする。
「リサさん、体調悪いんですか?」
二人のやりとりを不思議に思ったのか、ヘクターが質問した。
「全然! 病気なわけじゃないし」
「だけどな……」
「無理そうだったら言うから、ね?」
リサがなだめるように言うと、ジークは渋々ながら頷いた。
それを見ていたヘクターはようやく理由を察したのか、「あーなるほど」と作業に戻っていく。
やれやれとため息を吐いたリサは、なおも心配そうに見つめてくるジークの視線を感じながら、自身も作業を進めるのだった。
開店準備が一通り終わると、カフェのメンバーは二階のスタッフルームに集まり、賄いを食べながら打ち合わせに入る。
今日の賄いは夏野菜のラタトゥイユだ。副菜は、ミズウリというきゅうりに似た野菜と、マローというトマトに似た野菜のマリネ。いつもパンを仕入れているチェスターパン店の丸パンが添えられていた。
それを食べながら、ジークが今日のランチメニューの内容を説明する。接客担当のオリヴィアとデリアがいくつか質問をしつつ、ミーティングは進む。
夏も終わりだというのに、外はまだまだ暑い。お店に来る人たちはその中を歩いてくるので、料理も冷たくてさっぱりしたものを好むだろう。
そういったことを事前に打ち合わせし、臨機応変に対応していくということが、カフェ・おむすびでは日常的に行われていた。
打ち合わせが終わり、賄いもほぼ食べ終えたところで、リサが「少しいいかな」と別の話題を切り出す。
「来月からメンバーが増えるじゃない? だから、その前に歓迎会的なことをしようかなと思ってるんだよね。今年は夏の慰安旅行もできなかったし、その代わりに何かできたらって思ってさ」
「いいと思うわ! といっても、新しいメンバーは私たちもよく知ってる子だけどね」
リサに賛同しながらも、オリヴィアはふふっと笑う。
「あー、俺はあまり話したことないんですよね」
「いつも厨房にいるヘクターくんは、なかなか会う機会がなかったかもしれないわね」
ヘクターの言葉を受け、デリアが言った。
この秋からカフェ・おむすびの新たな従業員になるルトヴィアス・アシュリー・マティアス。彼は、三年前にフェリフォミア国立総合魔術学院に新設された料理科の一期生だ。
この夏、晴れて料理科を卒業し、カフェ・おむすびの調理担当として働くことが決まっていた。
料理科で教鞭を執るリサとジークにとって、ルトヴィアスは教え子になる。そもそも、料理科に入学する前からカフェ・おむすびの常連だった彼とは、接客担当のオリヴィアやデリアも顔なじみであった。
一方、厨房にいることの多いヘクターは、ルトヴィアスと接する機会がほとんどない。
しかし、今後ルトヴィアスが新たに料理人として入るとなると、一番関わるのは必然的にヘクターになる。
実はヘクターの本来の職場は、王宮の厨房だ。料理科の卒業生がカフェに入ってくるまでの二年間という契約で働いていたのだが、このたびリサが妊娠したため、契約を二年延長した。
早く元の職場に戻りたいのではと思いつつ、契約の延長を打診したリサだったが、ヘクターはすんなりと受け入れてくれた。むしろ契約を延長できたことを、かなり喜んでいるようだ。
リサとしては、拒否されなくてホッとしたし、カフェに愛着を持ってくれたのであれば嬉しい。
リサもなるべくルトヴィアスを指導しようとは思っているが、出産に向けて仕事を少しずつセーブしなければならないし、ジークも料理科があるので付きっきりではいられない。
これから先、カフェ・おむすびの厨房をヘクターとルトヴィアスの二人だけで回していかなければならない時もあるだろう。
だからこそ、ルトヴィアスがカフェに入る前に顔合わせをしておいた方がいいとリサは思っていた。
「二号店のメンバーと会う機会もそうそうないだろう? だから、全員揃って何か面白いことができたらと考えているんだ」
ジークが補足するように言うと、オリヴィアが「そうね」と嬉しそうに頷いた。
同じ王都内にあるカフェ・おむすび二号店。その店長のアランと副店長のヘレナも、元はこの店にいたメンバーだ。
特に古株のオリヴィアは、かつて彼らと一緒に働いていたため、久しぶりに会いたいと思っているようだった。
カフェ・おむすび本店と二号店は、あえて休業日をずらしているので、お休みの日に会うということがなかなかできない。
オリヴィアはたまに息子を連れて二号店に行くらしいが、向こうは仕事中だし、本店が休みだと二号店にお客さんが集中する。混んでいる時に話しかけるのは、さすがにためらわれるのだろう。
そうした事情もあって、今回の歓迎会はメンバー同士の交流会も兼ねて行おうと、リサとジークは考えていた。
「王都の外に出てちょっと行ったところに、いい感じの川があるってジークから聞いたから、そこでバーベキューとかどうかなって思ってるんだ」
「いや、だから、それはやめようって言っただろ。リサの体に何かあったら大変だ」
リサの言葉にすかさずジークが反論する。
実はこのバーベキューのことは初夏くらいから考え始めており、アシュリー商会主催の料理コンテストが終わったら、すぐにやるつもりでいた。その時はリサの妊娠が発覚していなかったため、ジークも乗り気だったのだ。
しかし、先日リサの妊娠がわかった途端、ジークは意見を翻した。
リサとしてはお腹が大きくないうちに、という気持ちもあるので、川辺でのバーベキューを決行したいのだが、ジークはまったく聞く耳を持ってくれない。
「あら、ジークくんってこんなに過保護だったの?」
デリアが驚いたような顔で言った。
「そうなの。こないだまでは普通に仕事してたんだから、大丈夫だって言ってるのに……」
リサが困った表情で嘆くと、オリヴィアはクスリと笑う。
「私の旦那もそうだったわ~。男性は実感がない分、過剰に心配しちゃうのかしら。その気持ちもわからなくはないんだけどね……。ジークくん、妊娠期間は長いんだから、今からそんな調子ではダメよ。それに適度に運動しておかないと、いざ出産する時に耐えられないわよ」
「……そうかもしれないが……」
出産経験のあるデリアとオリヴィアから言われて、ジークも少し思うところがあるのだろう。そう言ったきり口をつぐんでしまった。
「それにバーベキューっていうのがどんなものかはわからないけど、川辺ってことは、野外でお料理したりするんでしょう?」
「そうなの! バーベキューっていうのは、野外で火をおこして料理をすることなんだ。普段はできない大がかりな料理なんかもできるし、何よりみんなで火を囲んで食べるのは楽しいしね」
オリヴィアの問いに、リサは目をキラキラさせて答えた。
バーベキューの醍醐味は、開放感のある野外で、みんなでわいわい食べることである。
大人数でできるので、交流会には持ってこいだ。
「それならリサさんだけが料理に追われることもないだろうし、いいんじゃないかしら? それこそお腹が大きくなったらできないし、赤ちゃんが生まれたら、ある程度大きくなるまで、そんな機会もなくなっちゃうでしょ?」
オリヴィアに続いてデリアも賛同した。
ジークは口元に拳を当てて考え込む。
ややあって顔を上げると、「そうだな」と頷いた。
「二号店のメンバーも一緒なわけだし、そうなれば料理する人間も増えるからな。リサだけが無理することもないだろう」
ジークが考えを改めてくれたので、リサはホッとする。
アシストしてくれたオリヴィアとデリアに視線を送ると、二人から微笑みが返ってきた。
身近に出産経験者がいるのはとても頼もしい。今後、ジークの過保護っぷりに困ることがあれば、また二人に頼ろうとリサは思った。
「あ、そろそろ開店の時間じゃないですか?」
話がまとまったところでヘクターが声を上げる。
「そうだね。それじゃあ、今日も一日頑張りましょう」
リサは気持ちを切り替えるようにパチンと手を叩いた。
こうして今日もカフェ・おむすびは、いつも通り開店するのだった。
第二章 お誘いしました。
夏も終盤だというのに、相変わらず暑い一日だった。
まだ長い昼がようやく終わり、閉店の時間が刻一刻と近づいていく。
そんな中、入口のドアが開き、新たな客がやってきた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中で作業をしていたリサは、ドアベルの音に反射的に顔を上げ、入口の方に目を向ける。
すると、そこに見知った顔が二つ並んでいた。
「二人一緒に来るのは珍しいね。仕事の帰り?」
リサがフレンドリーに話しかけたのは、燃えるような赤い髪をした小柄な男性――ラインハルトと、紫の髪をしたスレンダーな女性――ヴィルナである。
ラインハルトとヴィルナは、フェリフォミア騎士団に所属している。リサの夫であるジークも、かつて騎士団に所属しており、この二人とは学生時代からの同期だ。
「ちょうど帰りが一緒になってな」
そう言ってラインハルトがカウンター席に座ると、ヴィルナもその横に座った。
「こんばんは、リサさん。もう何度も来られないからね。せっかくだからついてきたんだ」
「そっかぁ、もうすぐヴィルナさんは国に帰っちゃうんだもんね」
ヴィルナはフェリフォミアの出身ではなく、お隣のニーゲンシュトックという国の生まれだ。長年婚約していた相手と結婚するため、この秋、国に帰ることになっていた。
「カフェにも来られなくなるし、みんなと会えなくなるのが寂しいよ」
「私も寂しいな。生まれてくる子供にも会ってほしかったのに」
「会いたかったなぁ。というか会いに来るね!」
「うん! 待ってるよ~」
ヴィルナとそんな会話をしつつ、リサは二人にお冷を出してメニューを渡す。
まだ残っているケーキの種類を伝えていると、厨房からジークが出てきた。
「二人とも来てたのか」
「ジーク、お疲れー」
カウンター席の二人に気づいたジークが声をかけると、ラインハルトが軽く手を上げる。
「あ、そういえば、来週のカフェの休業日って、お前ら暇か?」
ジークがラインハルトとヴィルナに尋ねた。
それを横で聞きながら、その日はバーベキューをやる日じゃなかったっけ? とリサは思う。
「来週の休業日? 俺は休みだけど」
「騎士団の退団日がその二日前だから、私も空いてるよ」
ラインハルトとヴィルナがそう答えると、ジークは「よし」と頷いた。
「リサ、この二人もバーベキューに誘っていいか?」
「それはいいね! ヴィルナさんのお別れ会も兼ねてやろう」
「ああ。それと火おこし要員の確保だ」
「え、話が見えねぇんだけど」
ラインハルトがジークの言葉に訝しげな表情を浮かべる。
「あのね、来週カフェのメンバー全員で、秋から新しく入る子の歓迎会っていうか、親睦会をしようと思ってるんだ。王都の外にある川辺でバーベキュー……っていうのは野外で料理を作って食べることなんだけど、二人も一緒にどうかなって」
「何それ楽しそう! 行く行く!」
リサの説明に興味が湧いたのか、ヴィルナはすぐに食いついた。
「あー、それで火おこし要員ってことか。俺もいいぞ」
ラインハルトが納得した様子で頷く。
「よかった~!」
「でもカフェ・おむすびの親睦会なんだろ? 部外者の俺らが加わってもいいのか?」
せっかくの親睦会を邪魔してはいけないと、ラインハルトが気を遣って聞いてくる。
竹を割ったような性格のラインハルトだが、こういうところに気が回る男なのだ。この若さで分隊長を務めているのも頷ける。
ラインハルトの質問にジークが答えた。
「オリヴィアとデリアは家族で参加するらしいし、従業員でなくてもかまわない。それに、お前らには何かと世話になってるからな」
「そうそう。遠慮なく参加して」
リサもジークの言葉に同意する。
「まあ、その分こき使わせてもらうが」
「おい! ……まあ、別にいいけどな」
ジークに突っ込んだラインハルトだったが、その後ちらりとリサを見る。その目はリサの顔というよりもお腹のあたりを彷徨っていた。
ラインハルトも妊娠しているリサのことを気遣ってくれているらしい。
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