栄華の左目、誓いの右目

五色ひいらぎ

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慈寧宮にて・3

半癒

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 老皇太后の目覚めに立ち会ったのは、道士と侍女の二人であった。上体を起こしつつ目を瞬かせる皇太后へ、道士は穏やかに語りかけた。

「いかがですかな、具合は」

 皺に埋もれた目が、驚きに見開かれる。
 皇太后の瞳は、左右の色が異なっていた。澄んだ褐色の左目、白く濁った右目。老いた手が左目の前へ挙がり、ひらひらと動く。

「見える……」
「回復なされたのですね! 太后様!!」

 侍女の叫びに喜色が満ちる。皇太后は緩慢に首を傾げた。

「どうやら、左目だけが治っているようです。これまで、どのような医者も治せなかったというのに」

 皇太后は、道士へと向き直った。

「感謝いたします。左目しか治せなかったとはいえ――」
「ええ。片目のみ、お治しいたしました」

 深く頭を下げる道士に、皇太后は再び首を傾げた。

「……右も、治せるのですか?」

 道士は頭を下げたまま、答えない。

「もし右も治るのでしたら、銭はいくらでも用意します。できるのですか」

 道士は顔を上げた。

「見るのには、一つの目で足りましょう。誓いに捧げるには、一つの目でよいでしょう」

 皇太后の顔が蒼白になった。身を強張らせつつ、鋭く問う。

「誓い、などと……どこでそれを」
「うわごとに、しきりに口にしておられましたのでな」

 道士は、俯き加減に目を伏せた。

「皇太后様が遭われた苦難、為されたことども、あるいは為されなかったことども。語られた言葉の何が真で何が偽か、私に知る術はありませぬがな。しかし」

 道士は立ち上がり、緩慢に寝所の窓へと歩み寄った。透かし彫りの格子を開ければ、朝の光に照り映える庭園の向こうを、下男下女がせわしなく行き交っている。庭には赤の牡丹、薄紅の牡丹、黄の牡丹などが、押し合うようにして咲き競っていた。

「牡丹が咲いておりますな。そして、多くの者がおりますな。少なからず、北で辛苦を味わった者も」

 侍女が、身を乗り出した。

「わたくしの母は、まさに北から逃れてきた者でございます……臨安にたどり着いた時、既に金人の子を身籠っておりました。それが、私です」

 皇太后の目が、大きく見開かれた。

「ですので皇太后さまには、ぜひとも治っていただきたかった。お幸せになっていただきたかった。……そう願う臨安の民は、いや大宋の民は、きっと、少なくないと思います」

 肩を震わす皇太后を前に、侍女は深々と膝を折った。

「この乱れた世に……清い者など、おりますまいて」

 道士が拱手し、一礼をする。

「末永く、見てゆかれるとよろしかろう。一つの目で、人の成し得たものどもを。一つの目で、忘れるべからざるものどもを」

 皇太后は寝台から立ち上がり、道士の元へと駆け寄った。跪き、何度も何度も礼をした。
 澄んだ左目と、濁った右目が、共に涙を流していた。
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