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寒気凛冽
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錆だらけの石油ストーブを背に、健さんはもったりした動きで礼をした。
頭を上げた拍子に、黒の烏帽子が板張りの床へ落ちた。健さんは、皺に埋まりそうな茶色の目を細めて手を伸ばす。床に垂れる白絹の袖は艶を既に失い、晒されている髪の毛の方がむしろ白い。
老いたな、と思う。
健さんがここに来るのは、先月の新嘗祭以来だ。が、たった一月の間に、ずいぶん動きが鈍ったように思う。拾った烏帽子の紐を結び直す指先も、かすかに震えている。この調子で、最後まで祝詞を読めるのだろうか。
健さんこと白神健一郎氏が、我が樅木神社の宮司になって、三十年か四十年くらい経つ。前の社が空襲で焼けた後、ここで再建されたのが七十年ほど前のはずだから、この地での歳月は半分くらい健さんと共に在ったことになる。老いるはずだ。
どうにか烏帽子をかぶり直した健さんが、三方に捧げ物を並べ始める。柚子、柚子、柚子……全部柚子だ。健さんの心の声が聞こえてきた。
(申し訳ございません、鷲巣忠隆公。今年も、冬至祭は行えませなんだ。この御祈祷で、どうかお許しください)
かまわんよ、と、人には聞こえぬ声で答える。
昨年頃から市井に疫病が流行っているのは知っておる。民を病の穢れに晒すのは本意ではない。儂の力はその柚子に込めておくゆえ、一陽来復の札と共に氏子たちに配ってやるがよい。
健さんが祝詞を読み上げ始めた。だが、まったく呂律が回っていない。酔客のうわごとにしか聞こえない呻きに、何かがおかしいと感じ始めた時、健さんの身体はゆっくりと傾いだ。
まず祝詞の記された紙が、次いで烏帽子が、最後に健さんの身体が、床に落ちた。
死の穢れが濃く立ちこめる。
音のない拝殿の中で、動くものは錆びたストーブの赤い炎ばかりだった。
◆ ◇ ◆
境内の立入禁止が解かれたのは、健さんの突然の死から二日後だった。死因は脳梗塞で事件性はない、と、マスク姿の氏子たちに警官は説明した。警官が黄と黒の紐仕切りを解いて去った後、氏子たちは声を潜めて話し始めた。
「もう、無理かもしれませんねえ」
「無理ですねえ」
若い――といっても五十代くらいの――氏子たちが、いやにさっぱりとした口調で言った。
「御祭神の鷲巣忠隆公は、関ヶ原や大坂冬の陣夏の陣を戦われた猛将。軽んじれば罰が当たるやもしれん」
腰の曲がった、白髪の氏子が言った。
「でも宮司のなり手、もう十年以上探してましたよね? 後継者さえいれば、健さんだって十何箇所もの神社の面倒、ひとりで見なくてもよかったはずですよ」
「社殿の維持費ももう出せてないんでしょう? 大きな所に合祀してもらえば、街住まいの氏子も参拝しやすいですし」
若めの氏子たちは、口々に言う。
境内をあらためて見回せば、まず目に入るのは茂り放題の御神木だ。長らく剪定されず不揃いに伸びた枝の先には、ひびが入った瓦と詰まった雨樋がある。参道の石畳は雑草で目詰まりし、手水舎では水の止まった水盤が苔で斑になっていた。
「解散しかないと思いますよ」
早く片付けてしまいたい――氏子たちの心の声が聞こえる。
社殿を取り巻く木々を、ふと眺める。名の通り樅の木が多くを占める森では、健さんが時折、青葉の枝を取って持ち帰ることがあった。あの様子ももう見られないのかと思いかけた時、儂は木陰に一匹の黒猫を見かけた。人ならざる気配に気づいたのか、猫は首を傾げて本殿の方角を見つめてくる。
「ところで、健さんのお通夜と式は?」
「通夜祭は釜崎葬祭ホールで二十四日……今日の十八時ですよ。告別式は明日、二十五日の十一時から。神式だから間違えないでね」
そうか、今なら、健さんが人であるうちに会ってこられるのかもしれん。
儂は、音にはならぬ声で猫に囁きかけた。
「すまぬ、身体を借りてもよいか」
猫はぴくりと耳を動かすと、ふにゃあと一声鳴き、腹を見せて寝転んだ。
感謝しつつ気を凝らせば、儂の意識はすうっと猫の中へと入っていった。試しに一声発してみる。
「にゃおぉ」
うむ、首尾上々。
身体を借りれば、あとは動くだけだ。釜崎葬祭ホールとやらの場所は知らないが、勝算はある。
境内のすぐ外に、氏子たちの自動車が何台か停まっていた。うち一台の後ろには大きな荷台があり、脇に「大磯金物店 釜崎市大工町XXX-X」と書いてある。つまりこの車に乗れば、うまくすれば葬祭ホールへ、悪くとも釜崎市内には着くことができる。この鷲巣忠隆、生前の智謀では他の家臣たちの後塵を拝していたが、この程度はわけなく思い付くのだ。
他の車を足掛かりに荷台へ飛び乗れば、鳥居から氏子たちが出てくる気配があった。あわてて儂は、積荷の青くつやつやした幕の下へ身を隠した。
頭を上げた拍子に、黒の烏帽子が板張りの床へ落ちた。健さんは、皺に埋まりそうな茶色の目を細めて手を伸ばす。床に垂れる白絹の袖は艶を既に失い、晒されている髪の毛の方がむしろ白い。
老いたな、と思う。
健さんがここに来るのは、先月の新嘗祭以来だ。が、たった一月の間に、ずいぶん動きが鈍ったように思う。拾った烏帽子の紐を結び直す指先も、かすかに震えている。この調子で、最後まで祝詞を読めるのだろうか。
健さんこと白神健一郎氏が、我が樅木神社の宮司になって、三十年か四十年くらい経つ。前の社が空襲で焼けた後、ここで再建されたのが七十年ほど前のはずだから、この地での歳月は半分くらい健さんと共に在ったことになる。老いるはずだ。
どうにか烏帽子をかぶり直した健さんが、三方に捧げ物を並べ始める。柚子、柚子、柚子……全部柚子だ。健さんの心の声が聞こえてきた。
(申し訳ございません、鷲巣忠隆公。今年も、冬至祭は行えませなんだ。この御祈祷で、どうかお許しください)
かまわんよ、と、人には聞こえぬ声で答える。
昨年頃から市井に疫病が流行っているのは知っておる。民を病の穢れに晒すのは本意ではない。儂の力はその柚子に込めておくゆえ、一陽来復の札と共に氏子たちに配ってやるがよい。
健さんが祝詞を読み上げ始めた。だが、まったく呂律が回っていない。酔客のうわごとにしか聞こえない呻きに、何かがおかしいと感じ始めた時、健さんの身体はゆっくりと傾いだ。
まず祝詞の記された紙が、次いで烏帽子が、最後に健さんの身体が、床に落ちた。
死の穢れが濃く立ちこめる。
音のない拝殿の中で、動くものは錆びたストーブの赤い炎ばかりだった。
◆ ◇ ◆
境内の立入禁止が解かれたのは、健さんの突然の死から二日後だった。死因は脳梗塞で事件性はない、と、マスク姿の氏子たちに警官は説明した。警官が黄と黒の紐仕切りを解いて去った後、氏子たちは声を潜めて話し始めた。
「もう、無理かもしれませんねえ」
「無理ですねえ」
若い――といっても五十代くらいの――氏子たちが、いやにさっぱりとした口調で言った。
「御祭神の鷲巣忠隆公は、関ヶ原や大坂冬の陣夏の陣を戦われた猛将。軽んじれば罰が当たるやもしれん」
腰の曲がった、白髪の氏子が言った。
「でも宮司のなり手、もう十年以上探してましたよね? 後継者さえいれば、健さんだって十何箇所もの神社の面倒、ひとりで見なくてもよかったはずですよ」
「社殿の維持費ももう出せてないんでしょう? 大きな所に合祀してもらえば、街住まいの氏子も参拝しやすいですし」
若めの氏子たちは、口々に言う。
境内をあらためて見回せば、まず目に入るのは茂り放題の御神木だ。長らく剪定されず不揃いに伸びた枝の先には、ひびが入った瓦と詰まった雨樋がある。参道の石畳は雑草で目詰まりし、手水舎では水の止まった水盤が苔で斑になっていた。
「解散しかないと思いますよ」
早く片付けてしまいたい――氏子たちの心の声が聞こえる。
社殿を取り巻く木々を、ふと眺める。名の通り樅の木が多くを占める森では、健さんが時折、青葉の枝を取って持ち帰ることがあった。あの様子ももう見られないのかと思いかけた時、儂は木陰に一匹の黒猫を見かけた。人ならざる気配に気づいたのか、猫は首を傾げて本殿の方角を見つめてくる。
「ところで、健さんのお通夜と式は?」
「通夜祭は釜崎葬祭ホールで二十四日……今日の十八時ですよ。告別式は明日、二十五日の十一時から。神式だから間違えないでね」
そうか、今なら、健さんが人であるうちに会ってこられるのかもしれん。
儂は、音にはならぬ声で猫に囁きかけた。
「すまぬ、身体を借りてもよいか」
猫はぴくりと耳を動かすと、ふにゃあと一声鳴き、腹を見せて寝転んだ。
感謝しつつ気を凝らせば、儂の意識はすうっと猫の中へと入っていった。試しに一声発してみる。
「にゃおぉ」
うむ、首尾上々。
身体を借りれば、あとは動くだけだ。釜崎葬祭ホールとやらの場所は知らないが、勝算はある。
境内のすぐ外に、氏子たちの自動車が何台か停まっていた。うち一台の後ろには大きな荷台があり、脇に「大磯金物店 釜崎市大工町XXX-X」と書いてある。つまりこの車に乗れば、うまくすれば葬祭ホールへ、悪くとも釜崎市内には着くことができる。この鷲巣忠隆、生前の智謀では他の家臣たちの後塵を拝していたが、この程度はわけなく思い付くのだ。
他の車を足掛かりに荷台へ飛び乗れば、鳥居から氏子たちが出てくる気配があった。あわてて儂は、積荷の青くつやつやした幕の下へ身を隠した。
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