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五章 聖杯の下に家族は集えり
壮華と番紅花
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外から見るかぎり、私の目では、倉庫に変わったところは見えない。けれど蓮司くんの背中は、近づくにつれて緊張の色が強くなっていった。
錆の浮いた鉄扉の前で、蓮司くんは守り刀を抜いた。
「中に、壮華と母上がいる。……大量の『影』と一緒に」
相変わらず、私には何も感じられない。けれど蓮司くんの声は、少し苦しそうだ。
「入れる?」
「わからん。壮華たちが中にいる以上、入る方法はありそうだが――」
言った瞬間、扉がきしりながら、ゆっくりと開き始めた。蓮司くんが刀を構えた。
中は真っ暗だ……と、はじめは思った。けどすぐに、それが泥状のなにかだと気付いた。床も天井も、真っ黒な泥に覆い尽くされている。
思わず後ずさりする。けれどそれらは、いつものように襲ってはこなかった。少しばかり波を打っているのが見えるけれど、それ以上に動こうとはしない。蓮司くんも腰を落としたまま、相手の出方を伺っている。
「何をしておる、早う来んか」
響いた声が番紅花さんだと、気付くまでに少し時間がかかった。口調はいつもの、高貴で尊大な感じなのだけれど、声色が弱々しくかすれている。
蓮司くんが、ひどく動揺した様子で叫ぶ。
「母上! どちらに――」
「援軍でも呼んだのかい? 無駄だよ」
ぞっとするような冷たい声が、蓮司くんの声を遮った。
「できれば、自分から頭を下げてほしかったんだけどね。これ以上は、長引かせない方がいいかな」
潮が引くように、目の前の黒泥が奥へと退いていく。露になったコンクリートの床を、蓮司くんと私は前へ進んだ。
泥の向かう先に、大きな光の玉があった。中には番紅花さんがいて、正面に掌をかざしている。けれど光は弱々しくて、泥の大波が打ち付けるたびに大きく揺らいでいる。美しい顔の眉間には深い皺が寄り、薄紫の着物は裾がわずかに乱れ、見るからに苦しげだった。
「さあ皆、締め上げてやって。……取り込むのは、まだ待って」
光の玉の反対側に、白い人影があった。着物姿で、白い狐耳と尻尾があって……泥の山の上に平然と立っている。さっきから聞こえる、おそろしく冷たい声の主だった。
白い人影が右手を振る。さっきまでに倍する量の泥の波が――おそらく、この倉庫にある泥の全部が――指揮者に従う演奏者のように、光の玉を呑み込む。
光が、散華した。
「母上!」
蓮司くんが叫ぶ。白い着物の人影が、ようやくこちらを向いた。
「……兄さん。どうして、ここにいるの」
冷たさの抜けた声色は、まちがいなく、聞き慣れた壮華くんのものだ。顔も……笑っている。人好きのする、小動物めいた笑顔。けれど、いつもの壮華くんじゃない。寂しげな、どこか悲しげな笑いだった。
「壮華! 母上が――」
黒い大波の下から、番紅花さんの頭が現れた。けれど、首から下は浮かんでこない。泥の海から白い顔だけが出た状態で、番紅花さんは苦しげに息を荒げている。泥が、番紅花さんの頭を中心にゆっくりと渦を巻いていた。
「あの人のことは、気にしないで」
あの人――と、汚いものにでも触れるような言い方で、壮華くんは吐き捨てる。どうして、と訊こうとして、声が出てこない。番紅花さんが、息子のはずの蓮司くんと壮華くんにどんな態度をとってきたか、短い間だったけど、私は見てきた。
何も言えないで立ち尽くしていると、横で蓮司くんが叫んだ。
「母上を……見殺しにするつもりか」
「すぐ終わるから。兄さんは少し待ってて……本当は、屋敷で待っててほしかったんだけどね。なにもかもが終わるまで」
目の前に泥が流れてきて、私の肩くらいの高さの壁を作った。刀を向ける蓮司くんに、またも冷たい声が飛んできた。
「新手はいくらでもいるよ。兄さんひとりで、どうにかできはしない」
「壮華……どういうことだ。説明しろ」
壮華くんの返事には、少し間があった。
「別に、なんでもないよ。兄さんは知らなくていいことだ」
言葉尻に、高い笑い声が被った。番紅花さんだった。時折苦しげな咳を混ぜつつも、人を食ったような誇り高さ――悪く言えば高慢さは、少しも失われていない。
「この期に及んで、なお隠し通そうとするか。出来損ないの付喪神よ」
番紅花さんの言葉に、ぞっとするほどの棘がある。
「ずっと隠していたのは、おまえの側だろう。隠すなら墓場まで持って行け」
壮華くんの側も、言葉が敵意に満ちている。微笑む瞳も冷たさで満ちていて……怖い。
「そういうわけにもゆかぬ。妾を母と慕う者には、報いてやらねばならぬのでなあ。真実という名の褒美でな」
「それ以上言うな!」
白く浮かぶ顔をめがけて、泥の波が四方から押し寄せる。白い顔が、髪が、たちまち黒い泥まみれになった。周りの黒い水面の下でも、何かが激しく渦巻いているように見える。形の良い唇から、苦しげな呻きがあがった。
「言えば……『影』に沈めるぞ」
「もとよりそのつもりであろう? 妾を生かして返す気など、おまえには毛頭あるまい」
喋り方は、あくまでも凛としている。けれど、声には隠しきれない苦痛の色が滲んでいる。
急に、番紅花さんは蓮司くんを見つめた。けど、いつもの冷たい感じの目じゃなかった。柔らかくて穏やかで……「影」に呑まれかけてるなんて信じられないほどに、落ち着いたまなざしだった。
「蓮司よ。おまえは妾の息子ではない。……壮華と同じくな」
番紅花さんは微笑んだ。奇妙に、やさしい笑いだった。
錆の浮いた鉄扉の前で、蓮司くんは守り刀を抜いた。
「中に、壮華と母上がいる。……大量の『影』と一緒に」
相変わらず、私には何も感じられない。けれど蓮司くんの声は、少し苦しそうだ。
「入れる?」
「わからん。壮華たちが中にいる以上、入る方法はありそうだが――」
言った瞬間、扉がきしりながら、ゆっくりと開き始めた。蓮司くんが刀を構えた。
中は真っ暗だ……と、はじめは思った。けどすぐに、それが泥状のなにかだと気付いた。床も天井も、真っ黒な泥に覆い尽くされている。
思わず後ずさりする。けれどそれらは、いつものように襲ってはこなかった。少しばかり波を打っているのが見えるけれど、それ以上に動こうとはしない。蓮司くんも腰を落としたまま、相手の出方を伺っている。
「何をしておる、早う来んか」
響いた声が番紅花さんだと、気付くまでに少し時間がかかった。口調はいつもの、高貴で尊大な感じなのだけれど、声色が弱々しくかすれている。
蓮司くんが、ひどく動揺した様子で叫ぶ。
「母上! どちらに――」
「援軍でも呼んだのかい? 無駄だよ」
ぞっとするような冷たい声が、蓮司くんの声を遮った。
「できれば、自分から頭を下げてほしかったんだけどね。これ以上は、長引かせない方がいいかな」
潮が引くように、目の前の黒泥が奥へと退いていく。露になったコンクリートの床を、蓮司くんと私は前へ進んだ。
泥の向かう先に、大きな光の玉があった。中には番紅花さんがいて、正面に掌をかざしている。けれど光は弱々しくて、泥の大波が打ち付けるたびに大きく揺らいでいる。美しい顔の眉間には深い皺が寄り、薄紫の着物は裾がわずかに乱れ、見るからに苦しげだった。
「さあ皆、締め上げてやって。……取り込むのは、まだ待って」
光の玉の反対側に、白い人影があった。着物姿で、白い狐耳と尻尾があって……泥の山の上に平然と立っている。さっきから聞こえる、おそろしく冷たい声の主だった。
白い人影が右手を振る。さっきまでに倍する量の泥の波が――おそらく、この倉庫にある泥の全部が――指揮者に従う演奏者のように、光の玉を呑み込む。
光が、散華した。
「母上!」
蓮司くんが叫ぶ。白い着物の人影が、ようやくこちらを向いた。
「……兄さん。どうして、ここにいるの」
冷たさの抜けた声色は、まちがいなく、聞き慣れた壮華くんのものだ。顔も……笑っている。人好きのする、小動物めいた笑顔。けれど、いつもの壮華くんじゃない。寂しげな、どこか悲しげな笑いだった。
「壮華! 母上が――」
黒い大波の下から、番紅花さんの頭が現れた。けれど、首から下は浮かんでこない。泥の海から白い顔だけが出た状態で、番紅花さんは苦しげに息を荒げている。泥が、番紅花さんの頭を中心にゆっくりと渦を巻いていた。
「あの人のことは、気にしないで」
あの人――と、汚いものにでも触れるような言い方で、壮華くんは吐き捨てる。どうして、と訊こうとして、声が出てこない。番紅花さんが、息子のはずの蓮司くんと壮華くんにどんな態度をとってきたか、短い間だったけど、私は見てきた。
何も言えないで立ち尽くしていると、横で蓮司くんが叫んだ。
「母上を……見殺しにするつもりか」
「すぐ終わるから。兄さんは少し待ってて……本当は、屋敷で待っててほしかったんだけどね。なにもかもが終わるまで」
目の前に泥が流れてきて、私の肩くらいの高さの壁を作った。刀を向ける蓮司くんに、またも冷たい声が飛んできた。
「新手はいくらでもいるよ。兄さんひとりで、どうにかできはしない」
「壮華……どういうことだ。説明しろ」
壮華くんの返事には、少し間があった。
「別に、なんでもないよ。兄さんは知らなくていいことだ」
言葉尻に、高い笑い声が被った。番紅花さんだった。時折苦しげな咳を混ぜつつも、人を食ったような誇り高さ――悪く言えば高慢さは、少しも失われていない。
「この期に及んで、なお隠し通そうとするか。出来損ないの付喪神よ」
番紅花さんの言葉に、ぞっとするほどの棘がある。
「ずっと隠していたのは、おまえの側だろう。隠すなら墓場まで持って行け」
壮華くんの側も、言葉が敵意に満ちている。微笑む瞳も冷たさで満ちていて……怖い。
「そういうわけにもゆかぬ。妾を母と慕う者には、報いてやらねばならぬのでなあ。真実という名の褒美でな」
「それ以上言うな!」
白く浮かぶ顔をめがけて、泥の波が四方から押し寄せる。白い顔が、髪が、たちまち黒い泥まみれになった。周りの黒い水面の下でも、何かが激しく渦巻いているように見える。形の良い唇から、苦しげな呻きがあがった。
「言えば……『影』に沈めるぞ」
「もとよりそのつもりであろう? 妾を生かして返す気など、おまえには毛頭あるまい」
喋り方は、あくまでも凛としている。けれど、声には隠しきれない苦痛の色が滲んでいる。
急に、番紅花さんは蓮司くんを見つめた。けど、いつもの冷たい感じの目じゃなかった。柔らかくて穏やかで……「影」に呑まれかけてるなんて信じられないほどに、落ち着いたまなざしだった。
「蓮司よ。おまえは妾の息子ではない。……壮華と同じくな」
番紅花さんは微笑んだ。奇妙に、やさしい笑いだった。
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