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二章 金貨の女王は冷たく笑む
油揚げと九尾
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壮華くんは意外にすぐ見つかった。アルカナムからビル五棟分ほど奥の路地、百円ショップの裏口前だった。
誰もいない夜道を塞ぐように、四角い光の壁が現れていた。空間を切り抜いたような眩しい白に、黒い泥の波が、何度も押し寄せては砕け散っている。時折、光の壁から白い棘――いや、光線が生えて、蠢く泥を貫いていく。通り道の泥は溶けてなくなるけれど、すぐに新しい泥が流れ込んでくる。
少し前に見た、壮華くんの結界と同じだ。蓮司くんもみんなも、きっと光の壁の向こうにいるんだろう。
光の壁に集まる泥――おそらくは「影」の波を前に、私は立ちすくむしかできなかった。蓮司くんと壮華くんが心配で飛び出してきたのはいいけれど、今ここに私がいても、できることは何もない。むしろ、「影」の注意を惹いてしまったら、私に身を護る術はない。私と「影」の間に、光の壁はないのだから。
考える間にも、「影」は光の壁に押し寄せていく。尽きる気配は、ない。アルカナムに戻ってきたお客妖怪さんの様子が頭を過ぎった。背中を焼かれて、ひどい怪我だった。
――戻って番紅花さんを呼ぼう。そう、心に決めた。
もちろん覚えている。あの人の冷たい態度も、言葉も。けど一生懸命頼めば、土下座して泣いて頼めば、なんとかしてくれないだろうか。
自分の父さんと母さんを、思い出してみる。ふたりとも外面を繕うのには熱心で、どこかの知らない人に一言言われれば、私を叱るのをやめてくれたりもした。
番紅花さんは、人間のことなどなんとも思ってないかもしれない。でも、当事者からじゃ言い出せないことだってあるはずだ。
私は踵を返した。アルカナムへ向かって、走り出そうとした時――爆発のような光と共に、突風が走り抜けた。
弾き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。
腰を強く打った。けど幸い、骨まで折れた感じはなかった。
さすりながら立ち上がると、光の壁がなくなっていた。一瞬どきりとしたけれど、周りで蠢いていた影も、綺麗さっぱり消えているようだった。
「まったく。情けないものよ」
白い人影が、私の前をゆっくりと歩き過ぎていった。薄紫の着物の後ろに、白いふさふさの尻尾が九本、誇らしげに揺れていた。
「そなたら、それでも我が息子か。妖狐の頭の子か」
「申し訳……ございません」
ずいぶん落ち込んだ様子の、蓮司くんの声がした。続く壮華くんの声は、さらに弱々しかった。
「此度は、敵が……あまりに多く」
「言い訳は要らぬ」
横で聞いていてさえ震え上がるような声で、白い影――番紅花さんは言った。
「妾はもう長く生きた。いずれ去らねばならぬというのに、我が座を継ぐものがこれではのう……安心して隠居もできぬわ」
言い捨てて、番紅花さんはアルカナムの方へ戻っていく。
入れ違いに、私は蓮司くんたちへ駆け寄った。蓮司くんと壮華くんは、先日私の部屋の前で見せた、狐耳と尻尾を出した着物姿だった。けれど蓮司くんの黒い着物にも、壮華くんの白い着物にも、あちこち焦げ目がついていて煤まみれだった。傍らに集まったお客妖怪さんたちも、皆どこかしら焼かれていた。
「みなさん……大丈夫ですか?」
言えば、蓮司くんは緩慢に頷いた。
「苦戦はしたが、幸い傷は浅い。一晩寝れば治るだろう……それより」
蓮司くんは、ちらりと周りを見た。
道の真ん中に、白い葉書大のカードが大量に散らばっている。ところどころに、小さな犬や猫のぬいぐるみも転がっていた。お客妖怪さんの一人が、それらを拾い集め始めた。
「夜のうちに片付けるぞ」
蓮司くんと壮華くんも、お客妖怪さんたちも次々手伝う。私も、手近にあったカードを拾いあげた。表には『お誕生日おめでとう!』と丸文字で書いてあり、裏側では、去年暮れぐらいに流行ったアニメのキャラ……によく似た、いまひとつ不細工なキャラたちが笑っていた。
蓮司くんがカードを取りまとめて、手近にあった可燃ゴミの箱に捨てようとする。あわてて、止めた。
「そこに捨てちゃだめ!」
私の言葉に、壮華くんは首を傾げた。
「このカード、見た感じ百円ショップの返品在庫みたいだよ。このゴミ箱も、百円ショップの備え付けだし……出どころに捨てるのは問題ないと思う」
百円ショップの裏口には、壊れて中身が出た段ボールがいくつか転がっている。カードもぬいぐるみも、元はそこに入っていたもののようだ。だから、壮華くんの推測自体は当たっている。
とはいえ、いま問題なのはそこじゃない。
「そうじゃなくてね」
私は持っていたカードを開いた。安っぽい電子音で、ハッピーバースデーのメロディが流れ始める。
「これ、電子部品もボタン電池も入ってるから。可燃ゴミじゃないよ」
「あー、分別が面倒なやつだね……」
そう、ものを捨てるにはこういう面倒な作業もある。私も年に一回くらい、本当の本当にいらない物を処分しなきゃと思う時はあるんだけど、いつもこの面倒くささに阻まれるんだ。これさえなければ、たぶん年に二、三回くらいは部屋を綺麗にできそうな気もするんだけど。
「電子部品というなら、こちらもそうだな」
蓮司くんが猫ぬいぐるみのお腹を押すと、ノイズ混じりの鳴き声がふにゃあと響いた。ほんと、世の中のメーカーさんたちはどうしてこう、分別が面倒な物ばかり考えなしに作るんだろう。
「返品在庫とはいえ、勝手に店に持って帰るわけにもいかない。……置いていくしかないだろうな」
まとめたカードとぬいぐるみを、私たちは段ボールが元あった位置にまとめた。そうして、肩を並べてアルカナムへ帰った。
店には梢がやってきていた。どこ行ってたの、と笑う梢の後ろで、番紅花さんはテーブル席に深く腰かけ、優雅に扇を動かしていた。
壮華くんは、店の隅に食材入りのエコバッグを見つけると、満面の笑みで駆けていった。中身をひとつひとつ確かめた後、梢に渡す。
「とびきりのカリカリ焼き、作ってくれないかな……僕たちの母上が来てるんだ」
ひどく、胸が痛む。
お客妖怪さんの言葉が、脳裏に蘇る。「坊ちゃんが……これだけは守れと」と、確かに言っていた。
この食材、息子さんが守ったんですよ。命がけで、あなたのために――そう叫びたかった。涼しい顔で笑っている、顔だけは綺麗な妖狐様に向けて。
でも言えなくて、美しい背に流れる銀の髪をただ見つめていると、不意に番紅花さんが振り向いた。
「何か、妾に用か」
金色の瞳でにらまれると、背筋に寒気が駆けあがってくる。蛇ににらまれた蛙って、きっとこのことだ。
でも、なにか言わなきゃ。私にしか言えないことが、きっとある。
「え、えと……息子さんたち」
「蓮司と壮華が、どうかしたか」
掌を、強く握り締める。じんわり、汗が滲むのを感じる。
「油揚げとネギ……守ったんです。あなたに、食べてもらうために」
金色の切れ長の目が、わずかに細められる。返事は、ない。
息をひとつ吸い込んで、私は続けた。
「だから……だいじに。えと、その」
叫びたかった。
蓮司くんと壮華くんを大事にしてあげて。かわいがってあげて。ひどいことを言わないで。
でも、喉のところで引っかかった。私がこれを言って、ふたりが後で叱られたりしないだろうか。立場が悪くなったりしないだろうか。今になるまで、そこに考え至らなかったのは迂闊と言えばそうなんだけど。
何を言えばいいのか、わからなくなって……出てきた声は、自分でもびっくりするぐらい、かぼそかった。
「その……大事に、食べてくださいね……」
扇で口を隠して、ほっほっ、と番紅花さんは笑った。
「よかろう。そなたらの珍味、いかほどのものか確かめてやろうぞ」
「……はい……」
一礼して、私は喫茶スペースを出た。カリカリ焼きが出来上がるところを、なんだか、見たくなかった。
階段を駆け上がって、寝室に入る。
パイプベッドに倒れ伏して、私は泣いた。固い枕に顔を埋めて、ただ、泣き続けた。
そのほかにできることを、私は、知らなかった。
誰もいない夜道を塞ぐように、四角い光の壁が現れていた。空間を切り抜いたような眩しい白に、黒い泥の波が、何度も押し寄せては砕け散っている。時折、光の壁から白い棘――いや、光線が生えて、蠢く泥を貫いていく。通り道の泥は溶けてなくなるけれど、すぐに新しい泥が流れ込んでくる。
少し前に見た、壮華くんの結界と同じだ。蓮司くんもみんなも、きっと光の壁の向こうにいるんだろう。
光の壁に集まる泥――おそらくは「影」の波を前に、私は立ちすくむしかできなかった。蓮司くんと壮華くんが心配で飛び出してきたのはいいけれど、今ここに私がいても、できることは何もない。むしろ、「影」の注意を惹いてしまったら、私に身を護る術はない。私と「影」の間に、光の壁はないのだから。
考える間にも、「影」は光の壁に押し寄せていく。尽きる気配は、ない。アルカナムに戻ってきたお客妖怪さんの様子が頭を過ぎった。背中を焼かれて、ひどい怪我だった。
――戻って番紅花さんを呼ぼう。そう、心に決めた。
もちろん覚えている。あの人の冷たい態度も、言葉も。けど一生懸命頼めば、土下座して泣いて頼めば、なんとかしてくれないだろうか。
自分の父さんと母さんを、思い出してみる。ふたりとも外面を繕うのには熱心で、どこかの知らない人に一言言われれば、私を叱るのをやめてくれたりもした。
番紅花さんは、人間のことなどなんとも思ってないかもしれない。でも、当事者からじゃ言い出せないことだってあるはずだ。
私は踵を返した。アルカナムへ向かって、走り出そうとした時――爆発のような光と共に、突風が走り抜けた。
弾き飛ばされ、地面に倒れ込んだ。
腰を強く打った。けど幸い、骨まで折れた感じはなかった。
さすりながら立ち上がると、光の壁がなくなっていた。一瞬どきりとしたけれど、周りで蠢いていた影も、綺麗さっぱり消えているようだった。
「まったく。情けないものよ」
白い人影が、私の前をゆっくりと歩き過ぎていった。薄紫の着物の後ろに、白いふさふさの尻尾が九本、誇らしげに揺れていた。
「そなたら、それでも我が息子か。妖狐の頭の子か」
「申し訳……ございません」
ずいぶん落ち込んだ様子の、蓮司くんの声がした。続く壮華くんの声は、さらに弱々しかった。
「此度は、敵が……あまりに多く」
「言い訳は要らぬ」
横で聞いていてさえ震え上がるような声で、白い影――番紅花さんは言った。
「妾はもう長く生きた。いずれ去らねばならぬというのに、我が座を継ぐものがこれではのう……安心して隠居もできぬわ」
言い捨てて、番紅花さんはアルカナムの方へ戻っていく。
入れ違いに、私は蓮司くんたちへ駆け寄った。蓮司くんと壮華くんは、先日私の部屋の前で見せた、狐耳と尻尾を出した着物姿だった。けれど蓮司くんの黒い着物にも、壮華くんの白い着物にも、あちこち焦げ目がついていて煤まみれだった。傍らに集まったお客妖怪さんたちも、皆どこかしら焼かれていた。
「みなさん……大丈夫ですか?」
言えば、蓮司くんは緩慢に頷いた。
「苦戦はしたが、幸い傷は浅い。一晩寝れば治るだろう……それより」
蓮司くんは、ちらりと周りを見た。
道の真ん中に、白い葉書大のカードが大量に散らばっている。ところどころに、小さな犬や猫のぬいぐるみも転がっていた。お客妖怪さんの一人が、それらを拾い集め始めた。
「夜のうちに片付けるぞ」
蓮司くんと壮華くんも、お客妖怪さんたちも次々手伝う。私も、手近にあったカードを拾いあげた。表には『お誕生日おめでとう!』と丸文字で書いてあり、裏側では、去年暮れぐらいに流行ったアニメのキャラ……によく似た、いまひとつ不細工なキャラたちが笑っていた。
蓮司くんがカードを取りまとめて、手近にあった可燃ゴミの箱に捨てようとする。あわてて、止めた。
「そこに捨てちゃだめ!」
私の言葉に、壮華くんは首を傾げた。
「このカード、見た感じ百円ショップの返品在庫みたいだよ。このゴミ箱も、百円ショップの備え付けだし……出どころに捨てるのは問題ないと思う」
百円ショップの裏口には、壊れて中身が出た段ボールがいくつか転がっている。カードもぬいぐるみも、元はそこに入っていたもののようだ。だから、壮華くんの推測自体は当たっている。
とはいえ、いま問題なのはそこじゃない。
「そうじゃなくてね」
私は持っていたカードを開いた。安っぽい電子音で、ハッピーバースデーのメロディが流れ始める。
「これ、電子部品もボタン電池も入ってるから。可燃ゴミじゃないよ」
「あー、分別が面倒なやつだね……」
そう、ものを捨てるにはこういう面倒な作業もある。私も年に一回くらい、本当の本当にいらない物を処分しなきゃと思う時はあるんだけど、いつもこの面倒くささに阻まれるんだ。これさえなければ、たぶん年に二、三回くらいは部屋を綺麗にできそうな気もするんだけど。
「電子部品というなら、こちらもそうだな」
蓮司くんが猫ぬいぐるみのお腹を押すと、ノイズ混じりの鳴き声がふにゃあと響いた。ほんと、世の中のメーカーさんたちはどうしてこう、分別が面倒な物ばかり考えなしに作るんだろう。
「返品在庫とはいえ、勝手に店に持って帰るわけにもいかない。……置いていくしかないだろうな」
まとめたカードとぬいぐるみを、私たちは段ボールが元あった位置にまとめた。そうして、肩を並べてアルカナムへ帰った。
店には梢がやってきていた。どこ行ってたの、と笑う梢の後ろで、番紅花さんはテーブル席に深く腰かけ、優雅に扇を動かしていた。
壮華くんは、店の隅に食材入りのエコバッグを見つけると、満面の笑みで駆けていった。中身をひとつひとつ確かめた後、梢に渡す。
「とびきりのカリカリ焼き、作ってくれないかな……僕たちの母上が来てるんだ」
ひどく、胸が痛む。
お客妖怪さんの言葉が、脳裏に蘇る。「坊ちゃんが……これだけは守れと」と、確かに言っていた。
この食材、息子さんが守ったんですよ。命がけで、あなたのために――そう叫びたかった。涼しい顔で笑っている、顔だけは綺麗な妖狐様に向けて。
でも言えなくて、美しい背に流れる銀の髪をただ見つめていると、不意に番紅花さんが振り向いた。
「何か、妾に用か」
金色の瞳でにらまれると、背筋に寒気が駆けあがってくる。蛇ににらまれた蛙って、きっとこのことだ。
でも、なにか言わなきゃ。私にしか言えないことが、きっとある。
「え、えと……息子さんたち」
「蓮司と壮華が、どうかしたか」
掌を、強く握り締める。じんわり、汗が滲むのを感じる。
「油揚げとネギ……守ったんです。あなたに、食べてもらうために」
金色の切れ長の目が、わずかに細められる。返事は、ない。
息をひとつ吸い込んで、私は続けた。
「だから……だいじに。えと、その」
叫びたかった。
蓮司くんと壮華くんを大事にしてあげて。かわいがってあげて。ひどいことを言わないで。
でも、喉のところで引っかかった。私がこれを言って、ふたりが後で叱られたりしないだろうか。立場が悪くなったりしないだろうか。今になるまで、そこに考え至らなかったのは迂闊と言えばそうなんだけど。
何を言えばいいのか、わからなくなって……出てきた声は、自分でもびっくりするぐらい、かぼそかった。
「その……大事に、食べてくださいね……」
扇で口を隠して、ほっほっ、と番紅花さんは笑った。
「よかろう。そなたらの珍味、いかほどのものか確かめてやろうぞ」
「……はい……」
一礼して、私は喫茶スペースを出た。カリカリ焼きが出来上がるところを、なんだか、見たくなかった。
階段を駆け上がって、寝室に入る。
パイプベッドに倒れ伏して、私は泣いた。固い枕に顔を埋めて、ただ、泣き続けた。
そのほかにできることを、私は、知らなかった。
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