双子妖狐の珈琲処

五色ひいらぎ

文字の大きさ
上 下
5 / 36
一章 退魔の剣は闇夜に浮かぶ

ゴミ袋と怪異

しおりを挟む
 私の住んでいるマンションは、古橋駅から歩いて十分ほどの所にある。アルカナムを出て中央通りに戻って、道なりに進んでいくつも信号を抜ければ、雑居ビルの群れがだんだんマンションに替わっていく。嫌な予感に追い立てられるように、私は交差点を曲がった。
 少し進むと、煉瓦色の外壁が見えてくる。ここ「コーポ古橋」の三階、三三七号室が私の部屋だ。
 エレベーターを出ると、三三七号室から出てきた人影と鉢合わせた。シンプルなグレーのポロシャツに、細いジーンズをはいたセミロングヘアの女子は、満面の笑みで私に話しかけてきた。

「あ、七葉姉おかえり! 早かったね」

 妹の梢だ。いつもの無邪気な笑顔で、目を細めて話しかけられると、さっきまでの焦りとイライラが半分くらい溶けて流れる気がする……けど半分になっても、元が多くて強い。私は梢をにらみつけた。

「梢、退職の話、父さんたちに言った!?」
「ああごめん。黙ってようと思ってたんだけど、残業多いの気にしてたからさ……どうせ今月で終わりだから、って、ぽろっと」
「ぽろっと、で済む話じゃない!」
「でもどうせバレる話でしょ? 多少早くなったところで――」

 笑ったままの梢の後ろで、部屋の扉が開いた。玄関には、古橋市指定のゴミ袋がぎゅうぎゅうに積まれていて、触ったら崩れてきそうだ。半透明の袋から透けて見える中身に、私は驚いて声を上げた。

「ちょっと、これ捨てたの!?」
「これってどれ」
「全部! 全部だけど……たとえばこれとか」

 私は、「古橋市指定」の文字の隙間に見えるチラシを指差した。駅前のハンバーガーショップのキャンペーン広告だった。

「これ、クーポンついてたのに……週末ぐらいに食べに行くつもりで、とってあったのに」
「期限、今日だったわよ。ほんといつも、使わないクーポンばっかり溜め込んで」

 母さんの声と共に、目の前にまた、新しいゴミ袋がどさりと置かれた。中身はだいたい布系で……ビニール越しに、ぐしゃぐしゃに折られた兎の耳が、ある。私の大事なぬいぐるみ――うさことミミ吉だった。
 絡まるように詰め込まれた、白い耳と茶色の耳。袋の口を開けて助け出そうとすると、急に、手の甲に痛みが走った。

「なにやってる」

 冷ややかな父さんの声が飛んでくる。私は、玄関の奥を全力でにらんだ。

「勝手に入らないでって、いつも言ってるじゃない!」
「そういうことは、一人で片付けできるようになってから言いなさい」

 露骨な溜息を混ぜながら、母さんが言ってくる。
 奥に見える私の部屋は、ぐちゃぐちゃになっていた。それに、とっておいた物がたくさんなくなってる。あとで読もうと思っていた雑誌も、再利用するつもりで綺麗に剥がした包装紙やリボンも、寄付に持って行くつもりだった古切手も、全部なくなっている。
 仕分けして整理できないのは、確かに私が悪いかもしれない。でも、全部いっぺんに捨てるのはひどいと思う。

「七葉、あなたほんと、どうしてこんな子に育ったのかしらね。放っとくとすぐ、部屋をゴミだらけにしちゃって」
「ゴミじゃない!」

 うさことミミ吉の袋だけでも取ろうとすると、また父さんに手を叩かれた。
 思い出す。あの日も、こんな風に捨てられたんだ。「最初の」うさことミミ吉も。小学校から帰ってきたら、部屋の中がからっぽになっていて、私の大切なものが全部なくなってたんだ。

「返してよ! 勝手に捨てないでよ!!」

 立ちふさがる父さんの後ろで、母さんが部屋のものを端からゴミ袋に詰めていく。

「あなたに任せといたら、人間の住める場所じゃなくなっちゃうわ。……梢はちゃんと片付けられるのにねえ」

 この人たちはいつもそうだ。
 ひとの物を勝手に捨てて。梢よりも出来が悪いと罵ってきて。就職してようやく離れられたと思ったのに、なにかあるたびに押しかけてくる。
 なんで、勝手に決められなきゃいけないんだろう。捨てるものと残すものを、この人たちに。
 強い怒りが、沸き起こってくる。

「勝手に決めないでよ! ここ私の部屋だよ。ここにあるもの、全部私のだよ!」

 今ある力を全部、声に籠める。

「近所迷惑だぞ。今何時だと思ってる」

 知ったことか。

「いらないものは、全部ゴミだって言うのなら――」

 聞く耳持ってない父さんに、手を止めもせずにひとのものをゴミ袋に詰め続ける母さんに、全力の呪詛を叩きつける。知らず、涙があふれてくる。

「――あなたたちが、一番のゴミだよ!」
「ちょ、ちょっと、七葉姉」

 梢がなだめに来ても、堰を切った言葉は止まらない。視界が涙でぐちゃぐちゃになる。

「いなくなってよ! 今すぐ消えてよ! 人間を捨てられるゴミ箱があるなら、あんたたち二人とも捨ててやる」
「七葉姉!」

 梢が叫ぶ。

「ほっといて梢! もう、やってられな――」
「そうじゃなくって!!」

 切羽詰まった声色で、ようやく気付いた。
 辺りが暗い。玄関の灯りは点いているはずなのに、豆球の灯り並みに光が弱い。

「ヤバい……ヤバいよ、七葉姉」

 梢の声が震えている。

「パパ、ママ、大丈夫!? 聞こえてたら返事して!?」

 梢の声色が切羽詰まってくる。涙を拭って、あらためて前を見た。

「ひ……っ」

 パパは変わらず、私の前に立っていた。けれど顔は土気色で、まばたきもしていなくて、固まった手足はぴくりとも動いていない。胴体には真っ黒な泥が絡みついて、巨大なアメーバみたいにのそのそ蠢いていた。

「い、いったい何なの!?」

 息を呑む。ママもパパの後ろで固まっていて、同じような泥に呑まれかけている。部屋の中は、壁も天井も泥にまみれて真っ黒だ。黒がすっかり光を吸い込んで、灯りがあるのかないのかさえ、もうわからない。

「梢! いる!?」
「ここだよ、お姉ちゃん!」

 私のもとに走り寄ってくる梢の前で、パパとママはすっかり泥に覆われてしまった。黒い人型は、見る間に体積を減らし、細く低くなっていく。
 逃げなきゃ。このままじゃ、私たちも襲われる。
 だけど、でも、父さんと母さんを見捨てていいの?

「七葉姉! 逃げよう!!」
「え、あ、でも、父さんたちが」

 二人を心配する心が残っていたことに、少し自分で驚きつつも、足が動かない。

「なんかあれ、めちゃくちゃヤバいって! まずどっか安全な――」

 梢に手を引かれつつも、身体がすくんで動けない。さっきまで父さんだった黒い人型は、目の前で地面に崩れて、黒い泥の海になって広がった。少し遅れて、母さんも。
 広がる黒が、玄関を滴り落ちて、ゴミ袋の隙間を縫って、這い寄ってくる――私の足元に。
 それでも足は動かなかった。なぜこんなに身体がガタガタ震えているのか、わからない。わからないけれど、手にも足にも、まるで力が入らない。
 私も、溶かされてしまうんだろうか――流れてくる泥を見ながら、目を閉じた時。
 急に、瞼の裏が白く染まった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

おにぎり屋さんの裏稼業 〜お祓い請け賜わります〜

瀬崎由美
キャラ文芸
高校2年生の八神美琴は、幼い頃に両親を亡くしてからは祖母の真知子と、親戚のツバキと一緒に暮らしている。 大学通りにある屋敷の片隅で営んでいるオニギリ屋さん『おにひめ』は、気まぐれの営業ながらも学生達に人気のお店だ。でも、真知子の本業は人ならざるものを対処するお祓い屋。霊やあやかしにまつわる相談に訪れて来る人が後を絶たない。 そんなある日、祓いの仕事から戻って来た真知子が家の中で倒れてしまう。加齢による力の限界を感じた祖母から、美琴は祓いの力の継承を受ける。と、美琴はこれまで視えなかったモノが視えるようになり……。 第8回キャラ文芸大賞にて奨励賞をいただきました。

包んで、重ねて ~歳の差夫婦の極甘新婚生活~

吉沢 月見
恋愛
ひたすら妻を溺愛する夫は50歳の仕事人間の服飾デザイナー、新妻は23歳元モデル。 結婚をして、毎日一緒にいるから、君を愛して君に愛されることが本当に嬉しい。 何もできない妻に料理を教え、君からは愛を教わる。

独身寮のふるさとごはん まかないさんの美味しい献立

水縞しま
ライト文芸
旧題:独身寮のまかないさん ~おいしい故郷の味こしらえます~ 第7回ライト文芸大賞【料理・グルメ賞】作品です。 ◇◇◇◇ 飛騨高山に本社を置く株式会社ワカミヤの独身寮『杉野館』。まかない担当として働く有村千影(ありむらちかげ)は、決まった予算の中で献立を考え、食材を調達し、調理してと日々奮闘していた。そんなある日、社員のひとりが失恋して落ち込んでしまう。食欲もないらしい。千影は彼の出身地、富山の郷土料理「ほたるいかの酢味噌和え」をこしらえて励まそうとする。 仕事に追われる社員には、熱々がおいしい「味噌煮込みうどん(愛知)」。 退職しようか思い悩む社員には、じんわりと出汁が沁みる「聖護院かぶと鯛の煮物(京都)」。 他にも飛騨高山の「赤かぶ漬け」「みだらしだんご」、大阪の「モダン焼き」など、故郷の味が盛りだくさん。 おいしい故郷の味に励まされたり、癒されたり、背中を押されたりするお話です。 

とある高校の淫らで背徳的な日常

神谷 愛
恋愛
とある高校に在籍する少女の話。 クラスメイトに手を出し、教師に手を出し、あちこちで好き放題している彼女の日常。 後輩も先輩も、教師も彼女の前では一匹の雌に過ぎなかった。 ノクターンとかにもある お気に入りをしてくれると喜ぶ。 感想を貰ったら踊り狂って喜ぶ。 してくれたら次の投稿が早くなるかも、しれない。

引きこもりアラフォーはポツンと一軒家でイモつくりをはじめます

ジャン・幸田
キャラ文芸
 アラフォー世代で引きこもりの村瀬は住まいを奪われホームレスになるところを救われた! それは山奥のポツンと一軒家で生活するという依頼だった。条件はヘンテコなイモの栽培!  そのイモ自体はなんの変哲もないものだったが、なぜか村瀬の一軒家には物の怪たちが集まるようになった! 一体全体なんなんだ?

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~

菱沼あゆ
キャラ文芸
 突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。  洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。  天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。  洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。  中華後宮ラブコメディ。

処理中です...