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大学三年・冬
空いた胸中、満ちるものは
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ここ数日の疲れが出たのか、翌朝あたしは盛大に寝過ごした。
目が覚めてみれば、カーテンの外はもうすっかり明るい。時計を見ればもう午後一時過ぎだ。今日が日曜で本当に良かった、と思いながら、顔を洗いに行く。
共用スペースには誰もいなかった。そのまま洗面台へ向かおうとすると、ちょうど瞳子が外から帰ってきた。
「あ。……ミカちゃん」
くりくりした目が、どこか気まずそうに伏せられる。
なんとか言わなきゃ――あたしの中のどこかで声がする。けどそれが口から出る前に、余計な何かが反応した。
「なんだよ」
ドスのきいた低音。瞳子が肩をすくめる。
「えっと……あのー」
「うるせえよ」
どこかからの声が重低音にかき消される。爆音のベースとドラムスの前で吹いた、フルートみたいに。
黙り込んだ瞳子の前を、すたすたと洗面所へ向かう。すれ違いざま瞳子の声がした。
「晩ごはんは……買ってこないでね……?」
聞こえなかったふりをして、あたしはそのまま、無言で洗面所へ向かった。
洗面所から戻ってくると瞳子はいなかった。そのまま部屋に戻って、あたしはベッドにもぐり込んだ。
とにかく寝たかった。なにもしたくなかった。なにも考えたくなかった。母さんのことも、他の家族のことも、学校のことも、バイトのことも、……瞳子のことも。
疲れが抜けない体が、だるい。だのに頭はいやにはっきりして、考えたくないことばかりをぐるぐると呼び出してくる。なにかを考えないように、考えないようにと言い聞かせるほど、その「なにか」は心の中ではっきりと形をとっていく。母さんも、父さんも、弟も、期末試験も、レポートも。瞳子の泣きそうな顔も。
目を開けても閉じても、寝返りを打ってもじっとしていても、あたしの中は一緒だった。考えたくないものばっかりで溢れて、ちっとも静かにならない。
もう二時間くらいは過ぎたか、と時計を確かめても、実際にはまだ三十分も経っていない。諦めてあたしは布団から出た。
こういう時は音楽だ。イヤホンを着けてスマホアプリのシャッフル再生ボタンを押せば、ゆったりしたバラードが流れてきた。
(っ……こんな時に、これかよ……)
よりにもよって、恋人と死別した男の歌だ。
それ以上音楽を聴く気にもなれず、イヤホンを抜いてあたしは部屋を出た。
共用スペースには相変わらず誰もいない。けど、香ばしいタマネギの匂いがキッチンから漂ってくる。
無性にお腹が空く。そういえば朝飯も昼飯もまだだった。引き寄せられるように、あたしはキッチンを覗いてみた。
(やっぱりな……)
小柄な背中、ウェービーな茶髪。予想通りの姿がコンロに向かっている。
テーブルの上にはボウルがいくつか乗っていて、挽肉やパン粉がそれぞれ入っていた。
炒め物のじゅうじゅういう音が、かすかにあたしのところまで聞こえてくる。足音を立てないように、あたしは小さな背中へと歩み寄った。
「瞳子」
「! ミカちゃん……?」
振り向きもせず、フライパンを振りながら、瞳子はあたしの名を呼んでくれた。
黒い鉄の上で、みじん切りにされたタマネギが波を打っている。ほんのり茶色に染まったタマネギが、右へ左へ行ったり来たり。そのたびごとに、ぴりりとしたネギ特有の香りが立つ。
あたしは、少なからぬ気恥ずかしさを覚えながら瞳子に訊いた。
「なにか作ってんのか」
目が覚めてみれば、カーテンの外はもうすっかり明るい。時計を見ればもう午後一時過ぎだ。今日が日曜で本当に良かった、と思いながら、顔を洗いに行く。
共用スペースには誰もいなかった。そのまま洗面台へ向かおうとすると、ちょうど瞳子が外から帰ってきた。
「あ。……ミカちゃん」
くりくりした目が、どこか気まずそうに伏せられる。
なんとか言わなきゃ――あたしの中のどこかで声がする。けどそれが口から出る前に、余計な何かが反応した。
「なんだよ」
ドスのきいた低音。瞳子が肩をすくめる。
「えっと……あのー」
「うるせえよ」
どこかからの声が重低音にかき消される。爆音のベースとドラムスの前で吹いた、フルートみたいに。
黙り込んだ瞳子の前を、すたすたと洗面所へ向かう。すれ違いざま瞳子の声がした。
「晩ごはんは……買ってこないでね……?」
聞こえなかったふりをして、あたしはそのまま、無言で洗面所へ向かった。
洗面所から戻ってくると瞳子はいなかった。そのまま部屋に戻って、あたしはベッドにもぐり込んだ。
とにかく寝たかった。なにもしたくなかった。なにも考えたくなかった。母さんのことも、他の家族のことも、学校のことも、バイトのことも、……瞳子のことも。
疲れが抜けない体が、だるい。だのに頭はいやにはっきりして、考えたくないことばかりをぐるぐると呼び出してくる。なにかを考えないように、考えないようにと言い聞かせるほど、その「なにか」は心の中ではっきりと形をとっていく。母さんも、父さんも、弟も、期末試験も、レポートも。瞳子の泣きそうな顔も。
目を開けても閉じても、寝返りを打ってもじっとしていても、あたしの中は一緒だった。考えたくないものばっかりで溢れて、ちっとも静かにならない。
もう二時間くらいは過ぎたか、と時計を確かめても、実際にはまだ三十分も経っていない。諦めてあたしは布団から出た。
こういう時は音楽だ。イヤホンを着けてスマホアプリのシャッフル再生ボタンを押せば、ゆったりしたバラードが流れてきた。
(っ……こんな時に、これかよ……)
よりにもよって、恋人と死別した男の歌だ。
それ以上音楽を聴く気にもなれず、イヤホンを抜いてあたしは部屋を出た。
共用スペースには相変わらず誰もいない。けど、香ばしいタマネギの匂いがキッチンから漂ってくる。
無性にお腹が空く。そういえば朝飯も昼飯もまだだった。引き寄せられるように、あたしはキッチンを覗いてみた。
(やっぱりな……)
小柄な背中、ウェービーな茶髪。予想通りの姿がコンロに向かっている。
テーブルの上にはボウルがいくつか乗っていて、挽肉やパン粉がそれぞれ入っていた。
炒め物のじゅうじゅういう音が、かすかにあたしのところまで聞こえてくる。足音を立てないように、あたしは小さな背中へと歩み寄った。
「瞳子」
「! ミカちゃん……?」
振り向きもせず、フライパンを振りながら、瞳子はあたしの名を呼んでくれた。
黒い鉄の上で、みじん切りにされたタマネギが波を打っている。ほんのり茶色に染まったタマネギが、右へ左へ行ったり来たり。そのたびごとに、ぴりりとしたネギ特有の香りが立つ。
あたしは、少なからぬ気恥ずかしさを覚えながら瞳子に訊いた。
「なにか作ってんのか」
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