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第五章「魔を統べる王」
第百十話 自由への渇望
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転移魔法によって転移したときのこの感覚は、多分、無に限りなく近い有の感覚だろう。自分の体がバラバラになって、転移先で再構築されているという事実だけが、マサカズの深層心理に焼き付けられ、転移中の刹那にも満たない短時間の記憶は、まるでない。
ただ、その再構築されたあとの自分が、何の変哲もない自分そのものであることは、根拠はないが、確信できる。
「──」
モルム聖共和国、首都アセルムノは、『死者の大地』から迫りくるアンデッドを迎撃する都市の一つであり、その中でも最大の防衛都市である。
そんな最大の防衛都市が、たった四人によって、それも半日も経たずに、完全に制圧されるなんて、一体誰が予想できたことだろうか。一騎当千かあり得るこの世界でも、数とは無視できないし、一人一人の熟練度もかなり高い軍が、火花さえ飛び散ることなく瓦解するなんて、誰が思っただろうか。
「⋯⋯フィルにも同行するよう行ったはずなんだが⋯⋯彼女は今どうしてる?」
防衛要塞のとある一室に、マサカズはフィルの転移魔法によって送り出された。
そして、気がついたら目の前には魔王が居た。サラサラな長い黒髪。赤い瞳には男を魅了する不思議な力がある。そして肌は、全ての人が、生命が辿り着く果てと同じであるにも関わらず、不快感などは一切ない。
「アイツには首縄くらいが必要だ。それこそ、呪いとかな」
魔王は、存在するだけで辺りに威圧を撒き散らす。それは、ある意味で未熟であることを示すも同然なのだが、単純な力はその未熟さを帳消しにして、お釣りが来るくらいだろう。技術ではない、何の小細工もない純粋な暴力が、魔王なのだ。
端的に言えば、マサカズは魔王セレディナに恐怖している。これは事実で、否定し難き現実だ。だが、こんなことにはもう慣れっ子で、今更泣き喚くほどではない。
「首縄、ね。それも良い考えだが、私にフィルを──『強欲』を無理矢理押さえつける力も、権利も、何もない。従っているのは私が再び召喚して、私の母親には本当の忠誠を誓っていたからに過ぎない」
レイは召喚者であるエストには、盲信と言っても良いほどの忠誠を誓っていた。エストに死ねと言われれば、彼はきっと喜んでその首を差し出すだろう。
あとは、前の虚飾と憂鬱のみであるが、アレらの召喚者は未だ不明だ。しかし、目の前の魔王でないことは確実でもある。
「躾ができないなら、最初から飼わなければ良かったと思うが?」
「耳が痛いね。だが、飼わなければならない犬でもあるんだ」
セレディナへの恐怖を隠しながら、マサカズは言葉を続ける。彼女は強いし、油断ならないが、分かる。彼女は、年齢的な意味ではなく、若い。マサカズが言えたことではないが、こうも警戒すべき相手との会話を続けるのは、普通なら辞めておくべきだ。あるいは、計算し、自身の話術に自身がある場合。
「飼わなければならない犬、か。それは⋯⋯」
「──誰が、犬だって?」
より情報をマサカズが引き出そうとしたとき、そこに割り込んで来る女声があった。先程、聞いたばかりの、好ましくない美声だ。
「ああ、フィル。どこに行っていたんだ? 私はお前に、そこの男と一緒に来るよう言っていたはずだが」
「ちょっと私用があっただけ。別に魔王様を出し抜こうと色々と考えていたわけではないさ」
地獄耳でも持っているのか、この『強欲』は。マサカズの記憶だと、フィルはここに来る気なんてなかったはずなのだ。
「私の能力はね、一度発動すると解除するまで効果は永続する──つまり、君や、この国の人間たちの感情は、欲望は、欲求は、望みは、全て、四六時中、把握できてるのさ」
フィルは「欲求からその人の思考をある程度読むことができる」とも言っていた。そしてそれらの言葉が真実であるならば、フィルは実質、この国の全ての人々の思考を読み取り、把握しているということでもある。閲覧と一部の改竄に限定されるとはいえ、実質的にエストの能力の上位互換だ。
「いやはや。私も白の魔女なんていう化物と比べられる立場に立てるなんて、五百年前は考えもしなかったね」
フィルはお得意の思考閲覧で、話すことなく一方的に、しかし会話のドッジボールを繰り広げる。
無断で、人の記憶に足を踏み入れられるこの感覚は、やはり悍ましい。人の記憶を閲覧できるということは、それだけで情報アドバンテージになるのだから、マサカズの敵に回したくない能力ランキング第一位だ。
「白の魔女は凄いよね。見たもの、聞いたもの──これまで殺してきた相手の顔、表情、感情、死に際、性格、生き様、何もかもを、全てを、覚えて、忘れずにいられて。ああ、私は多くの記憶を視ることはできるし、欲を改竄することはできるけれど、自分の欲は改竄できないし、忘れずにいられることもできない。長く生きれば生きるほど、私は新しいものを得られるけど、同時に忘れることも多い。私は白の魔女が羨ましいよ。仲良くなりたいくらいだね」
フィルはエストの能力を心の底から羨ましがるように、恍惚な表情を浮かべ、熱弁する。敵対的とは思えない態度である。
「⋯⋯フィル」
そのとき、高圧的な声が部屋に響いた。声の主は座っていた椅子を立ち上がり、怒りを顕にしていることがよく分かる形相で、フィルを見る。
「──黙っていろ」
一言、だけだった。たった一言。それだけなのに、マサカズは全身が冷水にでも漬けられたみたいに、心臓を凍らせられたような冷たさを感じた。
「⋯⋯すみません、魔王様」
短時間ではあったが、フィルの性格は、マサカズも理解したつもりだった。しかし、この彼女の態度は、全くの予想外であった。まさか、彼女が謝るなんて。
「⋯⋯と、マサカズ、だったか? そろそろ、話を始めよう。少し、雑談を交え過ぎた」
ついさっきまでの冷徹な魔王はどこへやら。その変化が、どことなく怖い。
「⋯⋯ああ」
セレディナから情報を引き出すのはもう辞めておいた方が良い。ここで詮索すれば、あまりにも不自然だ。そうマサカズは思い、追求を辞める。
「まず、事前に忠告しておきたいが、私はお前を信用していない。これはフィルを呼び出したこととも関係があるのだが⋯⋯」
「感情から俺の思考を読み取るから、嘘を付けばその瞬間殺してやる、と?」
「⋯⋯そうだ」
しかし、それはできないだろう。何せ、それはフィルが嘘をつかないという前提の下に成り立つものであって──
「フィル。『マサカズ・クロイが嘘を発言した時、それを私に知らせろ』⋯⋯分かったな?」
──やけに、セレディナの命令文が強く思えた。
何か、違和感がある。何か、嫌な予感がする。本能が、勘が、危険信号を発している。しかし、その信号は「危険だ」と言うだけで、具体性に欠けていた。
「⋯⋯では、始めよう。マサカズ・クロイ。最初に聞くが、お前は私に反逆などしないと、誓うか?」
答えはノーだ。だが、それを言えば、知られれば、非常に不味い。
「勿論」
マサカズは一言、答える。セレディナはフィルに目をやるが、彼女はマサカズは嘘をついていないと、首を振る──はずだったが、
「──」
躊躇は、なかった。躊躇いなんて、刹那もなかった。
ただ、次の瞬間に分かったことは、セレディナの剣がマサカズの首に迫っていたことだけ。『死』がマサカズを嘲笑いながら、近づいてきただけ。
そしてその『死』は、確実にマサカズの命を、容易くマサカズの人生を、踏み躙るように、陵辱するように、蔑むように、無意味と言い張るように、残酷に、無情に、奪い去った。
◆◆◆
──赤が、頭の中を満たした。だがその赤は、熱さは、痛みは、ビデオの巻き戻し機能のように無かったこととなっていき、マサカズは過去へと舞い戻る。
『死』という闇は次第に光で照らされ、その意識の覚醒を促した。
「──は」
まず、マサカズの心を襲ったのは死への不快感ではなく、疑問だった。
想定外が多すぎた。理解外が多すぎた。なぜ、という質問がマサカズの頭の中で反響し、その音は止むことがない。
「フィルが裏切った? 俺から興味を失ったのか?」
マサカズがセレディナの質問に答えた直後、彼女はマサカズを殺した。そこに躊躇の欠片もないことには、今更驚くべき点ではないが、
「⋯⋯いや、それはない。『強欲』らしくない」
フィルは敵だ。味方としてカウントするはずがなく、殺せるなら殺してしまいたいくらいだ。だが、それは信用しない相手であるということではない。
彼女の価値観や、思考回路を知っているからこそ、共感はしないが理解しているからこそ、フィルがマサカズの不利になることはしないと信用できる。有利になることもしない、あくまで中立的な──少し魔王よりの──立場であるとも言えるが、あの場面なら、フィルらしくない振る舞いだった。
「⋯⋯言葉」
ならば、フィルの彼女らしくない行動には、外的要因があるのではないかとマサカズは考えた。その結果、導き出されたのは、セレディナのあの言葉。あの、妙に強く、心に刻まれるような、命令文。
「──前言撤回だぜ、魔王セレディナ。お前は、敵に回したら一番厄介な奴だ」
力だけはある若い奴、から、頭の切れる慎重派吸血鬼魔王へと評価を変更した。
もし、あの『言葉』に強制力があるのなら。他者を従える力があるならば、フィルの──語弊があるが──裏切りにも納得できる。
「だとすると、『言葉』は主従関係が原因ではなく、セレディナ自身の力か? 魔王だし、魔女や魔人みたいな能力者である可能性も⋯⋯」
他者を従える力。魔王らしい支配能力だ。数少ないデメリットのうち一つは、マサカズはそれの効果を受け付けないことだろうか。あともう一つは、
「多分、支配は強制じゃない。セレディナの発言や、これまでフィルが好き勝手やってきたらしいことも鑑みると⋯⋯強い意志があれば避けられる系の支配能力か?」
フィルは、自由を、それこそマサカズも引くくらい求めていた。不純すぎて逆に純粋なくらいの欲求だ。それに伴う意志も、尋常じゃないくらい強いだろう。
セレディナはフィルに首縄をつけられないと言っていたが、それは完全には支配できないということであり、不完全であれば支配できるということであった。文字通り、マサカズはそれを経験したのだ。
「で、それでどうするんだ。フィルに、強い意志を持て、と言うのか? 冗談じゃない。そんなの、俺の『死に戻り』を明かすことに等しい」
そしてそれは賭け事でもある。フィルが面白がってマサカズに協力するか、あるいは危険因子とみなされ幽閉されるか。『死に戻り』という情報が、どんな結果を生み出すかは神のみぞ知る。マサカズからしてみれば確立は二分の一で、50%で死ねない死を迎えることになる。
「お断りだ。⋯⋯ともあれ、フィルは中立から魔王側へと寄った。元々そうあるべきだったのがそうなっただけだ」
フィルというイレギュラーな存在へ自分の命を預けていたのがそもそもの間違い。アレは敵だ。アレは滅ぼすべき相手だ。利用しようものなら、不利益を被ることになる歩く災害そのものだ。
「──ああ、そうか。そうだ」
魔王、もといフィルの能力への対策法は思いついた。あとは、これを実践できるかできないか。
「できるできないじゃない。やるかやらないか⋯⋯とはよく言ったものだ」
覚悟と計画を立てた丁度良いタイミングで、フィルはマサカズを迎えに来た。それを知っていたから、彼はそれについて驚きもせず、堂々と、虚勢なんかではなく、
「よう、待っていたぜ、『強欲』」
「⋯⋯もう少し驚くと思ったんだけどね」
銀髪に紫紺の瞳の魔人は、その美貌には似つかわしくない悪態を付く。やはり、黙っていれば美人なタイプである。
そんな評価をされているとは⋯⋯凡そ視ているフィルの悪態は更に酷くなったが、それでマサカズを殺すほど心が狭いわけでも、馬鹿でもない。
「さっさと魔王様のところへ転移しようぜ、仲良くな」
「はあ? 誰が一緒に行くって?」
フィルが好んで魔王のところへ行かないことは、前回のループで実証済みだ。だからこの反応も大方予想はついていた。
「だろうな。だが、お前は魔王様に俺と同行するよう言いつけられているはずだろ? 部下は部下らしく、上司の命令には従っていたほうが良いぜ」
どちらにせよ、フィルはセレディナに呼び出される──と言うより、自分への悪口を察知して飛んでくる。
まさかあれもセレディナの狙いではないかと思い至るが、いくらなんでも深謀遠慮に過ぎる。
「⋯⋯そうかい。君の言うことに従うのは癪だけど、魔王様に言いつけられれば私もただじゃすまないだろうね」
フィルの何気ない一言だったそれだが、マサカズには引っかかる。
「──フィル」
「ん? 何かな。何を聞きたいのかな? わざわざ私を大罪ではなく名前で呼ぶなんて」
何を聞かれるのかを楽しみにしていたのか、フィルは絵画にでもできそうな微笑みでマサカズの質問を待っている。
「お前は、魔王と同じくらいの力を持つはずだろ? なんで、従ってるんだ?」
その質問が予想外だったのか、フィルの紫の目を少し開き、だが即答する。
「君の言葉を借りるなら、私が部下、つまり、被召喚者だから。何気ない一言で、人生⋯⋯私の場合、魔人生かな。それが決まるものだよ。私は自由であり自由でない。自由には明確な意思が必要ってね。意志なくして自由はあり得ない。私の自由には制限があるんだ」
「自由に、制限⋯⋯?」
自由と制限。対義語同士であるそれらは、まるで矛盾している。
マサカズの思う自由とは、何をやったって構わない世界なのだ。何をしても、誰にも咎められず、思うがままの世界。それこそ、自由というものであり、制限なんてない。
「人間と魔人は全く違う。それが理由さ。人間一つとっても平等でなく、公平でなく、不平等で不公平だろ? それが別種族ともなれば、より不平等で不公平になる。人間の自由と、魔人の自由は全く違うし、自由の上限もあれば、下限もある。それが人間と魔人の不平等なところだよ。大罪ともなれば比較にもならない」
自由の、制限。人間と魔人は違う。
「ならどうして⋯⋯俺たちに構う?」
互いに全く別の世界に生きるのだったなら、なぜ魔王は、魔人は、魔女は、魔獣は、魔物は、人間に干渉するのか。無関心でいれば、互いに衝突する必要性がなくなるというのに。それで、平和なのに。
「──自由だから。理解、共感と不干渉はイコールで結べない。自由は誰かの自由を踏み躙り、捻り潰し、叩き砕き、完膚無きまでに壊し、跡形もなく消して、全く使い物にならなくして、生まれる。平等なんてありえない。公平なんてありえない。ありえるのは、生まれたときに与えられる不平等と、死という平等だけ。構うのは、私が自由を求めるから。ただ、それだけ。私が思うから、私以外の全てに私は干渉する。それで誰かが死のうと、不幸に見舞われようと、絶望しようと、それは私の自由の糧になったというだけのこと。やっていることは、君たち人間が共存だと言葉で着飾ってやってる他者の利用と何ら変わりないよ。君たちは蜂蜜を集める蜂と理解し合えるの? 君たちは生まれ、育ってきた魚と共感し合えるの? 君たちは空を飛び回る鳥と分かち合えるの? 養蜂、養魚、鳥養、それらと私のやってることは一緒さ」
「それ⋯⋯は⋯⋯」
「君たちは自分たちが持つ自由を何ら分かっていない。生まれながらにして不自由な魔人からしてみれば、君たち人間、人類の方こそ──『強欲』だと思うけどね」
『強欲』なのは、人間。大罪を犯しているのは、果たしてどちらか。
「私は自由のために魔王様に⋯⋯セレディナ様に従っている。私が、私たちがこの世界に存在できたのは、顕現できたのは、自由になれたのは、魔王様が居るから。だから、魔王様という制限が付きまとう。そして自由とは、他者の自由の上に成り立つもの⋯⋯私は、いつでも踏み躙る側ではないのさ。私は自由を愛している。だから、その自由の理を受け入れているだけ」
もう、何が何なのか分からない。制限とか召喚とか従うとか魔王とか魔人とか理とか──自由とか、一体何なんだ。
「ああ、話が長くなったね。分かった?」
フィルは覗き込むようにして、マサカズに自分の演説を聞き、理解したかと聞いてくる。
「何が言いたいんだ。一言で纏めろ」
そんな彼女に対して、マサカズは精一杯に彼女が苦手そうな方法を要求する。しかし、人の心を読むことができるフィルは、大して驚くこともせず、
「君たち弱いから、私が何しても君たち何もできないよね」
「オーケー。俺、お前、大嫌い。話はここまでだ。さっさと魔王様のとこに転移するぞ。いや、転移させろ」
分かっていた結論を再び導き出し、マサカズはフィルをもう一度嫌いになる。
そして──第二回目の、魔王様対談会の場へとマサカズは向かった。
ただ、その再構築されたあとの自分が、何の変哲もない自分そのものであることは、根拠はないが、確信できる。
「──」
モルム聖共和国、首都アセルムノは、『死者の大地』から迫りくるアンデッドを迎撃する都市の一つであり、その中でも最大の防衛都市である。
そんな最大の防衛都市が、たった四人によって、それも半日も経たずに、完全に制圧されるなんて、一体誰が予想できたことだろうか。一騎当千かあり得るこの世界でも、数とは無視できないし、一人一人の熟練度もかなり高い軍が、火花さえ飛び散ることなく瓦解するなんて、誰が思っただろうか。
「⋯⋯フィルにも同行するよう行ったはずなんだが⋯⋯彼女は今どうしてる?」
防衛要塞のとある一室に、マサカズはフィルの転移魔法によって送り出された。
そして、気がついたら目の前には魔王が居た。サラサラな長い黒髪。赤い瞳には男を魅了する不思議な力がある。そして肌は、全ての人が、生命が辿り着く果てと同じであるにも関わらず、不快感などは一切ない。
「アイツには首縄くらいが必要だ。それこそ、呪いとかな」
魔王は、存在するだけで辺りに威圧を撒き散らす。それは、ある意味で未熟であることを示すも同然なのだが、単純な力はその未熟さを帳消しにして、お釣りが来るくらいだろう。技術ではない、何の小細工もない純粋な暴力が、魔王なのだ。
端的に言えば、マサカズは魔王セレディナに恐怖している。これは事実で、否定し難き現実だ。だが、こんなことにはもう慣れっ子で、今更泣き喚くほどではない。
「首縄、ね。それも良い考えだが、私にフィルを──『強欲』を無理矢理押さえつける力も、権利も、何もない。従っているのは私が再び召喚して、私の母親には本当の忠誠を誓っていたからに過ぎない」
レイは召喚者であるエストには、盲信と言っても良いほどの忠誠を誓っていた。エストに死ねと言われれば、彼はきっと喜んでその首を差し出すだろう。
あとは、前の虚飾と憂鬱のみであるが、アレらの召喚者は未だ不明だ。しかし、目の前の魔王でないことは確実でもある。
「躾ができないなら、最初から飼わなければ良かったと思うが?」
「耳が痛いね。だが、飼わなければならない犬でもあるんだ」
セレディナへの恐怖を隠しながら、マサカズは言葉を続ける。彼女は強いし、油断ならないが、分かる。彼女は、年齢的な意味ではなく、若い。マサカズが言えたことではないが、こうも警戒すべき相手との会話を続けるのは、普通なら辞めておくべきだ。あるいは、計算し、自身の話術に自身がある場合。
「飼わなければならない犬、か。それは⋯⋯」
「──誰が、犬だって?」
より情報をマサカズが引き出そうとしたとき、そこに割り込んで来る女声があった。先程、聞いたばかりの、好ましくない美声だ。
「ああ、フィル。どこに行っていたんだ? 私はお前に、そこの男と一緒に来るよう言っていたはずだが」
「ちょっと私用があっただけ。別に魔王様を出し抜こうと色々と考えていたわけではないさ」
地獄耳でも持っているのか、この『強欲』は。マサカズの記憶だと、フィルはここに来る気なんてなかったはずなのだ。
「私の能力はね、一度発動すると解除するまで効果は永続する──つまり、君や、この国の人間たちの感情は、欲望は、欲求は、望みは、全て、四六時中、把握できてるのさ」
フィルは「欲求からその人の思考をある程度読むことができる」とも言っていた。そしてそれらの言葉が真実であるならば、フィルは実質、この国の全ての人々の思考を読み取り、把握しているということでもある。閲覧と一部の改竄に限定されるとはいえ、実質的にエストの能力の上位互換だ。
「いやはや。私も白の魔女なんていう化物と比べられる立場に立てるなんて、五百年前は考えもしなかったね」
フィルはお得意の思考閲覧で、話すことなく一方的に、しかし会話のドッジボールを繰り広げる。
無断で、人の記憶に足を踏み入れられるこの感覚は、やはり悍ましい。人の記憶を閲覧できるということは、それだけで情報アドバンテージになるのだから、マサカズの敵に回したくない能力ランキング第一位だ。
「白の魔女は凄いよね。見たもの、聞いたもの──これまで殺してきた相手の顔、表情、感情、死に際、性格、生き様、何もかもを、全てを、覚えて、忘れずにいられて。ああ、私は多くの記憶を視ることはできるし、欲を改竄することはできるけれど、自分の欲は改竄できないし、忘れずにいられることもできない。長く生きれば生きるほど、私は新しいものを得られるけど、同時に忘れることも多い。私は白の魔女が羨ましいよ。仲良くなりたいくらいだね」
フィルはエストの能力を心の底から羨ましがるように、恍惚な表情を浮かべ、熱弁する。敵対的とは思えない態度である。
「⋯⋯フィル」
そのとき、高圧的な声が部屋に響いた。声の主は座っていた椅子を立ち上がり、怒りを顕にしていることがよく分かる形相で、フィルを見る。
「──黙っていろ」
一言、だけだった。たった一言。それだけなのに、マサカズは全身が冷水にでも漬けられたみたいに、心臓を凍らせられたような冷たさを感じた。
「⋯⋯すみません、魔王様」
短時間ではあったが、フィルの性格は、マサカズも理解したつもりだった。しかし、この彼女の態度は、全くの予想外であった。まさか、彼女が謝るなんて。
「⋯⋯と、マサカズ、だったか? そろそろ、話を始めよう。少し、雑談を交え過ぎた」
ついさっきまでの冷徹な魔王はどこへやら。その変化が、どことなく怖い。
「⋯⋯ああ」
セレディナから情報を引き出すのはもう辞めておいた方が良い。ここで詮索すれば、あまりにも不自然だ。そうマサカズは思い、追求を辞める。
「まず、事前に忠告しておきたいが、私はお前を信用していない。これはフィルを呼び出したこととも関係があるのだが⋯⋯」
「感情から俺の思考を読み取るから、嘘を付けばその瞬間殺してやる、と?」
「⋯⋯そうだ」
しかし、それはできないだろう。何せ、それはフィルが嘘をつかないという前提の下に成り立つものであって──
「フィル。『マサカズ・クロイが嘘を発言した時、それを私に知らせろ』⋯⋯分かったな?」
──やけに、セレディナの命令文が強く思えた。
何か、違和感がある。何か、嫌な予感がする。本能が、勘が、危険信号を発している。しかし、その信号は「危険だ」と言うだけで、具体性に欠けていた。
「⋯⋯では、始めよう。マサカズ・クロイ。最初に聞くが、お前は私に反逆などしないと、誓うか?」
答えはノーだ。だが、それを言えば、知られれば、非常に不味い。
「勿論」
マサカズは一言、答える。セレディナはフィルに目をやるが、彼女はマサカズは嘘をついていないと、首を振る──はずだったが、
「──」
躊躇は、なかった。躊躇いなんて、刹那もなかった。
ただ、次の瞬間に分かったことは、セレディナの剣がマサカズの首に迫っていたことだけ。『死』がマサカズを嘲笑いながら、近づいてきただけ。
そしてその『死』は、確実にマサカズの命を、容易くマサカズの人生を、踏み躙るように、陵辱するように、蔑むように、無意味と言い張るように、残酷に、無情に、奪い去った。
◆◆◆
──赤が、頭の中を満たした。だがその赤は、熱さは、痛みは、ビデオの巻き戻し機能のように無かったこととなっていき、マサカズは過去へと舞い戻る。
『死』という闇は次第に光で照らされ、その意識の覚醒を促した。
「──は」
まず、マサカズの心を襲ったのは死への不快感ではなく、疑問だった。
想定外が多すぎた。理解外が多すぎた。なぜ、という質問がマサカズの頭の中で反響し、その音は止むことがない。
「フィルが裏切った? 俺から興味を失ったのか?」
マサカズがセレディナの質問に答えた直後、彼女はマサカズを殺した。そこに躊躇の欠片もないことには、今更驚くべき点ではないが、
「⋯⋯いや、それはない。『強欲』らしくない」
フィルは敵だ。味方としてカウントするはずがなく、殺せるなら殺してしまいたいくらいだ。だが、それは信用しない相手であるということではない。
彼女の価値観や、思考回路を知っているからこそ、共感はしないが理解しているからこそ、フィルがマサカズの不利になることはしないと信用できる。有利になることもしない、あくまで中立的な──少し魔王よりの──立場であるとも言えるが、あの場面なら、フィルらしくない振る舞いだった。
「⋯⋯言葉」
ならば、フィルの彼女らしくない行動には、外的要因があるのではないかとマサカズは考えた。その結果、導き出されたのは、セレディナのあの言葉。あの、妙に強く、心に刻まれるような、命令文。
「──前言撤回だぜ、魔王セレディナ。お前は、敵に回したら一番厄介な奴だ」
力だけはある若い奴、から、頭の切れる慎重派吸血鬼魔王へと評価を変更した。
もし、あの『言葉』に強制力があるのなら。他者を従える力があるならば、フィルの──語弊があるが──裏切りにも納得できる。
「だとすると、『言葉』は主従関係が原因ではなく、セレディナ自身の力か? 魔王だし、魔女や魔人みたいな能力者である可能性も⋯⋯」
他者を従える力。魔王らしい支配能力だ。数少ないデメリットのうち一つは、マサカズはそれの効果を受け付けないことだろうか。あともう一つは、
「多分、支配は強制じゃない。セレディナの発言や、これまでフィルが好き勝手やってきたらしいことも鑑みると⋯⋯強い意志があれば避けられる系の支配能力か?」
フィルは、自由を、それこそマサカズも引くくらい求めていた。不純すぎて逆に純粋なくらいの欲求だ。それに伴う意志も、尋常じゃないくらい強いだろう。
セレディナはフィルに首縄をつけられないと言っていたが、それは完全には支配できないということであり、不完全であれば支配できるということであった。文字通り、マサカズはそれを経験したのだ。
「で、それでどうするんだ。フィルに、強い意志を持て、と言うのか? 冗談じゃない。そんなの、俺の『死に戻り』を明かすことに等しい」
そしてそれは賭け事でもある。フィルが面白がってマサカズに協力するか、あるいは危険因子とみなされ幽閉されるか。『死に戻り』という情報が、どんな結果を生み出すかは神のみぞ知る。マサカズからしてみれば確立は二分の一で、50%で死ねない死を迎えることになる。
「お断りだ。⋯⋯ともあれ、フィルは中立から魔王側へと寄った。元々そうあるべきだったのがそうなっただけだ」
フィルというイレギュラーな存在へ自分の命を預けていたのがそもそもの間違い。アレは敵だ。アレは滅ぼすべき相手だ。利用しようものなら、不利益を被ることになる歩く災害そのものだ。
「──ああ、そうか。そうだ」
魔王、もといフィルの能力への対策法は思いついた。あとは、これを実践できるかできないか。
「できるできないじゃない。やるかやらないか⋯⋯とはよく言ったものだ」
覚悟と計画を立てた丁度良いタイミングで、フィルはマサカズを迎えに来た。それを知っていたから、彼はそれについて驚きもせず、堂々と、虚勢なんかではなく、
「よう、待っていたぜ、『強欲』」
「⋯⋯もう少し驚くと思ったんだけどね」
銀髪に紫紺の瞳の魔人は、その美貌には似つかわしくない悪態を付く。やはり、黙っていれば美人なタイプである。
そんな評価をされているとは⋯⋯凡そ視ているフィルの悪態は更に酷くなったが、それでマサカズを殺すほど心が狭いわけでも、馬鹿でもない。
「さっさと魔王様のところへ転移しようぜ、仲良くな」
「はあ? 誰が一緒に行くって?」
フィルが好んで魔王のところへ行かないことは、前回のループで実証済みだ。だからこの反応も大方予想はついていた。
「だろうな。だが、お前は魔王様に俺と同行するよう言いつけられているはずだろ? 部下は部下らしく、上司の命令には従っていたほうが良いぜ」
どちらにせよ、フィルはセレディナに呼び出される──と言うより、自分への悪口を察知して飛んでくる。
まさかあれもセレディナの狙いではないかと思い至るが、いくらなんでも深謀遠慮に過ぎる。
「⋯⋯そうかい。君の言うことに従うのは癪だけど、魔王様に言いつけられれば私もただじゃすまないだろうね」
フィルの何気ない一言だったそれだが、マサカズには引っかかる。
「──フィル」
「ん? 何かな。何を聞きたいのかな? わざわざ私を大罪ではなく名前で呼ぶなんて」
何を聞かれるのかを楽しみにしていたのか、フィルは絵画にでもできそうな微笑みでマサカズの質問を待っている。
「お前は、魔王と同じくらいの力を持つはずだろ? なんで、従ってるんだ?」
その質問が予想外だったのか、フィルの紫の目を少し開き、だが即答する。
「君の言葉を借りるなら、私が部下、つまり、被召喚者だから。何気ない一言で、人生⋯⋯私の場合、魔人生かな。それが決まるものだよ。私は自由であり自由でない。自由には明確な意思が必要ってね。意志なくして自由はあり得ない。私の自由には制限があるんだ」
「自由に、制限⋯⋯?」
自由と制限。対義語同士であるそれらは、まるで矛盾している。
マサカズの思う自由とは、何をやったって構わない世界なのだ。何をしても、誰にも咎められず、思うがままの世界。それこそ、自由というものであり、制限なんてない。
「人間と魔人は全く違う。それが理由さ。人間一つとっても平等でなく、公平でなく、不平等で不公平だろ? それが別種族ともなれば、より不平等で不公平になる。人間の自由と、魔人の自由は全く違うし、自由の上限もあれば、下限もある。それが人間と魔人の不平等なところだよ。大罪ともなれば比較にもならない」
自由の、制限。人間と魔人は違う。
「ならどうして⋯⋯俺たちに構う?」
互いに全く別の世界に生きるのだったなら、なぜ魔王は、魔人は、魔女は、魔獣は、魔物は、人間に干渉するのか。無関心でいれば、互いに衝突する必要性がなくなるというのに。それで、平和なのに。
「──自由だから。理解、共感と不干渉はイコールで結べない。自由は誰かの自由を踏み躙り、捻り潰し、叩き砕き、完膚無きまでに壊し、跡形もなく消して、全く使い物にならなくして、生まれる。平等なんてありえない。公平なんてありえない。ありえるのは、生まれたときに与えられる不平等と、死という平等だけ。構うのは、私が自由を求めるから。ただ、それだけ。私が思うから、私以外の全てに私は干渉する。それで誰かが死のうと、不幸に見舞われようと、絶望しようと、それは私の自由の糧になったというだけのこと。やっていることは、君たち人間が共存だと言葉で着飾ってやってる他者の利用と何ら変わりないよ。君たちは蜂蜜を集める蜂と理解し合えるの? 君たちは生まれ、育ってきた魚と共感し合えるの? 君たちは空を飛び回る鳥と分かち合えるの? 養蜂、養魚、鳥養、それらと私のやってることは一緒さ」
「それ⋯⋯は⋯⋯」
「君たちは自分たちが持つ自由を何ら分かっていない。生まれながらにして不自由な魔人からしてみれば、君たち人間、人類の方こそ──『強欲』だと思うけどね」
『強欲』なのは、人間。大罪を犯しているのは、果たしてどちらか。
「私は自由のために魔王様に⋯⋯セレディナ様に従っている。私が、私たちがこの世界に存在できたのは、顕現できたのは、自由になれたのは、魔王様が居るから。だから、魔王様という制限が付きまとう。そして自由とは、他者の自由の上に成り立つもの⋯⋯私は、いつでも踏み躙る側ではないのさ。私は自由を愛している。だから、その自由の理を受け入れているだけ」
もう、何が何なのか分からない。制限とか召喚とか従うとか魔王とか魔人とか理とか──自由とか、一体何なんだ。
「ああ、話が長くなったね。分かった?」
フィルは覗き込むようにして、マサカズに自分の演説を聞き、理解したかと聞いてくる。
「何が言いたいんだ。一言で纏めろ」
そんな彼女に対して、マサカズは精一杯に彼女が苦手そうな方法を要求する。しかし、人の心を読むことができるフィルは、大して驚くこともせず、
「君たち弱いから、私が何しても君たち何もできないよね」
「オーケー。俺、お前、大嫌い。話はここまでだ。さっさと魔王様のとこに転移するぞ。いや、転移させろ」
分かっていた結論を再び導き出し、マサカズはフィルをもう一度嫌いになる。
そして──第二回目の、魔王様対談会の場へとマサカズは向かった。
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