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天使
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信仰の父アブラハムはその愛息子イサクを生贄に望む神に対し疑う事無くそれを行った。ヨブは神の御業は人間の推し量れるものでは無く、所詮人は神の進めている謀の添え物でしかない事を理解し、何もかも奪われても神に従順であり続けた。
だがここに、神を愛しながらも神の愛や人間をも愛した為が故、先人の様に出来ない者が居た。
涙に溢れたまま、怒りと悲壮、慈愛を混ぜ話合わせた表情でますみは言った。
「私の信仰心を、捧げます」
血色の悪魔のアンバランスに大きな眼がこれ以上無いと思える程に見開かれる。すぐに声が出てこない。今この少女は何と言った?
礼拝堂内を震わせて漆黒の悪魔が大笑いする。
その口を耳まで広げて顎が外れんばかりに大口を開けて。それはイーヴィスの肌に鈍い痛みを感じさせるほどに響いた。
「それよ!!それこそが悪魔が最も欲しがるものだ!! 」
強要が無いとは言え、それは限りなく脅迫に近い合意だった。
イーヴィスは今生きる指針を放棄した少女と、捨てさせた悪魔の交互に見ながら全身を粟立たせた。
これほど信心深かった者の、聖書を鵜呑みするのではなく神について真剣に考え向かい合って来た少女の、魂のみならず信仰まで引き離しただって?
「お姉ちゃん!それは駄目だ!それは駄目だよお姉ちゃん!! 」
血相を変えたかなたがますみの両肩を掴む。
「何言ってるんだよ!しっかりしてくれよ!お姉ちゃんはそんな事言わないだろ!!そんなこと言っちゃ駄目なんだよ!! 」
かなたは受け続けたストレスの余り呼吸が上手く出来なくなって来ていた。
ますみはかなたを救う為に一体どれほどのものを失うと言うのか!全部自分の所為だ、どうして最も大切な人にこんな犠牲を払わせなくてはならないのか。
「かなたと同様、これは姉のわがままです」
ますみはいつもの微笑みを向けたまま静かにそう言った。
「神様より俺を選ぶって……何だよそれ……何だよそれ……! 」
再び泣き始めてしまった弟の額に静かに口付けをした後、ますみはこれまで何度もそうして来た様に今もまた少年を抱きしめ頬ずりした。
「かなた、あなたは神様の愛そのもの、かなたこそが姉には救い。あなたを失いかけた時、それがわかったのです、あなたは姉にとって最も大切なものなのですよ」
「何だよ……!俺は……!俺はそんなんじゃない……!俺はただのお姉ちゃんの弟だよ……! 」
「かなたが弟だと言う事がそうなのですよ。他の誰かではなくかなただからですよ」
姉の腕の中でかなたは何だよ何だよと繰り返し続けた。
エスレフェスは笑うのをやめ、血色の悪魔に視線を戻した。
イーヴィスはそれだけで全身が凍り付く様な感覚を覚えた。すぐにその場を飛び退りたいのに体が全く動こうとしない。これは邪視などでは無い、西野ますみから信仰を剥がし取った事が受け入れ難く、相手に畏怖を感じてしまっているのだ。一体何柱の悪魔がこれと同等の事を成し遂げられただろう。
「小娘がブッディスト(仏教徒)じゃなくて都合が良かった。あいつらは執着は悪だと思ってるからな、高潔な魂を持ってる奴見つけても狙い損だ。優しいお姉ちゃんが大好きになりそうだぜ」
「か、考え直して…… お姉ちゃん…… 」
小さすぎる口が何とかそう声を絞り出すもそれがますみに届く事など無い事はイーヴィスにも想像がついていた。あの少女が中途半端な覚悟であんな言葉を口にする訳が無い。
だったらかなたにも信仰心を差し出してもらったらどうだ。ますみ程でなかったとしても愛する姉がずっと信仰してきたものをかなたが受け入れていないはずは無い。
「無駄だイーヴィス」
エスレフェスは言った。
イーヴィスは理解していた。どちらが勝とうがますみの魂は悪魔のものになる、ならばどちらかに加勢して意味があるものか。ここへ来て飛び付いてしまった条件が自分の勝利を失わせる結果になった事をイーヴィスは思い知った。まさかエスレフェスはここまで狡猾に事を運んでいたというのか?
もう立てる手立てが一切ない。この場の誰一人、イーヴィスを有利にする事が出来ない。
ああ、自分は負けたのだ。血色のドレスを着た女は今そう思った。
「あたしは死ぬの?あなたに殺されるの? 」
イーヴィスの小さな声にエスレフェスはそうだと答えた。
「嫌よ……。あたしは、あたしは神に倒されるのよ。最後の審判で!あたしは、あの方に殺されるのよ!! 」
最後が悲鳴に変わったその言葉にエスレフェスは違うと答えた。
「お前は今、ここで、俺に殺されるんだ」
アンバランスに大きな瞳から大粒の涙がこぼれる。
「嫌よ!あたしを殺して良いのはあの方だけよ!! 」
「おいおいイーヴィス、悪魔がビービー泣くんじゃねぇ。それに知ってるだろ? 」
そう、悪魔に情など無い。
「絶対嫌よ!! 」
イーヴィスが持っている武器をすべて振り上げる。だがそれは構える前に後方へすべて弾き飛ばされた。
「お前は俺には敵わない」
「まだよ!! 」
エスレフェスの体を雷の網が覆う、だがそれも一呼吸待たずに消えた。
イーヴィスの口が大きく開かれる。だがエスレフェスはその喉に腕を突っ込んで黙らせた。
「もう苦しめ合うのは止めようや。本来俺達は殺し合う必要は無いんだ」
イーヴィスはそのまま自分の喉に突っ込まれた腕に噛みついた。必死に牙を立てた。涙を酸に変えて焼こうともした。そしてそれらは何一つ相手に傷をつける事が出来なかった。
しばらくそのままやらせていたエスレフェスだったがやがて腕を抜いた。
「イーヴィス、お前はな、悪魔やるにはドライさに欠けてんだよ」
血色の悪魔は叱られた幼子の様な泣き顔のままそうねと漏らした。
「いいわ、あなたの勝ち。でも最後にあの方に会いたかった」
「奴はどこにでも居てどこからでも見てる、お前の事も何一つ見逃さずにな」
「そうじゃないの。あたしが会いたかったのよ」
エスレフェスは首を振った。
「エスレフェス、会わせてあげられないのですか?最後の願いくらい……」
漆黒の悪魔はますみを見る事なく答えた。
「俺はな小娘、悪魔なんだぜ?情けでホイホイ動いたりしないのよ」
イーヴィスは顔をぬぐった。
「ああ情けない!あたしは悪魔なのに。大体人間風情に同情されるなんて腹立たしい限りだわ!さぁやってちょうだい」
エスレフェスが無言で血色のドレスの女の頭に手を置くと意外にも彼女は胸の前で両手を合わせた。
その仕草がますみの胸に痛々しく突き刺さった。
一言何か言葉を掛けようとした時、イーヴィスだったものは細かい粒子となってそして声も無く消えた。
獣の猛攻を回避するために四散した時の様に再び現れる事は無かった。
礼拝堂内に張られていたイーヴィスの結界が解けて行く。奇妙な距離感だった空間が本来の現実味を取り戻して行く。焦げた床や散らばった武器なども消えて行く。そして、蚊帳の外だった美琴の姿も戻っていた。
胸の中に様々な思いが巡るますみだったが、生き残った漆黒の悪魔に良くやってくれましたと告げた。
「契約は果たした。そして西野かなたが悪魔イーヴィスに捧げたものもすべて本人の元に戻った」
巨大な獣が再び紳士の姿に戻って行く。
状況の突然の変化に美琴は戸惑っていたが、その場にあのビスクドールの様な幼い少女が居ない事で何が起こったのか察した。
「イーヴィスが…… じゃぁ私の魂は……」
その言葉に漆黒の悪魔は振り返り、相手をまっすぐ見つめて言った。
「契約は執行不能だ。お前が差し出したものはすべてお前の元に戻った」
思わず両手で口を覆うと美琴の両目から涙がこぼれた、ずっとずっと後悔していた事だ。神は自分を罰するかもしれない、だが許しを請う機会は与えられたのだ。
「それなら…… 今までイーヴィスが私に与えたものは……」
美琴の言葉に悪魔は一度眉をひそめたがしっかり相手を見て言った。
「一括で契約してしまうと魂を取り逃してもな、悪魔が一度与えたものは消え去らない……、割りが合わないんだよ。かつて何度かそれをやられてんだよ俺達は」
それならば美琴が得た旅費や父の会社の成功はそのままだと言う事になる。
逆に復讐をしてしまった企業が復活する事は無いのだ。そこで美琴ははっと息を呑んだ。
偶然とは言え、自分はますみのおかげで救われた、だがますみ自身は救われなかったのだ。それはあたかもますみを犠牲にして助かったかの様な罪悪感を感じさせた。それが顔に出たのだろうか、ますみがこちらに向くのが見えた。
「ますみさん……」
どんなに恨まれようと罵声を浴びせられ様とも反論は出来ない。なのにこの少女は弟を抱えたまま微笑んでいた。教会の前で美琴を救った時と同じ様に。
「良かったです。神様は美琴さんをまだお見捨てになっていませんね。だからこそ美琴さんを言いくるめた悪魔は打ち倒されたのです」
なんて事を言い出すんだ。自分から悪魔に魂を差し出したのに神がそれを許し救ってくれたとこの子は言うのか。
「主が…… そんな……」
ますみは小さく頷いた。
「神様のご意志無くして魂を取り戻す事なんてきっと無理です。神様は美琴さんにご期待なさっているのですよ」
息が詰まった。言葉も無く美琴は祭壇の前に走り、崩れる様に跪いて十字を切ると、心から祈りを捧げた。言葉に出来ない程の後悔と罪悪感がすべて涙となって溢れた。
「お姉ちゃんはさ…… いっつもこうだ……」
ますみの腕の中でかなたが言う。
「いっつも他人にばっかなんだよ……」
ますみは絡める腕に力を込めた。
「奇遇ですね」
「このままじゃだめだ……」
かなたはゆっくりと体を放し、美琴の傍に行った。
彼女が祈る為に手放した物がその場にあり、それはかなたが悪魔を召喚しようとしていた時の道具だった。
「おい悪魔、お前はまだ契約を果たしていないぞ」
黒い悪魔は少年に振り返る。
「何だと? 」
「お前がイーヴィスを倒す為にお姉ちゃんから供物を受け取った、イーヴィスは死んだけどその呪いは残ってる」
「あいつの呪詛など残っていない」
「そうじゃない! 」
かなたは儀式用に聖別しておいたナイフを取り上げた。そしてそこはますみとかなたを守る為に悪魔が描いた魔法円の中だった。
「イーヴィスのせいでお姉ちゃんが純潔や信仰を捧げなくちゃいけなかったってんならそうさせた俺は俺自身を許す訳には行かない」
「かなた!やめなさい! 」
ますみが青い顔で近寄ろうとするがかなたはそれを制止した。
「近づかないでお姉ちゃん、わかるでしょ?俺は本気だ」
悪魔が顔をしかめる。
「俺を脅すつもりか」
「脅しかどうかわかってるだろ?俺が死んだらお前は永遠に契約が果たせない。それは俺にとって都合が良いんだ」
再びますみが近寄ろうとするが悪魔がその肩を掴んだ。
ますみならば近寄る事が出来るかもしれないが、その結果万が一かなたが早まった真似をしてしまえばそれは契約違反になってしまう。
本来ならば別件として放置できる所だが、かなた自身の口からイーヴィスの影響である事を言われてしまっては無視する訳には行かない。
「条件は」
「わかっているだろ。お姉ちゃんの純潔と信仰心だ」
美琴は状況が呑み込めなかったが、かなたが自分の胸に刃物を向けている事だけは理解できた。
「かなた君!何をしているの! 」
「邪魔しないでよ?美琴お姉さん、俺は今、男の戦いをしているんだ」
悪魔を睨みつけたままそう言う年下の少年の姿に美琴は動く事が出来なかった。
この子は今命を懸けて悪魔と真っ向から対峙しているのだろう。自分にはそれが出来なかった。それどころかこの姉弟を巻き添えにしてしまった。
「なぁ小僧、そんな事をした所で何の得も無いだろう。約束しよう、小娘に手は出さない。お前がそこから出てきたら信仰心も返してやろう」
「嘘だね」
かなたは即答した。
「悪魔は契約以外では平気で嘘を吐く。その契約だって相手に分からない様に不利な条件を付ける事もある。お前など信じられるか! 」
悪魔はにやりとした。毎晩の様にしつこく挑んで来ただけはある。本気で悪魔を退けようと色々学んだのだろう。
「ガキの癖にわかってるじゃないか。けどよ、ガキのお前にそこまでの覚悟があるのか?刃物で死ぬってのは思うよりも痛いんだぜ?簡単には死ねないしな。血がなくなるまでの間延々と苦痛にさらされるんだぜ?ああ、文字通り偽りなく死ぬほどの痛みだ。お前に耐えられるとは思えんな」
「耐えられるかどうかは問題じゃない」
かなたの言葉に悪魔はにやけながら首を振った。
「そうか、ならやれ。俺は別にそこまで小娘の魂にこだわっている訳じゃないからな」
「いけませんかなた! 」
ますみがきつく言うがかなたは少しだけ口角を上げた。
「悪魔、お前嘘ついたな、本当にどうでも良いなら立ち去っても良いはずだ。とっとと死ねくらい煽っても良いはずだ。お前がお姉ちゃんにこだわらないならもう魂を奪えない相手の所にいつまでも居ないはずだ。お前はこだわっている、そして多分、契約は悪魔にとって俺達が思う以上に重いんだ。だから俺を放って置く事が出来ないんだ」
悪魔は舌打ちした。
「しくじったか、最初っからとっとと去っとくべきだったな」
今更興味無さそうに去った所でもうかなたにはお見通しだ。
毎晩の様にしつこく挑まれて実感しているがこの少年の姉に対する思いの強さなら本当に自決しかねない。子供だと思って甘く見過ぎていた様だ、おとぎ話には賢い子供が巨人やら悪魔やらを知恵で撃退するものがあるがエスレフェスはああいうのが大嫌いだった。これじゃ自分がそれと同じではないか。
「小僧、癪だがお前の勝ちだ、小娘の純潔も信仰も返してやる。ただし同等のものを俺に捧げろ。だが魂は駄目だ。これは正式な契約の結果だ」
「同等なもの、それはお前が俺を助けられたと言う契約達成だ」
同等であろうが無かろうが、悪魔にとって無視する訳には行かないものだろう、かなたはそう思った。
憎々し気に小僧と悪魔は漏らした。契約を達成する為に得た供物を契約を達成する為に失うとは何と言う皮肉だ。
ますみは肩を震わせていた。あんなに覚悟をして諦めたものを弟が取り返してくれる。命を張ってまで。この子はやはり救いだった。
「わかったら書面にしろ! 」
「お前の姉もそうだが、お目も相当素質あるぜ、悪魔のな」
エスレフェスは羊皮紙を取り出し書面にした。
かなたがそれを確認してようやくナイフを放すとますみが駆け寄って来る。
そして弟の名を何度も呼びながらぎゅうぎゅうと体を押し付け額をくっつけた。
弟が行った危険な事を叱りつけて二度とさせないようにしなくては、そう躾けなくては、どれほど自分が怯えていたのか伝えなくては、そう思うのにそれが行動に出ない。
「ごめんね、魂までは取り戻せなかった……」
「何を言うのです。かなた、あなたは……ああ、あなたに神様の祝福がある事を望んでやみません」
興味無さそうに二人の姿を眺めた後悪魔は言った。
「ともあれ、契約達成だ。西野ますみ、お前の魂は今、すべて俺のものとなった」
ますみは弟を放し、悪魔に向くと良くやってくれましたと答えた。
信仰心が戻った今、その罪の意識は計り知れないだろうが、それでも礼を言う律義さに悪魔は彼女らしさを見た。
その時だった。
室内であるはずの礼拝堂がなぜか強い光に溢れ出した。どこからともなく聞いた事も無い音楽が聞こえる。新たな超常現象にその場の誰もが狼狽したが悪魔以外の心はなぜか得も言われぬ幸福感に満たされた。
漆黒の悪魔は全身に焼ける様な痛みを感じ、物陰に隠れたがその光は影においても効果を失わなかった。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫です、かなた」
二人は寄り添ったまま天井を見上げた。美琴もそれにならう様に身を起こす。
「け、何の用だよ! 」
悪魔が悪態をつく。
「子供達よ」
光の中で誰かが言った。まるでブロンズの鐘を響かせる様な声はそれぞれの耳の間、頭の中で聞こえた。
「また悪魔?! 」
かなたの言葉に声は答えた。
「幼子よ、恐れる必要はありません、私は父の御言葉を届けに降りました」
ますみと美琴がが跪いたのでかなたもそれにならった。
翼を背に持つ輝く人影が空中に現れる。
「悪魔があなた方の父に持ちかけた賭け事にあなた方は巻き込まれ、これがあなた方の試練となった。そしてあなた方はそれを乗り越える事が出来ました」
御使いに向かって悪魔は怒鳴った。
「そんなくだらない事を言う為に現れたのかよお前は!とっくに察してんだよ。とっとと去れ!うっとおしい! 」
御使いは悪魔には向かず当事者の美琴を視界に収めていた。
「恐れながら御使いに申し上げます、私は悪魔の誘惑に屈してしまいました。主に背き、この魂を捧げてしまいました」
御使いと目を合わせる事が出来ないまま美琴は祈る姿勢でそう伝えた。
「人の娘よ、あなたの魂は今誰の手にありますか。それはあなたのもので他の誰のものでもない。あなたの罪はその信仰と独り子の贖罪よって既に濯がれています。悔い改め勤しみなさい」
美琴は床に突っ伏し嗚咽した。
次に御使いはかなたに向いた。
「あなたも罪を犯しました。ですがあなたもまた同様、その罪は信仰によって濯がれるでしょう」
所がかなたは声を上げた。
「俺の!…… 私の魂が私のものであるのはお姉ちゃ…… 姉のおかげなんです!姉が取り戻してくれなければ私も、美琴さんも神様の子供ではいられませんでした」
何を言いたいのか伝わっただろうか。しかし余計な事を言って機嫌を損ねたくはない。
御使いがますみに向くと彼女はしっかりと視線を合わせていた。
「申し上げます、弟が言ったのは結果論です。悪魔から二人の魂を解放できたのは最初から意図していた事ではありません」
悪魔は呆れた。適当に取り入っておけば良いものをわざわざ自分が不利になる様に追い込んでいる。もっとも自分が魂の所有者である以上救いは無いわけだが。
「罪を認めているのですね」
「もちろんです」
一度でも自分の口から信仰を捨てると言ったますみは自分自身をまだ許していなかった。
「確かにあなたの罪は深く滅ぼされる運命にあります」
「待ってください!お姉ちゃ…… 姉は俺達を助ける為に犠牲になったも同然なんです!!そんなのって無いです!!お姉ちゃんは日頃からどれほど人の為に尽くして来たか、どれほど神様の事を慕ってやって来た事か!神様ならご存じでしょう!!そんなのって無いです!! 」
「かなた、良いのですよ、姉は……」
「良くないよ!やっぱおかしいよ……。神様なら救ってよ!お姉ちゃんを悪魔から助けてよ!! 」
かなたの必死の懇願を前にしても御使いは顔色一つ変えずに答えた。
「全能なる父は公平です正当な手続きで行われた契約に口出しする事はありません」
「当然だ」
悪魔が漏らす。
「そこで悪魔よ」
御使いがエスレフェスに向いた。意外な展開に彼は面食らう。
「お前が得た魂を手にしなさい」
「ああ?間違いなく俺の所有物だが手にするのは小娘が死んだ後だぞ。今抜いたら死ぬ恐れだって出て来るだろうが。大体契約もそうなってんだ。お前ら信者以外には容赦ないな」
「私は命じられています。しかと見届けてくる様にと。完全に抜き取ってしまう訳では無い、すぐ戻せば良い。お前がこの娘の魂を手に入れた事を私に示しなさい」
黒い悪魔は不審そうに目を細めた。それがイーヴィスと神が交わした賭けと関係があるのだろうか。イーヴィスが熱心な信者から魂を奪う事に成功はしなかったが、彼女の目論見の中でエスレフェスが別の熱心な信者から魂を得た事に意味があるのだろうか。それを確認出来たらイーヴィスの勝ちと言う事になるのだろうか。賭けの対象は美琴だったはずだ。それがますみに切り替わるなんて事は考えられない……。
「この娘は実に熱心な信者でした。契約したからと言って本当にお前のものになったのでしょうか」
「挑発するのかよ。良いぜ、見せてやる」
悪魔は物陰から出てますみの背後に立った。
かなたはピリピリしたが御使いの前である事で自分を押さえた。機嫌を損ねて姉の立場が悪くなる事を避けたかったからだ。
「小娘、座ってろ。倒れたら怪我するからな」
ますみが言われた様にすると悪魔はすっと両手を伸ばした。
少女の頭の上に透き通った球体がゆらりと浮かび上がるとそれはじわじわと存在感を増し、見る間にこの明るみの中にあっても輝きがわかる程の光を発し始めた。
ますみの頭よりもはるかに大きなそれは陽光よりも眩しいにもかからわず直視しても全く不快感を感じさせず、むしろ心安らぎ惹きつける魅力を持っていた。それを眺めているだけで心が洗われる様な、意味も無く幸福感が押し寄せて来る様な、今ならどんな者にでも優しく出来そうな、胸の中がキラキラした何かで埋め尽くされる様なそんな感動を覚えさせた。
悪魔に売り渡すと言う大罪を犯した者の魂がこんなにも美しい輝きを放つものなのかと美琴は驚愕した。
これを抜き出した当の悪魔はその光を前に驚愕していた。目の前に出してみて思った以上だったことを実感したのだ。あまりにも清らかな色合いに、触れてしまう事に恐怖さえ感じる。多かれ少なかれ悪魔と契約すると言う行為の中で魂には汚れが生じるものだ。だが今まで手に入れてきた魂の中でこれ程の純粋な状態のものは見た事が無かった。
「そうか、なんだかんだでこいつ、自分の為に願ったことは無かったな」
魂と言う高価な対価を払う以上他人の為に契約するなんて事自体がまず珍しい。そしてますみのした契約はどちらも自分以上に他人の幸いを願うものだった。
「悪魔よ。どうしたのです。恐れずに触れなさい、あなたのものです」
御使いが促す。
かなたは姉の魂の輝きに深く心を動かされながらもそれが悪魔のものになっている事が許せなかった。何故御使いはこの瞬間に取り返してくれないのだろう。
「汚い手で触るな!これはお姉ちゃんなんだぞ! 」
立ち上がったかなたを美琴が必死で抑えた。御使いを怒らせてかなたが許されなくなってしまったらますみの犠牲は無駄になってしまう。
「放してよ美琴お姉さん! 」
「今は抑えてかなた君。私の事いくら恨んでも良いから」
自分の所為でなった事だ、美琴はこの先罪を背負い続ける事を覚悟していた。
「さぁ」
御使いの声で悪魔は光り輝く球体にゆっくりと手を伸ばした。そうだ、これは彼のものなのだ。触れる前からあたたかい圧力がある。ふんわりと押し返す場がある。悪魔は何度かそれを確かめた後、その輝きにとうとう触れた。
指先が弾ける、腕がめくれ上がる。それはそこだけに留まらずヒビが伝播する様に全身を駆け巡った。
激しい衝撃が体中を走り回り、視界がちらちらと何度もホワイトアウトした。なのにそれはどれ一つとっても痛みも不快も無い。総てが心地よく癒されるかの様でもあった。
ますみの魂に触れたまま悪魔はびくびくと体を震わせ身にまとっていた漆黒を次々気化させて行った。
そしてそこに残ったのは白銀に光を滲ませるすらりとした男の姿だった。
驚くべきはその背に虹色の翼があった事だ。
「……なんて事だ……」
白銀の男は呟いた。
「トゥラキエル」
御使いはそう呼んだ。
「あなたの淀みを払拭するに充分な輝きをこの娘は持っていたようです」
「トゥラ…… え? 」
かなたが悪魔の変わり様に目を丸くする。そこにはもはや禍々しさも威圧的な空気も無かった。その在り方はまるで御使いと同類であるかの様に思えた。
トゥラキエルと呼ばれた者は自分の体を見回し、そして座り込んで目を閉じているますみを見つめた。
「俺が澱ませるはずなのが、俺の方を浄化したのか…… こいつの魂が……。馬鹿な。こいつは悪魔に魂を売ったんだぞ! 」
「その通りです、だが、高潔さを失った訳では無かった。信仰から離れる事をしても自らを堕落させる事はしなかったのだ」
なんて奴だと白銀の男は漏らした。
「最後の審判の時に神の前で悪魔の為に慈悲を請うって?お前が一匹悪魔を救っちまったじゃないか……」
本気で悪魔を救いたいと思っていたのだろうか、その思いが嘘では無くしかも強かったためにこの様な事を起こしたのだろうか。ただ言える事は西野ますみの魂はエスレフェスにどうこうできる様な代物では無かったのだ。
トゥラキエルは無意識のうちにうやうやしくますみの魂に礼をしていた。そしてそれに気づいた後ゆっくりと彼女の体にそれを戻した。
すっとますみが目を開く。
「お姉ちゃん!大丈夫?俺がわかる?! 」
かなたが姉に縋り付く様に顔を近づける。
「かなた、わかりますよ。心配は要りません」
ますみがそう言うと御使いが再びますみに目を向けて言った。
「神の娘よ。あなたの罪はあなたの信仰と独り子の贖罪によって濯がれました。悔い改め、これまで同様勤しみなさい」
言葉の意味を分かりかねてますみは顔を上げた。
「恐れながらそれは一体どういった意味でしょう……」
「わからないのかよ!契約ってのはな、相手が居ないと成立しないんだよ。お前がエスレフェスと呼んでいた悪魔は居なくなってしまった。だから契約は破棄されたんだ。お前の魂はお前に返された。けっ!イーヴィスどころじゃない、全部含めて神の手の上だったって事だ! 」
白銀に輝く男の声に振り向き、ますみ不思議そうな顔をした。
「俺だ!俺!! 」
「お姉ちゃん、悪魔だよこいつ」
かなたに振り返った後、再び翼を持つ男を見て漏らす。
「イメージチェンジですか……」
「天使に戻っちまったんだよ!お前のせいで!! 」
トゥラキエルが怒鳴った。
「お…… おめでとうございます……」
「めでたくねぇよ!どの面下げて天界に行けってんだよ! 」
「トゥラキエル、我らが父はお前を赦して下さるだろう、その為に罪を償い悔い改めなさい」
トゥラキエルは言った。
「その名はやめろ!今更俺は御使いなどに戻れない……。 だが、そうだな、こいつらの魂は上等だ、狙って来る悪魔がいるかもしれない。そいつらから守る事は出来るかもな、それが贖いになるなら喜んでやってやる」
「私の?守護天使ですって? 」
ますみが目を丸くすると彼は答えた。
「何度か言ったけどよ、割と気に入ったんだぜ。お前の事をよ」
「お前まだお姉ちゃんの純潔狙って居たりしないだろうな! 」
かなたが噛みつく。
「守る側が襲ってどうすんだよ!勘繰り過ぎだ! 」
それでもかなたは不審な表情を向け続ける。
それらのやり取りを見ていた御使いは言った。
「それがあなたの、自由意志を持っての償い方なのですね」
「ああそうだ」
御使いは小さく頷いた。
「わかりました。それで、過去を捨てたあなたの今後の名は何です」
ますみの新たな守護天使は顎に手を当てた。
「そうだな…」
見上げてくるますみと目が合う。
「ああ、マスミエル……とでもしておこう」
「何ですかそれは! 」
非難の声につんざかれマスミエルは耳をふさいだ。
「なぜ私の名を入れるのです!大体エルって神様の事じゃありませんか!私と神様を並べて使うなんて恐れ多いです!今すぐ訂正しなさい! 」
「うるさいよ。もう御使いに言っちまったから取り消せねぇよ! 」
「わかりましたマスミエル。あなたの事は我々の父に伝えておきましょう」
「伝えなくてももうわかってるだろ、あの方は」
「言葉を慎みなさいエスレフェス!! 」
「俺はマスミエルだからな」
「それを訂正しなさい!! 」
御使いが唇に指先を当てるとますみはすぐに大人しくなった。
「此度の我らが父と悪魔の賭けの結果は明白になりました。あなた方の苦悩はあなた方の父の知る所です。良く成しました」
「合理的だなおい、大体成してねえだろ。こいつらは悪魔に魂まで差し出したんだぜ? 」
「マスミエルよ、無垢なる娘の守護天使よ、我らの父は愛のお方です。あなたは教会の門が何の為に開かれているのかを思い出すべきだ」
美琴は祈りの姿勢で再び涙を流した。
かなたも深々と頭を下げた。だがそこでますみは恐れながらと声を上げた。
「神様の愛の深さは海と空を合わせても敵わないと思います、そのお慈悲にすがりたい事があります」
「恐れずに言いなさい」
御使いの言葉にますみは深々と礼をすると相手を見つめて言った。
「やり方は間違っていたかもしれません、しかしあの悪魔は、イーヴィスは神様のもとに帰りたかったのではないでしょうか。その思い叶わず彼女は滅ぼされました。ですが神様の愛の下、もう一度彼女に救いを与えて頂く事は出来ないでしょうか」
「おねえちゃん、やめなよ! 」
御使いの前で悪魔の肩を持つなんて事、今の立場ですべきではないとかなたは思った。
御使いはしばし黙っていたが表情を変えずに答えた。
「悪魔は滅ぼされねばなりません。ですが、あなたの父がそれを望まれたらそうなるでしょう。すべてを決めるのは全能なる父です」
ますみはそれ以上は言わず再び深々と頭を下げた。
「子供達よ、あなた方は幸いです、信仰と向き合う機会を得たからです。良く生きなさい」
声が薄れて行くと礼拝堂を満たしていた輝きは徐々に納まりそして消えた。
今しがた起きた事の余韻を引きずってその場の者はそのままで居た。ただ一柱を除いては。
「何しに来たんだあいつは!ああ!そうか!神が勝つ為に俺を天使に戻すのが目的だったな! 」
「あなたは天使に戻りたかったのでは? 」
美琴が言う。
「それはイーヴィスだろう!俺はなぁ!…… もう良いか……。まぁ 戻れるとは思ってなかったからな俺は」
事情が深そうに思った美琴はそれ以上は尋ねなかった。神のご意志を自分がとやかく言うのは気が引けたからだ。そして今度はますみを見た。
姉弟が手を重ね合って微笑んでいる。
この二人が自分を救ってくれた。神の奇跡はこんな形でも地上に届いているのだろうか。
「かなた、姉はあなたを叱らなくてはなりませんよ? 」
「わかっているよお姉ちゃん、けど、悪魔の事相談してくれなかったのは俺傷ついているんだからね」
微笑み合いながら言う二人に守護天使は言った。
「お前らよ、そう言うの少しは恥ずかしいと思えよな」
だがここに、神を愛しながらも神の愛や人間をも愛した為が故、先人の様に出来ない者が居た。
涙に溢れたまま、怒りと悲壮、慈愛を混ぜ話合わせた表情でますみは言った。
「私の信仰心を、捧げます」
血色の悪魔のアンバランスに大きな眼がこれ以上無いと思える程に見開かれる。すぐに声が出てこない。今この少女は何と言った?
礼拝堂内を震わせて漆黒の悪魔が大笑いする。
その口を耳まで広げて顎が外れんばかりに大口を開けて。それはイーヴィスの肌に鈍い痛みを感じさせるほどに響いた。
「それよ!!それこそが悪魔が最も欲しがるものだ!! 」
強要が無いとは言え、それは限りなく脅迫に近い合意だった。
イーヴィスは今生きる指針を放棄した少女と、捨てさせた悪魔の交互に見ながら全身を粟立たせた。
これほど信心深かった者の、聖書を鵜呑みするのではなく神について真剣に考え向かい合って来た少女の、魂のみならず信仰まで引き離しただって?
「お姉ちゃん!それは駄目だ!それは駄目だよお姉ちゃん!! 」
血相を変えたかなたがますみの両肩を掴む。
「何言ってるんだよ!しっかりしてくれよ!お姉ちゃんはそんな事言わないだろ!!そんなこと言っちゃ駄目なんだよ!! 」
かなたは受け続けたストレスの余り呼吸が上手く出来なくなって来ていた。
ますみはかなたを救う為に一体どれほどのものを失うと言うのか!全部自分の所為だ、どうして最も大切な人にこんな犠牲を払わせなくてはならないのか。
「かなたと同様、これは姉のわがままです」
ますみはいつもの微笑みを向けたまま静かにそう言った。
「神様より俺を選ぶって……何だよそれ……何だよそれ……! 」
再び泣き始めてしまった弟の額に静かに口付けをした後、ますみはこれまで何度もそうして来た様に今もまた少年を抱きしめ頬ずりした。
「かなた、あなたは神様の愛そのもの、かなたこそが姉には救い。あなたを失いかけた時、それがわかったのです、あなたは姉にとって最も大切なものなのですよ」
「何だよ……!俺は……!俺はそんなんじゃない……!俺はただのお姉ちゃんの弟だよ……! 」
「かなたが弟だと言う事がそうなのですよ。他の誰かではなくかなただからですよ」
姉の腕の中でかなたは何だよ何だよと繰り返し続けた。
エスレフェスは笑うのをやめ、血色の悪魔に視線を戻した。
イーヴィスはそれだけで全身が凍り付く様な感覚を覚えた。すぐにその場を飛び退りたいのに体が全く動こうとしない。これは邪視などでは無い、西野ますみから信仰を剥がし取った事が受け入れ難く、相手に畏怖を感じてしまっているのだ。一体何柱の悪魔がこれと同等の事を成し遂げられただろう。
「小娘がブッディスト(仏教徒)じゃなくて都合が良かった。あいつらは執着は悪だと思ってるからな、高潔な魂を持ってる奴見つけても狙い損だ。優しいお姉ちゃんが大好きになりそうだぜ」
「か、考え直して…… お姉ちゃん…… 」
小さすぎる口が何とかそう声を絞り出すもそれがますみに届く事など無い事はイーヴィスにも想像がついていた。あの少女が中途半端な覚悟であんな言葉を口にする訳が無い。
だったらかなたにも信仰心を差し出してもらったらどうだ。ますみ程でなかったとしても愛する姉がずっと信仰してきたものをかなたが受け入れていないはずは無い。
「無駄だイーヴィス」
エスレフェスは言った。
イーヴィスは理解していた。どちらが勝とうがますみの魂は悪魔のものになる、ならばどちらかに加勢して意味があるものか。ここへ来て飛び付いてしまった条件が自分の勝利を失わせる結果になった事をイーヴィスは思い知った。まさかエスレフェスはここまで狡猾に事を運んでいたというのか?
もう立てる手立てが一切ない。この場の誰一人、イーヴィスを有利にする事が出来ない。
ああ、自分は負けたのだ。血色のドレスを着た女は今そう思った。
「あたしは死ぬの?あなたに殺されるの? 」
イーヴィスの小さな声にエスレフェスはそうだと答えた。
「嫌よ……。あたしは、あたしは神に倒されるのよ。最後の審判で!あたしは、あの方に殺されるのよ!! 」
最後が悲鳴に変わったその言葉にエスレフェスは違うと答えた。
「お前は今、ここで、俺に殺されるんだ」
アンバランスに大きな瞳から大粒の涙がこぼれる。
「嫌よ!あたしを殺して良いのはあの方だけよ!! 」
「おいおいイーヴィス、悪魔がビービー泣くんじゃねぇ。それに知ってるだろ? 」
そう、悪魔に情など無い。
「絶対嫌よ!! 」
イーヴィスが持っている武器をすべて振り上げる。だがそれは構える前に後方へすべて弾き飛ばされた。
「お前は俺には敵わない」
「まだよ!! 」
エスレフェスの体を雷の網が覆う、だがそれも一呼吸待たずに消えた。
イーヴィスの口が大きく開かれる。だがエスレフェスはその喉に腕を突っ込んで黙らせた。
「もう苦しめ合うのは止めようや。本来俺達は殺し合う必要は無いんだ」
イーヴィスはそのまま自分の喉に突っ込まれた腕に噛みついた。必死に牙を立てた。涙を酸に変えて焼こうともした。そしてそれらは何一つ相手に傷をつける事が出来なかった。
しばらくそのままやらせていたエスレフェスだったがやがて腕を抜いた。
「イーヴィス、お前はな、悪魔やるにはドライさに欠けてんだよ」
血色の悪魔は叱られた幼子の様な泣き顔のままそうねと漏らした。
「いいわ、あなたの勝ち。でも最後にあの方に会いたかった」
「奴はどこにでも居てどこからでも見てる、お前の事も何一つ見逃さずにな」
「そうじゃないの。あたしが会いたかったのよ」
エスレフェスは首を振った。
「エスレフェス、会わせてあげられないのですか?最後の願いくらい……」
漆黒の悪魔はますみを見る事なく答えた。
「俺はな小娘、悪魔なんだぜ?情けでホイホイ動いたりしないのよ」
イーヴィスは顔をぬぐった。
「ああ情けない!あたしは悪魔なのに。大体人間風情に同情されるなんて腹立たしい限りだわ!さぁやってちょうだい」
エスレフェスが無言で血色のドレスの女の頭に手を置くと意外にも彼女は胸の前で両手を合わせた。
その仕草がますみの胸に痛々しく突き刺さった。
一言何か言葉を掛けようとした時、イーヴィスだったものは細かい粒子となってそして声も無く消えた。
獣の猛攻を回避するために四散した時の様に再び現れる事は無かった。
礼拝堂内に張られていたイーヴィスの結界が解けて行く。奇妙な距離感だった空間が本来の現実味を取り戻して行く。焦げた床や散らばった武器なども消えて行く。そして、蚊帳の外だった美琴の姿も戻っていた。
胸の中に様々な思いが巡るますみだったが、生き残った漆黒の悪魔に良くやってくれましたと告げた。
「契約は果たした。そして西野かなたが悪魔イーヴィスに捧げたものもすべて本人の元に戻った」
巨大な獣が再び紳士の姿に戻って行く。
状況の突然の変化に美琴は戸惑っていたが、その場にあのビスクドールの様な幼い少女が居ない事で何が起こったのか察した。
「イーヴィスが…… じゃぁ私の魂は……」
その言葉に漆黒の悪魔は振り返り、相手をまっすぐ見つめて言った。
「契約は執行不能だ。お前が差し出したものはすべてお前の元に戻った」
思わず両手で口を覆うと美琴の両目から涙がこぼれた、ずっとずっと後悔していた事だ。神は自分を罰するかもしれない、だが許しを請う機会は与えられたのだ。
「それなら…… 今までイーヴィスが私に与えたものは……」
美琴の言葉に悪魔は一度眉をひそめたがしっかり相手を見て言った。
「一括で契約してしまうと魂を取り逃してもな、悪魔が一度与えたものは消え去らない……、割りが合わないんだよ。かつて何度かそれをやられてんだよ俺達は」
それならば美琴が得た旅費や父の会社の成功はそのままだと言う事になる。
逆に復讐をしてしまった企業が復活する事は無いのだ。そこで美琴ははっと息を呑んだ。
偶然とは言え、自分はますみのおかげで救われた、だがますみ自身は救われなかったのだ。それはあたかもますみを犠牲にして助かったかの様な罪悪感を感じさせた。それが顔に出たのだろうか、ますみがこちらに向くのが見えた。
「ますみさん……」
どんなに恨まれようと罵声を浴びせられ様とも反論は出来ない。なのにこの少女は弟を抱えたまま微笑んでいた。教会の前で美琴を救った時と同じ様に。
「良かったです。神様は美琴さんをまだお見捨てになっていませんね。だからこそ美琴さんを言いくるめた悪魔は打ち倒されたのです」
なんて事を言い出すんだ。自分から悪魔に魂を差し出したのに神がそれを許し救ってくれたとこの子は言うのか。
「主が…… そんな……」
ますみは小さく頷いた。
「神様のご意志無くして魂を取り戻す事なんてきっと無理です。神様は美琴さんにご期待なさっているのですよ」
息が詰まった。言葉も無く美琴は祭壇の前に走り、崩れる様に跪いて十字を切ると、心から祈りを捧げた。言葉に出来ない程の後悔と罪悪感がすべて涙となって溢れた。
「お姉ちゃんはさ…… いっつもこうだ……」
ますみの腕の中でかなたが言う。
「いっつも他人にばっかなんだよ……」
ますみは絡める腕に力を込めた。
「奇遇ですね」
「このままじゃだめだ……」
かなたはゆっくりと体を放し、美琴の傍に行った。
彼女が祈る為に手放した物がその場にあり、それはかなたが悪魔を召喚しようとしていた時の道具だった。
「おい悪魔、お前はまだ契約を果たしていないぞ」
黒い悪魔は少年に振り返る。
「何だと? 」
「お前がイーヴィスを倒す為にお姉ちゃんから供物を受け取った、イーヴィスは死んだけどその呪いは残ってる」
「あいつの呪詛など残っていない」
「そうじゃない! 」
かなたは儀式用に聖別しておいたナイフを取り上げた。そしてそこはますみとかなたを守る為に悪魔が描いた魔法円の中だった。
「イーヴィスのせいでお姉ちゃんが純潔や信仰を捧げなくちゃいけなかったってんならそうさせた俺は俺自身を許す訳には行かない」
「かなた!やめなさい! 」
ますみが青い顔で近寄ろうとするがかなたはそれを制止した。
「近づかないでお姉ちゃん、わかるでしょ?俺は本気だ」
悪魔が顔をしかめる。
「俺を脅すつもりか」
「脅しかどうかわかってるだろ?俺が死んだらお前は永遠に契約が果たせない。それは俺にとって都合が良いんだ」
再びますみが近寄ろうとするが悪魔がその肩を掴んだ。
ますみならば近寄る事が出来るかもしれないが、その結果万が一かなたが早まった真似をしてしまえばそれは契約違反になってしまう。
本来ならば別件として放置できる所だが、かなた自身の口からイーヴィスの影響である事を言われてしまっては無視する訳には行かない。
「条件は」
「わかっているだろ。お姉ちゃんの純潔と信仰心だ」
美琴は状況が呑み込めなかったが、かなたが自分の胸に刃物を向けている事だけは理解できた。
「かなた君!何をしているの! 」
「邪魔しないでよ?美琴お姉さん、俺は今、男の戦いをしているんだ」
悪魔を睨みつけたままそう言う年下の少年の姿に美琴は動く事が出来なかった。
この子は今命を懸けて悪魔と真っ向から対峙しているのだろう。自分にはそれが出来なかった。それどころかこの姉弟を巻き添えにしてしまった。
「なぁ小僧、そんな事をした所で何の得も無いだろう。約束しよう、小娘に手は出さない。お前がそこから出てきたら信仰心も返してやろう」
「嘘だね」
かなたは即答した。
「悪魔は契約以外では平気で嘘を吐く。その契約だって相手に分からない様に不利な条件を付ける事もある。お前など信じられるか! 」
悪魔はにやりとした。毎晩の様にしつこく挑んで来ただけはある。本気で悪魔を退けようと色々学んだのだろう。
「ガキの癖にわかってるじゃないか。けどよ、ガキのお前にそこまでの覚悟があるのか?刃物で死ぬってのは思うよりも痛いんだぜ?簡単には死ねないしな。血がなくなるまでの間延々と苦痛にさらされるんだぜ?ああ、文字通り偽りなく死ぬほどの痛みだ。お前に耐えられるとは思えんな」
「耐えられるかどうかは問題じゃない」
かなたの言葉に悪魔はにやけながら首を振った。
「そうか、ならやれ。俺は別にそこまで小娘の魂にこだわっている訳じゃないからな」
「いけませんかなた! 」
ますみがきつく言うがかなたは少しだけ口角を上げた。
「悪魔、お前嘘ついたな、本当にどうでも良いなら立ち去っても良いはずだ。とっとと死ねくらい煽っても良いはずだ。お前がお姉ちゃんにこだわらないならもう魂を奪えない相手の所にいつまでも居ないはずだ。お前はこだわっている、そして多分、契約は悪魔にとって俺達が思う以上に重いんだ。だから俺を放って置く事が出来ないんだ」
悪魔は舌打ちした。
「しくじったか、最初っからとっとと去っとくべきだったな」
今更興味無さそうに去った所でもうかなたにはお見通しだ。
毎晩の様にしつこく挑まれて実感しているがこの少年の姉に対する思いの強さなら本当に自決しかねない。子供だと思って甘く見過ぎていた様だ、おとぎ話には賢い子供が巨人やら悪魔やらを知恵で撃退するものがあるがエスレフェスはああいうのが大嫌いだった。これじゃ自分がそれと同じではないか。
「小僧、癪だがお前の勝ちだ、小娘の純潔も信仰も返してやる。ただし同等のものを俺に捧げろ。だが魂は駄目だ。これは正式な契約の結果だ」
「同等なもの、それはお前が俺を助けられたと言う契約達成だ」
同等であろうが無かろうが、悪魔にとって無視する訳には行かないものだろう、かなたはそう思った。
憎々し気に小僧と悪魔は漏らした。契約を達成する為に得た供物を契約を達成する為に失うとは何と言う皮肉だ。
ますみは肩を震わせていた。あんなに覚悟をして諦めたものを弟が取り返してくれる。命を張ってまで。この子はやはり救いだった。
「わかったら書面にしろ! 」
「お前の姉もそうだが、お目も相当素質あるぜ、悪魔のな」
エスレフェスは羊皮紙を取り出し書面にした。
かなたがそれを確認してようやくナイフを放すとますみが駆け寄って来る。
そして弟の名を何度も呼びながらぎゅうぎゅうと体を押し付け額をくっつけた。
弟が行った危険な事を叱りつけて二度とさせないようにしなくては、そう躾けなくては、どれほど自分が怯えていたのか伝えなくては、そう思うのにそれが行動に出ない。
「ごめんね、魂までは取り戻せなかった……」
「何を言うのです。かなた、あなたは……ああ、あなたに神様の祝福がある事を望んでやみません」
興味無さそうに二人の姿を眺めた後悪魔は言った。
「ともあれ、契約達成だ。西野ますみ、お前の魂は今、すべて俺のものとなった」
ますみは弟を放し、悪魔に向くと良くやってくれましたと答えた。
信仰心が戻った今、その罪の意識は計り知れないだろうが、それでも礼を言う律義さに悪魔は彼女らしさを見た。
その時だった。
室内であるはずの礼拝堂がなぜか強い光に溢れ出した。どこからともなく聞いた事も無い音楽が聞こえる。新たな超常現象にその場の誰もが狼狽したが悪魔以外の心はなぜか得も言われぬ幸福感に満たされた。
漆黒の悪魔は全身に焼ける様な痛みを感じ、物陰に隠れたがその光は影においても効果を失わなかった。
「お姉ちゃん……」
「大丈夫です、かなた」
二人は寄り添ったまま天井を見上げた。美琴もそれにならう様に身を起こす。
「け、何の用だよ! 」
悪魔が悪態をつく。
「子供達よ」
光の中で誰かが言った。まるでブロンズの鐘を響かせる様な声はそれぞれの耳の間、頭の中で聞こえた。
「また悪魔?! 」
かなたの言葉に声は答えた。
「幼子よ、恐れる必要はありません、私は父の御言葉を届けに降りました」
ますみと美琴がが跪いたのでかなたもそれにならった。
翼を背に持つ輝く人影が空中に現れる。
「悪魔があなた方の父に持ちかけた賭け事にあなた方は巻き込まれ、これがあなた方の試練となった。そしてあなた方はそれを乗り越える事が出来ました」
御使いに向かって悪魔は怒鳴った。
「そんなくだらない事を言う為に現れたのかよお前は!とっくに察してんだよ。とっとと去れ!うっとおしい! 」
御使いは悪魔には向かず当事者の美琴を視界に収めていた。
「恐れながら御使いに申し上げます、私は悪魔の誘惑に屈してしまいました。主に背き、この魂を捧げてしまいました」
御使いと目を合わせる事が出来ないまま美琴は祈る姿勢でそう伝えた。
「人の娘よ、あなたの魂は今誰の手にありますか。それはあなたのもので他の誰のものでもない。あなたの罪はその信仰と独り子の贖罪よって既に濯がれています。悔い改め勤しみなさい」
美琴は床に突っ伏し嗚咽した。
次に御使いはかなたに向いた。
「あなたも罪を犯しました。ですがあなたもまた同様、その罪は信仰によって濯がれるでしょう」
所がかなたは声を上げた。
「俺の!…… 私の魂が私のものであるのはお姉ちゃ…… 姉のおかげなんです!姉が取り戻してくれなければ私も、美琴さんも神様の子供ではいられませんでした」
何を言いたいのか伝わっただろうか。しかし余計な事を言って機嫌を損ねたくはない。
御使いがますみに向くと彼女はしっかりと視線を合わせていた。
「申し上げます、弟が言ったのは結果論です。悪魔から二人の魂を解放できたのは最初から意図していた事ではありません」
悪魔は呆れた。適当に取り入っておけば良いものをわざわざ自分が不利になる様に追い込んでいる。もっとも自分が魂の所有者である以上救いは無いわけだが。
「罪を認めているのですね」
「もちろんです」
一度でも自分の口から信仰を捨てると言ったますみは自分自身をまだ許していなかった。
「確かにあなたの罪は深く滅ぼされる運命にあります」
「待ってください!お姉ちゃ…… 姉は俺達を助ける為に犠牲になったも同然なんです!!そんなのって無いです!!お姉ちゃんは日頃からどれほど人の為に尽くして来たか、どれほど神様の事を慕ってやって来た事か!神様ならご存じでしょう!!そんなのって無いです!! 」
「かなた、良いのですよ、姉は……」
「良くないよ!やっぱおかしいよ……。神様なら救ってよ!お姉ちゃんを悪魔から助けてよ!! 」
かなたの必死の懇願を前にしても御使いは顔色一つ変えずに答えた。
「全能なる父は公平です正当な手続きで行われた契約に口出しする事はありません」
「当然だ」
悪魔が漏らす。
「そこで悪魔よ」
御使いがエスレフェスに向いた。意外な展開に彼は面食らう。
「お前が得た魂を手にしなさい」
「ああ?間違いなく俺の所有物だが手にするのは小娘が死んだ後だぞ。今抜いたら死ぬ恐れだって出て来るだろうが。大体契約もそうなってんだ。お前ら信者以外には容赦ないな」
「私は命じられています。しかと見届けてくる様にと。完全に抜き取ってしまう訳では無い、すぐ戻せば良い。お前がこの娘の魂を手に入れた事を私に示しなさい」
黒い悪魔は不審そうに目を細めた。それがイーヴィスと神が交わした賭けと関係があるのだろうか。イーヴィスが熱心な信者から魂を奪う事に成功はしなかったが、彼女の目論見の中でエスレフェスが別の熱心な信者から魂を得た事に意味があるのだろうか。それを確認出来たらイーヴィスの勝ちと言う事になるのだろうか。賭けの対象は美琴だったはずだ。それがますみに切り替わるなんて事は考えられない……。
「この娘は実に熱心な信者でした。契約したからと言って本当にお前のものになったのでしょうか」
「挑発するのかよ。良いぜ、見せてやる」
悪魔は物陰から出てますみの背後に立った。
かなたはピリピリしたが御使いの前である事で自分を押さえた。機嫌を損ねて姉の立場が悪くなる事を避けたかったからだ。
「小娘、座ってろ。倒れたら怪我するからな」
ますみが言われた様にすると悪魔はすっと両手を伸ばした。
少女の頭の上に透き通った球体がゆらりと浮かび上がるとそれはじわじわと存在感を増し、見る間にこの明るみの中にあっても輝きがわかる程の光を発し始めた。
ますみの頭よりもはるかに大きなそれは陽光よりも眩しいにもかからわず直視しても全く不快感を感じさせず、むしろ心安らぎ惹きつける魅力を持っていた。それを眺めているだけで心が洗われる様な、意味も無く幸福感が押し寄せて来る様な、今ならどんな者にでも優しく出来そうな、胸の中がキラキラした何かで埋め尽くされる様なそんな感動を覚えさせた。
悪魔に売り渡すと言う大罪を犯した者の魂がこんなにも美しい輝きを放つものなのかと美琴は驚愕した。
これを抜き出した当の悪魔はその光を前に驚愕していた。目の前に出してみて思った以上だったことを実感したのだ。あまりにも清らかな色合いに、触れてしまう事に恐怖さえ感じる。多かれ少なかれ悪魔と契約すると言う行為の中で魂には汚れが生じるものだ。だが今まで手に入れてきた魂の中でこれ程の純粋な状態のものは見た事が無かった。
「そうか、なんだかんだでこいつ、自分の為に願ったことは無かったな」
魂と言う高価な対価を払う以上他人の為に契約するなんて事自体がまず珍しい。そしてますみのした契約はどちらも自分以上に他人の幸いを願うものだった。
「悪魔よ。どうしたのです。恐れずに触れなさい、あなたのものです」
御使いが促す。
かなたは姉の魂の輝きに深く心を動かされながらもそれが悪魔のものになっている事が許せなかった。何故御使いはこの瞬間に取り返してくれないのだろう。
「汚い手で触るな!これはお姉ちゃんなんだぞ! 」
立ち上がったかなたを美琴が必死で抑えた。御使いを怒らせてかなたが許されなくなってしまったらますみの犠牲は無駄になってしまう。
「放してよ美琴お姉さん! 」
「今は抑えてかなた君。私の事いくら恨んでも良いから」
自分の所為でなった事だ、美琴はこの先罪を背負い続ける事を覚悟していた。
「さぁ」
御使いの声で悪魔は光り輝く球体にゆっくりと手を伸ばした。そうだ、これは彼のものなのだ。触れる前からあたたかい圧力がある。ふんわりと押し返す場がある。悪魔は何度かそれを確かめた後、その輝きにとうとう触れた。
指先が弾ける、腕がめくれ上がる。それはそこだけに留まらずヒビが伝播する様に全身を駆け巡った。
激しい衝撃が体中を走り回り、視界がちらちらと何度もホワイトアウトした。なのにそれはどれ一つとっても痛みも不快も無い。総てが心地よく癒されるかの様でもあった。
ますみの魂に触れたまま悪魔はびくびくと体を震わせ身にまとっていた漆黒を次々気化させて行った。
そしてそこに残ったのは白銀に光を滲ませるすらりとした男の姿だった。
驚くべきはその背に虹色の翼があった事だ。
「……なんて事だ……」
白銀の男は呟いた。
「トゥラキエル」
御使いはそう呼んだ。
「あなたの淀みを払拭するに充分な輝きをこの娘は持っていたようです」
「トゥラ…… え? 」
かなたが悪魔の変わり様に目を丸くする。そこにはもはや禍々しさも威圧的な空気も無かった。その在り方はまるで御使いと同類であるかの様に思えた。
トゥラキエルと呼ばれた者は自分の体を見回し、そして座り込んで目を閉じているますみを見つめた。
「俺が澱ませるはずなのが、俺の方を浄化したのか…… こいつの魂が……。馬鹿な。こいつは悪魔に魂を売ったんだぞ! 」
「その通りです、だが、高潔さを失った訳では無かった。信仰から離れる事をしても自らを堕落させる事はしなかったのだ」
なんて奴だと白銀の男は漏らした。
「最後の審判の時に神の前で悪魔の為に慈悲を請うって?お前が一匹悪魔を救っちまったじゃないか……」
本気で悪魔を救いたいと思っていたのだろうか、その思いが嘘では無くしかも強かったためにこの様な事を起こしたのだろうか。ただ言える事は西野ますみの魂はエスレフェスにどうこうできる様な代物では無かったのだ。
トゥラキエルは無意識のうちにうやうやしくますみの魂に礼をしていた。そしてそれに気づいた後ゆっくりと彼女の体にそれを戻した。
すっとますみが目を開く。
「お姉ちゃん!大丈夫?俺がわかる?! 」
かなたが姉に縋り付く様に顔を近づける。
「かなた、わかりますよ。心配は要りません」
ますみがそう言うと御使いが再びますみに目を向けて言った。
「神の娘よ。あなたの罪はあなたの信仰と独り子の贖罪によって濯がれました。悔い改め、これまで同様勤しみなさい」
言葉の意味を分かりかねてますみは顔を上げた。
「恐れながらそれは一体どういった意味でしょう……」
「わからないのかよ!契約ってのはな、相手が居ないと成立しないんだよ。お前がエスレフェスと呼んでいた悪魔は居なくなってしまった。だから契約は破棄されたんだ。お前の魂はお前に返された。けっ!イーヴィスどころじゃない、全部含めて神の手の上だったって事だ! 」
白銀に輝く男の声に振り向き、ますみ不思議そうな顔をした。
「俺だ!俺!! 」
「お姉ちゃん、悪魔だよこいつ」
かなたに振り返った後、再び翼を持つ男を見て漏らす。
「イメージチェンジですか……」
「天使に戻っちまったんだよ!お前のせいで!! 」
トゥラキエルが怒鳴った。
「お…… おめでとうございます……」
「めでたくねぇよ!どの面下げて天界に行けってんだよ! 」
「トゥラキエル、我らが父はお前を赦して下さるだろう、その為に罪を償い悔い改めなさい」
トゥラキエルは言った。
「その名はやめろ!今更俺は御使いなどに戻れない……。 だが、そうだな、こいつらの魂は上等だ、狙って来る悪魔がいるかもしれない。そいつらから守る事は出来るかもな、それが贖いになるなら喜んでやってやる」
「私の?守護天使ですって? 」
ますみが目を丸くすると彼は答えた。
「何度か言ったけどよ、割と気に入ったんだぜ。お前の事をよ」
「お前まだお姉ちゃんの純潔狙って居たりしないだろうな! 」
かなたが噛みつく。
「守る側が襲ってどうすんだよ!勘繰り過ぎだ! 」
それでもかなたは不審な表情を向け続ける。
それらのやり取りを見ていた御使いは言った。
「それがあなたの、自由意志を持っての償い方なのですね」
「ああそうだ」
御使いは小さく頷いた。
「わかりました。それで、過去を捨てたあなたの今後の名は何です」
ますみの新たな守護天使は顎に手を当てた。
「そうだな…」
見上げてくるますみと目が合う。
「ああ、マスミエル……とでもしておこう」
「何ですかそれは! 」
非難の声につんざかれマスミエルは耳をふさいだ。
「なぜ私の名を入れるのです!大体エルって神様の事じゃありませんか!私と神様を並べて使うなんて恐れ多いです!今すぐ訂正しなさい! 」
「うるさいよ。もう御使いに言っちまったから取り消せねぇよ! 」
「わかりましたマスミエル。あなたの事は我々の父に伝えておきましょう」
「伝えなくてももうわかってるだろ、あの方は」
「言葉を慎みなさいエスレフェス!! 」
「俺はマスミエルだからな」
「それを訂正しなさい!! 」
御使いが唇に指先を当てるとますみはすぐに大人しくなった。
「此度の我らが父と悪魔の賭けの結果は明白になりました。あなた方の苦悩はあなた方の父の知る所です。良く成しました」
「合理的だなおい、大体成してねえだろ。こいつらは悪魔に魂まで差し出したんだぜ? 」
「マスミエルよ、無垢なる娘の守護天使よ、我らの父は愛のお方です。あなたは教会の門が何の為に開かれているのかを思い出すべきだ」
美琴は祈りの姿勢で再び涙を流した。
かなたも深々と頭を下げた。だがそこでますみは恐れながらと声を上げた。
「神様の愛の深さは海と空を合わせても敵わないと思います、そのお慈悲にすがりたい事があります」
「恐れずに言いなさい」
御使いの言葉にますみは深々と礼をすると相手を見つめて言った。
「やり方は間違っていたかもしれません、しかしあの悪魔は、イーヴィスは神様のもとに帰りたかったのではないでしょうか。その思い叶わず彼女は滅ぼされました。ですが神様の愛の下、もう一度彼女に救いを与えて頂く事は出来ないでしょうか」
「おねえちゃん、やめなよ! 」
御使いの前で悪魔の肩を持つなんて事、今の立場ですべきではないとかなたは思った。
御使いはしばし黙っていたが表情を変えずに答えた。
「悪魔は滅ぼされねばなりません。ですが、あなたの父がそれを望まれたらそうなるでしょう。すべてを決めるのは全能なる父です」
ますみはそれ以上は言わず再び深々と頭を下げた。
「子供達よ、あなた方は幸いです、信仰と向き合う機会を得たからです。良く生きなさい」
声が薄れて行くと礼拝堂を満たしていた輝きは徐々に納まりそして消えた。
今しがた起きた事の余韻を引きずってその場の者はそのままで居た。ただ一柱を除いては。
「何しに来たんだあいつは!ああ!そうか!神が勝つ為に俺を天使に戻すのが目的だったな! 」
「あなたは天使に戻りたかったのでは? 」
美琴が言う。
「それはイーヴィスだろう!俺はなぁ!…… もう良いか……。まぁ 戻れるとは思ってなかったからな俺は」
事情が深そうに思った美琴はそれ以上は尋ねなかった。神のご意志を自分がとやかく言うのは気が引けたからだ。そして今度はますみを見た。
姉弟が手を重ね合って微笑んでいる。
この二人が自分を救ってくれた。神の奇跡はこんな形でも地上に届いているのだろうか。
「かなた、姉はあなたを叱らなくてはなりませんよ? 」
「わかっているよお姉ちゃん、けど、悪魔の事相談してくれなかったのは俺傷ついているんだからね」
微笑み合いながら言う二人に守護天使は言った。
「お前らよ、そう言うの少しは恥ずかしいと思えよな」
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宇宙飛行士の母に振り回されて疲れ果て、誰にも関わりたくないから。
けれど、図書準備室でシキガミさまと出会ってしまい……
──呼び出した人に「おかえりください」と言われなければ、シキガミさまは消えてしまう──
シキガミさまの儀式が行われた三十三年前に何があったのか。
そのヒントは、コピー本のリレー小説にあった。
探る雪乃の先にあったのは、忘れられない出会いと、彼女を見守る温かい眼差し。
礼拝堂の鐘が街に響く時、ほんとうの心を思い出す。
【不定期更新】
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
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