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召喚
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美琴は悪徳神父がますみの体から跳ね降り床に額をこすりつける様を見た。
イーヴィスの千里眼をそのまま瞼の裏に映した光景はその場にいる様に鮮明な視覚として表れていた。
ますみは何らかの契約を悪魔と交わしたのだ。
とうとうあの純粋で真っすぐな少女が悪魔の手に落ちたと思うと美琴は激しい高揚感と同時に言葉にならない深い後悔を感じた。
「お姉ちゃん、見ての通りよ。言われた通りにしたわ」
「ええ、わかってる。わかってるわイーヴィス」
これであの何の穢れも知らない様な笑顔を作る少女を、頭上に光輪を頂いていた様な高潔な娘を、自分と同じ低い所へ引きずり降ろしたのだ。
あの子の願いは詫びさせる事だったのだろうか、神父は顔を上げる事も無く大声で謝罪を続けている。美琴にとってあまり心地良い光景では無かった。
だがその予想は外れていた。
数日の後、神父は自首をし自殺まで果たした。それだけではない、彼と関係していたと思われる者が次々会見を開き、これまた自首をした。明らかに悪魔の因果が動いた結果だった。
美琴は笑った。なんだ、あんなに高潔で自分には手も届かない様に思えていた存在であっても同じ事を、つまり復讐をしたではないか!
ますみはきっと自分の通っていた教会の権威を傷つけた輩に制裁を与えたのだ。
あんな虫も殺しそうにない人物が怒りと憎しみから悪魔の力を振るった。
そうだ、追いつめられたならそうしてもおかしくない。自分は悪くなかったのだ。今の美琴にはそうとしか考える事が出来なかった。
「見て!イーヴィス!これ全部あの子がやったのよ!あの子が人を殺したのよ! 」
イーヴィスは悲し気に瞳を伏せてそうねと漏らした。
「あの人達が皆に責められたり、死んじゃったりしたのはみんなあのお姉ちゃんのせいね。可哀そう……。あのお姉ちゃんがおかしな願いをしなければみんなまだ幸せにいたはずよ。助かりたいなら他の願いでも良かったんだわ」
その言葉はそのまま美琴の胸に突き刺さった。
幼い少女の、顔に比べて大きすぎる瞳がきろっと向けられると美琴は得体の知れない何かに押しつぶされる様な感覚を覚えた。
彼女はそうは言わなかったが、あなたもそうじゃないと言われた気がした。
「でもこれであの子も地獄行きだわ、そうよ、私だけこんな目に合うなんておかしい」
「まだよお姉ちゃん。あのお姉ちゃんの魂は完全にあの悪魔の物にはなってないの。あたしとお姉ちゃんがした約束とはやり方が違うからよ」
「どういう事?! 」
イーヴィスは背格好からは想像出来ない艶のある笑みを浮かべるともっとと言った。
「もっと追い詰めなくちゃ。あのお姉ちゃんは強いの、お姉ちゃんと違って」
それは美琴の神経を逆撫でしたが、美琴の見る限りますみの心に余裕がある様には見えなかった。いつもすっと伸ばしていた背が縮んで見える。湛えている微笑みから生気が失せている。あの小さな肩には思う以上に契約の影響がのしかかっているに違いないと美琴は思った。
美琴がますみに対し、さらに因果をふかっけるべきかどうか思い悩む数日が過ぎるとイーヴィスがおかしな事を言い出した。
「呼ぼうとしたの……? 誰かしら、ああ、面白い事を始めたわ。あたしは今それどころじゃないけど」
美琴はそれがなぜかやけに気になった。
「イーヴィス、どういう事?あなたに関係ある事なの? 」
イーヴィスはないわと答えたが美琴は腑に落ちなかった。関係無いのになぜ知覚し、反応したのだろう。
「イーヴィス、本当の事を言って」
すると血色のドレスの少女は目を細めて言った。
「これからどこかのお馬鹿さんが誰かに食べられるわ。見に行くのも一興だけど、あたしはお姉ちゃんとお約束があるから」
「見せて」
意味は良く変わらなかったが何か良くない事が起こるのはわかった。それも多分異常な事でだ。
「いいわ」
契約がある以上イーヴィスは美琴の言葉には従った。赤い悪魔の千里眼が街外れの山の中を映す。人気の無い使われているのかどうかも分からない舗装もされていない十字路の真ん中で小さな少年が地面に図形を描き、その中で本を見ながら繰り返し何かをつぶやいていた。
「魔法陣? 」
美琴の言葉にイーヴィスは小首をかしげた。
「魔法陣?それは何?良く分からないけどあれは違うわ。あれは魔法円よ。まぁ何とか形にはなっているわ。問題は供物よ、あれでは納得する子はいないわ。そして対象ね、あのお兄ちゃん強ければ相手は誰でも良いと思ってる。これじゃ強い振りした弱虫がいっぱい集まってきちゃう。騙されたお兄ちゃんはお約束を取り付ける事も無く食べられちゃうでしょうね」
「あれ…… かなた君じゃない! 」
美琴の言葉にイーヴィスは微笑んだ。
「そうね」
「かなた君は何をしているの?イーヴィス! 」
イーヴィスはくすりと可愛らしく笑いを漏らした。
「お兄ちゃんは悪魔を呼ぼうとしてる。不完全で不安定で、所々間違ったやり方で。可愛いわ」
「悪魔召喚ですって!?あの子カトリックなのよ!?大体できるの?小学生なのに! 」
「お姉ちゃんにはあたしから近づいた。だからお姉ちゃんは危険が無かった。けどあのお兄ちゃんは呼び出そうとしてる。これは人間にしてみたらとっても危険な事よ。仮に成功しても魔法円から出たらたちまち命を奪われるわ。悪魔は普通人間の役に立ちたいなんて考えないもの。でもステージの低い者はそこら中に居ていつも心の隙を狙ってる。お約束を取り付ける気なんて無くて、相手を騙してお約束をした振りをしていかに相手をむさぼろうかと考えるのよ」
「つまり今かなた君がしているのは、低級な悪魔を無防備に呼び寄せているって事? 」
イーヴィスが頷く感覚が美琴に伝わった。
「あのお兄ちゃんのやってる儀式はあたしから見たら絶対に成功しないもの。成功を装って大勢の低い悪魔や悪霊が押し寄せて来る。あのお兄ちゃんを守るものは何もないわ」
「イーヴィス! 」
美琴は叫んでいた。
「だめよ。あのお兄ちゃんが……」
「駄目じゃない!かなた君の所に行くわ!今すぐ!あなたが行けば低い悪魔なんて去るのでしょ!追い散らして! 」
イーヴィスは不自然に小さな唇を一度噛んだが、いいわと答えた。
「ついて来てお姉ちゃん」
急ぐ様子もなく幼い少女は歩き出した。
「イーヴィス!急いでいるの!早く! 」
「わかっているわ。だから近道をしているの」
振り向かず歩く小さな姿を美琴は小走りに追った。
不思議だった、ものの三秒かかっただろうか、通って来た道順は確かに相応に思える長さだったはずだ、だが今ろくに疲労も無く息も荒れる事無く目の前に驚いた表情の少年がいる。
「美琴お姉さん……。なんでこんな所に……」
「かなた君、悪魔召喚なんてやめて。どうしてそんな危険な事をするの?あなたはクリスチャンでしょう? 」
「何でそれを……」
「魔法陣でしょ?これ」
イーヴィスが魔法円よと言い直す。
「何かを悪魔にさせようとしていたんでしょ? 」
かなたは眉を吊り上げた。
「お姉さんには関係ないよ。言っても信じてもらえない」
「信じるから。だから危ない事する前に教えてくれない? 」
かなたはしばらく目を背けて黙っていたが、しぶしぶと言った感じで口を開いた。
「お姉ちゃんに悪魔が憑りついているんだ。俺はずっとそいつを追い払おうと頑張って来たけど、結局手も足も出なかった……。色々試したんだけどさ、何一つ歯が立たなかったんだ。そうこうしている内に悪魔の奴お姉ちゃんに何かしたんだ。わかるんだ。お姉ちゃんの声とか歩き方とか笑い方とか、みんな違うんだ」
美琴は胸を痛めた。全部美琴の思惑から出た事だ。かなたには深い傷を幾らか癒してもらった恩を感じている、危険に合わせた引け目も感じている、それなのにこんな思いをさせている。ここまで思いつめさせている。当然だ!姉弟なのだから!
かなたの言葉の中に自分への非難が一切無いにもかかわらず美琴は激しい罵倒を受けたような気持になった。
「俺が悪いんだ!俺が!俺が悪魔をとっととやっつけられなかったから!だからお姉ちゃんはきっと…… だから俺がお姉ちゃんを救うしかないんだ! 」
この少年は姉が悪魔と契約を交わしたことを確信している、多分聞いてもいないし証拠も無いだろう、それでも彼にはわかっているのだ。そして自分の力でどうにもならないから同じものをぶつけようと考えたのだろう。
「かなた君、あなたには無理よ。悪魔を呼び出すなんて素人が簡単にできる事じゃないわ。ましてや使役するなんて不可能よ」
「不可能でもなんでもやるしかないんだ!お姉ちゃんは、俺のお姉ちゃんなんだ! 」
イーヴィスが小声を漏らす。
「ああ…… 集まっちゃった……」
不完全な儀式を中途半端に行い、しかも召喚する対象を絞っていなかった為、浮遊霊や動物霊などの低級霊、人の悪意から生まれる生霊、その他オカルト的負の存在がじわじわと辺りを取り囲んで来ていた。
それは美琴にもかなたにも見えはしなかったが、あたりの温度が急に下がったような感覚と、背筋がゾッとする不快感、そして大勢が注目する様な視線が襲い掛かってきた。
「いるの?イーヴィス」
「いるわ、いっぱい。でもあたしを怖がってる。こんなに可愛いのに失礼しちゃう」
「なんとかして」
美琴の言葉に血色の悪魔は肩をすくめていいわと答えた。
優しく握られた右手が彼女の小さな顔の前で人差し指と中指、そして親指だけがそっと前方に伸ばされる。その指先に向けて可憐な唇から吐息が漏らされた。
次の瞬間辺りを覆っていた不快のすべてが即座に払拭され、気温は元の様に戻り、肌に張り付くような緊張感は一切なくなっていた。
そうなってみてこの場が如何に不自然で危険な状態であったのかを思い知る。感覚が鈍る程にまずい状態だったのだろう。
美琴はつかつかとかなたの元に行き、地面に描かれた図形を踏み消した。
そして本と法具と思しきものの数々をその手から取り上げる。
「お願いかなた君。こんな事もうしないで。あなたは…… 私にとって……」
かなたはその言葉が聞こえていないかのように血の色のドレスを纏った幼い少女を見つめていた。
一度視線に気づいた様にあどけない驚きの表情を見せたイーヴィスだったが、少年と視線を合わせて幼い顔立ちとは不釣り合いに艶やかな微笑みをたたえた。
「君は悪魔祓いなの? 」
「かもね」
「力になってくれ」
「駄目よかなた君! 」
真剣な表情のかなたに美琴は慌てて視界を遮った。
「お姉さんどいて、俺はあの子と話をしているんだ」
美琴は膝を折り、かなたに視線を合わせた。
「あの子はだめ。危険なの」
「その方が良いよ」
かなたは美琴の腕をすり抜けイーヴィスの前までやって来た。
「報酬は? 」
「ごめんねお兄ちゃん、今あたしはこのお姉ちゃんとお約束をしているの。それが済むまでは誰かの力にはなれないわ」
「合間なら良いだろ? 」
かなたは一歩も引かないと言う様にそのゾッとするほど大きな瞳を覗き込んだ。
「お姉ちゃんのお願いと競合すると困るのよ」
「美琴お姉さんの頼み優先で良い、俺が頼みたい事は一つだけだ」
「イーヴィス、駄目よ」
美琴が念を押す。
「イーヴィスって言うんだね、お姉さんへの仕事が開いている時にだけでも力を貸してくれないか」
言いながらかなたは不自然な危機感を感じていた。この少女は何か危うい、関わるのは良くないと頭の中で警報が大音量で鳴っている。見つめ合っているこの瞳が底知れぬ脅威を感じさせる。それでもかなたはこれしか無いと確信していた。
必死に相手を見つめるかなたの視線を美琴が再び遮った。少年の前にしゃがみ、両肩を掴んで見つめる。
「駄目なのかなた君!かなた君はこの子と関わっちゃ駄目!取り返しがつかないのよ!子供が決めて良い事ではないの! 」
ますみに良く似た眼差しでかなたは美琴を見つめ返した。
「お姉さんはイーヴィスに何かお願いした事を後悔しているんだね。今は俺には払えるだけのお金はないかもしれない、一生背負う様な額かもしれない、それでも今それを払う事を決めなければそれ以上の後悔をするんだ」
「駄目よかなた君!絶対に駄目!これだけは許すわけにはいかないわ。あなたはわかっていないのよ! 」
「お姉ちゃんを悪魔に渡す事より後悔する事があるかよ!! 」
子供とは思えない圧力を持った怒声が美琴の心身を震わせた。
「俺は絶対に渡さない、お姉ちゃんだけは悪魔なんかに渡すもんか!! 」
かなたの肩を掴む両手がゆっくり滑り降りて、そしてようやくその手首の辺りで再び掴んだ。
「かなた君、良く聞いて。あの子は、イーヴィスはね?…… あなたの嫌悪する悪魔なの。イーヴィスに何かを頼むって事は契約をするという事、魂を差し出すと言う事なのよ」
かなたは一度目を見開いて良く出来た美術品の様に微笑む悪魔と美琴の顔を何度か見比べた。そしてその後悲し気に微笑んだ。
「美琴お姉さん、心配してくれてありがとう。俺、美琴お姉さんの事好きだよ。俺のお姉ちゃんが悪い人を連れて来る事は無いからね。ただね、今の言葉で俺はむしろ前向きになれたよ。あいつ、悪魔なんだね。俺はそれを呼び出していたんだ」
美琴は息を呑みこんだ。
「あいつならお姉ちゃんに憑りついた悪魔をやっつけられるかもしれない」
「駄目よかなた君、あなた何を言っているか分かっているの?私がどんな思いで言っているか分からないの? 」
「お姉さんは実際契約しちゃって、それで後悔しているんでしょ?だから止めてくれているんでしょ?俺もそんな事しちゃったら神様から見放されちゃうって。良いんだよ。神様はあんなに信心深いお姉ちゃんを助けてくれなかった。そんな神様俺は好きじゃないからね」
イーヴィスがくすりと微笑んだ。
「健気で可愛いお兄ちゃん。あたし優しい人は大好きよ」
美琴はかなたを見つめたまま言った。
「イーヴィス、ますみさんに憑りついている悪魔を追い払って」
イーヴィスは小さくかぶりを振った。
「それは駄目よ。まだ交わしたお約束が完了していないわ。完全にあのお姉ちゃんの魂があの悪魔の物になるまでは邪魔は出来ない」
今の言葉でかなたは理解した。そしてその視線は美琴に向けられた。
美琴は目を合わせる事が出来ず下唇を噛んだ。
どんな罵声を浴びせられても反論出来ない。かなたの怒りも憎しみも正当なものだ。掴んでいる相手の手首に力がこもるのを美琴は感じた。その微かな震えを鞭打たれる思いで美琴は耐えた。
「美琴お姉さん…… なんで……? 」
かなたの声は目に見えてめいっぱい抑えられ、そして震えていた。美琴は何も言う事が出来ずに地面を見つめていた。そうして灼熱の様な沈黙が流れ続けた。時折小さな歯ぎしりの音が響いたり、強めの息吹が風音の中に混じったりしていた。次の言葉が紡がれるまでの時間、美琴は地獄で焼かれるとはこう言う事なのだろうかと考えた。
「良いよ、もうそれは良い、良くないけど良い事にする。今大事なのはお姉さんを責める事じゃない。お姉ちゃんを助ける事だから」
かなたの怒りは尋常ではないはずだ、それは握っている手首からすべて伝わって来る。鼓膜が痛くなる様な張り詰めた空気が伝えて来る。小学生でここまで激しい怒りを覚え、かつそれを必死で抑え込むなんて並の精神力では無いだろう。絶叫して美琴の首を絞めてもおかしくない状況であるのにそれでもかなたは理性を繋ぎ止めようとしていた。目的を見失うものかと言う気迫がそこにあった。それほどまでにかなたが現状の姉に向ける思いは大きかったのだ。
「イーヴィス、俺の魂を全部やるよ。だからお姉ちゃんの魂を奪う悪魔をやっつけろ」
「かなた君! 」
美琴は再びかなたを見つめた。
「お姉さんにそれを言う資格はないよ。そうでしょ? 」
かなたは美琴と目を合わさずにそう答えた。
「お兄ちゃん、さっきも言ったけどお兄ちゃんのお姉ちゃんの魂が完全にあの黒い悪魔の物になるまであたしは手出しできないのよ」
「ならその瞬間!あの悪魔が逃げる前にやっつけろ!絶対逃がすな! 」
イーヴィスは長いまつ毛で縁取られたそのゾッとするほど大きな両眼でじっとかなたの目を見つめた。
「前から思っていたの。ああ…… やっぱり綺麗。あのお姉ちゃんに負けないくらいに」
大きかった悪魔の瞳がさらに見開かれる。
「……いいわ」
かなたの視界を遮る様に羊皮紙が現れる。見た事の無い文字が並んでいたがかなたにはそれがひらがなを読むよりもすっきり理解できた。
「そこにお名前を書いて。それがお約束の証」
浮いている羽ペンを掴むかなたの腕を美琴は再び両手で掴んだ。
年上の少女が悲壮な面持ちでかぶりを振る。だがかなたはその手をゆっくりと放させ、力いっぱい署名をした。ペン先から溢れた深紅の雫が飛び散り書面にも地面にもいくつも染みを作った。
それを観止めた美琴は肩を落としてぽろぽろと涙をこぼした。
そうだ、この姉弟をこんな目に合わせたのはすべて自分なのだ。
「私のせいで……」
「そう、お姉ちゃんのせいでお兄ちゃんはあたしとお約束をしたの」
イーヴィスは悲し気に目を伏せ口元を覆った。
「美琴お姉さん、俺は今はお姉さんを許せないかもしれない、でもお姉さんが来てくれたおかげでお姉ちゃんを助けられるかもしれない。それならチャラで良いよ」
「何を言うの、あなたは……主の祝福を受けられなくなったのよ? 」
「そうかもしれないけどさ、それなら俺はもう誰よりも特別沢山受けて来たからね、充分すぎるくらいに。だから恩を返さなくちゃ」
かなたの物言いに美琴は肩を震わせた。
「お姉さんを愛しているのね」
そんな言葉では及ばない気持ちなのだろうと美琴は思ったが、他に語彙が思いつかなかった。
「違うよお姉さん、お姉ちゃんが俺を愛してくれているんだ、だから俺は応えられるんだよ。俺はお姉ちゃんを悪魔の物になんかさせない。お姉ちゃんは進んで悪魔に魂を渡す様な事はしない、きっと騙されるとか何かどうしてもそうするしかない様に強いられたんだ。神様だってお目こぼしせざるを得ないような事さ。大体お姉ちゃんは誰よりも真摯に神様の事を考えて大勢の人を愛して力になっているんだ。こんなだまし討ちなんかで天の国に入る権利を奪われてたまるか! 」
美琴は喉を詰まらせつつゆっくり言った。
「そうね、ますみさんはきっと誰よりも神に忠実なしもべだと思うわ」
その言葉を聞くとかなたは少し黙り、そして小さく首を振った。
「お姉ちゃんは神様に忠実な訳じゃないよ」
美琴は意味が呑み込めなかった。
「お姉ちゃんは神様の言いなりなんかじゃない」
「ええ、わかっているわ。自由意志でしょ?自分の意思で神様に従っているのよね」
かなたは少し考えた後どうかなと漏らした。
「お姉ちゃんはね、多分今でも怒ってる、でもとっても優しくて心が大きいんだ。どんなに腹の立つ事でも、どんなに耐えがたい事でも必死に赦そうとするんだ。神様の教えでもあるんだけどね……、だからお姉ちゃんは必死になって神様を赦そうとしている。神様のなさった事を赦す為に神様に従順であろうとしているんだ。神様の言い分を理解して、いろんな理不尽や許し難いこの世界の現状を分かろうとしているんだ。お姉ちゃんの信仰は本物だけど、それは提示されたものに満足しているんじゃない。施しや与えられる喜びに心から感謝しながら、理不尽や不幸を必死に赦しながら、能動的に神様を愛そうと努力しているんだよ」
神様を赦す、美琴には全く無い発想だった。赦してもらうのは自分の方であって、神は善そのものだと言うのが美琴の考えであり、神学で学んだ事だった。恐れ多い発想で、しかし斬新に思えた。
「本当に優しいから心から怒れるんだよ。お姉ちゃんはきっと神様より人間を理解しようとしてる、そうしない神様に怒っていて、そして赦そうとしているんだ」
「毎朝ミサに通うのはその為? 」
かなたは半分はねと答えた。
「もちろんその為でもあるよ。でもそれは半分。お姉ちゃんはね、俺がいるから誰にも甘えられないんだ。俺が他所から片親だから出来が悪いなんて言わせない為に俺の前で立派なお手本を見せて、本人も俺が馬鹿にされない為に立派な委員長でいなくてはならなかったんだよ。俺だったら多分そんな真似できない……。でもお姉ちゃんはそれをこなしているんだ。そんなお姉ちゃんがね、唯一気を緩めて甘える事が出来るのが教会だったんだ。前の神父様から聞いた事があるんだ。教会は天の国に行ったお母さんの居る所、神様の家で、そしてお母さんの家だったんだ。お父さんは忙しくて家にあまりいないし、お姉ちゃんは子供なのにそこでしか甘えられる相手に会えなかったんだよ」
美琴は朝のミサにかなたが居なかった訳を理解した。
この少年は自分が居れば姉が母親に甘える事が出来ない事を理解していたのだ。
だからますみが教会に行く時はあえて傍から離れていたのだ。
ますみは母への思いもあって神や天の国について知ろうと思ったのだろうか、本気で神やその教えを理解しようとした結果美琴よりも一歩踏み込んだ考えを持つようになったのだろうか。
信仰とはもしかして受け入れる事だけではなく問いかける事でもあるのだろうか。
「お姉ちゃんは口にはしないけどお母さんの事をとっても慕っていて、そして会いたがってる。天の国に憧れるのはきっと神様の傍に行きたいからじゃない、お母さんに会いたいからなんだ。俺はそれを悪魔なんかに邪魔させない。お姉ちゃんは俺が必ずお母さんの所へ行かせる」
何と言う事をしてしまったのだろう。
かなたの話を聞けば聞く程美琴は自分の行った事の重さを思い知った。
こんなに健気な姉弟の純粋な気持ちをくだらない嫉妬で穢してしまった。
なぜこんな純粋な少年の魂が犠牲にならなくてはならなかったのだろうか。
美琴は自分の心の醜さに絶望し、体が冷えて行くのを感じた。
「ああ、今覗いていたのだけど、お兄ちゃんのお願いが叶いそうよ。急いだ方がいいわ」
イーヴィスが促した。
「ますみさんが最後の願いを? 」
「そうよ。悪魔と付き合う事にうんざりしたみたい。お兄ちゃんが早くそうなって欲しいと思った因果もあるかもしれないわ」
「イーヴィス、また近道を通らせて! 」
美琴が言うと血色の悪魔は小さく頷いた。
「あのお姉ちゃんの所に行くのね」
ビスクドールの様な姿をした小柄な少女は二人に背を向けゆっくり歩きだした。
かなたの小さな背中がそれを追うのを見ると美琴はなんてものを背負わせてしまったのかと吐き気さえ覚えた。
イーヴィスの千里眼をそのまま瞼の裏に映した光景はその場にいる様に鮮明な視覚として表れていた。
ますみは何らかの契約を悪魔と交わしたのだ。
とうとうあの純粋で真っすぐな少女が悪魔の手に落ちたと思うと美琴は激しい高揚感と同時に言葉にならない深い後悔を感じた。
「お姉ちゃん、見ての通りよ。言われた通りにしたわ」
「ええ、わかってる。わかってるわイーヴィス」
これであの何の穢れも知らない様な笑顔を作る少女を、頭上に光輪を頂いていた様な高潔な娘を、自分と同じ低い所へ引きずり降ろしたのだ。
あの子の願いは詫びさせる事だったのだろうか、神父は顔を上げる事も無く大声で謝罪を続けている。美琴にとってあまり心地良い光景では無かった。
だがその予想は外れていた。
数日の後、神父は自首をし自殺まで果たした。それだけではない、彼と関係していたと思われる者が次々会見を開き、これまた自首をした。明らかに悪魔の因果が動いた結果だった。
美琴は笑った。なんだ、あんなに高潔で自分には手も届かない様に思えていた存在であっても同じ事を、つまり復讐をしたではないか!
ますみはきっと自分の通っていた教会の権威を傷つけた輩に制裁を与えたのだ。
あんな虫も殺しそうにない人物が怒りと憎しみから悪魔の力を振るった。
そうだ、追いつめられたならそうしてもおかしくない。自分は悪くなかったのだ。今の美琴にはそうとしか考える事が出来なかった。
「見て!イーヴィス!これ全部あの子がやったのよ!あの子が人を殺したのよ! 」
イーヴィスは悲し気に瞳を伏せてそうねと漏らした。
「あの人達が皆に責められたり、死んじゃったりしたのはみんなあのお姉ちゃんのせいね。可哀そう……。あのお姉ちゃんがおかしな願いをしなければみんなまだ幸せにいたはずよ。助かりたいなら他の願いでも良かったんだわ」
その言葉はそのまま美琴の胸に突き刺さった。
幼い少女の、顔に比べて大きすぎる瞳がきろっと向けられると美琴は得体の知れない何かに押しつぶされる様な感覚を覚えた。
彼女はそうは言わなかったが、あなたもそうじゃないと言われた気がした。
「でもこれであの子も地獄行きだわ、そうよ、私だけこんな目に合うなんておかしい」
「まだよお姉ちゃん。あのお姉ちゃんの魂は完全にあの悪魔の物にはなってないの。あたしとお姉ちゃんがした約束とはやり方が違うからよ」
「どういう事?! 」
イーヴィスは背格好からは想像出来ない艶のある笑みを浮かべるともっとと言った。
「もっと追い詰めなくちゃ。あのお姉ちゃんは強いの、お姉ちゃんと違って」
それは美琴の神経を逆撫でしたが、美琴の見る限りますみの心に余裕がある様には見えなかった。いつもすっと伸ばしていた背が縮んで見える。湛えている微笑みから生気が失せている。あの小さな肩には思う以上に契約の影響がのしかかっているに違いないと美琴は思った。
美琴がますみに対し、さらに因果をふかっけるべきかどうか思い悩む数日が過ぎるとイーヴィスがおかしな事を言い出した。
「呼ぼうとしたの……? 誰かしら、ああ、面白い事を始めたわ。あたしは今それどころじゃないけど」
美琴はそれがなぜかやけに気になった。
「イーヴィス、どういう事?あなたに関係ある事なの? 」
イーヴィスはないわと答えたが美琴は腑に落ちなかった。関係無いのになぜ知覚し、反応したのだろう。
「イーヴィス、本当の事を言って」
すると血色のドレスの少女は目を細めて言った。
「これからどこかのお馬鹿さんが誰かに食べられるわ。見に行くのも一興だけど、あたしはお姉ちゃんとお約束があるから」
「見せて」
意味は良く変わらなかったが何か良くない事が起こるのはわかった。それも多分異常な事でだ。
「いいわ」
契約がある以上イーヴィスは美琴の言葉には従った。赤い悪魔の千里眼が街外れの山の中を映す。人気の無い使われているのかどうかも分からない舗装もされていない十字路の真ん中で小さな少年が地面に図形を描き、その中で本を見ながら繰り返し何かをつぶやいていた。
「魔法陣? 」
美琴の言葉にイーヴィスは小首をかしげた。
「魔法陣?それは何?良く分からないけどあれは違うわ。あれは魔法円よ。まぁ何とか形にはなっているわ。問題は供物よ、あれでは納得する子はいないわ。そして対象ね、あのお兄ちゃん強ければ相手は誰でも良いと思ってる。これじゃ強い振りした弱虫がいっぱい集まってきちゃう。騙されたお兄ちゃんはお約束を取り付ける事も無く食べられちゃうでしょうね」
「あれ…… かなた君じゃない! 」
美琴の言葉にイーヴィスは微笑んだ。
「そうね」
「かなた君は何をしているの?イーヴィス! 」
イーヴィスはくすりと可愛らしく笑いを漏らした。
「お兄ちゃんは悪魔を呼ぼうとしてる。不完全で不安定で、所々間違ったやり方で。可愛いわ」
「悪魔召喚ですって!?あの子カトリックなのよ!?大体できるの?小学生なのに! 」
「お姉ちゃんにはあたしから近づいた。だからお姉ちゃんは危険が無かった。けどあのお兄ちゃんは呼び出そうとしてる。これは人間にしてみたらとっても危険な事よ。仮に成功しても魔法円から出たらたちまち命を奪われるわ。悪魔は普通人間の役に立ちたいなんて考えないもの。でもステージの低い者はそこら中に居ていつも心の隙を狙ってる。お約束を取り付ける気なんて無くて、相手を騙してお約束をした振りをしていかに相手をむさぼろうかと考えるのよ」
「つまり今かなた君がしているのは、低級な悪魔を無防備に呼び寄せているって事? 」
イーヴィスが頷く感覚が美琴に伝わった。
「あのお兄ちゃんのやってる儀式はあたしから見たら絶対に成功しないもの。成功を装って大勢の低い悪魔や悪霊が押し寄せて来る。あのお兄ちゃんを守るものは何もないわ」
「イーヴィス! 」
美琴は叫んでいた。
「だめよ。あのお兄ちゃんが……」
「駄目じゃない!かなた君の所に行くわ!今すぐ!あなたが行けば低い悪魔なんて去るのでしょ!追い散らして! 」
イーヴィスは不自然に小さな唇を一度噛んだが、いいわと答えた。
「ついて来てお姉ちゃん」
急ぐ様子もなく幼い少女は歩き出した。
「イーヴィス!急いでいるの!早く! 」
「わかっているわ。だから近道をしているの」
振り向かず歩く小さな姿を美琴は小走りに追った。
不思議だった、ものの三秒かかっただろうか、通って来た道順は確かに相応に思える長さだったはずだ、だが今ろくに疲労も無く息も荒れる事無く目の前に驚いた表情の少年がいる。
「美琴お姉さん……。なんでこんな所に……」
「かなた君、悪魔召喚なんてやめて。どうしてそんな危険な事をするの?あなたはクリスチャンでしょう? 」
「何でそれを……」
「魔法陣でしょ?これ」
イーヴィスが魔法円よと言い直す。
「何かを悪魔にさせようとしていたんでしょ? 」
かなたは眉を吊り上げた。
「お姉さんには関係ないよ。言っても信じてもらえない」
「信じるから。だから危ない事する前に教えてくれない? 」
かなたはしばらく目を背けて黙っていたが、しぶしぶと言った感じで口を開いた。
「お姉ちゃんに悪魔が憑りついているんだ。俺はずっとそいつを追い払おうと頑張って来たけど、結局手も足も出なかった……。色々試したんだけどさ、何一つ歯が立たなかったんだ。そうこうしている内に悪魔の奴お姉ちゃんに何かしたんだ。わかるんだ。お姉ちゃんの声とか歩き方とか笑い方とか、みんな違うんだ」
美琴は胸を痛めた。全部美琴の思惑から出た事だ。かなたには深い傷を幾らか癒してもらった恩を感じている、危険に合わせた引け目も感じている、それなのにこんな思いをさせている。ここまで思いつめさせている。当然だ!姉弟なのだから!
かなたの言葉の中に自分への非難が一切無いにもかかわらず美琴は激しい罵倒を受けたような気持になった。
「俺が悪いんだ!俺が!俺が悪魔をとっととやっつけられなかったから!だからお姉ちゃんはきっと…… だから俺がお姉ちゃんを救うしかないんだ! 」
この少年は姉が悪魔と契約を交わしたことを確信している、多分聞いてもいないし証拠も無いだろう、それでも彼にはわかっているのだ。そして自分の力でどうにもならないから同じものをぶつけようと考えたのだろう。
「かなた君、あなたには無理よ。悪魔を呼び出すなんて素人が簡単にできる事じゃないわ。ましてや使役するなんて不可能よ」
「不可能でもなんでもやるしかないんだ!お姉ちゃんは、俺のお姉ちゃんなんだ! 」
イーヴィスが小声を漏らす。
「ああ…… 集まっちゃった……」
不完全な儀式を中途半端に行い、しかも召喚する対象を絞っていなかった為、浮遊霊や動物霊などの低級霊、人の悪意から生まれる生霊、その他オカルト的負の存在がじわじわと辺りを取り囲んで来ていた。
それは美琴にもかなたにも見えはしなかったが、あたりの温度が急に下がったような感覚と、背筋がゾッとする不快感、そして大勢が注目する様な視線が襲い掛かってきた。
「いるの?イーヴィス」
「いるわ、いっぱい。でもあたしを怖がってる。こんなに可愛いのに失礼しちゃう」
「なんとかして」
美琴の言葉に血色の悪魔は肩をすくめていいわと答えた。
優しく握られた右手が彼女の小さな顔の前で人差し指と中指、そして親指だけがそっと前方に伸ばされる。その指先に向けて可憐な唇から吐息が漏らされた。
次の瞬間辺りを覆っていた不快のすべてが即座に払拭され、気温は元の様に戻り、肌に張り付くような緊張感は一切なくなっていた。
そうなってみてこの場が如何に不自然で危険な状態であったのかを思い知る。感覚が鈍る程にまずい状態だったのだろう。
美琴はつかつかとかなたの元に行き、地面に描かれた図形を踏み消した。
そして本と法具と思しきものの数々をその手から取り上げる。
「お願いかなた君。こんな事もうしないで。あなたは…… 私にとって……」
かなたはその言葉が聞こえていないかのように血の色のドレスを纏った幼い少女を見つめていた。
一度視線に気づいた様にあどけない驚きの表情を見せたイーヴィスだったが、少年と視線を合わせて幼い顔立ちとは不釣り合いに艶やかな微笑みをたたえた。
「君は悪魔祓いなの? 」
「かもね」
「力になってくれ」
「駄目よかなた君! 」
真剣な表情のかなたに美琴は慌てて視界を遮った。
「お姉さんどいて、俺はあの子と話をしているんだ」
美琴は膝を折り、かなたに視線を合わせた。
「あの子はだめ。危険なの」
「その方が良いよ」
かなたは美琴の腕をすり抜けイーヴィスの前までやって来た。
「報酬は? 」
「ごめんねお兄ちゃん、今あたしはこのお姉ちゃんとお約束をしているの。それが済むまでは誰かの力にはなれないわ」
「合間なら良いだろ? 」
かなたは一歩も引かないと言う様にそのゾッとするほど大きな瞳を覗き込んだ。
「お姉ちゃんのお願いと競合すると困るのよ」
「美琴お姉さんの頼み優先で良い、俺が頼みたい事は一つだけだ」
「イーヴィス、駄目よ」
美琴が念を押す。
「イーヴィスって言うんだね、お姉さんへの仕事が開いている時にだけでも力を貸してくれないか」
言いながらかなたは不自然な危機感を感じていた。この少女は何か危うい、関わるのは良くないと頭の中で警報が大音量で鳴っている。見つめ合っているこの瞳が底知れぬ脅威を感じさせる。それでもかなたはこれしか無いと確信していた。
必死に相手を見つめるかなたの視線を美琴が再び遮った。少年の前にしゃがみ、両肩を掴んで見つめる。
「駄目なのかなた君!かなた君はこの子と関わっちゃ駄目!取り返しがつかないのよ!子供が決めて良い事ではないの! 」
ますみに良く似た眼差しでかなたは美琴を見つめ返した。
「お姉さんはイーヴィスに何かお願いした事を後悔しているんだね。今は俺には払えるだけのお金はないかもしれない、一生背負う様な額かもしれない、それでも今それを払う事を決めなければそれ以上の後悔をするんだ」
「駄目よかなた君!絶対に駄目!これだけは許すわけにはいかないわ。あなたはわかっていないのよ! 」
「お姉ちゃんを悪魔に渡す事より後悔する事があるかよ!! 」
子供とは思えない圧力を持った怒声が美琴の心身を震わせた。
「俺は絶対に渡さない、お姉ちゃんだけは悪魔なんかに渡すもんか!! 」
かなたの肩を掴む両手がゆっくり滑り降りて、そしてようやくその手首の辺りで再び掴んだ。
「かなた君、良く聞いて。あの子は、イーヴィスはね?…… あなたの嫌悪する悪魔なの。イーヴィスに何かを頼むって事は契約をするという事、魂を差し出すと言う事なのよ」
かなたは一度目を見開いて良く出来た美術品の様に微笑む悪魔と美琴の顔を何度か見比べた。そしてその後悲し気に微笑んだ。
「美琴お姉さん、心配してくれてありがとう。俺、美琴お姉さんの事好きだよ。俺のお姉ちゃんが悪い人を連れて来る事は無いからね。ただね、今の言葉で俺はむしろ前向きになれたよ。あいつ、悪魔なんだね。俺はそれを呼び出していたんだ」
美琴は息を呑みこんだ。
「あいつならお姉ちゃんに憑りついた悪魔をやっつけられるかもしれない」
「駄目よかなた君、あなた何を言っているか分かっているの?私がどんな思いで言っているか分からないの? 」
「お姉さんは実際契約しちゃって、それで後悔しているんでしょ?だから止めてくれているんでしょ?俺もそんな事しちゃったら神様から見放されちゃうって。良いんだよ。神様はあんなに信心深いお姉ちゃんを助けてくれなかった。そんな神様俺は好きじゃないからね」
イーヴィスがくすりと微笑んだ。
「健気で可愛いお兄ちゃん。あたし優しい人は大好きよ」
美琴はかなたを見つめたまま言った。
「イーヴィス、ますみさんに憑りついている悪魔を追い払って」
イーヴィスは小さくかぶりを振った。
「それは駄目よ。まだ交わしたお約束が完了していないわ。完全にあのお姉ちゃんの魂があの悪魔の物になるまでは邪魔は出来ない」
今の言葉でかなたは理解した。そしてその視線は美琴に向けられた。
美琴は目を合わせる事が出来ず下唇を噛んだ。
どんな罵声を浴びせられても反論出来ない。かなたの怒りも憎しみも正当なものだ。掴んでいる相手の手首に力がこもるのを美琴は感じた。その微かな震えを鞭打たれる思いで美琴は耐えた。
「美琴お姉さん…… なんで……? 」
かなたの声は目に見えてめいっぱい抑えられ、そして震えていた。美琴は何も言う事が出来ずに地面を見つめていた。そうして灼熱の様な沈黙が流れ続けた。時折小さな歯ぎしりの音が響いたり、強めの息吹が風音の中に混じったりしていた。次の言葉が紡がれるまでの時間、美琴は地獄で焼かれるとはこう言う事なのだろうかと考えた。
「良いよ、もうそれは良い、良くないけど良い事にする。今大事なのはお姉さんを責める事じゃない。お姉ちゃんを助ける事だから」
かなたの怒りは尋常ではないはずだ、それは握っている手首からすべて伝わって来る。鼓膜が痛くなる様な張り詰めた空気が伝えて来る。小学生でここまで激しい怒りを覚え、かつそれを必死で抑え込むなんて並の精神力では無いだろう。絶叫して美琴の首を絞めてもおかしくない状況であるのにそれでもかなたは理性を繋ぎ止めようとしていた。目的を見失うものかと言う気迫がそこにあった。それほどまでにかなたが現状の姉に向ける思いは大きかったのだ。
「イーヴィス、俺の魂を全部やるよ。だからお姉ちゃんの魂を奪う悪魔をやっつけろ」
「かなた君! 」
美琴は再びかなたを見つめた。
「お姉さんにそれを言う資格はないよ。そうでしょ? 」
かなたは美琴と目を合わさずにそう答えた。
「お兄ちゃん、さっきも言ったけどお兄ちゃんのお姉ちゃんの魂が完全にあの黒い悪魔の物になるまであたしは手出しできないのよ」
「ならその瞬間!あの悪魔が逃げる前にやっつけろ!絶対逃がすな! 」
イーヴィスは長いまつ毛で縁取られたそのゾッとするほど大きな両眼でじっとかなたの目を見つめた。
「前から思っていたの。ああ…… やっぱり綺麗。あのお姉ちゃんに負けないくらいに」
大きかった悪魔の瞳がさらに見開かれる。
「……いいわ」
かなたの視界を遮る様に羊皮紙が現れる。見た事の無い文字が並んでいたがかなたにはそれがひらがなを読むよりもすっきり理解できた。
「そこにお名前を書いて。それがお約束の証」
浮いている羽ペンを掴むかなたの腕を美琴は再び両手で掴んだ。
年上の少女が悲壮な面持ちでかぶりを振る。だがかなたはその手をゆっくりと放させ、力いっぱい署名をした。ペン先から溢れた深紅の雫が飛び散り書面にも地面にもいくつも染みを作った。
それを観止めた美琴は肩を落としてぽろぽろと涙をこぼした。
そうだ、この姉弟をこんな目に合わせたのはすべて自分なのだ。
「私のせいで……」
「そう、お姉ちゃんのせいでお兄ちゃんはあたしとお約束をしたの」
イーヴィスは悲し気に目を伏せ口元を覆った。
「美琴お姉さん、俺は今はお姉さんを許せないかもしれない、でもお姉さんが来てくれたおかげでお姉ちゃんを助けられるかもしれない。それならチャラで良いよ」
「何を言うの、あなたは……主の祝福を受けられなくなったのよ? 」
「そうかもしれないけどさ、それなら俺はもう誰よりも特別沢山受けて来たからね、充分すぎるくらいに。だから恩を返さなくちゃ」
かなたの物言いに美琴は肩を震わせた。
「お姉さんを愛しているのね」
そんな言葉では及ばない気持ちなのだろうと美琴は思ったが、他に語彙が思いつかなかった。
「違うよお姉さん、お姉ちゃんが俺を愛してくれているんだ、だから俺は応えられるんだよ。俺はお姉ちゃんを悪魔の物になんかさせない。お姉ちゃんは進んで悪魔に魂を渡す様な事はしない、きっと騙されるとか何かどうしてもそうするしかない様に強いられたんだ。神様だってお目こぼしせざるを得ないような事さ。大体お姉ちゃんは誰よりも真摯に神様の事を考えて大勢の人を愛して力になっているんだ。こんなだまし討ちなんかで天の国に入る権利を奪われてたまるか! 」
美琴は喉を詰まらせつつゆっくり言った。
「そうね、ますみさんはきっと誰よりも神に忠実なしもべだと思うわ」
その言葉を聞くとかなたは少し黙り、そして小さく首を振った。
「お姉ちゃんは神様に忠実な訳じゃないよ」
美琴は意味が呑み込めなかった。
「お姉ちゃんは神様の言いなりなんかじゃない」
「ええ、わかっているわ。自由意志でしょ?自分の意思で神様に従っているのよね」
かなたは少し考えた後どうかなと漏らした。
「お姉ちゃんはね、多分今でも怒ってる、でもとっても優しくて心が大きいんだ。どんなに腹の立つ事でも、どんなに耐えがたい事でも必死に赦そうとするんだ。神様の教えでもあるんだけどね……、だからお姉ちゃんは必死になって神様を赦そうとしている。神様のなさった事を赦す為に神様に従順であろうとしているんだ。神様の言い分を理解して、いろんな理不尽や許し難いこの世界の現状を分かろうとしているんだ。お姉ちゃんの信仰は本物だけど、それは提示されたものに満足しているんじゃない。施しや与えられる喜びに心から感謝しながら、理不尽や不幸を必死に赦しながら、能動的に神様を愛そうと努力しているんだよ」
神様を赦す、美琴には全く無い発想だった。赦してもらうのは自分の方であって、神は善そのものだと言うのが美琴の考えであり、神学で学んだ事だった。恐れ多い発想で、しかし斬新に思えた。
「本当に優しいから心から怒れるんだよ。お姉ちゃんはきっと神様より人間を理解しようとしてる、そうしない神様に怒っていて、そして赦そうとしているんだ」
「毎朝ミサに通うのはその為? 」
かなたは半分はねと答えた。
「もちろんその為でもあるよ。でもそれは半分。お姉ちゃんはね、俺がいるから誰にも甘えられないんだ。俺が他所から片親だから出来が悪いなんて言わせない為に俺の前で立派なお手本を見せて、本人も俺が馬鹿にされない為に立派な委員長でいなくてはならなかったんだよ。俺だったら多分そんな真似できない……。でもお姉ちゃんはそれをこなしているんだ。そんなお姉ちゃんがね、唯一気を緩めて甘える事が出来るのが教会だったんだ。前の神父様から聞いた事があるんだ。教会は天の国に行ったお母さんの居る所、神様の家で、そしてお母さんの家だったんだ。お父さんは忙しくて家にあまりいないし、お姉ちゃんは子供なのにそこでしか甘えられる相手に会えなかったんだよ」
美琴は朝のミサにかなたが居なかった訳を理解した。
この少年は自分が居れば姉が母親に甘える事が出来ない事を理解していたのだ。
だからますみが教会に行く時はあえて傍から離れていたのだ。
ますみは母への思いもあって神や天の国について知ろうと思ったのだろうか、本気で神やその教えを理解しようとした結果美琴よりも一歩踏み込んだ考えを持つようになったのだろうか。
信仰とはもしかして受け入れる事だけではなく問いかける事でもあるのだろうか。
「お姉ちゃんは口にはしないけどお母さんの事をとっても慕っていて、そして会いたがってる。天の国に憧れるのはきっと神様の傍に行きたいからじゃない、お母さんに会いたいからなんだ。俺はそれを悪魔なんかに邪魔させない。お姉ちゃんは俺が必ずお母さんの所へ行かせる」
何と言う事をしてしまったのだろう。
かなたの話を聞けば聞く程美琴は自分の行った事の重さを思い知った。
こんなに健気な姉弟の純粋な気持ちをくだらない嫉妬で穢してしまった。
なぜこんな純粋な少年の魂が犠牲にならなくてはならなかったのだろうか。
美琴は自分の心の醜さに絶望し、体が冷えて行くのを感じた。
「ああ、今覗いていたのだけど、お兄ちゃんのお願いが叶いそうよ。急いだ方がいいわ」
イーヴィスが促した。
「ますみさんが最後の願いを? 」
「そうよ。悪魔と付き合う事にうんざりしたみたい。お兄ちゃんが早くそうなって欲しいと思った因果もあるかもしれないわ」
「イーヴィス、また近道を通らせて! 」
美琴が言うと血色の悪魔は小さく頷いた。
「あのお姉ちゃんの所に行くのね」
ビスクドールの様な姿をした小柄な少女は二人に背を向けゆっくり歩きだした。
かなたの小さな背中がそれを追うのを見ると美琴はなんてものを背負わせてしまったのかと吐き気さえ覚えた。
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