悪魔と委員長

GreenWings

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 イーヴィスが首尾良くますみに小瓶を開けさせ、漆黒の悪魔が思惑通りに彼女に憑りついたシーンを美琴は瞼の裏で見ていた。
 イーヴィスが見たものを美琴に見せていたからだ。
 小柄な少女が超常の存在に驚きつつも尻込みせず対峙する姿は美琴にとってあまり気に入るものでは無かった。

「あの小瓶はあたしには開けられなかった。丁度良かったわ」

「これじゃ駄目よイーヴィス。あの子は契約していないじゃない」

 長いまつ毛に縁取られたぎょろりとした瞳が細められる。

「これからよ」

 その言葉を裏付けるかの様に、ますみは後日バスジャックに遭遇した。
 逃走中の強盗が停車中のバスの傍で事故を起こすと言うあまりにも出来過ぎた不運が彼女に襲い掛かったのだ。
 美琴には上空から俯瞰する様にその光景が見えていた。

「助かる為には願いを言うわ」

 バスは暴走の果てに交差点で衝突を起こし大事故を起こした。
 現場はバスのみならず他の車両も転がり凄惨な様子になっていた。
 美琴はバスを注視した。あれだけ派手に転がれば乗客も運転手も無事では済まないだろう。
 ますみはどうだろうか。動けない状態であればバスが燃える前に助けを求めるかもしれない。仮に無事であるならバスの中の者を救う為に願うかもしれない。

 美琴が固唾を飲んで見守る中それは起こった。
 大型車が突然野次馬達を跳ね飛ばして乱入し囲みを破ったのだ。

「あのお姉ちゃん、願いを言ったわ」

 イーヴィスの声に一度驚くと美琴は新たに起こった事故を見た。
 現場に入れなかった救急車が向かった先にそれはあったそれは美琴には想像もつかない事だった。

 バスの中では怪我人が居るはずだ、その中にあってますみは外部の人間を助けた。妊婦が居たのだ、多分そのお腹の中の生まれる前の命を救おうとしたのだ。
 バスの周囲にしか意識が向かなかった美琴には冷水をぶっかけられた気分だった。そしてそれでは終わらなかった。
 怪我人を支えつつバスの中から出てくると、他の乗客もそして多分ジャック犯をもバスから避難誘導させたに飽き足らず、二度目の事故で混乱する現場を必死に駆け回って救助を始めたのだ。
 多分関わりたくないと思う者がほとんどだったろう、しかし戸惑う彼らにますみの声は的確な指示を与え、気付けば不可思議な連帯感と共に対処に当たっていた。
 彼女にリーダーシップがあった事もあるかもしれないが、それ以上に今目の前で起こる事態への覚悟と胸の奥に訴える得も言われぬ何かが人を動かしている様に思えた。
 真心の伴った必死さ、向けられた事のある美琴はますみと一緒に動いている者達の気持ちがなんとなくわかった。
 そして、自分を救う事を最初に願った美琴は差をつけられた気持ちになった。

「契約はまだ終わっていないわ。解放された悪魔は一つだけ無償で願いを叶えるの。契約はこれからよ」

 美琴はならと言った。

「なら、イーヴィス。あの子を…… 私と同じ目に合わせてよ」

 そうだ、あの状況になればますみと言えども悪魔に救いを求めるはずだ。
 自分は悪くない、仕方のない状況だったのだ。
 美琴は襲われかけた状況を思い出し身震いした。あれと同じ思いを年下の少女に押し付けて良いのだろうか、そんな痛みを感じたが頭から振り払った。

「大丈夫、あの子は悪魔に助けを求めて助かるわ。酷い事にはならない」

 父親が逮捕され、異様な程のスピードでますみは祖父の家に引き取られる事になった。その展開の速さはあまりにも不自然でイーヴィスが因果を操った事は明白だった。
 そこでますみはかなたと自分の将来を人質にとられ関係を迫られた。
 そうだ、子供は大人の言いなりになるしかない。カトリックであるのなら父親の、あるいは祖父の言葉は絶対だ。だがますみは突っぱねた。さらには弟の身の危険をほのめかされればそれを守る為に賭けにまで出た。
 従順で大人しかった美琴にはそれは衝撃で、そして幾らか眩しく思えた。

 何故そうできるのだろう、だがきっとそれも今だけだ。美琴はそう思った。
 美琴は男の恐ろしさを知っている。絶対に力では敵わない、彼らの中に渦巻くおぞましい欲望の醜さも知っている。そんなものに圧し掛かられて平静で居られるはずがない。必ず悪魔に救いを求めるはずだ。

 だが美琴の予想を裏切りますみは組み敷かれてもそうしなかった。

「何をしてるの!早く契約なさい! 」

 現場から遠く離れた場所で美琴はそう叫んだ。美琴の時とは違い相手は一人だったとはいえ、これだけの体格差で押さえつけられてはもう逃げることは出来ない。
 ますみの必死の抵抗を見ながら美琴は胸のあたりで生地を握り締めていた。
 小さな少女が醜い巨体に押しつぶされて辱めを受けようとしている光景は美琴にとって決して心地良いものでは無かった。

「早く!今ならまだ間に合うわ!契約して! 」

 そんなに神を信じると言うのか。

 老人の拳が少女の頬に見舞われる。二度、三度……。

 美琴は目を伏せたかった。だが瞼の裏に浮かぶのだからそれは出来なかった。

 口や鼻から血を流し、少女は顔を腫らして抵抗する力を失っていた。

「ますみさん!早く!契約して! 」

 だがあの状態で出来るのか?

「イーヴィス! 」

 美琴は叫んだが頭に響く声は無情だった。

「駄目よ。あのお姉ちゃんがあたしに頼まなくちゃ」

 次の瞬間それは起こった。
 痙攣して倒れる老人。そして沈黙。イーヴィスの落胆した声が漏れる。
 彼の下からゆっくり這い出るますみ……。
 そして、号泣。泣いている、ますみが老人の手を両手で握りしめて泣いている。自分を襲った相手の目を閉じさせ、すがり付いて肩を震わせて泣いる。何故だ……。

「あ~あ、あのお姉ちゃんの運が良いのかお爺ちゃんが張り切りすぎちゃったのか、死んじゃうなんてね残念」

 イーヴィスの声をよそに、美琴は再びショックを受けていた。
 美琴は自分を襲った相手に復讐した。なのになぜますみは加害者の為に涙を流したのだ。
 事あるごとに差をつけられている様で美琴は唇を噛んだ。涙が滲んだ。
 自分はやはり悪魔に近かったのだ。

「あのお姉ちゃん、思ったより強情ね。でも大体わかったわ。自分に対しては我慢強いみたいだけどもっと大切な物ならどうかしら」

 美琴はそうねと震えながら言った。

「わかってる、あの子にとって一番大切なもの。でもねイーヴィス、約束してちょうだい。絶対に殺さないと」

「いいわ。

 顔が見えなくても子供とは思えない艶のある笑みが想像できた。

 それが起こるまでにそう日は開かなかった。
 狙ったかの様な度重なる局地的な豪雨の影響、それまで何事も無かった穏やかな川で起こった山津波。
 遠足の下見に来ていたかなた達の乗った車が低い橋を渡っていた所でそれに巻き込まれた。

 ぶつかった流木の衝撃でエアバッグが開き、運転していた担任と助手席にいたかなたはそれをまともに顔に受けた勢いでシートに頭をぶつけ意識を失った。
さらに車は大木の間で揉まれながら橋から弾き出され、そして何度もあちこちに引っ掛かりながら下流に流されて行った。

 その光景は居合わせたローカル番組のスタッフによって中継され、即座にますみに伝わった。総てイーヴィスの操作した因果のなせる業だった。

 そこからのますみの必死さは鬼気迫るものがあった。うろたえてしまっては何もできなくなる事を意識してか、非常に気丈に事に当たろうとしていた。
 ただ問題に思えたのは彼女が出来る事を超えた事まで平気でやろうとしていた事だった。ともすれば彼女の命に係わる様な行動さえいとわなかった。美琴なら諦めてしまうような事態もますみは躊躇せず乗り越えた。人があんなにも必死になる姿を美琴は見た事が無かった。

 自分にも弟が居たら出来たのだろうか、体が言う事を聞かなくなるまで無理をする事が出来るだろうか……。
 もしかしてますみは自分とは全く格が違う存在なのではないか。悪魔などに屈した自分があまりにも意気地が無かったのではないか。

 美琴の劣等感はますみが危機に陥るたびに強く大きくなっていった。

 そしてついにかなたを助ける手立ては絶たれてしまった。美琴の想像通り神の救いは現れる様子は無かった。もはや悪魔の手を借りるしか方法は無かった。
 それでもますみは、あんなにも必死になって弟を救おうとしていてもますみは、悪魔にだけは手を借りようとしなかった……。

「どうして!どうしてますみさん!あなたはかなた君を失っても良いと思っているの!? 」

 届かぬ事がわかっていても美琴は叫んだ。ずっと一緒に暮らしてきた存在だ、美琴が感じている以上の苦痛をますみは味わっているはずなのに、握ったペンを使おうとしない。信仰の為には弟を放棄すると言うのだろうか。

「イーヴィス!もう良いわ!かなた君を……」

「お姉ちゃん待って。まさか助けるなんて言わないでね?今が正念場よ。あたしはお姉ちゃんの言いつけ通りにしてる。あのお姉ちゃんが我慢しているのよ。お姉ちゃんも我慢すべきだわ」

 美琴はまだイーヴィスを理解していなかった。

「わかったわ……」

 美琴は胸を痛めながらかなたの閉じ込められた車を見つめた。ますみがあれほど愛する弟を見捨てる訳が無い。必ず車が沈む前に契約書に署名するはずだ。
 だが先程まで理性をつなぎ留めていた鉄の心は何だったのかと、そう思える程の錯乱したますみの姿に美琴は戦慄する事になった。そして事実は美琴の予想とは違った。車が沈むまでますみは署名をしなかった。
 これまでの必死さを全否定したかの様に、存在感その物を失わせてますみは大人しくなった。

 ますみに憑りついている悪魔が川に飛び込むと哀れな少女は糸に引かれる様に濁流に近づいて行った。

「イーヴィス!どういう事なの!かなた君は! 」

「あの悪魔が近づいて行ってる、何かしたらあたしに気づくわ」

「あなた殺さないって言ったわよね?! 」

「言ったわ」

 イーヴィスのぞっとする様な大きな瞳が思い描かれた。命令はたがえていないと言う毅然としたものに思えた。
 なら、今引き上げられた哀れな少年はどうして息をしていないのだ。どうしてあんなに青い顔をしているのだ。

 一部の隙も無い全力の心肺蘇生を美琴は見た。
 あたかも自分の命を吹き込む様な汗だくのますみを美琴は涙を流して見守った。
 あれをさせているのは自分なのだ。あの優しい少年の命を危機にさらしたのは自分なのだ。
 何かをする度に後悔をしてしまう、ますみの輝きを奪うどころか自分が黒く染まっていく実感がある。あの日、別荘に行く前の自分が今の自分を見たらどう思うだろうか。そもそも悪魔に魂を売る様な輩を真っすぐ見たりするだろうか。

 胸に渦巻く不快なわだかまりに意識を取られている間にかなたは息を吹き返した。ますみは悪魔の力を借りずに弟を取り戻したのだ。

「あーあ、残念。もう少しだったのに」

 さほどがっかりした様子もない調子で言うイーヴィスに美琴は言った。

「もう、誰かの命を危険にさらすのはやめましょう」

「お姉ちゃんがしたい様にしたらいいわ」

 命が大切だからそう言ったのだろうかと美琴は自分に疑問を持った、そして心が酷く冷めていくのを感じた。
 姉弟が抱き合う心が温まるような光景を見ているのに今自分は冷静にその二人に対し避けられない不運を与えようとしている。もう人としてどこか壊れてしまったのだろうか。今流れている涙は本物なのだろうか。

「イーヴィス、他にあるでしょう?あの子が大切にしているもの、心の拠り所になるもの。そうよ、教会が良いわ。教会を取り上げて!あの子にとって一番残酷な方法で! 」

 イーヴィスが妖艶に微笑むのが伝わる。

「いいわ。きっととっても簡単よ」

 かなたの危機以降、通う事をやめていたますみが教会に訪れるまで幾日か待たなくてはならなかった。
 早朝から毎日通っていた事を思えば彼女の中で何かしら起こっている事は事実だった。それでもイーヴィスの因果からは外れる事は出来なかったのである。

 いつも周りに見えない光を放っている様な印象のあったますみは、今や委縮して小さく見え、怯えた小動物の様になっていた。
 教会に入れなくなっていた自分を美琴は思い出した。
 ああ、ますみはあの時やはり葛藤していたのだ。そしてそれを激しく恥じ、恐怖しているのだ。
 自分にとって揺ぎ無い輝きに見えていた相手が弱さを見せた事に美琴は自分が思う以上にショックを受けた。

「あの子も人間なんだ」

「そうよ。しかも不完全な人間。あの子はイエスでもアダムでもないわ。だから必ず折れる」

 イーヴィスの言葉に美琴は息を呑んだ。

 その通りだ、ますみは超人ではない、健気に必死に頑張っているだけだ。片親で弟もいると言う甘えられない状況でなお、真っすぐで居ようとしているのだ。美琴はそんな彼女の平穏を意図的に崩そうとした。

「ますみさん……」

 そんな美琴の心情の変化をイーヴィスは見逃さなかった。

「お姉ちゃん、今更駄目よ。これはお姉ちゃんが命じた事。お姉ちゃんの本心。隠したって無駄。でも安心して、他人が上手く行っている事が気に入らないのは当たり前。ましてやお姉ちゃんはお姉ちゃんのせいでこうなったんじゃないんだもの。お姉ちゃんに責任は無いわ、助けなかった神が悪い、神が行わせているのよ」

 美琴は悲痛な表情を浮かべた。痛みと悲しみと微笑みの混ざる表情で唇を震わせた。

「そうよ…… 私の心は醜い…… でもそれは私の所為じゃない…… ますみさん、あなたもそうなってよ……。私一人でこんなの……」

 美琴の視界の中でますみはベッドに繋がれてしまった。
 ここの神父が従順にならない獲物を相手にする時に使うものだった。

 多分もう義祖父の時の様な偶然は起こらないだろう。悪魔の助けを借りなければますみはここで散らされる。心の拠り所であった場所で信頼していた者によって心も体も暴力と欲望によって蹂躙される。
 ますみがこれまでここに抱いていた価値観が真逆に変わる。最も心許していた場所がおぞましい経験の現場に、敬愛と信頼を寄せていた者が忌まわしい存在に、もし悪魔の手を借りなければすすがれる事の無い心の染みを生涯抱える事になるだろう。

 神父と話をしたますみの瞳から生気が消えるのを美琴は感じた。
 ああ、この子は諦めてしまった。何度危機が訪れても決して挫けなかったあの気丈な少女が今ここで完全に折れた、美琴は口角を上げながら体を震わせて泣いた。
 喜びからなのか悲しみからなのか分からない、胃が裏返るような不快感と背筋を震わせる激しい悪寒を感じながら美琴は両手を口に当てた。

 神父が人形の様になってしまった少女に覆いかぶさって行った次の瞬間それは起こっていた。

 ああ、今この子は、西野ますみは悪魔の契約書に署名をしたのだ。
 美琴はそう確信した。
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