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明と暗
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方便だと思っていたパジャマパーティが本当に開かれた。
ますみの父親は手掛けている仕事が忙しく泊まりになるそうで、三人だけでの開催となった。
他愛もない話をしたりちょっとしたゲームをしたりした後、朝の早いますみの事情もありそれぞれは自分の布団に入る事になった。
美琴はますみの部屋に敷かれた来客用の布団の中で体を丸めていた。
小学校が終わり次第に大急ぎで帰ってきたかなたが夕方の弱くなった日差しの中干して叩いてくれた布団だ。
ますみはますみで歯ブラシをはじめ美琴に必要に思える物を買い込んで帰って来た。実に献身的で人を避けてきた美琴には眩しく映った。
この姉弟は神から受けた愛をそのまま他者にも注いでいるのだろう。自分はそれが出来なかった……。
部屋の主の寝息は静かに聞こえるが昼間寝てしまった事もあるからか美琴はなかなか眠りに付けずにいた。ただそれだけではない、目を閉じると悪夢を思い出してしまうのだ。
ねっとりした感触が自分の体を這い回るおぞましさ。このあたたかい布団の中に居ながら鳥肌が立ってしまう。
男が怖い……。
そう言えば今日は会う事が無かったが、明日にはますみの父親が帰って来るのではないか。
ますみやかなたを育てた人物であれば問題になる様な人格ではないと思いたいが、自分は成年男性を前にして平静で居られるだろうか……。
ますみやかなたの顔を思い浮かべ、それをベースに顔を想像してみる。
きっと優しそうな顔に違いない、そう思おうとした時、まるで狙って居たかの様にフラッシュバックが起こった。イーヴィスの見せた凌辱の数々だ。
「ひぃっ…… !! 」
思わず身を抱きカタカタと震えている自分に美琴は唇を噛んだ。
そんなはずは無いと分かっているのに、ますみの父親が美琴の体を性的に見て、子供達の目を盗んで何かしらして来るのではと根拠のない不安が膨れ上がった。
この不安と恐怖に耐えなくてはここに居られないのだろうか。ここを出たとしてこの先ずっと男性を恐れ、逃げ回らなくてはならないのだろうか。
頭ではすべての男性がそうではないと理解しているが、植え付けられた恐怖がそれを否定する。自分は男達の餌食として存在し続けなくてはならないのだろうか。
この恐怖を克服しない限り自分はずっと人を避けて生きていかなくてはならない……。
美琴は苦しんだ。
男達の慰み者になどなりたくない。このまま一生男に脅え続けて行くのだろうか。慰み者にならない為には……。相手の餌食にならない為には……。
一瞬ゾッとする様な大きな目が脳裏をよぎる。
美琴はゴクリと喉を鳴らした。
自分が喰らう側になれば良い。せめて男が怖いものではないと分かれば良い。
丸めていた体をゆっくりと伸ばした美琴は静かに布団から立ち上がった。
ますみの寝息を確認すると音を立てない様に部屋から出た。
* * *
静かに眠る少年のベッドに入り込む者が居た。
彼の隣に寄り添って横たわるとしばらくそのままでいたが、やおらその両手が彼の着るパジャマの上着のボタンに延びた。
それを外していく指先には戸惑いがあるが、やめようとはしない。
ひとつ、ふたつ、みっつ、そしてすべて外してしまった所でその手は一度は止まった。
相手が反応しないのを確認すると今度はそっと脱がしにかかる。
「美琴お姉さんだよね……」
小さな声だった。
美琴の瞳は恐怖に見開かれたが、できる限り平静を保つ。
「起こしてしまったかしら。よく分かったわね」
かなたは美琴の方に向き直った。
「どうしたんですか? 」
可愛らしさの残る相手の顔は恐怖もおぞましさも感じさせない。美琴は腹をくくった。
「かなた君は私が好き? 」
暗闇の中でも赤面した様子が伝わって来た。好きか嫌いかに関わらず年齢相応の素直な反応だ。
「どちらかと言えば……はい」
「そう、なら私と良い事をしましょう。意味は分かる? 」
怪訝そうな年下の様子に美琴は緊張で破裂しそうな心臓をねじ伏せながら言った。
「学校で習ったでしょ?男の子と女の子がする事。今からそれをするの。私が教えてあげる」
少年の手を取り自分の胸にそっと当てさせる。
するとそれはビクッと跳ねて慌てて引っ込められた。どうやら意図は伝わった様だ。身を起こしたかなたは驚きの表情を向けている。
「ねぇ…… 私じゃ嫌? 」
上体を起こした娘盛りの少女の熱っぽい声にかなたは喉を鳴らした。
窓から伸びた月明かりを受けて白く輝くたおやかな腕がそっと伸びてその曲げられた指先が少年の頬を撫でる。
最初そのまま動けなくなっていたかなただったが、静かにその手に自分の手を重ね、まるでますみがそうするかの様に真っすぐな瞳を向けた。
「お姉さんは本当に俺とそういう事がしたいの? 」
「ええそうよ、かなた君。あなただって興味あるでしょう?ますみさんには内緒」
かなたは答えずにじっと美琴の瞳を見つめた。
そして美琴の手に添えているのとは逆の方の腕をすっと伸ばすと美琴の体を自分に寄せた。
「あなたが喜ぶ事全部してあげる」
美琴が耳元でそう囁くとかなたは美琴の髪を撫でた。
そして言った。
「なら、全部吐き出して。俺全部聞くから。お姉さんがこんな事をしてしまう理由を話して」
何を言っているのだこの少年は。
「かなた君、私が嫌々しているとでも思っているの? 」
かなたは頷いた。
「そうだよ。お姉さんはこんな事する人じゃない」
「そう思いたいのね。カトリックだから罪の意識があるのかしら。大丈夫よ、神が私達をそう創ったの。これは自然な事」
美琴は無理に微笑んで見せた。
「騙そうったってダメだよ。お姉さん震えてるじゃないか。そんな人に酷い事なんか俺はできないよ」
酷い事、そう思うのかこの少年は。
「酷い事じゃないわ」
「合意が無いのは酷い事だよ。お姉さんは今、自分をいじめてる。お姉さんは自分が合意していない事をしようとしてるよ」
優しい印象の子だった、押せば押されただけ動いて押し切られてしまう印象だったのにこの少年も姉と同様芯が強かった。そして見透かされていた。
美琴は体を放した。
「何を言ってるの……。触りたいんでしょう?抱きたいんでしょう?ならそうしたら良いじゃない。お姉さんに怒られるから?罰が当たるから?自分から迫る様な淫乱な女は気味が悪いから?! 」
つい声が上がってしまった。気づけば涙が滲んでいた。みじめに思えた。
「俺はお姉さんを気味悪いなんて思った事なんてないよ。今だってそんな事思ってない……。お姉さんは綺麗でスタイルも良くて、本当はドキドキしてる。お姉さんの事は好きだよ。だから嫌がる事をしたくない」
この少年の真面目さと優しさは痛かった。自分でも蔑む様な行動を起こした事実がより一層胸に刺さった。
「なによ……!聖人ぶって。女の啼かせ方も知らないくせに! 」
忌まわしい男達が使っていた言葉がそのまま出てしまった。ああ、今自分はそちら側に居るのだと心底悲しくなった。
すると少年は姉を思わせる穏やかな笑みを作って言った。
「俺はそれで良いんだ。俺が知りたいのは泣かせ方じゃなくてお姉さんの笑わせ方なんだ」
息が詰まった。
「だから、どうしたらお姉さんが笑えるか知りたいな」
もう堪えられなかった。
美琴は年下の少年の胸に額をつけて泣いた。
こんな健気な少年を穢そうとした自分を激しく恥じた。そして思い知った。
夢の通りだ。この少年とその姉は光の中に居て、自分は闇の側に居る。あの男達と同じ事を自分は行おうとしたのだ。
狂おしい口惜しさが胸の中で暴れる。握ったシーツにしわが寄る。
同じカトリック信者なのに自分は神の元から引き離され悪魔の物になってしまった一方で、ますみは神の愛の元に居てこんなにも素敵な弟と共に暮らしている。一体自分と何が違うと言うのか。
「お姉さん、嫌なら話さなくて良いけどさ、辛い事があったのは俺でもわかるよ。その…… お姉さんがしようとした事は良くないけどさ、俺が朝まで一緒に居てあげるから元気出してね……。それからお姉さんに魅力が無かったわけじゃないからね!それは違うからね!俺だって興味が無いわけじゃ……無いんだからね……」
美琴はかなたの胸に顔を押し付けた。
少しだけ男に対する恐怖が薄れた気がした。
少年に手を握られて眠りに就くと次の朝は随分久しぶりの心地良い目覚めだった。
かなたが美琴を起こしに来たのは朝食の用意がすっかり整った後だった事を考えるとかなたを起こした目覚ましでは自分は目覚める事が出来なかった様だ。
美琴が朝ますみの部屋ではなくかなたの部屋に居た事は、かなたが正直に夜中に美琴が自分の部屋に来た事をますみに言った様だったが、何があったのかは言わなかったらしく彼女から何かしら言われる事は無かった。
夜中にトイレに行った時に寝ぼけて潜り込んだ位に思われたのかもしれない。かなたもまた昨夜の事をに触れて来る事は無く昨日と同様に何事も無く接してくれた。
ただ、意識をする様になってしまったのか時折美琴の胸に視線が向いてそっと逸らす事があった。
本来なら可愛い事なのかもしれないが、いたいけな少年の心に影を落としてしまった様に思えて胸が痛んだ。
「美琴さん、何か足りないものがあったらおっしゃって下さいね。揃えて来ますから。」
朝から心地良い微笑みを向けて来るますみ。その様子がキラキラ輝いて見えて美琴の胸は痛んだ。昨夜の事があってかますみの心が清く見えれば清く見える程美琴は自分が汚れているように思えた。
もう言い訳は効かない。自分の意志でしてしまったのだ。
その時美琴の心にこれまでの人生でほとんど感じた事が無かった感情が強く湧き上がって来ていた。
──どうして私ばかり──
自分は確かに悪魔の物になってしまった、それはもうどうこう言えない、だがどうして自分なのだ。自分だってずっと神のしもべとして日々過ごして来たし悪魔に差し出される様な罪は犯していなかったはずだ。
なぜますみはそうでないのだろう。自分もますみもさしたる違いは無いはずなのに、なぜこの少女は穢れ無き世界に居るのだろう。
悪魔の物になるのはこの少女では駄目だったのだろうか。
自分に課せられた試練は乗り越えられるものでは無かった、この少女には何故それが課されないのだろう。
のうのうとニコニコ微笑んで暮らせる日々をなぜこの子にだけは与えられているのだろう。
一度そんな事を考えてしまうとそれはどよどよとした重量を持った流れとなって美琴の胸の中で渦巻いた。
──どうして子の子ばっかり──
自分の中の何かが良くない囁きをしているかの様だった。
昨日の朝と同様の時間を過ごした後、誰も居なくなったリビングで美琴は一人唇をかみしめた。
ここはあたたか過ぎる。眩し過ぎる。
頼まれてもいない部屋の掃除や食器洗いを丁寧にし、書置きを残すと美琴は玄関を出て鍵を掛け、それを新聞受けの中に放った。
ここは自分の居場所ではない。やはり世界から追放された身なのだ。
自分は神のしもべではない、悪魔の物なのだから。
見知らぬ街を歩き、人気のない公園を見つけると美琴は口を開いた。
「イーヴィス」
いつ現れたのかは全く分からなかった。視線を下ろすと血に濡れた様な真っ赤なドレスを身に着けたビスクドールと見紛う可憐な姿が現れる。ただその開かれた眼は異様に大きく逆に唇はあまりに小さく人間離れして見えた。
「ここよ」
「イーヴィス、両親に私の事忘れさせて」
「いいの? 」
「私は一人よ。そうでしょ? 」
幼い少女は妖艶に微笑む。
「そうね」
そして目を細めて続ける。
「あの姉弟の所で勘違いしてしまったのかしら。優しい二人だったものね。でも駄目よ。お姉ちゃんとは住む世界が違う」
住む世界が違う、なんて残酷な言葉だろう。同じ世界にはいられない、あの二人と。
「なら、同じ世界なら居られるのかな……」
思わず口にした自分の言葉に美琴は驚いた。
ああ、そうではないか。たまたま自分がそうなっただけで、ますみだって悪魔と契約する可能性が無い訳では無いではないか。
「ああ、そうよ!あの子だけあそこに居るなんておかしい。公平であるべきよ。そう、あの子だって追いつめられたらきっとそうするわ!そうよ!私が悪かった訳じゃない、これは当たり前で仕方の無かった事なのよ」
美琴は不自然な微笑みをたたえてイーヴィスを見つめた。
「そうでしょ?イーヴィス。あの子だって私と同じ目に合って良いはず。あなた、仲間くらい居るでしょう? 」
イーヴィスはそのゾクリとする眼を美琴に向けたまま言った。
「どうして欲しいの? 」
美琴は涙を流しながら狂気の笑顔で言った。
「西野ますみに悪魔をたきつけて!あの子を悪魔と契約させて! 」
血色のドレスの少女は過剰に大きな目を一度さらに開いた後、妖艶に微笑んだ。
「いいわ」
そしてどこから取り出したのかキラキラと輝く小さな瓶をイーヴィスは日に透かす。
「昔、閉じ込められた間抜けな子が居るの」
美琴が笑顔のままさめざめと泣く傍でイーヴィスは目を細めて言った。
「あのお姉ちゃんの魂、とっても綺麗だから、どんな悪魔も見た途端に欲しがるはずよ」
ますみの父親は手掛けている仕事が忙しく泊まりになるそうで、三人だけでの開催となった。
他愛もない話をしたりちょっとしたゲームをしたりした後、朝の早いますみの事情もありそれぞれは自分の布団に入る事になった。
美琴はますみの部屋に敷かれた来客用の布団の中で体を丸めていた。
小学校が終わり次第に大急ぎで帰ってきたかなたが夕方の弱くなった日差しの中干して叩いてくれた布団だ。
ますみはますみで歯ブラシをはじめ美琴に必要に思える物を買い込んで帰って来た。実に献身的で人を避けてきた美琴には眩しく映った。
この姉弟は神から受けた愛をそのまま他者にも注いでいるのだろう。自分はそれが出来なかった……。
部屋の主の寝息は静かに聞こえるが昼間寝てしまった事もあるからか美琴はなかなか眠りに付けずにいた。ただそれだけではない、目を閉じると悪夢を思い出してしまうのだ。
ねっとりした感触が自分の体を這い回るおぞましさ。このあたたかい布団の中に居ながら鳥肌が立ってしまう。
男が怖い……。
そう言えば今日は会う事が無かったが、明日にはますみの父親が帰って来るのではないか。
ますみやかなたを育てた人物であれば問題になる様な人格ではないと思いたいが、自分は成年男性を前にして平静で居られるだろうか……。
ますみやかなたの顔を思い浮かべ、それをベースに顔を想像してみる。
きっと優しそうな顔に違いない、そう思おうとした時、まるで狙って居たかの様にフラッシュバックが起こった。イーヴィスの見せた凌辱の数々だ。
「ひぃっ…… !! 」
思わず身を抱きカタカタと震えている自分に美琴は唇を噛んだ。
そんなはずは無いと分かっているのに、ますみの父親が美琴の体を性的に見て、子供達の目を盗んで何かしらして来るのではと根拠のない不安が膨れ上がった。
この不安と恐怖に耐えなくてはここに居られないのだろうか。ここを出たとしてこの先ずっと男性を恐れ、逃げ回らなくてはならないのだろうか。
頭ではすべての男性がそうではないと理解しているが、植え付けられた恐怖がそれを否定する。自分は男達の餌食として存在し続けなくてはならないのだろうか。
この恐怖を克服しない限り自分はずっと人を避けて生きていかなくてはならない……。
美琴は苦しんだ。
男達の慰み者になどなりたくない。このまま一生男に脅え続けて行くのだろうか。慰み者にならない為には……。相手の餌食にならない為には……。
一瞬ゾッとする様な大きな目が脳裏をよぎる。
美琴はゴクリと喉を鳴らした。
自分が喰らう側になれば良い。せめて男が怖いものではないと分かれば良い。
丸めていた体をゆっくりと伸ばした美琴は静かに布団から立ち上がった。
ますみの寝息を確認すると音を立てない様に部屋から出た。
* * *
静かに眠る少年のベッドに入り込む者が居た。
彼の隣に寄り添って横たわるとしばらくそのままでいたが、やおらその両手が彼の着るパジャマの上着のボタンに延びた。
それを外していく指先には戸惑いがあるが、やめようとはしない。
ひとつ、ふたつ、みっつ、そしてすべて外してしまった所でその手は一度は止まった。
相手が反応しないのを確認すると今度はそっと脱がしにかかる。
「美琴お姉さんだよね……」
小さな声だった。
美琴の瞳は恐怖に見開かれたが、できる限り平静を保つ。
「起こしてしまったかしら。よく分かったわね」
かなたは美琴の方に向き直った。
「どうしたんですか? 」
可愛らしさの残る相手の顔は恐怖もおぞましさも感じさせない。美琴は腹をくくった。
「かなた君は私が好き? 」
暗闇の中でも赤面した様子が伝わって来た。好きか嫌いかに関わらず年齢相応の素直な反応だ。
「どちらかと言えば……はい」
「そう、なら私と良い事をしましょう。意味は分かる? 」
怪訝そうな年下の様子に美琴は緊張で破裂しそうな心臓をねじ伏せながら言った。
「学校で習ったでしょ?男の子と女の子がする事。今からそれをするの。私が教えてあげる」
少年の手を取り自分の胸にそっと当てさせる。
するとそれはビクッと跳ねて慌てて引っ込められた。どうやら意図は伝わった様だ。身を起こしたかなたは驚きの表情を向けている。
「ねぇ…… 私じゃ嫌? 」
上体を起こした娘盛りの少女の熱っぽい声にかなたは喉を鳴らした。
窓から伸びた月明かりを受けて白く輝くたおやかな腕がそっと伸びてその曲げられた指先が少年の頬を撫でる。
最初そのまま動けなくなっていたかなただったが、静かにその手に自分の手を重ね、まるでますみがそうするかの様に真っすぐな瞳を向けた。
「お姉さんは本当に俺とそういう事がしたいの? 」
「ええそうよ、かなた君。あなただって興味あるでしょう?ますみさんには内緒」
かなたは答えずにじっと美琴の瞳を見つめた。
そして美琴の手に添えているのとは逆の方の腕をすっと伸ばすと美琴の体を自分に寄せた。
「あなたが喜ぶ事全部してあげる」
美琴が耳元でそう囁くとかなたは美琴の髪を撫でた。
そして言った。
「なら、全部吐き出して。俺全部聞くから。お姉さんがこんな事をしてしまう理由を話して」
何を言っているのだこの少年は。
「かなた君、私が嫌々しているとでも思っているの? 」
かなたは頷いた。
「そうだよ。お姉さんはこんな事する人じゃない」
「そう思いたいのね。カトリックだから罪の意識があるのかしら。大丈夫よ、神が私達をそう創ったの。これは自然な事」
美琴は無理に微笑んで見せた。
「騙そうったってダメだよ。お姉さん震えてるじゃないか。そんな人に酷い事なんか俺はできないよ」
酷い事、そう思うのかこの少年は。
「酷い事じゃないわ」
「合意が無いのは酷い事だよ。お姉さんは今、自分をいじめてる。お姉さんは自分が合意していない事をしようとしてるよ」
優しい印象の子だった、押せば押されただけ動いて押し切られてしまう印象だったのにこの少年も姉と同様芯が強かった。そして見透かされていた。
美琴は体を放した。
「何を言ってるの……。触りたいんでしょう?抱きたいんでしょう?ならそうしたら良いじゃない。お姉さんに怒られるから?罰が当たるから?自分から迫る様な淫乱な女は気味が悪いから?! 」
つい声が上がってしまった。気づけば涙が滲んでいた。みじめに思えた。
「俺はお姉さんを気味悪いなんて思った事なんてないよ。今だってそんな事思ってない……。お姉さんは綺麗でスタイルも良くて、本当はドキドキしてる。お姉さんの事は好きだよ。だから嫌がる事をしたくない」
この少年の真面目さと優しさは痛かった。自分でも蔑む様な行動を起こした事実がより一層胸に刺さった。
「なによ……!聖人ぶって。女の啼かせ方も知らないくせに! 」
忌まわしい男達が使っていた言葉がそのまま出てしまった。ああ、今自分はそちら側に居るのだと心底悲しくなった。
すると少年は姉を思わせる穏やかな笑みを作って言った。
「俺はそれで良いんだ。俺が知りたいのは泣かせ方じゃなくてお姉さんの笑わせ方なんだ」
息が詰まった。
「だから、どうしたらお姉さんが笑えるか知りたいな」
もう堪えられなかった。
美琴は年下の少年の胸に額をつけて泣いた。
こんな健気な少年を穢そうとした自分を激しく恥じた。そして思い知った。
夢の通りだ。この少年とその姉は光の中に居て、自分は闇の側に居る。あの男達と同じ事を自分は行おうとしたのだ。
狂おしい口惜しさが胸の中で暴れる。握ったシーツにしわが寄る。
同じカトリック信者なのに自分は神の元から引き離され悪魔の物になってしまった一方で、ますみは神の愛の元に居てこんなにも素敵な弟と共に暮らしている。一体自分と何が違うと言うのか。
「お姉さん、嫌なら話さなくて良いけどさ、辛い事があったのは俺でもわかるよ。その…… お姉さんがしようとした事は良くないけどさ、俺が朝まで一緒に居てあげるから元気出してね……。それからお姉さんに魅力が無かったわけじゃないからね!それは違うからね!俺だって興味が無いわけじゃ……無いんだからね……」
美琴はかなたの胸に顔を押し付けた。
少しだけ男に対する恐怖が薄れた気がした。
少年に手を握られて眠りに就くと次の朝は随分久しぶりの心地良い目覚めだった。
かなたが美琴を起こしに来たのは朝食の用意がすっかり整った後だった事を考えるとかなたを起こした目覚ましでは自分は目覚める事が出来なかった様だ。
美琴が朝ますみの部屋ではなくかなたの部屋に居た事は、かなたが正直に夜中に美琴が自分の部屋に来た事をますみに言った様だったが、何があったのかは言わなかったらしく彼女から何かしら言われる事は無かった。
夜中にトイレに行った時に寝ぼけて潜り込んだ位に思われたのかもしれない。かなたもまた昨夜の事をに触れて来る事は無く昨日と同様に何事も無く接してくれた。
ただ、意識をする様になってしまったのか時折美琴の胸に視線が向いてそっと逸らす事があった。
本来なら可愛い事なのかもしれないが、いたいけな少年の心に影を落としてしまった様に思えて胸が痛んだ。
「美琴さん、何か足りないものがあったらおっしゃって下さいね。揃えて来ますから。」
朝から心地良い微笑みを向けて来るますみ。その様子がキラキラ輝いて見えて美琴の胸は痛んだ。昨夜の事があってかますみの心が清く見えれば清く見える程美琴は自分が汚れているように思えた。
もう言い訳は効かない。自分の意志でしてしまったのだ。
その時美琴の心にこれまでの人生でほとんど感じた事が無かった感情が強く湧き上がって来ていた。
──どうして私ばかり──
自分は確かに悪魔の物になってしまった、それはもうどうこう言えない、だがどうして自分なのだ。自分だってずっと神のしもべとして日々過ごして来たし悪魔に差し出される様な罪は犯していなかったはずだ。
なぜますみはそうでないのだろう。自分もますみもさしたる違いは無いはずなのに、なぜこの少女は穢れ無き世界に居るのだろう。
悪魔の物になるのはこの少女では駄目だったのだろうか。
自分に課せられた試練は乗り越えられるものでは無かった、この少女には何故それが課されないのだろう。
のうのうとニコニコ微笑んで暮らせる日々をなぜこの子にだけは与えられているのだろう。
一度そんな事を考えてしまうとそれはどよどよとした重量を持った流れとなって美琴の胸の中で渦巻いた。
──どうして子の子ばっかり──
自分の中の何かが良くない囁きをしているかの様だった。
昨日の朝と同様の時間を過ごした後、誰も居なくなったリビングで美琴は一人唇をかみしめた。
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頼まれてもいない部屋の掃除や食器洗いを丁寧にし、書置きを残すと美琴は玄関を出て鍵を掛け、それを新聞受けの中に放った。
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見知らぬ街を歩き、人気のない公園を見つけると美琴は口を開いた。
「イーヴィス」
いつ現れたのかは全く分からなかった。視線を下ろすと血に濡れた様な真っ赤なドレスを身に着けたビスクドールと見紛う可憐な姿が現れる。ただその開かれた眼は異様に大きく逆に唇はあまりに小さく人間離れして見えた。
「ここよ」
「イーヴィス、両親に私の事忘れさせて」
「いいの? 」
「私は一人よ。そうでしょ? 」
幼い少女は妖艶に微笑む。
「そうね」
そして目を細めて続ける。
「あの姉弟の所で勘違いしてしまったのかしら。優しい二人だったものね。でも駄目よ。お姉ちゃんとは住む世界が違う」
住む世界が違う、なんて残酷な言葉だろう。同じ世界にはいられない、あの二人と。
「なら、同じ世界なら居られるのかな……」
思わず口にした自分の言葉に美琴は驚いた。
ああ、そうではないか。たまたま自分がそうなっただけで、ますみだって悪魔と契約する可能性が無い訳では無いではないか。
「ああ、そうよ!あの子だけあそこに居るなんておかしい。公平であるべきよ。そう、あの子だって追いつめられたらきっとそうするわ!そうよ!私が悪かった訳じゃない、これは当たり前で仕方の無かった事なのよ」
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「いいわ」
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