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試練
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車線の狭いうねる山道をしばらく進んだ先でタクシーは止まった。
「通行止め標識置いちゃってあるなぁ…… あ、お財布出さなくていいから。メーター回してなかったしね」
運転手の言葉に礼を言うとますみは転がるように車外に出た。
前に止まっていたパトカーにも頭を下げると驚くべき走力で前方へ走る。
その場にいた交通誘導員が慌てて制止しようとするが、疾風の様に疾駆する少女を捉える事は出来ず、残された謝罪の言葉を聞き終わった時にはもう追う事をあきらめざるを得ない距離が離されていた。
「先輩、なんか行かせちゃいましたけど良いんですか? 」
後輩の言葉にパトカーの運転席にいた警官がさすがに良くないなと漏らした。
「市民の安全は俺たちの義務だからな。追うか……」
交通誘導員も警官もはるか後方に残したままますみは道なりに進んだ。
圧迫感を伴う不安と全力疾走が少女の心臓に多大な負荷をかけて呼吸がやたら乱れ、気管の内部が空気の摩擦で削がれている様な感覚を感じながら走った。
激しい水音はすぐに大きく聞こえる様になり、その光景を目の当たりにするまではあっという間だった。
テレビで見たのと同様の光景、いやむしろ視界が画面で見るより広い分、音が周囲から押し寄せてくる分、はるかに絶望感が大きく思える。
本来の道は川に向けてやや下りになっていて、ありがちなややアーチ型になった物では無く比較的高くない位置で平坦な橋が川に掛かっていたと思われる。
もともと水量がさほど多くなく川幅がいくらか広い故にここまで水位が上がる事など無かったのだろう。
今回の事が気象の異常からなのか人間の土地開発の結果なのか原因は定かではないが、想定されなかった増水があったはずの橋を今や水面の下に隠してしまっている。
そしてそこに引っ掛かった堆積物や岩などが今かろうじて流木を引き止め、そこにしがみつく様にしている頼りなげな車をとどめて居た。
それは望遠レンズ越しでないからかテレビで見たよりもあまりにも小さく心細く思えた。
弟の名を叫びたいにもかかわらず息が上がってしまって声が出ない。
気持ちだけが暴流の中程に取り残された哀れな車に叫び声をぶつけている。
そこでますみはある事に気付く。
かなたの友達がいない。顔を出していた彼らがいないのだ。
「こら!ここは立ち入り禁止だ!なぜ入ってきた! 」
突然の声に振り替えると橙色のつなぎを着た大男が顔をしかめていた。
意識が狭まり過ぎていて気付かなかったのだがその場には真っ赤な特殊車両が停まっていた。こんな巨大な物さえ目に入らなかった自分に驚く。
肩で息をしていたますみだが、何とか息を整えて川を指さす。
「弟が!弟が取り残されているんです! 」
「落ち着きなさい。もうすでに二人子供を救助しました。あなたの弟かもしれない、あちらに居ます」
指さされた先の救急車にを向くとますみは即座に走りかけ、いったん止まると深々頭を下げて再び走った。耳元で悪魔の舌打ちが聞こえた。
後部が開いた救急車を覗くと中の者が一斉にこちらを向いた。
「委員長! 」
その名で呼ぶのは弟ではない。毛布をかぶっている二人は両方ともかなたの友達だった。
「委員長!かなたが!まだ車の中で!先生も! 」
喉の奥に湧き上がる痛みを噛み殺しながらますみは精いっぱい笑顔を作った。
「大変な目に合いましたね、よく頑張りました。二人が無事助かって本当に良かったです。かなたや先生の心配は要りません、必ず助かります。だから後は大人に任せて安心してくださいね。申し訳ありませんが私はやる事があるので失礼しますね」
ゆっくり踵を返しながらますみは奥歯をかみしめた。
そして先ほどのレスキュー隊員の元に戻るとはやる気持ちをめいっぱい抑え込んで言葉足らずながら静かに切り出した。
「弟の友達二人を助けて下さいまして本当にありがとうございました。所で残りの二人の救出は続けていないのは訳があるのですか? 」
すると相手は必ず救い出しますと言った後でただと続けた。
「あの車は見た目ほどしっかり止まっているわけではなさそうでね、子供二人を救出する時車をひっかけている流木に隊員が乗ったのだが、流れの影響でそこそこ揺れていてね、それでもまだあの子達は意識があったからはしご車のバスケットに乗り込めたが、残っている男性と川側の席にいるもう一人の子供、多分あなたの弟さんだな、その二人は意識を失ってしまっていてね、傾いた車内でシートベルトを外して引っ張り出すなんて作業をしたはずみで流木から車が外れて沈んでしまわないか危惧しているんだ」
専門家の意見に素人のますみが異を唱えて良いのか判断がつかないが、気持ちがそれを許さなかった。
「でもこのままでもいつ流されてしまうのかわかりません! 」
「それもわかっています。だが急いては事を仕損じるともいうようにうかつなことをするわけにはいかないのです。人命がかかっていますからね」
ますみの心に渦巻く不安と苛立ちを敏感に感じ取り悪魔が囁く。
「意識を失うような状況になったんなら大怪我をしているかもな、出血がひどければ時間が経つほど助かる可能性が減るぞ?例えそうでなくともお前の弟の体が水に浸かっていないと言い切れるのか?意識の無い状態で水に浸かっていたら体温の低下は著しいだろうな。おいよお姉ちゃん、それって可愛い可愛いかなた君の命が削られて行ってるって事じゃないのか?こんな赤の他人の意見を聞き入れて悠長に構えていていいのか?よし!この方法なら助かるぞ!それ救出だー!となった時にもうあの良い子の命の炎が消えていないと良いけどなぁ」
「やめなさいエスレフェス」
「意地悪で言ってるんじゃないぜ小娘。あながち間違っていないかもしれないだろ。可能性の一つだ。大きな大きな可能性のな。ハハハハハ」
「あなたの力は借りません! 」
突如大声を上げたますみにレスキュー隊員が目を丸くしたので慌てて否定する。
「あ、いえ、違うのです。よろしくお願いします」
頭を下げた後ますみは踵を返し、荒れ狂う流れの方に向かおうとしたがすぐに腕をつかまれる。
「危険だから救助者のもとに居なさい」
「危険なのは私ではありません。かなたです!私が何とかしなくては、あの子はきっと私を待っています」
「常識でものを考えなさい。素人があんな所まで行けるわけがないでしょう。我々に任せておきなさい」
この人の言う事は多分正しいのだろう、それはますみにも理解できる。理解はできても納得ができないのだ。
「ダメじゃないか勝手に入り込んで」
警官たちが追い付いてきた。
「先導はしたけれど、だからこそ我々のそばにいてもらわなくては困る」
苦い顔の警官達に素直に詫びた後ますみは再び川を指示した。
「かなたが、弟がまだあそこにいるのです」
「あの車は危ういバランスの上で引っかかっていましてね、一人、つまり運転席にいる男性を救出することでそれが崩れて流される恐れがあるのです」
レスキュー隊員が警官に説明するが、だからと言って交番勤務の警官に出来ることなど何もない。
「ならこういうのはどうでしょう。自動車にワイヤーをかけて流木に固定するというのは」
ますみの意見に隊員は首を振った。
「その作業自体がバランスを崩す可能性がある。固定した後ずり落ちてなんてなったら車が流木の下側で錘の役目になって水面に出なくなる可能性も考えられる。」
今度は警官が言った。
「クレーンで釣り上げるってのはどうだろう。中の人はシートベルトで固定されているでしょう」
隊員は良い顔を向けなかった。
「川のほぼ中央にある重量物をここから傾く事無く吊り上げる事が出来るほどの重機を用意できるかというと現実的ではないと言えましょう」
「ヘリはどうだろう」
隊員は首を振った。
「釣り上げる為のハーネスが付けられそうにない。仮にどうにかして付けられたとして、ヘリの釣り上げられる重量はおよそ3トン、車体が2トン程度だとして、流木から外れた際にこの暴流がたたきつける圧力を考慮したらヘリが無事であるかどうか……。ましてや現在この状況だ、不規則な谷間風で飛べるかどうかさえ危ういです」
ますみは必死に考えた。そしてまとまる前に思いついた物をすぐ口に出した。
「流木を固定してはどうでしょう。ワイヤーを両岸に渡して流木に掛けるんです。そしてフロートを車に取り付けて沈まないようにさせれば流木につなぐこともできるのでは」
レスキュー隊員は思案するように空を見上げた。
「救助用ゴムボートならフロートに使えそうだが、一艇しかない……。車を浮かべるとなると四艇は欲しい所だな……」
「すぐに用意できますか!? 」
「要請を出してみよう。ただ付けるにしてもどこに、そしてこの荒れ狂う流れの中でどうやって付けるかだな。場合によっては付けたことが仇になって流されかねない……」
ますみの表情がどんどん曇って行く。
何もできない、手が届きそうな所弟がいると言うのに届かない、そして多分こうしている間に状況は悪い方に進んでいるだろうに……。
「先輩、なんかおかしくないっすかね」
川の方を向いていた若い警官がつぶやくように言った。
「さっきまでこの下った道のあの辺りまで水かぶっていたと思うんですよ。けど見て下さい今、ほら、泥の跡が水面より上に見えますでしょう?これって水位下がってんじゃないですかね」
「増水していたのが落ち着いてきたって事か。委員長、良かったですね。このままいけば水がすっかり引くかもしれませんよ」
先輩警官の声にますみは川に振り返った。
言われてみれば先ほどより水位が下がったように見える。いや、明らかに下がっている。この短時間に!
「ああ…… 神様……」
ますみは無意識に十字を切って祈りをささげた。
所がレスキュー隊員は眉をひそめ、そして部下らしき人物に指示を出した。
はしご車のバスケットに隊員二人が乗り込み、それは川の真ん中に向かって伸ばされて行く。
「どうしたんですか急に……」
ますみの不安な声に取り合わず、隊員はバスケットに載った人物に無線で指示を出している。
邪魔をしては良くないと川の方に向くと、そう知ったからかますみがたどり着いた時よりも水位が下がって見えた。水面が下がり過ぎたら流木から落っこちてしまうのではないかとますみは幾らか不安になった。
川に向かって水没した道の泥水が跳ねるそばまで近づいてますみはレスキュー隊員の動作を見守った。
知らず知らずのうちに胸の前で手を合わせてしまう。
危ないからこちらに戻りなさいと警官に腕を引かれるも、視線が川の中に溺れかけている車と今そこにたどり着いた隊員から離せない。
車をひっかけている流木の上に乗った二人のうち一人の隊員は、後部座席の窓から手を突っ込んで前部座席の扉のロックを外している所だった。
ロックを外されたドアを開けると彼は車に体を突っ込んだ。ここからは見えないが多分かなたの担任の締めているシートベルトを外しているのだろう。もしこの時に車体のバランスが崩れてしまえば流木から車が離れてしまいかねない、隊員は車内に体重をなるべくかけないようにしているのだろう。もう一人が彼の体を支えてフォローしている。
やがて作動後のしぼんだエアバッグをひっかけながら男性の上半身がゆっくりひっぱりあげられてゆく。
意識の無い人間と言うものはとにかく扱いにくく思う以上に重たいのを眠っている子供を運んだ覚えがあるますみは思い出す。ましてや相手が成人男性で、今回の様なおかしな体勢のものを自由にならない状態で引っ張り上げるなんて事は至難の業なのだろう。ともすれば傾いた車内の奥に転がり落してしまいかねない、そのデリケートでかつ労力の要る作業に見ているますみまで力がこもった。
実際はそう長くないはずのじれったい時間がゆっくり流れ、そしてようやくかなたの担任が車外に担ぎ出されたのを見た時、見守る者たち全員からため息が漏れた。
何とかその間、車はずり落ちる事無く持ちこたえ、流木もその場を動く事はしなかった。
隊員はレスキューストレッチャーに救助者を固定し、二人掛かりでバスケットに今ようやく乗せることに成功した。
「ほ…… あれこれ心配するよりやってみるもんだな、思った以上にすんなり事が運んだじゃないか……」
「先輩、一人だからですよ。もう一人助ける必要があるんです。これで事態がおかしくなったら困るって憂慮だったんですからね」
「けどバランス崩れてないみたいじゃないか」
警官たちがレスキュー隊員の活躍にそんなことを言い合っていたが、ますみはまだ気が気ではなかった。
はしご車のバスケットから担任が下ろされると救護班がすぐ受け取り、救急車に運んで行った。
問題はここからだ。かなたは助手席側に座っている。これは流木と言う足場とは反対側で、しかも傾きの為位置が低いのだ。狭い車内でかなたを身柄を確保することが容易にできるのだろうか、意識の無いかなたの体を移動させる為にはどうしても車内に入り込む必要があるだろう。その時に車はバランスを崩さないだろうか。ドアを開けてすぐの所で座っていた担任に比べてかなたの救出は難易度が段違いに跳ね上がるのではなかろうか。
所がレスキュー隊は担任を救出した直後に再びはしご車を動かした。
先程の慎重さが嘘のようだ。ますみはそれが気になった。
「あの…… かなたは、弟は助かるんですよね……? 」
「助けます! 」
隊員の切迫した表情がますみの不安を煽る。
車を見つめるしかないますみ、その車は水位がさらに下がったからなのか先ほどよりも傾いで見えた。
それは唐突だった。
胃の奥から湧き上がる様な心地悪さが全身を襲う。ついで地面が気味悪い振動を伝えてくる。聞こえない低周波が可聴域の轟音に変わるまでさしたる間もなく、そしてそれは酷く湿気った暴風と共にますみ達の前を暴力的に通過した。
慌てて高度を上げられるはしご車のバスケットの下で生々しい泥の匂いが跳ね上がる。
水位が下がっていた川は今や膨れ上がった土砂によって前よりも1m以上高い位置で暴れまわり、さながら救助に当たる者に敵意をむき出したかのようであり、水面から幾らか高いところに居たますみ達でさえ随分道を上る必要があった。
土石流だ。上流で堆積物が流れを遮り、そのため水位が徐々に下がっていたのだ。しかし押し寄せる流れに耐えきる事が出来ずそれらが一気に流れ出したのである。レスキュー隊はこれを危惧していたのだ。
「かなたぁぁぁぁっ!!かなたあああああああああっ!! 」
半狂乱の金切り声が自分の物である認識も無いままのますみの視線の先で今まさに土砂に乗って流されてきた流木が弟を閉じ込めた車のかなたの座る側の席にしたたかにぶつかった。
激しい土砂の跳ね飛ぶ中、ドアは大きくへこみ、窓にはエアバッグが張り付いたのが見えた。
大きな衝撃を受け車体はこれまでそれを支えていた流木を押し流し、自らはぶつかってきた流木に押されるままに倒れ、右半分を土砂の中に埋もれさせて、そしてゆっくりと下流に向かいだした。
「かなた!かなたぁ!!かなたああああああっ!! 」
飛び込みそうな勢いで川に走ろうとしたますみを危うく警官が捕まえる。
「危ない!落ち着きなさい! 」
「かなたが!かなたがっ!あああああっ!! 」
およそ中学生の少女とは思えない想像を絶する力で大人の男の拘束を跳ねのけるとますみは辺りを見回し、そして幾らか道を戻った所にあった個人が畑か林に入る為に使っているであろう人一人が登れるような細い階段を駆け上がった。
本来の道は川に掛かる橋しかなかったが、ここを上がってみると随分高い位置になってしまうが川沿いに未舗装の路地が作られていた。もっとも個人の敷地のものであるので不法侵入のはずだが今のますみはかなたを追う事しか考える事が出来なかった。
肺の中に火を放り込まれたかの様な熱を覚えながらもますみはお世辞にも歩きやすいとは言えない場所を狂ったように駆け抜けた。
木々の間に垣間見える土石流の中、頼りなくも何とか顔を出しつつ流されてゆく車の側面を、遠ざかってゆくそれを追いながら、ますみは転がる様に走った。
手入れのされていない獣道の様な細いそれを、張り出した枝や下草であちこち切り傷を作りながらも、それに気づく事も無くただ追いつく事だけに必死だった。
やがて道は途切れ、雑木林に変わり足元が危うくなってもますみは意に介さなかった。
川に沿うようにただただ必死に走る。思う様に足が上がらない、動くのが遅すぎると思う事はあっても息が苦しいなどとは全く思わなかった。体中がチリチリと燃える様で、見える景色がやたら狭くて、川の音以外何も聞こえないが、それがいつもと違うと言う事さえますみは気づく余裕がなかった。
大切な弟が鉄の檻に閉じ込められたまま連れ去られてしまう。そんな事を許して良い訳が無い。
頭の中でかなたの声が様々に響く。自分を慕う声、笑う声、困った時の声。気遣う声、そして、助けを求める声!
色を失う視界の中で、ますみは声もなくかなたの名を叫び続けた。
滅茶苦茶な呼吸の為声が出る事は無かったのだが、代わりにそれが全部涙になって辺りにばら撒かれていた。
藪に突っ込んでも木の根に足を取られても、ますみは決して転倒しなかった。足をくじきかけたが強引に立て直し、良し悪しを確かめる事無くそのまま全力で走り続けた。
やがて視界が開けるとそこは崖になっていた。いや正確には擁壁だ。目測でますみの背丈の三、四倍の高さがあり、下には一車線の道路が通っていて、それが川沿いにずっと続いている。そしてこの地点からは流されて行く車の姿が見て取れた。
「お、おい、変な気を起こすなよ?石の地面だ、打ち所が悪きゃこの高さだってただじゃ済まねぇぞ?おい」
悪魔が道とますみを見比べたがますみに躊躇など無かった。
ヘリにぶら下がる様にすると手を放すなり向きを変え、小刻みに急な斜面を駆け下り、地表近くで思い切り前方へ飛んだ。パルクールの着地を見様見真似でやろうとしたのだが当然経験の無いますみに可能な筈も無く、前転する事が出来ずに見事に転倒した。だがそれでも力の向き方は変わっていた様ですぐに身を起こす事が出来る。今のますみに痛みなど無かった。
「居たなぁ…… アッラーの信徒に痛みを忘れちまう奴らが……」
悪魔が呆れる事などお構いなしにますみは川沿いの道を走る。
いくらますみの心が痛みを無視した所で体そのものの疲労やダメージの蓄積はそのまま身体能力のパフォーマンスに現れてくる。本来の能力を超える力を出し続けて来たのならばなおさらだ。
急に上がらなくなる足に苛立ちを覚えながらますみの意志はそれでも前を目指した。その思いを神が汲み取ったのか否か、前方に追いかけていたものが見えてくる。
「かなた! 」
声には出なかったが確か見ますみはそう叫んだ。
動かなくなってきていた体が再び息を吹き返す。同時に全身に不自然な感覚が、あたかも自分の体ではない様な重さがのしかかるが、そんな事は後回しだとばかりにますみは走った。
先を行く車は轟音を上げて流れる土砂から何とか顔を出しながら揺れる様に進んでいる。沈まないのは伏せた洗面器の様に車内に空気が残っているせいなのかもしれない。そしてその流れる速度が遅くなっているのは川底の方の堆積物の量が増え底が浅くなっているからなのか、あるいは車より下側に岩でも転がっていてそれに引っ掛かっているのかそれはわからない、ただ走って追いつく可能性が出てきた事にますみは感謝した。
もう少しだ。もう少しでたどり着きそうなのだ、なのに止まらない。止まってさえくれたら届くのに。でも必ず追いつく!
だが現実は追いつく前に体が悲鳴を上げた。膝が上がらなかった。
驚くほど劇的に転倒し、そのままアスファルトの上を滑ったますみは身を起こそうとして体が言う事を聞かない事に気付いた。
耳元で馬鹿みたいな速度で心音が鳴っている。今になって体中の血液がおかしな圧力で脈打っているのが実感する。声が出ない。そもそも息が整っていない事をこの時に自覚する。そうなってみておぞましい程の疲労と痛みが受け止めきれない重さの重石の様にのしかかって来て小さな悲鳴を上げた。
言葉が出ないものだから頭の中でだけますみは叫ぶ。
「かなた!かなた!私が行かないと!かなたが流されてしまう! 」
だが体は全く言う事を聞かない。むしろ今まで聞いていたのがおかしいくらいなのだがますみにはそれが理解できない。
と、視界全体を悪魔の顔が覆いつくした。
「お前はここまでだ。あの小僧を助ける道はひとつ。わかるな」
ただ荒い息を繰り返しながらますみは神の名をなぞった。
「早く助けてあげないと可愛い可愛いかなた君が泥水に沈んじまうぞ? お姉ちゃーん、お姉ちゃーん、助けて―! 」
哀れな少年の声を真似て、悪魔はにやにやと笑った。
刹那、ますみは眉を吊り上げて身を起こしていた。そして悪魔に目もくれず再び走った。
体をよろつかせ、だが次の瞬間にはしっかりと、ますみは弟を追った。
「嘘だろ…… 何者だよあいつは……」
ますみの視線の先で小さな奇跡は起こっていた。
止まっていたのだ。車は何かに引っ掛かって川の中程で止まっていたのだ。
「かなた! 」
車の引っかかっているあたりの川岸までたどり着いたますみは弟の安否を確認しようとしたが、窓が上を向いてしまっているうえにエアバッグのせいで中は全く見えなかった。
「目を覚ましてかなた! 」
声に出したつもりでも実際は荒い息しか出ていない。がすぐに思い立って携帯に手を伸ばす。コール音で意識を回復してくれればと。
「よした方がいいんじゃねぇか? 」
悪魔が後ろから声を掛けた。
「あいつが意識を取り戻したとして、じゃぁそれでどうするよ。考えても見ろ。窓を開けたら十中八九泥に沈むな。さっきの連中が気付いてここまで来るかどうかもわからねぇ。来るにしろそれまであの乗り物があそこに留まっているかもわからねぇ。来たところで窓を開けたら沈んでしまうしな。わかってんだろ。今確実にあいつを助ける方法は一つしかねぇ」
まだ声が出せないますみは悪魔を睨んだが悪魔はその心の声を聴いていた。
「いや、しておけよ、契約をよ。俺は裏切らない。必ずお前の弟を助けてやる」
「かなたは…… はぁ はぁ 助かり…… ます! はぁ はぁ 」
「どうかな」
悪魔が言い終わらないうちに風が吹いた。それと共にさらなる土石流が川を襲った。たちまち水位が上がり、かなたのいる車が大きく持ち上がった後、先ほどよりも沈んだ状態で止まった。
「卑怯です!エスレフェス! 」
「そう思いたいのはわかるがな、今のは俺じゃない。本当だ。脅迫は契約じゃないからな。神の意志なんじゃないのか?ん? 」
「神様はかなたを私から奪ったりはしません! 」
声がしっかり出るようになったますみはそう叫んだ。
「それはお前の願望だな。言ったろ?これはお前に対する試練かもしれないってな。お前の信仰を試す為なのか、それとも苦難を乗り越えさせてお前を鍛える為なのか、それは俺にもわからんが、神はお前に弟を差し出す様に言っているのかもしれんぞ? 」
「悪魔のまやかしなど聞きません! 」
悪魔は顔を寄せた。
「じゃぁ神の仕業じゃないとしよう。一度言ったよなぁ。こんな事故は世界中に日常的に起こっている。お前にとってそうではなくとも世界的な事件でも何でもないんだ。他の奴らはあの絵が出る板の前でお前の弟が死んだ事を心に波風立てる事無く飯でも食いながら聞き、明日何して遊ぼうかなぁなんて考えるのがオチだ。可愛い可愛いかなた君が死ぬのは世の中にとってどーでもいい事なんだよ。そんなどーでもいい事に神がいちいち救いを出すと思うか?お前だってそうだろう。ウィスコンシン州のスミス夫人の飼いネコが死んだからって大騒ぎするか?けどな、スミス夫人にとっては人生を揺るがす大事件ってもんだ。わかるだろう? 」
「かなたは死にません! 」
ますみは悪魔の顔を押しのけガードレールに張り付いた。
「おい馬鹿!何をする気だ!お前が飛び込んだ所で助かるわけないだろ!え?それとも何か?イエスの真似をして水の上に立つつもりだってのか?やめとけ!あの小僧だけじゃなくお前まで溺れ死ぬ事になるぞ小娘」
「通行止め標識置いちゃってあるなぁ…… あ、お財布出さなくていいから。メーター回してなかったしね」
運転手の言葉に礼を言うとますみは転がるように車外に出た。
前に止まっていたパトカーにも頭を下げると驚くべき走力で前方へ走る。
その場にいた交通誘導員が慌てて制止しようとするが、疾風の様に疾駆する少女を捉える事は出来ず、残された謝罪の言葉を聞き終わった時にはもう追う事をあきらめざるを得ない距離が離されていた。
「先輩、なんか行かせちゃいましたけど良いんですか? 」
後輩の言葉にパトカーの運転席にいた警官がさすがに良くないなと漏らした。
「市民の安全は俺たちの義務だからな。追うか……」
交通誘導員も警官もはるか後方に残したままますみは道なりに進んだ。
圧迫感を伴う不安と全力疾走が少女の心臓に多大な負荷をかけて呼吸がやたら乱れ、気管の内部が空気の摩擦で削がれている様な感覚を感じながら走った。
激しい水音はすぐに大きく聞こえる様になり、その光景を目の当たりにするまではあっという間だった。
テレビで見たのと同様の光景、いやむしろ視界が画面で見るより広い分、音が周囲から押し寄せてくる分、はるかに絶望感が大きく思える。
本来の道は川に向けてやや下りになっていて、ありがちなややアーチ型になった物では無く比較的高くない位置で平坦な橋が川に掛かっていたと思われる。
もともと水量がさほど多くなく川幅がいくらか広い故にここまで水位が上がる事など無かったのだろう。
今回の事が気象の異常からなのか人間の土地開発の結果なのか原因は定かではないが、想定されなかった増水があったはずの橋を今や水面の下に隠してしまっている。
そしてそこに引っ掛かった堆積物や岩などが今かろうじて流木を引き止め、そこにしがみつく様にしている頼りなげな車をとどめて居た。
それは望遠レンズ越しでないからかテレビで見たよりもあまりにも小さく心細く思えた。
弟の名を叫びたいにもかかわらず息が上がってしまって声が出ない。
気持ちだけが暴流の中程に取り残された哀れな車に叫び声をぶつけている。
そこでますみはある事に気付く。
かなたの友達がいない。顔を出していた彼らがいないのだ。
「こら!ここは立ち入り禁止だ!なぜ入ってきた! 」
突然の声に振り替えると橙色のつなぎを着た大男が顔をしかめていた。
意識が狭まり過ぎていて気付かなかったのだがその場には真っ赤な特殊車両が停まっていた。こんな巨大な物さえ目に入らなかった自分に驚く。
肩で息をしていたますみだが、何とか息を整えて川を指さす。
「弟が!弟が取り残されているんです! 」
「落ち着きなさい。もうすでに二人子供を救助しました。あなたの弟かもしれない、あちらに居ます」
指さされた先の救急車にを向くとますみは即座に走りかけ、いったん止まると深々頭を下げて再び走った。耳元で悪魔の舌打ちが聞こえた。
後部が開いた救急車を覗くと中の者が一斉にこちらを向いた。
「委員長! 」
その名で呼ぶのは弟ではない。毛布をかぶっている二人は両方ともかなたの友達だった。
「委員長!かなたが!まだ車の中で!先生も! 」
喉の奥に湧き上がる痛みを噛み殺しながらますみは精いっぱい笑顔を作った。
「大変な目に合いましたね、よく頑張りました。二人が無事助かって本当に良かったです。かなたや先生の心配は要りません、必ず助かります。だから後は大人に任せて安心してくださいね。申し訳ありませんが私はやる事があるので失礼しますね」
ゆっくり踵を返しながらますみは奥歯をかみしめた。
そして先ほどのレスキュー隊員の元に戻るとはやる気持ちをめいっぱい抑え込んで言葉足らずながら静かに切り出した。
「弟の友達二人を助けて下さいまして本当にありがとうございました。所で残りの二人の救出は続けていないのは訳があるのですか? 」
すると相手は必ず救い出しますと言った後でただと続けた。
「あの車は見た目ほどしっかり止まっているわけではなさそうでね、子供二人を救出する時車をひっかけている流木に隊員が乗ったのだが、流れの影響でそこそこ揺れていてね、それでもまだあの子達は意識があったからはしご車のバスケットに乗り込めたが、残っている男性と川側の席にいるもう一人の子供、多分あなたの弟さんだな、その二人は意識を失ってしまっていてね、傾いた車内でシートベルトを外して引っ張り出すなんて作業をしたはずみで流木から車が外れて沈んでしまわないか危惧しているんだ」
専門家の意見に素人のますみが異を唱えて良いのか判断がつかないが、気持ちがそれを許さなかった。
「でもこのままでもいつ流されてしまうのかわかりません! 」
「それもわかっています。だが急いては事を仕損じるともいうようにうかつなことをするわけにはいかないのです。人命がかかっていますからね」
ますみの心に渦巻く不安と苛立ちを敏感に感じ取り悪魔が囁く。
「意識を失うような状況になったんなら大怪我をしているかもな、出血がひどければ時間が経つほど助かる可能性が減るぞ?例えそうでなくともお前の弟の体が水に浸かっていないと言い切れるのか?意識の無い状態で水に浸かっていたら体温の低下は著しいだろうな。おいよお姉ちゃん、それって可愛い可愛いかなた君の命が削られて行ってるって事じゃないのか?こんな赤の他人の意見を聞き入れて悠長に構えていていいのか?よし!この方法なら助かるぞ!それ救出だー!となった時にもうあの良い子の命の炎が消えていないと良いけどなぁ」
「やめなさいエスレフェス」
「意地悪で言ってるんじゃないぜ小娘。あながち間違っていないかもしれないだろ。可能性の一つだ。大きな大きな可能性のな。ハハハハハ」
「あなたの力は借りません! 」
突如大声を上げたますみにレスキュー隊員が目を丸くしたので慌てて否定する。
「あ、いえ、違うのです。よろしくお願いします」
頭を下げた後ますみは踵を返し、荒れ狂う流れの方に向かおうとしたがすぐに腕をつかまれる。
「危険だから救助者のもとに居なさい」
「危険なのは私ではありません。かなたです!私が何とかしなくては、あの子はきっと私を待っています」
「常識でものを考えなさい。素人があんな所まで行けるわけがないでしょう。我々に任せておきなさい」
この人の言う事は多分正しいのだろう、それはますみにも理解できる。理解はできても納得ができないのだ。
「ダメじゃないか勝手に入り込んで」
警官たちが追い付いてきた。
「先導はしたけれど、だからこそ我々のそばにいてもらわなくては困る」
苦い顔の警官達に素直に詫びた後ますみは再び川を指示した。
「かなたが、弟がまだあそこにいるのです」
「あの車は危ういバランスの上で引っかかっていましてね、一人、つまり運転席にいる男性を救出することでそれが崩れて流される恐れがあるのです」
レスキュー隊員が警官に説明するが、だからと言って交番勤務の警官に出来ることなど何もない。
「ならこういうのはどうでしょう。自動車にワイヤーをかけて流木に固定するというのは」
ますみの意見に隊員は首を振った。
「その作業自体がバランスを崩す可能性がある。固定した後ずり落ちてなんてなったら車が流木の下側で錘の役目になって水面に出なくなる可能性も考えられる。」
今度は警官が言った。
「クレーンで釣り上げるってのはどうだろう。中の人はシートベルトで固定されているでしょう」
隊員は良い顔を向けなかった。
「川のほぼ中央にある重量物をここから傾く事無く吊り上げる事が出来るほどの重機を用意できるかというと現実的ではないと言えましょう」
「ヘリはどうだろう」
隊員は首を振った。
「釣り上げる為のハーネスが付けられそうにない。仮にどうにかして付けられたとして、ヘリの釣り上げられる重量はおよそ3トン、車体が2トン程度だとして、流木から外れた際にこの暴流がたたきつける圧力を考慮したらヘリが無事であるかどうか……。ましてや現在この状況だ、不規則な谷間風で飛べるかどうかさえ危ういです」
ますみは必死に考えた。そしてまとまる前に思いついた物をすぐ口に出した。
「流木を固定してはどうでしょう。ワイヤーを両岸に渡して流木に掛けるんです。そしてフロートを車に取り付けて沈まないようにさせれば流木につなぐこともできるのでは」
レスキュー隊員は思案するように空を見上げた。
「救助用ゴムボートならフロートに使えそうだが、一艇しかない……。車を浮かべるとなると四艇は欲しい所だな……」
「すぐに用意できますか!? 」
「要請を出してみよう。ただ付けるにしてもどこに、そしてこの荒れ狂う流れの中でどうやって付けるかだな。場合によっては付けたことが仇になって流されかねない……」
ますみの表情がどんどん曇って行く。
何もできない、手が届きそうな所弟がいると言うのに届かない、そして多分こうしている間に状況は悪い方に進んでいるだろうに……。
「先輩、なんかおかしくないっすかね」
川の方を向いていた若い警官がつぶやくように言った。
「さっきまでこの下った道のあの辺りまで水かぶっていたと思うんですよ。けど見て下さい今、ほら、泥の跡が水面より上に見えますでしょう?これって水位下がってんじゃないですかね」
「増水していたのが落ち着いてきたって事か。委員長、良かったですね。このままいけば水がすっかり引くかもしれませんよ」
先輩警官の声にますみは川に振り返った。
言われてみれば先ほどより水位が下がったように見える。いや、明らかに下がっている。この短時間に!
「ああ…… 神様……」
ますみは無意識に十字を切って祈りをささげた。
所がレスキュー隊員は眉をひそめ、そして部下らしき人物に指示を出した。
はしご車のバスケットに隊員二人が乗り込み、それは川の真ん中に向かって伸ばされて行く。
「どうしたんですか急に……」
ますみの不安な声に取り合わず、隊員はバスケットに載った人物に無線で指示を出している。
邪魔をしては良くないと川の方に向くと、そう知ったからかますみがたどり着いた時よりも水位が下がって見えた。水面が下がり過ぎたら流木から落っこちてしまうのではないかとますみは幾らか不安になった。
川に向かって水没した道の泥水が跳ねるそばまで近づいてますみはレスキュー隊員の動作を見守った。
知らず知らずのうちに胸の前で手を合わせてしまう。
危ないからこちらに戻りなさいと警官に腕を引かれるも、視線が川の中に溺れかけている車と今そこにたどり着いた隊員から離せない。
車をひっかけている流木の上に乗った二人のうち一人の隊員は、後部座席の窓から手を突っ込んで前部座席の扉のロックを外している所だった。
ロックを外されたドアを開けると彼は車に体を突っ込んだ。ここからは見えないが多分かなたの担任の締めているシートベルトを外しているのだろう。もしこの時に車体のバランスが崩れてしまえば流木から車が離れてしまいかねない、隊員は車内に体重をなるべくかけないようにしているのだろう。もう一人が彼の体を支えてフォローしている。
やがて作動後のしぼんだエアバッグをひっかけながら男性の上半身がゆっくりひっぱりあげられてゆく。
意識の無い人間と言うものはとにかく扱いにくく思う以上に重たいのを眠っている子供を運んだ覚えがあるますみは思い出す。ましてや相手が成人男性で、今回の様なおかしな体勢のものを自由にならない状態で引っ張り上げるなんて事は至難の業なのだろう。ともすれば傾いた車内の奥に転がり落してしまいかねない、そのデリケートでかつ労力の要る作業に見ているますみまで力がこもった。
実際はそう長くないはずのじれったい時間がゆっくり流れ、そしてようやくかなたの担任が車外に担ぎ出されたのを見た時、見守る者たち全員からため息が漏れた。
何とかその間、車はずり落ちる事無く持ちこたえ、流木もその場を動く事はしなかった。
隊員はレスキューストレッチャーに救助者を固定し、二人掛かりでバスケットに今ようやく乗せることに成功した。
「ほ…… あれこれ心配するよりやってみるもんだな、思った以上にすんなり事が運んだじゃないか……」
「先輩、一人だからですよ。もう一人助ける必要があるんです。これで事態がおかしくなったら困るって憂慮だったんですからね」
「けどバランス崩れてないみたいじゃないか」
警官たちがレスキュー隊員の活躍にそんなことを言い合っていたが、ますみはまだ気が気ではなかった。
はしご車のバスケットから担任が下ろされると救護班がすぐ受け取り、救急車に運んで行った。
問題はここからだ。かなたは助手席側に座っている。これは流木と言う足場とは反対側で、しかも傾きの為位置が低いのだ。狭い車内でかなたを身柄を確保することが容易にできるのだろうか、意識の無いかなたの体を移動させる為にはどうしても車内に入り込む必要があるだろう。その時に車はバランスを崩さないだろうか。ドアを開けてすぐの所で座っていた担任に比べてかなたの救出は難易度が段違いに跳ね上がるのではなかろうか。
所がレスキュー隊は担任を救出した直後に再びはしご車を動かした。
先程の慎重さが嘘のようだ。ますみはそれが気になった。
「あの…… かなたは、弟は助かるんですよね……? 」
「助けます! 」
隊員の切迫した表情がますみの不安を煽る。
車を見つめるしかないますみ、その車は水位がさらに下がったからなのか先ほどよりも傾いで見えた。
それは唐突だった。
胃の奥から湧き上がる様な心地悪さが全身を襲う。ついで地面が気味悪い振動を伝えてくる。聞こえない低周波が可聴域の轟音に変わるまでさしたる間もなく、そしてそれは酷く湿気った暴風と共にますみ達の前を暴力的に通過した。
慌てて高度を上げられるはしご車のバスケットの下で生々しい泥の匂いが跳ね上がる。
水位が下がっていた川は今や膨れ上がった土砂によって前よりも1m以上高い位置で暴れまわり、さながら救助に当たる者に敵意をむき出したかのようであり、水面から幾らか高いところに居たますみ達でさえ随分道を上る必要があった。
土石流だ。上流で堆積物が流れを遮り、そのため水位が徐々に下がっていたのだ。しかし押し寄せる流れに耐えきる事が出来ずそれらが一気に流れ出したのである。レスキュー隊はこれを危惧していたのだ。
「かなたぁぁぁぁっ!!かなたあああああああああっ!! 」
半狂乱の金切り声が自分の物である認識も無いままのますみの視線の先で今まさに土砂に乗って流されてきた流木が弟を閉じ込めた車のかなたの座る側の席にしたたかにぶつかった。
激しい土砂の跳ね飛ぶ中、ドアは大きくへこみ、窓にはエアバッグが張り付いたのが見えた。
大きな衝撃を受け車体はこれまでそれを支えていた流木を押し流し、自らはぶつかってきた流木に押されるままに倒れ、右半分を土砂の中に埋もれさせて、そしてゆっくりと下流に向かいだした。
「かなた!かなたぁ!!かなたああああああっ!! 」
飛び込みそうな勢いで川に走ろうとしたますみを危うく警官が捕まえる。
「危ない!落ち着きなさい! 」
「かなたが!かなたがっ!あああああっ!! 」
およそ中学生の少女とは思えない想像を絶する力で大人の男の拘束を跳ねのけるとますみは辺りを見回し、そして幾らか道を戻った所にあった個人が畑か林に入る為に使っているであろう人一人が登れるような細い階段を駆け上がった。
本来の道は川に掛かる橋しかなかったが、ここを上がってみると随分高い位置になってしまうが川沿いに未舗装の路地が作られていた。もっとも個人の敷地のものであるので不法侵入のはずだが今のますみはかなたを追う事しか考える事が出来なかった。
肺の中に火を放り込まれたかの様な熱を覚えながらもますみはお世辞にも歩きやすいとは言えない場所を狂ったように駆け抜けた。
木々の間に垣間見える土石流の中、頼りなくも何とか顔を出しつつ流されてゆく車の側面を、遠ざかってゆくそれを追いながら、ますみは転がる様に走った。
手入れのされていない獣道の様な細いそれを、張り出した枝や下草であちこち切り傷を作りながらも、それに気づく事も無くただ追いつく事だけに必死だった。
やがて道は途切れ、雑木林に変わり足元が危うくなってもますみは意に介さなかった。
川に沿うようにただただ必死に走る。思う様に足が上がらない、動くのが遅すぎると思う事はあっても息が苦しいなどとは全く思わなかった。体中がチリチリと燃える様で、見える景色がやたら狭くて、川の音以外何も聞こえないが、それがいつもと違うと言う事さえますみは気づく余裕がなかった。
大切な弟が鉄の檻に閉じ込められたまま連れ去られてしまう。そんな事を許して良い訳が無い。
頭の中でかなたの声が様々に響く。自分を慕う声、笑う声、困った時の声。気遣う声、そして、助けを求める声!
色を失う視界の中で、ますみは声もなくかなたの名を叫び続けた。
滅茶苦茶な呼吸の為声が出る事は無かったのだが、代わりにそれが全部涙になって辺りにばら撒かれていた。
藪に突っ込んでも木の根に足を取られても、ますみは決して転倒しなかった。足をくじきかけたが強引に立て直し、良し悪しを確かめる事無くそのまま全力で走り続けた。
やがて視界が開けるとそこは崖になっていた。いや正確には擁壁だ。目測でますみの背丈の三、四倍の高さがあり、下には一車線の道路が通っていて、それが川沿いにずっと続いている。そしてこの地点からは流されて行く車の姿が見て取れた。
「お、おい、変な気を起こすなよ?石の地面だ、打ち所が悪きゃこの高さだってただじゃ済まねぇぞ?おい」
悪魔が道とますみを見比べたがますみに躊躇など無かった。
ヘリにぶら下がる様にすると手を放すなり向きを変え、小刻みに急な斜面を駆け下り、地表近くで思い切り前方へ飛んだ。パルクールの着地を見様見真似でやろうとしたのだが当然経験の無いますみに可能な筈も無く、前転する事が出来ずに見事に転倒した。だがそれでも力の向き方は変わっていた様ですぐに身を起こす事が出来る。今のますみに痛みなど無かった。
「居たなぁ…… アッラーの信徒に痛みを忘れちまう奴らが……」
悪魔が呆れる事などお構いなしにますみは川沿いの道を走る。
いくらますみの心が痛みを無視した所で体そのものの疲労やダメージの蓄積はそのまま身体能力のパフォーマンスに現れてくる。本来の能力を超える力を出し続けて来たのならばなおさらだ。
急に上がらなくなる足に苛立ちを覚えながらますみの意志はそれでも前を目指した。その思いを神が汲み取ったのか否か、前方に追いかけていたものが見えてくる。
「かなた! 」
声には出なかったが確か見ますみはそう叫んだ。
動かなくなってきていた体が再び息を吹き返す。同時に全身に不自然な感覚が、あたかも自分の体ではない様な重さがのしかかるが、そんな事は後回しだとばかりにますみは走った。
先を行く車は轟音を上げて流れる土砂から何とか顔を出しながら揺れる様に進んでいる。沈まないのは伏せた洗面器の様に車内に空気が残っているせいなのかもしれない。そしてその流れる速度が遅くなっているのは川底の方の堆積物の量が増え底が浅くなっているからなのか、あるいは車より下側に岩でも転がっていてそれに引っ掛かっているのかそれはわからない、ただ走って追いつく可能性が出てきた事にますみは感謝した。
もう少しだ。もう少しでたどり着きそうなのだ、なのに止まらない。止まってさえくれたら届くのに。でも必ず追いつく!
だが現実は追いつく前に体が悲鳴を上げた。膝が上がらなかった。
驚くほど劇的に転倒し、そのままアスファルトの上を滑ったますみは身を起こそうとして体が言う事を聞かない事に気付いた。
耳元で馬鹿みたいな速度で心音が鳴っている。今になって体中の血液がおかしな圧力で脈打っているのが実感する。声が出ない。そもそも息が整っていない事をこの時に自覚する。そうなってみておぞましい程の疲労と痛みが受け止めきれない重さの重石の様にのしかかって来て小さな悲鳴を上げた。
言葉が出ないものだから頭の中でだけますみは叫ぶ。
「かなた!かなた!私が行かないと!かなたが流されてしまう! 」
だが体は全く言う事を聞かない。むしろ今まで聞いていたのがおかしいくらいなのだがますみにはそれが理解できない。
と、視界全体を悪魔の顔が覆いつくした。
「お前はここまでだ。あの小僧を助ける道はひとつ。わかるな」
ただ荒い息を繰り返しながらますみは神の名をなぞった。
「早く助けてあげないと可愛い可愛いかなた君が泥水に沈んじまうぞ? お姉ちゃーん、お姉ちゃーん、助けて―! 」
哀れな少年の声を真似て、悪魔はにやにやと笑った。
刹那、ますみは眉を吊り上げて身を起こしていた。そして悪魔に目もくれず再び走った。
体をよろつかせ、だが次の瞬間にはしっかりと、ますみは弟を追った。
「嘘だろ…… 何者だよあいつは……」
ますみの視線の先で小さな奇跡は起こっていた。
止まっていたのだ。車は何かに引っ掛かって川の中程で止まっていたのだ。
「かなた! 」
車の引っかかっているあたりの川岸までたどり着いたますみは弟の安否を確認しようとしたが、窓が上を向いてしまっているうえにエアバッグのせいで中は全く見えなかった。
「目を覚ましてかなた! 」
声に出したつもりでも実際は荒い息しか出ていない。がすぐに思い立って携帯に手を伸ばす。コール音で意識を回復してくれればと。
「よした方がいいんじゃねぇか? 」
悪魔が後ろから声を掛けた。
「あいつが意識を取り戻したとして、じゃぁそれでどうするよ。考えても見ろ。窓を開けたら十中八九泥に沈むな。さっきの連中が気付いてここまで来るかどうかもわからねぇ。来るにしろそれまであの乗り物があそこに留まっているかもわからねぇ。来たところで窓を開けたら沈んでしまうしな。わかってんだろ。今確実にあいつを助ける方法は一つしかねぇ」
まだ声が出せないますみは悪魔を睨んだが悪魔はその心の声を聴いていた。
「いや、しておけよ、契約をよ。俺は裏切らない。必ずお前の弟を助けてやる」
「かなたは…… はぁ はぁ 助かり…… ます! はぁ はぁ 」
「どうかな」
悪魔が言い終わらないうちに風が吹いた。それと共にさらなる土石流が川を襲った。たちまち水位が上がり、かなたのいる車が大きく持ち上がった後、先ほどよりも沈んだ状態で止まった。
「卑怯です!エスレフェス! 」
「そう思いたいのはわかるがな、今のは俺じゃない。本当だ。脅迫は契約じゃないからな。神の意志なんじゃないのか?ん? 」
「神様はかなたを私から奪ったりはしません! 」
声がしっかり出るようになったますみはそう叫んだ。
「それはお前の願望だな。言ったろ?これはお前に対する試練かもしれないってな。お前の信仰を試す為なのか、それとも苦難を乗り越えさせてお前を鍛える為なのか、それは俺にもわからんが、神はお前に弟を差し出す様に言っているのかもしれんぞ? 」
「悪魔のまやかしなど聞きません! 」
悪魔は顔を寄せた。
「じゃぁ神の仕業じゃないとしよう。一度言ったよなぁ。こんな事故は世界中に日常的に起こっている。お前にとってそうではなくとも世界的な事件でも何でもないんだ。他の奴らはあの絵が出る板の前でお前の弟が死んだ事を心に波風立てる事無く飯でも食いながら聞き、明日何して遊ぼうかなぁなんて考えるのがオチだ。可愛い可愛いかなた君が死ぬのは世の中にとってどーでもいい事なんだよ。そんなどーでもいい事に神がいちいち救いを出すと思うか?お前だってそうだろう。ウィスコンシン州のスミス夫人の飼いネコが死んだからって大騒ぎするか?けどな、スミス夫人にとっては人生を揺るがす大事件ってもんだ。わかるだろう? 」
「かなたは死にません! 」
ますみは悪魔の顔を押しのけガードレールに張り付いた。
「おい馬鹿!何をする気だ!お前が飛び込んだ所で助かるわけないだろ!え?それとも何か?イエスの真似をして水の上に立つつもりだってのか?やめとけ!あの小僧だけじゃなくお前まで溺れ死ぬ事になるぞ小娘」
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