9 / 48
幕間
しおりを挟む
ベビーベッドに覆いかぶさるようにして世話をする母の姿を姉になったばかりの幼い娘が離れた所から小さな唇を噛んで見つめていた。
いつもこうだ。ますみは眉を寄せ気味な表情でいた。
その様子に気付いた母親ははたと手を止めてそちらに顔を向ける。
「どうしたのますみ? 」
「ますみ、かなたくんきらーい! 」
口をへの字にして鼻の頭を赤くしている娘に菫は乳児のおむつを替えるのを途中で放り出して体ごとしっかり向き直った。
そしてそのままの流れでゆっくりますみの前まで来ると彼女の視線に降りた。
ますみがぷいっとそっぽを向く。
菫はできうる限りやわらかく、そして不快を感じさせないギリギリまで強く娘を抱きしめた。
「ごめんなさいねますみ。お母さんが間違っていましたね」
「おかあさんはわるくないよ! 」
ますみが慌てて顔を戻す。
「いいえ、これは全部お母さんのせい。ごめんなさいねますみ、大切な私のますみ。かなたが赤ちゃんだからって掛かり切りになって良い訳ありません。お母さんはかなたにそうするよりもっとますみに接するべきでした。寂しい思いをさせてしまいましたね」
ますみは答えずに自分を抱く母の肩に顔をうずめた。安心する香りに満たされる。
母親はそっとますみの頭を撫で、やがてゆっくり身を放した。そして娘の前髪をそっと優しくかきあげる。
「ますみはキスって知ってる? 」
「キス? 」
小首をかしげるますみに母は優しげに頷いた。
「そう、とっても特別な事よ。軽々しくする様な事では決してないの。唇を優しく付ける事ですよ。ほっぺへのキスは親しみのキス、唇へのキスは誓いのキス、そして……」
母親の唇はそっと娘の額に付けられ、しばらくそのままで居た。
やおらますみの視界に戻ってきた母は穏やかな表情のまま真っ直ぐな視線でこう告げた。
「額のキスは大切のキスです。ますみ、あなたはお母さんにとって何よりも大切な存在。そんなあなたに寂しい思いをさせてごめんなさいね。でも忘れないで。あなたはお母さんにとって特別な存在」
母の言葉は難しくてよくわからないがその思いは視線越しに伝わって来るようで幼いますみは額と胸の中に膨れ上がる熱を感じた。
「ますみはまだ二つなのにかなたの為にいっぱい我慢してくれましたね。お母さんはますみに甘えてしまいました。赦して下さい。悪いのはお母さんです。だからかなたの事は嫌わないで上げてね?あの子はね?お姉ちゃんの事が大好きなの。ますみからお母さんを取ってしまおうなんて思っていないのよ?ただまだ一人で何にも出来ないから、大人がいっぱい手伝ってあげなくてはいけないの」
ますみは小首を傾げた。
「ますみのことがすきなの? 」
「ええそうです、いらっしゃい」
抱き抱えられたますみがベビーベッドの所に来ると、おむつ交換を途中で放置されたままの赤子が手足をばたばたさせていた。
母に抱かれたままそちらを見ると相手もじっと見つめ返してきた。
「ますみ、ちょっと手伝ってくれますか?お母さんはおむつをちゃんとするので終わるまでかなたのお話相手をしてくれたらお母さん助かります」
ますみは母親と幼い弟の顔を交互に見た後いいよと答えた。
母親に頭を撫でられた後、ますみはあまり好きでもない赤子の顔をじっと眺めた。頭の毛も生えそろっておらず、異様に赤い肌は人間と言うよりもなんだか別の生き物のように見える。大人達はこぞって可愛いとか言うが、むくむくしていてちっともそう見えない。
母親の顔を見上げると彼女は信頼していますよと言う様な微笑みを返してくる。
ますみは困った表情で赤子を見た。
かなたが家に来た時、お姉ちゃんになったんだよと両親に言われ、さも喜ばしい様な事を言われたが、ますみにしてみたらそもそもその『お姉ちゃん』と言うものがなんだか分からない。どうすれば良いと言うのだ。
ますみはベビーベッドの柵の間から手を伸ばしてみた。するとバタバタしていた赤子の手がその指先を掴んだ。思った以上の力にますみは驚く。
「かなた、良かったわね。お姉ちゃんが遊んでくれるって。優しいお姉ちゃんですね」
再び母親の顔と赤子の顔を見比べるますみ。と、赤子と目があってしまった。
思わずへの字口になり眉が微かによるますみだったが、相手は違った。
口を大きく開けて目を無くして笑った。
ますみの指先を握ったまま手足をバタバタさせ作業している母親を慌てさせた。
「ほらねますみ、ますみの事が大好きなんだわ」
「かなたくん、ますみのことがすきなの? 」
ますみは柵の隙間から覗きこむ様に赤子に語りかける。
赤子の微笑み返しは感情からくるものではなく反射だ。しかしますみはそんな事は知らないしどうでもいい事だった。小さな手が自分の指先をぎゅっと握って放さない、自分がこの何もできない存在にとってすがらなくてはならない存在なのだと訴えられているように思えた。
「ほら、お姉ちゃんの事大好きだって」
母親の声にますみは表情を崩し、指先をゆすった。
「かなた、かなたー。いいこね…… 」
「良かったわねかなた、お姉ちゃんが遊んでくれて。ますみ、お手伝いしてくれてありがとう。もしますみが嫌でなかったらこれからも時々一緒にかなたのお世話手伝ってくれたらお母さんは嬉しいです」
ますみは母親に顔を向けるとにっこりしながら頷いた。
「ますみはおねえちゃんだもの」
それがますみの持ついちばん古い記憶。
自分が母親にとって大切だと理解したますみは母親がいくらか弟にかかりきりになる事があっても嫉妬する事は無くなった。
それどころか積極的に弟の世話や家事を手伝うようになった。
自分に代わって弟の面倒を見ようとするますみを菫は惜しみなく愛した。それはそのままますみの弟への愛情にも変わった。
それを受けたからなのか母親の言葉、『姉ちゃんが大好き』は本当になった。
かなたは歩けるようになると母親ではなくますみの後ばかり付いて回った。
ますみのやる事を何でも興味深そうに見ては真似をし、ますみが笑うと同じように笑い、不安そうな顔をしていれば同じ表情でぴったりとくっつき、何かの拍子に泣くような事があれば大声を上げて一緒になって泣いた。
ますみのおかげで自分は随分助けられていると母はよく漏らし、反発する事もなくおねえちゃんおねえちゃんと慕うかなたはますみに姉としての自覚と喜びを感じさせる様になって行った。
かなたは母親からますみに託された宝物なのだ。必ず守らなくてはならない。
ますみは一度小さく弟の名を呼ぶと追手の気配を背に決意を新たにした。
いつもこうだ。ますみは眉を寄せ気味な表情でいた。
その様子に気付いた母親ははたと手を止めてそちらに顔を向ける。
「どうしたのますみ? 」
「ますみ、かなたくんきらーい! 」
口をへの字にして鼻の頭を赤くしている娘に菫は乳児のおむつを替えるのを途中で放り出して体ごとしっかり向き直った。
そしてそのままの流れでゆっくりますみの前まで来ると彼女の視線に降りた。
ますみがぷいっとそっぽを向く。
菫はできうる限りやわらかく、そして不快を感じさせないギリギリまで強く娘を抱きしめた。
「ごめんなさいねますみ。お母さんが間違っていましたね」
「おかあさんはわるくないよ! 」
ますみが慌てて顔を戻す。
「いいえ、これは全部お母さんのせい。ごめんなさいねますみ、大切な私のますみ。かなたが赤ちゃんだからって掛かり切りになって良い訳ありません。お母さんはかなたにそうするよりもっとますみに接するべきでした。寂しい思いをさせてしまいましたね」
ますみは答えずに自分を抱く母の肩に顔をうずめた。安心する香りに満たされる。
母親はそっとますみの頭を撫で、やがてゆっくり身を放した。そして娘の前髪をそっと優しくかきあげる。
「ますみはキスって知ってる? 」
「キス? 」
小首をかしげるますみに母は優しげに頷いた。
「そう、とっても特別な事よ。軽々しくする様な事では決してないの。唇を優しく付ける事ですよ。ほっぺへのキスは親しみのキス、唇へのキスは誓いのキス、そして……」
母親の唇はそっと娘の額に付けられ、しばらくそのままで居た。
やおらますみの視界に戻ってきた母は穏やかな表情のまま真っ直ぐな視線でこう告げた。
「額のキスは大切のキスです。ますみ、あなたはお母さんにとって何よりも大切な存在。そんなあなたに寂しい思いをさせてごめんなさいね。でも忘れないで。あなたはお母さんにとって特別な存在」
母の言葉は難しくてよくわからないがその思いは視線越しに伝わって来るようで幼いますみは額と胸の中に膨れ上がる熱を感じた。
「ますみはまだ二つなのにかなたの為にいっぱい我慢してくれましたね。お母さんはますみに甘えてしまいました。赦して下さい。悪いのはお母さんです。だからかなたの事は嫌わないで上げてね?あの子はね?お姉ちゃんの事が大好きなの。ますみからお母さんを取ってしまおうなんて思っていないのよ?ただまだ一人で何にも出来ないから、大人がいっぱい手伝ってあげなくてはいけないの」
ますみは小首を傾げた。
「ますみのことがすきなの? 」
「ええそうです、いらっしゃい」
抱き抱えられたますみがベビーベッドの所に来ると、おむつ交換を途中で放置されたままの赤子が手足をばたばたさせていた。
母に抱かれたままそちらを見ると相手もじっと見つめ返してきた。
「ますみ、ちょっと手伝ってくれますか?お母さんはおむつをちゃんとするので終わるまでかなたのお話相手をしてくれたらお母さん助かります」
ますみは母親と幼い弟の顔を交互に見た後いいよと答えた。
母親に頭を撫でられた後、ますみはあまり好きでもない赤子の顔をじっと眺めた。頭の毛も生えそろっておらず、異様に赤い肌は人間と言うよりもなんだか別の生き物のように見える。大人達はこぞって可愛いとか言うが、むくむくしていてちっともそう見えない。
母親の顔を見上げると彼女は信頼していますよと言う様な微笑みを返してくる。
ますみは困った表情で赤子を見た。
かなたが家に来た時、お姉ちゃんになったんだよと両親に言われ、さも喜ばしい様な事を言われたが、ますみにしてみたらそもそもその『お姉ちゃん』と言うものがなんだか分からない。どうすれば良いと言うのだ。
ますみはベビーベッドの柵の間から手を伸ばしてみた。するとバタバタしていた赤子の手がその指先を掴んだ。思った以上の力にますみは驚く。
「かなた、良かったわね。お姉ちゃんが遊んでくれるって。優しいお姉ちゃんですね」
再び母親の顔と赤子の顔を見比べるますみ。と、赤子と目があってしまった。
思わずへの字口になり眉が微かによるますみだったが、相手は違った。
口を大きく開けて目を無くして笑った。
ますみの指先を握ったまま手足をバタバタさせ作業している母親を慌てさせた。
「ほらねますみ、ますみの事が大好きなんだわ」
「かなたくん、ますみのことがすきなの? 」
ますみは柵の隙間から覗きこむ様に赤子に語りかける。
赤子の微笑み返しは感情からくるものではなく反射だ。しかしますみはそんな事は知らないしどうでもいい事だった。小さな手が自分の指先をぎゅっと握って放さない、自分がこの何もできない存在にとってすがらなくてはならない存在なのだと訴えられているように思えた。
「ほら、お姉ちゃんの事大好きだって」
母親の声にますみは表情を崩し、指先をゆすった。
「かなた、かなたー。いいこね…… 」
「良かったわねかなた、お姉ちゃんが遊んでくれて。ますみ、お手伝いしてくれてありがとう。もしますみが嫌でなかったらこれからも時々一緒にかなたのお世話手伝ってくれたらお母さんは嬉しいです」
ますみは母親に顔を向けるとにっこりしながら頷いた。
「ますみはおねえちゃんだもの」
それがますみの持ついちばん古い記憶。
自分が母親にとって大切だと理解したますみは母親がいくらか弟にかかりきりになる事があっても嫉妬する事は無くなった。
それどころか積極的に弟の世話や家事を手伝うようになった。
自分に代わって弟の面倒を見ようとするますみを菫は惜しみなく愛した。それはそのままますみの弟への愛情にも変わった。
それを受けたからなのか母親の言葉、『姉ちゃんが大好き』は本当になった。
かなたは歩けるようになると母親ではなくますみの後ばかり付いて回った。
ますみのやる事を何でも興味深そうに見ては真似をし、ますみが笑うと同じように笑い、不安そうな顔をしていれば同じ表情でぴったりとくっつき、何かの拍子に泣くような事があれば大声を上げて一緒になって泣いた。
ますみのおかげで自分は随分助けられていると母はよく漏らし、反発する事もなくおねえちゃんおねえちゃんと慕うかなたはますみに姉としての自覚と喜びを感じさせる様になって行った。
かなたは母親からますみに託された宝物なのだ。必ず守らなくてはならない。
ますみは一度小さく弟の名を呼ぶと追手の気配を背に決意を新たにした。
0
お気に入りに追加
9
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/essay.png?id=5ada788558fa89228aea)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
鎮魂の絵師
霞花怜
キャラ文芸
絵師・栄松斎長喜は、蔦屋重三郎が営む耕書堂に居住する絵師だ。ある春の日に、斎藤十郎兵衛と名乗る男が連れてきた「喜乃」という名の少女とで出会う。五歳の娘とは思えぬ美貌を持ちながら、周囲の人間に異常な敵愾心を抱く喜乃に興味を引かれる。耕書堂に居住で丁稚を始めた喜乃に懐かれ、共に過ごすようになる。長喜の真似をして絵を描き始めた喜乃に、自分の師匠である鳥山石燕を紹介する長喜。石燕の暮らす吾柳庵には、二人の妖怪が居住し、石燕の世話をしていた。妖怪とも仲良くなり、石燕の指導の下、絵の才覚を現していく喜乃。「絵師にはしてやれねぇ」という蔦重の真意がわからぬまま、喜乃を見守り続ける。ある日、喜乃にずっとついて回る黒い影に気が付いて、嫌な予感を覚える長喜。どう考えても訳ありな身の上である喜乃を気に掛ける長喜に「深入りするな」と忠言する京伝。様々な人々に囲まれながらも、どこか独りぼっちな喜乃を長喜は放っておけなかった。娘を育てるような気持で喜乃に接する長喜だが、師匠の石燕もまた、孫に接するように喜乃に接する。そんなある日、石燕から「俺の似絵を描いてくれ」と頼まれる。長喜が書いた似絵は、魂を冥府に誘う道標になる。それを知る石燕からの依頼であった。
【カクヨム・小説家になろう・アルファポリスに同作品掲載中】
※各話の最後に小噺を載せているのはアルファポリスさんだけです。(カクヨムは第1章だけ載ってますが需要ないのでやめました)
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/chara_novel.png?id=8b2153dfd89d29eccb9a)
乙女フラッグ!
月芝
キャラ文芸
いにしえから妖らに伝わる調停の儀・旗合戦。
それがじつに三百年ぶりに開催されることになった。
ご先祖さまのやらかしのせいで、これに参加させられるハメになる女子高生のヒロイン。
拒否権はなく、わけがわからないうちに渦中へと放り込まれる。
しかしこの旗合戦の内容というのが、とにかく奇天烈で超過激だった!
日常が裏返り、常識は霧散し、わりと平穏だった高校生活が一変する。
凍りつく刻、消える生徒たち、襲い来る化生の者ども、立ちはだかるライバル、ナゾの青年の介入……
敵味方が入り乱れては火花を散らし、水面下でも様々な思惑が交差する。
そのうちにヒロインの身にも変化が起こったりして、さぁ大変!
現代版・お伽活劇、ここに開幕です。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる