悪魔と委員長

GreenWings

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悪魔

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 いつもの場所で友人達に別れを告げて、下校途中のますみは夕食の材料を買う為に商店街に足を向けていた。
 夕暮れ時の買い出し客で活気づく筈の通りに向かいながら今夜の献立を考えるのもちょっぴり楽しい事だ。
 父や弟が喜んでくれたならと思うとさらに胸が躍る。家事へのモチベーションを維持できるのは二人がそれをちゃんと評価してくれるからだと小さな主婦は信じ、そして感謝していた。

 信号待つ間にたまたま見上げた炎に焼かれる様に赤かった雲の天井が、徐々にどす黒く変わってゆくさまにやや寒気を感じ、少女は暖まる物にしよかなと考えた。

 人が集まる方に向かっている筈なのに何故かすれ違う事もない。

 静かだな。

 ふとそんなふうに思った時、微かな泣き声が風に乗って届いて来た。

 女の子?

 めそめそと泣く幼い声がとぎれとぎれに聞こえてくる。
 迷子だったら気の毒だなと思うとますみは方向を探り、そちらに踏み出していた。
 声が聞こえる範囲だ、そう遠くない。
 歩いていた通りを外れ、ほんの少し奥まった所にある児童公園。声はそこからだった。

 いくらか開けたその場所の中央に、主はいた。

 赤黒く曇った空を背景にその色に染まったドレスを身につけ、不自然に誰もいない広場にただ一人立ち、顔を伏せて泣いている。

 何かが異様だ。
 ますみは直感でそう思った。

 肌がピリピリする。この公園に足を踏み入れるのはまずい気がする。
 入口の前で止めた足を動かす事が出来ずにいると日は思う以上に早く沈み、やがて相手の姿は暗がりの中でシルエットに変わり顔の位置さえ確認できなくなって行った。

 泣き声が聞こえる。幼い女の子の鳴き声が。
 この公園には照明が無いのだろうか。いや、付いている、既に点灯している。ならどうして相手の顔が見えないのだろう。長い髪が影を落としているから?
 他の音は聞こえないのに女の子の声が聞こえる。
 悲しげな、悲しげな声が。

 喉が鳴る。掌がやけに汗ばむ。
 何かが警告している。今すぐここを離れなくては。

「お姉ちゃん」

 泣き声の中で少女がそう言った。

「開かないの。これ開けたいのに、開かないの」

 シルエットが動き両手が突き出される。その上にキラキラとした小瓶があった。

「開けてよ」

 声が喉から出てこない。

「開けて」

 ふらりと踏み出していた。

 意図しなかったその一歩に気づき、ますみは混乱していた。
 公園に入りこんだその一歩は、次の一歩を踏み出させていた。

 一歩一歩進むごとに場に不釣り合いな姿をした少女が近づいてくる。
 後数歩と言う所でますみは再び足を止めた。
 何故か額に汗がにじんでいる。

「お姉ちゃんは人を差別する人?あたしが知らない子だから怖いの? 」

 顔を伏せたまま幼い少女がそう言った。

 ますみは首を振っていいえと答えると次の一歩を踏み出した。

「開けてくれるのね?ありがとう、お姉ちゃん」

 間近まで近づくとますみは少女の視線に合うようにかがみこんだ。
 伏せられていた顔が上げられる。
 それは黄昏時の暗がりの中でさえわかるほど人間離れした美しさを持っていた。
 長い睫毛に覆われたぎょっとするほど大きな瞳が見開かれたますみのそれを映し、不釣り合いなほど小さな唇の口角が上がっている。

「これを、開ければいいのですね? 」

「そうよ。あたしには開けられなかったの」

 ますみは視線を相手の顔から小瓶に移し、それを受け取った。
 小瓶はガラス製だろうか。中では何やら黒い物が渦巻いている。液体?気体?

「これはなんですか? 」

「開けてからのお楽しみよ」

 ますみは再び立ち上がり、中の物が飛び散っても問題ない方向に口を向けた。

「開けます」

「開けて」

 少女の目が見開かれる。

 片足を踏ん張り、思い切り蓋を引っ張ったますみだったが、その蓋は固いどころかあまりにもあっけなく外れ、勢い余ってバランスを崩す羽目になってしまった。
 中身をぶちまけてしまってはいまいかと心配してすぐに覗きこむと不安が的中していた。
 瓶の中には何も残っていなかったのだ。

「ああ……なんて事。ごめんなさい、私……」

 振り返った先にはドレス姿の幼い少女は無かった。

 いくらなんでもそんなに足は速くないだろう。かくれんぼのつもりだろうか。
 しかしこれだけ暗ければちょっと物陰に入られたらわからなくても不思議ではない。

「あの、お嬢さん? 」

 辺りに視線を走らせるが動く者は何もない。
 しばらくそうしていたますみだったが、手の中の小瓶を再び見やりため息をついた。
 からかわれたのだろうか。
 瓶の蓋だって簡単に開く様なものだった。

「何しているんだろう私」

 すっかり暗くなった児童公園の中一人、ますみはもう一度だけ辺りを見回した。

「帰りますよ? 」

 返事はない。

「帰りますからね? 」

 ますみは踵を返し、公園の入口に向いた。その時だった。
 聞こえたのだ。外からではない、自分の内側から。
 強いて言うのならば、耳と耳の間から。

「何? 」

 しわがれた様な声に驚き、ますみは自分の両耳を押さえた。
 全く知らない言葉。しかしそれが何を言っているのかがはっきりわかった。

「俺を出したのはお前か」

 再び同じ声がした時、それは少女の鼻先に居た。

「わぁっ!! 」

 悲鳴と共に弾けた様に後方に飛んだますみを見下ろし、その漆黒の存在は可笑しそうにますみの頭の中で笑った。
 暗闇の中でさえはっきりと輪郭が分かる黒。その黒が人型に近い何かの姿を取っている。周りの空気が歪んで見えるような錯覚さえ覚える禍々しさをますみは相手に感じた。

 全身に鳥肌が立つ。立ち上がる事が出来ない。

「見えるのか。そりゃいい、中々信心深いこった。につけても驚いたな。いきなりこれほど輝く奴に会うとは」

「何者です! 」

 必死にそう声を絞り出したが思ったほどの声量が出ていない。

「そう怯えるな。いきなり取って喰やしねぇ」

 漆黒の人型は巨大なカラスの姿になっていた。

「食べるのですか。この私を」

「だから喰わねぇって言ってるだろうが。今はな」

 カラスは黒豹に変わり値踏みするようにますみの周りをゆっくり回った。
 大型肉食獣が至近距離に居ると言う圧迫感と、頭の中で発される知りもしない言語と、それを理解している自分に戸惑いながらますみは気圧されまいと立ち上がった。

「あ…あ悪魔ですね! 」

「その通り」

 小型恐竜の様な姿に変わった相手が口を開くとその声が頭の中で響いた。

「誰が怯えていますか! 」

 神のしもべが悪魔に怯えてはその威光や信仰に説得力が無くなってしまうと必死に勇気を奮い立たせた。まだ震える両手をぎこちなく動かし胸ポケットをまさぐる。

「えい! 」

 恐竜の鼻先に必死でそれを押しつける。

「ロザリオか」

「聖父と聖子と聖霊との御名によりて!アーメン! 」

 ますみは必死で声を絞り出した。

「聖霊来たり給え!御身の最愛なる浄配!聖マリアの汚れなき御心の頼もしき御取次によりて来たり給え! 」

 ますみの頭の中で悪魔が大げさに思えるような悲鳴を上げる。

 ますみはさらに声を絞り出した。

「聖霊来たり給え!御身の最愛なる浄配!聖マリアの汚れなき御心の頼もしき御取次によりて来たり給え!聖霊来たり給え!御身の最愛なる浄配!聖マリアの汚れなき御心の頼もしき御取次によりて来たり給え! 」

 頭の中の悲鳴はいよいよ大きくなり、恐竜は地面をのたうち回り、猟犬の姿になったり鼠になったり、黒い兎になったりした。

 が、次の瞬間、頭の中で妙に冷めた声が呟いた。

「飽きた」

 鷲の頭を付けた巨漢の姿になった悪魔はますみの手からロザリオをはたき落した。

「神が怖くて反逆できるか」

「大天使聖ミカエル!戦いにおいて我等を護り、悪魔の凶悪なる謀計に勝たしめ給え!天主の彼に命を下し給わんことを伏して願い奉る!ああ天軍の総帥!霊魂をそこなわんとてこの世を徘徊するサタンおよびその他の悪魔を天主の御力によりて地獄に閉込め給え!アーメン! 」

 ますみの必死の祈りを悪魔はげらげらと嘲笑った。

「やめとけやめとけ。無駄だ無駄だ」

 老人の姿になった悪魔は離れた所のブランコをこいでいた。

「そもそもお前は悪魔払いじゃねぇんだ。ド素人がこの俺を払えるものか。それよりな、慣習の話をしよう。お前は俺を解放した」

 ますみは自分の体を抱いた。

「ああ、神様、私はなんて事をしてしまったのでしょう……」

「聞けよ」

 英国紳士の様な姿で悪魔は目の前に現れた。

「ころころ姿を変えないで。それから頭の中で話さないで! 」

 英国紳士はふむと頷いて、わかったと人間と同じように答えた。

「ああ、説明の前にやっちまった。まぁ、これはサービスにしておくか。じゃ言うぞ。お前は俺を解放した。だからどんな願いも一つだけ無償で叶えてやろう。願いを言え」

 ますみは顔を覆ったまま答えた。

「望みなどありません。仮にあっても悪魔の力など借りません」

「どんな願いでもだぞ~?そうだな、好きな男を自分の物にできるなんてどうだ?それとも金か?幾らでも服や宝石が買えるぞ?お前に世界一の美貌を授けてやっても良い。なんならこの国の女王にでもなってみるか? 」

 じろじろと顔を覗き込んでくる悪魔相手にますみはキッと顔を上げて興味ありませんとぴしゃりと言い放った。

 所が悪魔は少しも引き下がらなかった。

「そんな事はないだろう?人間は欲望をエネルギーに生きる物だ。何も無いはずがない。ははぁ、解ったぞ。お前、俺の力を借りることが神への反逆とか、そう考えているんだろう。有りがちなんだよなぁ聖職者とかに特によぉ」

「当たり前です!なぜ神に敵対する者の庇護をうけなくてはいけないのですか! 」

「あったまかってぇなぁ小娘。良いか?これはな、反逆とかそう言うんじゃねぇんだ。こう考えろよ。お前は困っている俺を助けた。な?助けた。これは動かし様のない事実だ。そこはわかるよな」

 そこまで聞くとますみは頭を抱え、祈りの姿勢を取った。

「ああ、神様、お許し下さい、知らなかったのです。あの小瓶にこのような輩が潜んでいるなどと」

「ったくうっとおしいな。いいか?俺を助けた、助けたな?だからそれに対する正当な報酬なんだ。わかるか?お礼だ。俺からのお礼って事だ。それは神が認める行為だぞ。お礼を受け取る事は罪にはならん」

「詭弁です! 」

「んな事言われたってよ。じゃぁ神は何かしてもらってもお礼をするなと言うのか。平等じゃなかったのか?ならなんだ、お前たちの言う初子の犠牲ってのは無意味だって事か。だったら神より悪魔の方がよっぽど筋が通っているよな」

「神様を愚弄するか悪魔! 」

 人を睨んだ事もない少女が眉を吊り上げる。

「そう思うんなら願いを言え。そうした事で神への反逆にはならない事はこの事については確実に保証しよう」

 しばらくの間の後に少女は小さく言った。

「わかりました」

 ますみは背筋を伸ばし、軽く息を吸った。

「ようし言え」

 信心深い少女は指を指しながら言った。

「小瓶に戻りなさい」

「断る」

 両者がそのままの姿勢でそのまま黙りこくった。

 ますみが軽く息を吸う。

「小瓶に戻りなさい」

「断る」

 再び沈黙の時間が流れた。

 少女は悪魔の目を見つめ、悪魔は尖った虹彩でそれを受けていた。
 風の音がひょうひょうと耳を掠めて肌寒さを煽る。

 少女は再び息を吸う。

「悪魔よ小瓶に戻りなさい」

「断る」

 ますみは小瓶を指したまま強めの口調で再び言った。

「小瓶に……」

「断る! 」

 言い終わらないうちの返事にますみの眉が寄る。
悪魔は表情を変えずに腕を組んで願い事を待っている。

「あなたねぇ……」

「なんだ」

 からかわれているように思えてますみはやや声を強くした。

「どんな願いもって言ったでしょう」

「ああ、言ったとも。ただし無償の願い事ってのはお前たちで言う所のお試し版だ。それには制限があるのだ。正式な契約をするのならすぐにでも戻ってやろう。取り交わすか? 」

 悪魔が何を言っているのかますみには見当がついた。

「消えて無くなってしまいなさい」

 ロザリオを拾い、相手の返事も待たずますみは背を向けて歩きだした。

「断る」

 そう言いながら悪魔はその前を歩きだした。

 付いて来ないでと言いかけてますみは慌てて口をつぐんだ。
 もしここで自分が願いを叶えてしまったらこの悪魔はどこへ行くのだろう。他の者を襲ったりしないだろうか。

「あなたは私が願いを言うまで誰も襲わないのですか? 」

「そうだな、お前が機嫌を損ねて契約ができなくなるのは好ましくないな」

「何ですか。願いを叶えたら終わりじゃないんですか」

 悪魔はますみの顔に自分のそれをぐっと寄せた。

「お前知らないのか。お前の魂はな、稀に見るほど上質なのさ。目の前にこんなものがあって見逃す間抜けが居るものか。俺は必ずお前の魂を手に入れる」

 背筋に悪寒を感じながらますみは大声をあげた。

「無駄です!契約などしません!悪魔退散! 」

 手で十字を切るが悪魔は大げさにそれをよけて見せて嘲笑うだけだった。

「良いですか。私にとりつくのは構いませんが、私の周りの人達に危害を加えたら許しませんからね。そんな事をすれば私の魂など決して手に入らないと思いなさい」

「おいおい、それって願い事じゃないのか? 」

 悪魔が言う。

「違います。私にとりつく為の条件だと思いなさい」

「モノは言い様だなおい」

「姿を見せても駄目です! 」

「心配するな。こっちがわざとそうしない限りよっぽど信心深くなきゃ悪魔なんて見えねぇよ」
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