フロイント

ねこうさぎしゃ

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六つめの願い

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 その日一日をどうやって過ごしたのか、アデライデはほとんど記憶にとどめていなかった。傍らで共に時を過ごしてはいたが、フロイントはやはりアデライデの手の届かない遠いところに立っているように思えてならず、不安な荒野を一人きりで彷徨い続けているようだった。
 心がここにないまま過ごしていたせいで、夜のとばりはあっと思う間もなく館とアデライデに下りた。
 アデライデが初めてこの館に足を踏み入れたときにおこしてからというもの、一度も消えたことのない暖炉の炎が燃える正餐室で、アデライデはフロイントが一人で用意した料理の並ぶテーブルの椅子に座り、やはり向かいの椅子に腰かけているフロイントを見つめた。
 病から癒えて後、体はすっかり元に戻りきっていると言うにもかかわらず、フロイントはアデライデに何もさせようとはしなかった。それがアデライデの体を気遣うやさしさゆえのことであると自信を持って言い切ることが、今のアデライデにはできなかった。
 あるいはフロイントが、二人で並んで食事の準備を整えたり後片付けをする中で、アデライデに胸の内を尋ねる機会を与えることを避けようとしていると思えなくもなかった。
 晩餐のひと時を過ごす正餐室はどこか重い空気に沈むようだった。
 夕食が済んでも、フロイントとアデライデはすぐには立ち上がらず、ただ黙ってテーブルの端と端に座って互いの顔を見つめ合っていた。長い沈黙にいたたまれなくなったアデライデは目を伏せ、椅子から立ち上がろうとした。
「後片づけを……」
「アデライデ」
 フロイントはアデライデを制して椅子に座らせると、代わりに立ち上がった。
「おまえは座って寛いでいろ」
「……」
 アデライデは無言のままフロイントを見上げた。しかしフロイントは微笑の浮かぶ静かな瞳をアデライデに向けただけで、何も言わぬまま食器を持って出て行った。
 一人きりになってしまうと、アデライデは言い様のない孤独が体中に広がっていくのを感じた。しんと静まり返った室内に、暖炉の炎の燃える音だけが響き、それが余計にアデライデの寂しさを強めた。
 館の外を吹き荒れていた風はもうなかったが、代わりにアデライデの体の中に生まれた冷たい嵐は氷雪を伴って吹き荒び、世界という世界を凍らせていくようだった。
 アデライデは耐え兼ねて、思わず立ち上がった。床に足がついている感覚もあまりないままに正餐室を出ると、そのまま階段を上がって寝室に向かった。
 部屋の入口に立って、ぼんやりと室内を見た。どこを見ても、アデライデの日常がそこにあった。もうこの館はアデライデの生活の場であり、人生となっていた。
 アデライデは重苦しい気持ちを振り払うように首を振ると部屋に入り、窓辺に歩み寄った。力を入れなければ到底開きそうにないと思われた大きな掃き出し窓は、しかしまるでこの時を待っていたかのように、自らの意思で開くかの如く、ごく軽い力だけですんなりと開いた。
 アデライデはそっとバルコニーに出た。このバルコニーに出るのは初めてのことだ。手すり近くに立ち、月のない暗い夜の空を眺めた。空気はほんの少し冷たかったが、わずかに湿り気を帯びた夜の空気が心地よかった。大きく息を吸い込むと、自分がずいぶんと長い間館の中だけで過ごしていたことを改めて実感した。外の空気に触れたためか、重々しかった気分が少し良くなったように思った。
 不意にやさしい風がアデライデの後ろから吹いてきた。その風を感じた途端、アデライデはっと心臓を高鳴らせた。
 フロイントのノック──。
 アデライデはゆっくりと振り返った。その瞳は我知らず縋るような色を浮かべてフロイントに注がれた。すぐ後ろに立っていたフロイントは、赤い目を細めるようにしてアデライデを見つめていた。
「……ごめんなさい、何もことわらずにこちらに来てしまって……」
 うつむき加減に行ったアデライデに、フロイントは首を振った。
「おまえがどこにいようとも、俺にはおまえの居場所がすぐわかる」
 アデライデは思わず顔を上げ、近づいて来るフロイントを見つめた。フロイントはアデライデのすぐ目の前に立って、暗い夜に包まれていながらも美しい光を放つアデライデの姿を目に焼き付けるかの如く見つめた。室内から漏れる暖炉の炎と燭台の蝋燭の火が、アデライデとフロイントの顔にほの暗い影を作って揺れていた。
「──外の空気はやはり心地良いか?」
 フロイントの静かな声と眼差しに、アデライデの胸はまた騒がしく震えはじめた。答えようにも、胸を塞ぐ大きな石のような塊がアデライデの喉を詰まらせ、声が出せなかった。
 だがフロイント自身はアデライデの返事を初めから期待などしていないようだった。それは寧ろアデライデへの問いかけと言うよりも、自分自身に呟いたひとり言のような響きをなしていた。
 暫しの沈黙の後、フロイントは再び、今度ははっきりとアデライデに向かって言った。
「──アデライデ、いよいよ最後の願いを叶えるときだ」
 その言葉に、アデライデの体は無意識のうちに跳ねた。理由はわからなかったが、なぜだがこの瞬間が来ることをずっと恐れていたように思う。アデライデは震えはじめた手にきゅっと力を入れて握りしめた。
「……だが、おまえの願いを聞く前に、言っておきたいことがある──」
 そう言ったフロイントの低い声に、アデライデはいよいよ身を震わせた。

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