フロイント

ねこうさぎしゃ

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六つめの願い

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 結局魔王からの沙汰のないまま、とうとう新月の日の朝を迎えようとしていた。
 フロイントは前の晩、夕食を終えたアデライデが寝室に向かうのを見送ってからずっと、正餐室の暖炉の前で深い懊悩に打ちひしがれていた。刻一刻と時が過ぎるに従い、フロイントの焦燥感はその密度を増していく。
 かつて時間は無限に続く責め苦のようなものだった。だがアデライデと過ごすようになってから、時間はフロイントの中でその意味をがらりと変えた。素晴らしい祝福と奇跡に満ちた永遠と一瞬が、ひとところに混在しながら共に美しく咲いている不可思議……。
 一日は信じられないほどの速さで終わるが、その中で幾度も永遠を感じる一瞬があった。
 命の終わりが見えてからは、時間は再びフロイントを苦しめるものとなっていた。だがそれはアデライデに出逢う前の、孤独にただ永い寿命の尽きるときを待っていたあの頃とは違う苦しみだった。今は時が過ぎるのが怖かった。アデライデとの時間が終わるということが、フロイントから潔さを奪う。もっと生きていたい──そう思ってしまうのだ。
「皮肉なものだな……」
 フロイントは呟き、冷笑的な笑みに方頬を歪めた。命の時間をもてあましていた頃には時間はとかく遅くしか動かないものだったが、こうして命を永らえさせることができればと望む今、時間は嵐のように冷たく素早く行き過ぎる。
 フロイントは窓の外、夜明け前の薄暗い空にちらりと目を向けた。低い位置に、か細い月がまだうっすらと見えていた。鋭利な爪先で作った切れ目のようにも見える月だった。フロイントは消えかけの月から目を逸らし、暖炉の燃える炎に視線を戻した。
 今日、また無事に夜を迎えることができれば、アデライデの六つ目の──最後の願いを叶えることになる。
 願いを叶え終えたとき、アデライデは自分の妻になるはずだった。
 だが──とフロイントの中でもう一人の自分の声が言う。
 それがほんとうにアデライデの幸せなのか──? 
 フロイントは自分の手を見た。黒々と大きく武骨なその手の指先には、鋭く尖った黒い爪が暖炉の炎を映して忌まわしく光るようだった。
 ──魔物の手……。バルトロークの手といったいどれほど違うと言うのだろう──。
 フロイントはバルトロークの城に踏み込んだときのことを思い出した。門を固め、城内を守るバルトロークの配下たちを切り裂いた感触が生々しく甦る。
 そしてバルトロークを虚無へととしたあの火焔──。
 あの焔がバルトロークの言葉通りに魔王の城の下に燃えたつ火焔であるかどうかはフロイントには知る由もないが、だがあの焔がバルトロークを殺したことは紛れもない事実だった。アデライデを奪い、フロイントを殺そうとしたバルトロークを実際に葬った自分もまた、アデライデをその父や故郷の森から奪った冷酷非道な魔物ではないのか──? 
 この手がアデライデに触れるなど、初めから許されることではなかったと言われれば、黙って首肯しゅこうするより他にフロイントの取れる行動はないように思われた。
 もしもこのまま魔王の使者が現れなかったとしても、この薄暗く寂しい館から、ラングリンドの眩しい光の中にアデライデを帰してやることこそ、自分がアデライデに示せる最大の愛ではないのだろうか──。
 フロイントの脳裏に、輝きと緑にあふれたラングリンドの森で幸福そうに歌を口ずさんでいたアデライデの姿が思い起こされた。その姿は生き生きとした生の喜びを湛え、あまねく世界中を照らすようだった。切なさが目に涙を滲ませ、フロイントは素早くそれを拭いながら思った。
 ──そうだ、魔王の使者を待たずとも、いっそ今すぐアデライデをラングリンドに帰してやることこそ、正しい選択ではないのか……?
 そのとき、フロイントは俄かに部屋の温度が下がり、背筋を冷気が走るのに気がついた。暖炉の炎が俄かにその勢いを弱めて小さくかげる。うすら寒い直感に顔を上げたフロイントは思わず息を呑んだ。
 部屋の隅の暗がりに、巨大な黒い影が佇んでいた。影は衣擦れの音ひとつ立てず暗がりからその姿をゆっくりと現した。天井まで届くほどの長身は黒いマントですっぽりと覆われ、その表情を見て取ることはできなかったが、全身から黒く冷たい妖気をかげろうのように立ち昇らせている。勢いの弱められた暖炉の火に照らされて、使者の妖気は一層強まるようだった。しかしその妖気は幽寂ゆうじゃくと言ってもよいほどの沈黙に満ちていた。りながら、バルトロークをはるかに凌いでフロイントを威圧するようだ。

 ──魔王の使い。

 フロイントは身動きもできず、不穏な空気を煽り立てる使者を凝視した。
 黒い使者は滑るようにフロイントに近づいてきた。フロイントはすぐ目の前に立って自分を見おろす使者の顔を確かめようとしたが、そこにはただ暗闇だけが広がり、虚無への入口がぱっくりと口を開いているような錯覚に、思わずごくりと喉を鳴らした。
 使者は灰色の恐ろしく長い指をマントの袖口に差し込むと、蝋で封された羊皮紙を静かに取り出し、無言のままフロイントに差し出した。羊皮紙からも不吉な魔気が立ち昇っている。フロイントはゆっくりと手を出して受け取った。紙に触れた瞬間、鋭い獣の牙に噛みつかれたような衝撃が指先に走り、フロイントはわずかに顔を顰めた。
 使者は目には見えない眼でフロイントを見おろしたまま、やはり滑るように部屋の隅に下がって行った。暗い影と一体となった魔王の使者は、蝋燭の火が俄かに消えるが如く、闇の中に静かに溶け込んで消えた。
 魔王の使者が去ってしまうと、突然暖炉の炎が息を吹き返したように燃え上がった。正餐室には温もりが戻り、フロイントはどっと力を抜いて椅子に背中を凭れた。しばらくの間そのままの姿勢で呼吸を整えるべく深い息をし、おもむろに体を起こすと羊皮紙に目を落とした。
 封蠟を解いて紙を広げ、書きつけられた文字を目で追っていたフロイントは、読み終えた後もそのまましばらくの間、黙って紙の上に視線を落としていた。

──『死刑に処す』──

 フロイントはゆっくりと顔を上げると、羊皮紙を暖炉の炎にかざした。火がつくと、紙は魔物の嘆息のような声を上げて黒い煙を立ち昇らせた。フロイントは静かに薪の上に紙を放った。炎の中で勢いよく燃え始めた羊皮紙から立ち昇る黒い煙は魔物の形をあらわし、嘆きの吐息は甲高く不気味な獣の叫びを思わす音に変わってますます激しく燃えさかった。
 じっとその様子を見つめていたフロイントの耳に、突然押し殺したような声が聴こえた。
「──今のは何ですか?」
 はっと我に返って振り向くと、正餐室の入り口には青ざめた眼差しのアデライデが立っていた。


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