フロイント

ねこうさぎしゃ

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バルトロークの城

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 アデライデは暗く黒い絶望の奈落へと落とされていく心境だった。体じゅうが今すぐにもフロイントのもとに帰りたいと悲痛な叫びを上げ、堪えようと思っても、涙はとめどなくあふれた。だがせめてこの涙がバルトロークへの恐れのためではなく、フロイントのための涙であることを示したいと、アデライデは悠然と長椅子に座るバルトロークを瞬きもせずに見据えた。
 バルトロークは杯を再び卓の上に置くと、背もたれに深く体を預けてゆったりと脚を組んだ。興味深い珍しい生き物を見つめるような目でアデライデの全身を眺め、憫笑びんしょうを作って浮かべると口を開いた。
「そなたは涙まで美しく光るのだな。人間の泣く姿は実に無様で醜悪と思っていたが、そなたはまるですべてが光でできているようだ。ますます得難き娘よ……。己を尊ぶがよい、アデライデ。そなたのあたたかな涙はこのわたしの氷の心にも日の光を招いたぞ」
 バルトロークは大仰な様子で立ち上がるとアデライデに手を差し伸べた。
「美しいアデライデよ、あのような下等の輩にすらも深い情けをかけて献身するそなたにわたしが報いてやろう。そう、わたしがあれに名を与えてやろうではないか」
 アデライデは息を詰め、自分に手を差し出すバルトロークを見た。
「そなたが与えてやった名も悪くはなかろうが、正式な名というものはやはり魔族から与えられなければならぬもの。そのうえ公爵の位にあるわたしが名を与えるとあっては、望み考えうるかぎり最も素晴らしい栄誉をも同時に手にすることになる」
 アデライデの涙は乾いていた。バルトロークを一心に見つめ、かすれた声で問うた。
「フロイントに──あの方に、名前を……?」
「そうだとも、アデライデ。わたしがあれの名づけ親になろうというのだ。我ら魔族にとって誰に名を与えられるかは重要だ。なぜなら、与えられた者は与えた者の眷族けんぞくになるのだからな。つまりはそう、そなたらの言葉で言う『家族』とやらになるということだ。わたしがあれに名をやれば、あの者はわたしの一族に加わることになる。魔王様御自らに名を授けられたこの大公爵バルトロークのな。つまり、もしわたしがあれに名を与えてやれば、あれは我ら魔族を統べる魔王様のせいに連なるということだ。魔族にとっては夢に見てもそうは叶わぬ誉れだぞ。地の底を這いずって暮らしていたあれにとっては想像もつかぬほどの栄華をほしいままにすることもできよう」
 アデライデの心臓は鼓動を速め、苦しいほどになった。思わず唇から息が漏れる。フロイントの孤独を知るアデライデは、バルトロークの言葉に心を大きく動かされていた。もしフロイントがバルトロークに正式な名を与えられれば、ほんとうの意味で幸せになれるのではないかという考えが、アデライデの足をふらふらとバルトロークの元へと向かわせた。震える指先を、恐る恐るバルトロークが差し出す手に伸ばす。
「……ほんとうに、あの方に名前をくださるのですか……?」
「もちろんだとも。わたしはそなたの無垢なる心に打たれたのだ。約束しようアデライデ、わたしがあれに名を授けると」
 バルトロークの瞳がひときわ強く光ると同時にアデライデの白い指先を素早く捕らえた。途端に心臓をも凍らせる冷気がアデライデの全身を貫いた。だがアデライデはバルトロークの手を受け入れたまま、冷たい妖気の中に自ら一歩踏み込んだ。バルトロークはにやりと唇を歪め、アデライデを部屋の中央に導きながら言った。
「──だが、アデライデ。そのためにはそれ相応の対価を払わねばならぬ。つまり、そなたは契約を交わさねばならぬのだ。このわたしとな」
「契約……?」
「おぉ、アデライデ。何も怯えることなどない。あくまで儀礼的なものだ」
「……どのような契約なのですか……?」
「なに、簡単なものだよ。わたしがあの魔物に名を与える代わりに、そなたはわたしのものになる。難しいことではなかろう?」
「……それはつまり、わたしの魂をあなたに差し出すということですか……?」
 バルトロークはわざとらしく眉を寄せ、首を振って見せた。
「アデライデ、アデライデ、アデライデ。わたしはそなたを愛しているのだ。そなたにとって悪くなるようなことをわたしが強いるとでも?」
「では違うのですか?」
 バルトロークは軽い舌打ちを繰り返しながらアデライデの顔の前で鋭い爪の先を振った。
「そう結論を急ぐことはない。先にも言ったが、わたしはそなたの心からの愛が欲しいのだ。だがそなたはわたしを恐れている。その心はまだあの荒野の館から離れてはおらぬ。それではそなたが心からわたしを愛することができぬのも無理はない。ゆえに、わたしはそなたが真の愛をわたしに捧げられるよう、ほんの少し手を貸してやろうと言うだけだ。わたしはそなたをもっと自由にしてやれる。心の自在な働きを妨げるものは何だと思う? それは魂だ。人間どもは無暗矢鱈と魂を価値あるものと思い込んでいるが、魂なぞ実際には足枷でしかない。人間の役に立つものではないのだよ。そなたとて、先ほどは魂がどうのと言ってはいたが、実際のところ魂がどのようなものかと問われて正確に答えることなどできぬであろう? 人間は皆、魂がありそれが重要なものだとただ知っているような気になって、錯覚しているだけなのだ。さぁ、アデライデ。そなたがわたしに心を明け渡してくれるなら、魔物にとって最高の栄誉をあれに与えてやろうではないか」
 考える隙を与えまいとするかのように語り続けるバルトロークに、アデライデはまたしても幻惑されかけていた。バルトロークは妖しく光る目を細め、アデライデの耳元に黒い唇を寄せた。
「悩む必要などはない。そなたがわたしにただ一言『はい』と言えば、これまであれがこうむってきた汚辱と孤独の日々は終わり、栄光に満ちた新しい生活が始まるのだ。そしてそれはそなたが与えてやることができるものなのだ。魔物にとって最高の生を、そなたの『フロイントゆうじん』にな……」
 アデライデは青い瞳を見開いてバルトロークを振り仰いだ。バルトロークは冷たい欲望の炎が燃える目でアデライデの美しい顔を見おろし、絡みつくような声で囁いた。
「心を決めるのだ、そなたの友のために──」
 バルトロークの燃える瞳に捕らえられたアデライデは、ついにこっくりと頷いた。

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