フロイント

ねこうさぎしゃ

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四つめの願い

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 アデライデのやわらかな手が自分の右手を取った瞬間から、フロイントの心臓は激しい鼓動を刻んでいたが、緊張で強張ったフロイントの右の手がアデライデの背中の辺りへと導かれると、頭には一気に血がのぼって一瞬ぼんやりと呆けたようにさえなった。手のひらに感じるアデライデの体の感触にフロイントの呼吸は止まりかけていた。
 アデライデはフロイントのもう一方の手を取って体の横に掲げると、美しく澄んだ高い声で音楽を口ずさみ始めた。その声はラングリンドの森で、はじめて聴いた歌声そのままだった。心の奥底のいちばんやわらかなひだにそっと触れるような歌声に、騒がしかった思考はしんと静まり返り、ただ深い歓喜だけが心の井戸に湧いた。
 フロイントはアデライデにリードされるまま、生まれて初めてのワルツのステップを踏んだ。手に触れたアデライデの体の儚さがフロイントの胸を強く打った。まるで壊れ物のようなアデライデに、自分のぎこちなく動く体がぶつからないように神経を集中させていたが、踊るうちにフロイントの心には名状しがたい感動が押し寄せた。自分の命が躍動するのを感じ、つないだ手のひらを通してアデライデの命の鼓動が伝わるのがわかった。互いに呼吸を合わせ、アデライデの動きに自分の動きを重ねていると、まるで自分たちの体が一対になったような感覚がして、心はどんどん高揚した。
 ほんのすぐ目の前に、アデライデの美しく澄んだ青い瞳が見えた。高い山の頂にある清浄な湖のようなその瞳に、このまま吸い込まれたいと思った。アデライデの歌声に包まれながら、その手の柔らかさとあたたかさを感じ、フロイントは幸福の嵐の只中で踊っていた。
 不意にアデライデがステップを刻む足を止め、心配そうにフロイントを見上げた。
「フロイント、どうかしたのですか? どこか痛むのですか?」
 フロイントは突然の質問に驚いてアデライデを見た。
「いいや? なぜそんなことを聞くのだ?」
「なぜって……」
 アデライデは腕を伸ばし、フロイントの頬にそっと指を当てた。フロイントの体には今まででいちばん大きな衝撃が走った。
「あなたが泣いているからです」
「──えっ?」
 フロイントは一瞬アデライデの言葉の意味がわからず、頭を傾げた。アデライデのやわらかな指が頬から離れると、その指先は透明な水で湿っていた。フロイントは思わず自分の頬に触れた。指に水分を感じ、驚いて目元を触ってみると、あふれ出た涙で手のひらがぐっしょりと濡れた。フロイントは目を見開いて、濡れた自分の手を見つめた。
「……ほんとうだ、俺は泣いている。俺が泣くなんて……。こんなことは初めてだ」
「あなたは泣いたことがなかったのですか?」
 アデライデの問いかけに、フロイントは長い時間の記憶を遡った。しかし思い出せる限り、自分が涙を流した覚えはなかった。
「そうだな……、泣いた記憶は確かにない」
「そうなのですね……。では、あなたはずっと我慢してきたのですね……」
「我慢?」
 フロイントはにわかに濃さを増したアデライデの青い瞳を見た。
「だが、俺はいったい何を我慢していたと言うのだ?」
「それは、いろいろな気持ちを……。自分の悲しみや寂しさに蓋をして、ずっと気持ちを押し殺し、孤独に耐え、感情をこらえていらっしゃったのでしょう……。フロイント、今はどうか涙の流れるままでいてください。涙は心の痛みを癒すものでもあるのです」
 アデライデの言葉に、フロイントの心は強く揺すぶられた。フロイントは涙に濡れて赤い色の強くなった目で、アデライデの深い思いやりを湛えた瞳を見つめた。アデライデの姿が、まるで湖の底にいるように揺らいで見えた。フロイントの目からは乾いた大地を潤す慈雨のように、涙があふれて流れ続けた。
「……アデライデよ、涙とは不思議なものだな。俺は今喜びに心を湧き立たせているというのに、それでも涙は出るものなのか」
 アデライデは首をほんの少し傾けるようにしながら、慈しみ深い微笑を宿した声で言った。
「涙は悲しいときにだけこぼれるものではなく、嬉しいときや幸せを感じたとき、感動したときにも流れるものなのです。そうすると、喜びはもっと大きなものとなって心の泉を満たすのです」
 アデライデはそう言った後、小さな両手でフロイントの片方の手を取って包み込んだ。
「フロイント、今夜もまたわたしの願いを叶えてくれてありがとうございます。一緒に踊ることができて、わたしはとっても嬉しいです」
 囁くように言うアデライデのあまりの美しさに、フロイントは息を呑んだ。新月の今夜、まるで見えない月の代わりのように眩しく輝くアデライデの光に、フロイントは思わず視線を落とした。自分の手を握るアデライデの白い手を見つめ、そのぬくもりが自分の手を通して心臓にしみわたっていくのを感じた。


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