フロイント

ねこうさぎしゃ

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二つめの願い

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 アデライデはそんな魔物の暗く沈むような様子に気がついて、気遣わしげに小首を傾げて声を掛けた。
「魔物さん、大丈夫ですか? とてもお疲れのようだけど……」
 魔物は物思いから我に返ると、自分を見上げるアデライデの青く澄んだ瞳を見つめた。
「……アデライデよ、国や父親の話をするのは、辛くはないのか?」
 アデライデはほんの少しの間、黙って考えていたが、「いいえ」と首を振った。
「辛いとは思いません。……確かに、ここに来た最初の頃は、思い出すととても悲しい気持ちになりました。父がもうわたしを憶えていないと言うことも、父のためには良いことだと思う反面、胸を引き裂かれそうな孤独に、押しつぶされそうだと思うこともありました。でも、今はラングリンドで過ごした父との素晴らしい日々は、楽しかった思い出として心の中の大切な箱の中にあるんです。小さな頃に可愛がったお人形を屋根裏から取り出して眺めるときみたいに、今はそうした思い出を、なつかしく振り返ることも楽しいと思えるようになっています」
 アデライデはやさしく微笑みながら魔物を見て言った。
「……そうか」
 魔物はさりげなくアデライデから目を逸らすと、じっと暖炉の炎を見つめた。アデライデも黙って暖炉に目を向けた。
 いつの間にか、窓の外は漆黒から薄い灰色に変わろうとしていた。もうすぐ夜が明けるのだ。
「アデライデ、もうすぐ朝になる。おまえこそ疲れただろう。もう横になって休め」
「はい、でも……」
 アデライデは暖炉の揺れる炎を映した瞳で魔物を見上げた。
「あなたはまた沼に行ってしまうのですか……?」
 どこか心細く聞こえる声に、魔物はアデライデを振り向いた。
「なぜそんなことを聞くのだ?」
「それは……」
 アデライデは再び暖炉に目を向けた。自分でも、どうして魔物にこんなことを聞いたのかがわからない。魔物の赤々と燃える目が自分を見ていると思うと、いつになくアデライデの心はざわめいた。アデライデは魔物に視線を戻すと、
「それは、心配だからです。なぜって、外はあんなに風が吹き荒れて、身を切るような寒さではありませんか」
「俺は寒さには慣れている」
「いいえ、いけません」
 思いのほか強い口調で言った自分に、アデライデは驚いた。魔物を見ると、魔物も戸惑ったような目でアデライデを見ていた。アデライデは頬が熱くなるのを感じ、思わず俯いた。
「……あなたはご自分がいらっしゃるとわたしが休めないとおっしゃいました。それはあの臭いを指しておっしゃったことでしょう? 今はもうそんなことを気になさる必要はありません。どうかここにいてください。ここはあなたの館です。あなたがここにいらっしゃると思えば、わたしも安心して休めます。……心配なのです、あなたがあんな冷たい恐ろしい風の中に、たったひとりでいらっしゃることが……」
 魔物は、アデライデがまるで純真な幼子のようにそう話す姿を見て、激しい胸の震えを感じた。胸の震えは強い痺れとなって全身に広がった。誰かに心配されると言うことが、こんなにも深い感動と甘い喜びを心に与えるとは知らなかった。
「──わかった、ここにいよう……」
 やっと出た声はかすれていた。
 魔物の言葉に、アデライデはほっとしたように顔を上げ、ほほ笑んだ。
「それでは……おやすみなさい、魔物さん」
 アデライデはゆっくりと立ち上がり、魔物の言葉を待った。魔物はわずかに震える声で、はじめての「おやすみ」をアデライデに返した。
 アデライデはやさしい微笑みとかすかな衣擦れの音を残して部屋を出、階段を寝室へとのぼって行った。アデライデの寝室の扉が閉まる音を耳を澄ませて聞き届けた魔物は、高鳴る胸を抱えたまま暖炉の前にじっと座り、まるで信じがたいこの夜の出来事を、初めから終わりまで何度も反芻し続けたのだった。


 魔物は昂る気持ちを静めようと、館の外に出た。荒れ狂う風の冷たさは、喜びに血が燃えていた魔物にとっては寧ろ心地よかった。魔物は巨大なコウモリのそれを思わす翼を羽ばたかせ、銀の色に変わりつつある明け方の空に飛び立った。
 疾風と共に空を駆けて向かったのはラングリンドだった。アデライデの話に出た女王の城の庭園から、何本か花を取って帰れないかと思ってのことだった。しかしラングリンドには既に女王が帰還しているのか、王国全体は魔物の目を射る強い光のシールドで覆われており、近寄ることができなかった。上級の魔物ですらこのシールドを突破することは骨が折れるとされているのに、並み以下の魔物にはラングリンドへの侵入はほぼ不可能だった。アデライデを見つけた日は、まさに魔物にとって千載一遇だったのだ。
 魔物はしばらく光の矢が飛んでくる上空に、顔の前に手をかざしながらとどまっていたが、ゆっくりと向きを変えて、来た空を戻り始めた。魔物が飛ぶ空は、すっかり夜が明けて午前の清々しい太陽の光に満ちていた。世界の全土を明るく照らすかに思える太陽の光も、魔物たちの王国である影の世界には届かない。館は人間の世界と魔物の世界との狭間にあるため、かろうじてうすぼんやりと弱々しい光は射すが、陽ざしの明るさを感じるには不十分だ。魔物は光の国から来たアデライデが、日の光を恋しがってはいないかと気になった。
 眼下に名も知らぬ国の森が広がっているのを見つけると、魔物は空から下りていった。ラングリンドの森ほどの豊かさではなかったが、それでもさまざまな植物にあふれている。隅の方で、鮮やかな黄色をした小さな花が群生しているのが目について近寄ってみた。これまでは魔物が近づくとみなぐったりとしおれてしまったが、そっと間近に身を屈めると、花はまるで朝のあいさつをするかのように小さく揺れた。美しいアゲハ蝶がどこからかゆったりと飛んできて、花のそばに腰を屈めた魔物の右の角に留まった。蝶はゆっくりと何度か翅を開閉させた後、またひらひらと森の奥へ飛んでいった。魔物は改めて自分の臭いが消えた喜びに胸を躍らせた。
 魔物は日の光を思わす黄色の花の一本をそっと手折ると、鼻先に近づけて匂いを嗅いでみた。太陽の光を吸った少し酸っぱい土の香りがする。魔物は小さな花束にできるくらい花を摘み取ると、再び翼を羽ばたいて、アデライデの待つ館を目指して空を飛んだ。


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