フロイント

ねこうさぎしゃ

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魔物の舘

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 アデライデを乗せたあやしい黒雲は、みるみるうちにラングリンドを遠く離れ、次第に薄暗い灰色に変って行く世界を猛然と突き進んだ。アデライデは自分の身に突然起こった出来事にすっかり混乱していたが、今はすさまじい速さで飛ぶ雲から振り落とされないよう、懸命にしがみついていなければならなかった。
 やがて雲はごうごうと風の唸る見知らぬ土地まで来ると、体を揺するようにしてアデライデを荒々しい大地に降ろした。吹きつける風によろめいたアデライデは、咄嗟に自分を乗せて来た雲をつかもうとしたが、そのときにはもう黒雲は消えてしまっていた。
 なんとか体勢を立て直したアデライデは、激しく冷たい風の吹きすさぶ荒野の真ん中で、ひとり寒さに身を震わせながら、途方に暮れて辺りを見回した。すると一軒の古びた館が目に入った。荒れ狂う風にかき乱される髪を押さえながら、アデライデは館の方に必死に歩いて行った。途中何度もひび割れた地面に転がる石や、地中から尖った出っ張りを覗かせる岩に足を取られたり、獣のような唸り声を上げながら勢いよく吹いてくる突風に体を押されてよろめいたりしながらも、なんとか館の前までやって来た。館の寂れ具合から廃屋かとも思ったが、手を伸ばして扉の高い位置についている、ゴブリンをかたどったノッカーを鳴らしてみた。しばらく待ったが返事がないので、迷った末に扉をそっと押してみると、重そうに見えた扉は思いのほか簡単に開いた。
 暗い館の中に入ると、いくつもの燭台がひとりでに火を灯して驚かされたが、ラングリンドの町で妖精たちが魔法を使うのを何度も見たことがあったアデライデは、それをさほど不気味に思ったり恐れたりすることもなく、寧ろ身を切るように冷たく強い風から逃れることができたことに、ほっと一息ついていた。
 ホールに立ち、少し落ち着いたところで中の様子を窺って見ると、館の朽ちかけた外観同様、ひっそりと静まり返った館の中は、どこもかしこもほこりにまみれ、あちこちに蜘蛛の巣がかかって廃屋同然だった。窓の外では相変わらず強い風が吹き荒れて、ときおりガタガタと館全体を大きく揺すって軋ませていた。
 アデライデは燭台のあかりを頼りに薄暗い館の中を奥へと進み、いくつか小部屋を通り過ぎたところで、長い黒大理石のテーブルが置かれたひときわ大きな部屋を見つけた。他の部屋と同様にあちこちに蜘蛛の巣がかかり、テーブルにも大きな窓に掛かったカーテンにも、うず高くほこりが積もってはいたが、立派なしつらえがしてあることは薄暗い中にも見て取れた。おそらくこの館の居間を兼ねた正餐室だろう。
 アデライデはゆっくりとその部屋に入って行った。すると部屋の一番奥の壁に、薪の積み上げられた暖炉が埋め込まれているのが見えた。暖炉には大きな蜘蛛の巣が張って、長らく火を熾した形跡がなかったが、体がすっかり冷え切っていたアデライデは吸い寄せられるように暖炉に近づいて行った。
 アデライデはしばらく暖炉の前に立っていたが、誰かがやって来るような様子もなかった。そこで凍えきった体をあたためるため、アデライデは蜘蛛の巣を払うと、部屋の中に散っていたほこりをかき集め、燭台のろうそくで火をつけた。置きっぱなしになっていた薪の一番下に、火のついたほこりのかたまりを注意深く入れると、ほどなくしてパチパチと音を立てながら薪が燃え始めた。アデライデはときどき火かき棒で赤くなった薪の位置を変えたり、ひっくり返したりしながら、完全に火がつくまでの間、充分に火の面倒を見た。
 あたたかな炎が暖炉で燃えはじめると、手近にあった椅子を暖炉の前まで引っ張って来て、座面に積もったほこりを払い、腰を下ろした。燃える薪を見ているうちに体に血が巡りだし、ようやく自分の状況について考える余裕も出てきた。
「たぶん、いえきっと、あの黒い雲は魔物の雲に違いないわ……。わたしは魔物にさらわれたのかしら……でもいったいどうしてわたしが……? まさか、食べるため──? あぁ、どうしよう、なんて恐ろしいことになってしまったのかしら。今頃お父さんは帰らないわたしを心配して、森じゅう歩き回って捜しているんじゃないかしら……」
 アデライデの胸は不安と恐れと悲しみのために、押しつぶされそうになっていた。
 そのとき、室内を一陣の風がぐるぐると吹き荒れた。アデライデの髪は、とぐろを巻く大蛇のように旋回する風にかき乱された。暖炉の炎は勢いよく燃え上がり、硫黄のようなひどい臭いが辺りに立ち込めて、アデライデは思わず口元を覆った。黒い雲に連れ去られる前に嗅いだのと同じ臭いだった。
 竜巻のような風が収まっていくのと同時に、風の中心には魔物の姿が現れた。小山のように聳え立つ真っ黒な巨躯に、巨大なコウモリの翼、額に突き出た二本の角……。アデライデは大きく目を見開き、息を呑んだ。
 魔物のことは幼い頃に修養院で習ったり、父に聞いたりして知ってはいたが、実際にその姿を見るのは初めてだった。想像していたものに違わず、恐ろしい姿をしている魔物を前にしたアデライデは、瞬間大きな叫びを上げそうになった。けれど、じっと自分を見下ろしている魔物の二つの赤い目を見た途端、アデライデは一瞬奇妙な感覚が自分に芽生えるのを感じた。そしてその感覚は、不思議にアデライデの恐怖の感情を消し去った。アデライデは寧ろそのことに驚いたが、しかし魔物の真っ赤な瞳に宿っているのが人間に対する憎しみや怒りや、噂に聞いていた残忍さや狂気などではなく、深い孤独であることに気がついたためだろうかと思った。それでもこのひどい臭いには閉口せざるを得なかった。それでアデライデは口と鼻とを覆う手を下ろすことができず、苦しさのために美しい眉間にしわを寄せ、魔物を見上げているより他になかった。


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