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いくつになっても青春はできるのだ
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スタートラインを蹴り、勢いよく駆けだす。
全身に受ける風を切り裂くように駆け抜けた俺を待つのは、跳躍地点に立て掛けられた一本の棒だ。地面を蹴ると同時にその棒を掴み、勢いよくジャンプする。
軽く立て掛けてあっただけの棒は、俺の体重を支えることなどできない。進行方向に倒れ始めた棒を、俺はバランスを取りながらよじ登る。不安定な棒を、出来るだけ走って来た直線状に倒れるようにうまくバランスを取りながら。
倒れゆく棒だ。登ると言っても数十センチが限度。しかし、その数十センチが勝敗の明暗を分ける。
長さ十メートル。そびえ立つ棒の上で、俺は本当の自由を味わえるような気がするのだ。柔らかい風に包まれ、空を駆る鳥のように風とひとつになれる、そんな気がする。
「今だ!」
パートナーの掛け声で、俺は棒から手を離した。空中に投げ出された俺の体は着地に向け、地面に近づいてゆく。大空を駆ける鳥もいつかは地面に降り立つ。羽を休め、また飛び立つ為に。俺もまた、新たな跳躍に向け、地面に降り立つのだ。
足に衝撃が走り、地面の存在を感じ取る。着地の勢いで前のめりになりながらもなんとかバランスを取り、後を振り向く。
今しがた、自分が描いた軌道を見つめるように――。
授業の終わりを告げるチャイムと同時に、申し合わせていたかのように全ての生徒が教科書を閉じた。バタンという大きな音が一度しただけで、全員が教科書を閉じた光景は異様を通り越して見事であり、その一方教師である俺はいたたまれない限りだ。
近年の生徒たちの読書離れを数値化すれば、それは指数関数的に急成長しており、止まる事を知らない。国語は全ての学問の根底を支える最も重要な教科だというのに、この国のあらゆる教育機関はそんなことにはおかまいなしである。国を愛する心を育む教育を、などとのたまう割には、文化を支える土台である母国語を軽視した姿勢を、俺は理解できない。
そういった目的のはっきりしない教育が、今の俺の立場を作り上げているのだ、と思う。そしてこの虚しい感じが、今の俺の家庭生活における立場をも作り上げているのだ、と思う。
二分前には授業が行われていたことなど微塵も感じさせない教室を、俺はそそくさと出て行く。去り際に開いた窓からちらりと教室内を覗いたが、生徒たちは教師である俺が出て行ったことなど気付く様子もなく、放課後に見に行く映画や買い物の話をしているのが背後で聞こえた。
敗北感を背負って職員室に帰って行った俺は席に着くなりコーヒーを入れ、このいたたまれない気持ちを吐き出そうと大きなため息をついた。ドリップコーヒーが俺の胃袋にしみわたる。
「押井先生も?」
右隣の机に座る小笠原先生が話しかけてきた。綺麗に禿げあがった頭が自慢の三十四歳の美術教師だ。
「はい?」
「二年B組でしょ?」
「ええ」
小笠原先生は湯呑にホットミルクをなみなみと入れ、表面張力の力が働いたのを見届けると、嬉しそうな表情を浮かべてそっと俺に差し出す。よくみると手が微かに震えている。俺がすでにコーヒーを持っていることなどお構いなしだ。太陽光が反射する頭が眩しい。
和製ブルース・ウィリスを自称しているが、彼の頭がブルースのそれのように美しい放物線を描いているとは、到底言えない。おまけに自称する割には、「ウィリス」を「ウイルス」と言って憚らない。
「あいつらの態度を見ていると、不安で仕方ないですよ。来年から受験生だってのに、その自覚が全然ないし、就職組は勉強しても意味がないとだらけきっているし。今の世の中、進学より高卒で就職する方が難しいっていうのが全然理解できてないんですよね、まったく」
「そうだよねえ。僕なんかほら、担当が美術でしょ?選択授業の上に受験に関係ないから、全然聞かないんだよね。教室に寝に来てるだけ。去年は何人か美術系の大学を受ける子がいたから張り合いもあったけど、今年はねえ」
言葉とは正反対の表情で呟くと、小笠原先生は自分のコップを傾けた。人には湯呑でホットミルクのくせに、自分はきれいなマグカップに入れたアールグレイである。レモンの輪切りもいい感じだ。俺はその中にコーヒーを入れたやりたくなった。もちろん、表面張力の力が働くまでなみなみと注いでやる。
「あいつら自分の将来のことなのに、なんとかならないもんですかねえ。生活指導の片岡先生も大変そうだし」
俺が言うと小笠原先生はうーんと唸りながら、自分の頭をつるんと撫でてぺたんと叩いた。つるんぺたん、つるんぺたん。彼の奇妙な癖だ。一体何ゆえの行動かは存ぜぬが、気になって仕方がない。
「正直なところね、僕はもうあの子たちがどこの大学に行こうが、どこに就職しようが、構わなくなっちゃったんだよね。あの子たちが母校に迷惑をかけさえしなければ、僕にはちっとも関係ないからね。彫刻さえやっていれば、僕は幸せだし」
そう言って、あははと笑った。それでもあんた教師かと思ったが、自称ウイルスはそんなことにはお構いなしに続ける。
「担任も持ってなくて美術担当だと、ほんと誰がどこに行ったかどころか、誰がどこのクラスかさえよく知らないし」
つるんぺたん、つるんぺたん。
「受かりました、ってな報告してくれる子なんて全然いないよ」
「僕は主要教科を受け持っていますけど、やっぱりここ三年ほどはいないですねえ、そういう子」
「道徳はどこに行ったんだろうなあ。やっぱり寺子屋教育がいいんだろうね。小学校の道徳の授業は、偉大なる稲造先生の『武士道』を教科書にすればいいんだよ」
「今の子たち、教えていても張り合いがないですよね」
「昔からないけどねえ。そうだよねえ、なんでもいいから欲しいよねえ、張り合い」
そう言ってなおもつるんぺたん、つるんぺたんとやり続ける。俺の視線はどうしても頭の方へ行ってしまう。俺だけじゃない。職員室の半分の視線の先には彼の頭がある。俺は、はあ、そうですね、と気のない返事をした。つるんぺたん、つるんぺたん。小笠原先生は皆の視線になど気付く様子もない顔で頭を撫でた。
高校時代、一身上の都合により、青春を謳歌しないまま三度の季節を過ごしてしまった俺は、本当のことを言うと何でもいいから部活の顧問でもやって、青春戦局において一挙挽回を計りたいと思っているのだが、今のところそれは叶っていない。
だから終業時刻になれば一目散に帰宅する。俺のタイムカードは遅くとも五時十分までには押されている。公務員体質の権化と呼びたければそう呼ぶがいい。その日も俺は、五時五分にタイムカードを押して学校を出た。
自宅には五年前に結婚した妻の祐子と、夏から飼い始めたパグ犬のマイキーがいるのだけれど、最近マイキーが下剋上しやがった。結婚当初は俺に向けられていた愛情満点の視線は今ではマイキーに向けられ、なんとなく自宅に帰りづらい。大体パグ犬にマイキーなど似合わない。マイキーはやはりレトリバーだと思うのだが、そこらへん世間の皆さま方はいかがでしょう。
決して夫婦仲が悪いわけではない。結婚五年目の夫婦としてはかなり仲がいいほうだと思うのだが、ただマイキーへの愛情が深すぎて、俺に対する愛情は微々たるもののように感じてしまうのだ。砂糖でいえば大さじ二杯くらいだと思う。コーヒーに入れるならそれで十分だが、俺の器はマグカップよりはでかいはずだ。砂糖二杯では苦すぎるのだ。
もちろん、祐子のことは誰よりも大切に思っているが、犬なんぞにジェラシーを抱く自分が情けない。そんなわけで俺は時々公園を散歩してから帰るのだが、その日、俺は運命に出会った。先週あたりから鳴き始めたクマゼミの声が、妙に心地いい夏の夕暮れだった。
全身に受ける風を切り裂くように駆け抜けた俺を待つのは、跳躍地点に立て掛けられた一本の棒だ。地面を蹴ると同時にその棒を掴み、勢いよくジャンプする。
軽く立て掛けてあっただけの棒は、俺の体重を支えることなどできない。進行方向に倒れ始めた棒を、俺はバランスを取りながらよじ登る。不安定な棒を、出来るだけ走って来た直線状に倒れるようにうまくバランスを取りながら。
倒れゆく棒だ。登ると言っても数十センチが限度。しかし、その数十センチが勝敗の明暗を分ける。
長さ十メートル。そびえ立つ棒の上で、俺は本当の自由を味わえるような気がするのだ。柔らかい風に包まれ、空を駆る鳥のように風とひとつになれる、そんな気がする。
「今だ!」
パートナーの掛け声で、俺は棒から手を離した。空中に投げ出された俺の体は着地に向け、地面に近づいてゆく。大空を駆ける鳥もいつかは地面に降り立つ。羽を休め、また飛び立つ為に。俺もまた、新たな跳躍に向け、地面に降り立つのだ。
足に衝撃が走り、地面の存在を感じ取る。着地の勢いで前のめりになりながらもなんとかバランスを取り、後を振り向く。
今しがた、自分が描いた軌道を見つめるように――。
授業の終わりを告げるチャイムと同時に、申し合わせていたかのように全ての生徒が教科書を閉じた。バタンという大きな音が一度しただけで、全員が教科書を閉じた光景は異様を通り越して見事であり、その一方教師である俺はいたたまれない限りだ。
近年の生徒たちの読書離れを数値化すれば、それは指数関数的に急成長しており、止まる事を知らない。国語は全ての学問の根底を支える最も重要な教科だというのに、この国のあらゆる教育機関はそんなことにはおかまいなしである。国を愛する心を育む教育を、などとのたまう割には、文化を支える土台である母国語を軽視した姿勢を、俺は理解できない。
そういった目的のはっきりしない教育が、今の俺の立場を作り上げているのだ、と思う。そしてこの虚しい感じが、今の俺の家庭生活における立場をも作り上げているのだ、と思う。
二分前には授業が行われていたことなど微塵も感じさせない教室を、俺はそそくさと出て行く。去り際に開いた窓からちらりと教室内を覗いたが、生徒たちは教師である俺が出て行ったことなど気付く様子もなく、放課後に見に行く映画や買い物の話をしているのが背後で聞こえた。
敗北感を背負って職員室に帰って行った俺は席に着くなりコーヒーを入れ、このいたたまれない気持ちを吐き出そうと大きなため息をついた。ドリップコーヒーが俺の胃袋にしみわたる。
「押井先生も?」
右隣の机に座る小笠原先生が話しかけてきた。綺麗に禿げあがった頭が自慢の三十四歳の美術教師だ。
「はい?」
「二年B組でしょ?」
「ええ」
小笠原先生は湯呑にホットミルクをなみなみと入れ、表面張力の力が働いたのを見届けると、嬉しそうな表情を浮かべてそっと俺に差し出す。よくみると手が微かに震えている。俺がすでにコーヒーを持っていることなどお構いなしだ。太陽光が反射する頭が眩しい。
和製ブルース・ウィリスを自称しているが、彼の頭がブルースのそれのように美しい放物線を描いているとは、到底言えない。おまけに自称する割には、「ウィリス」を「ウイルス」と言って憚らない。
「あいつらの態度を見ていると、不安で仕方ないですよ。来年から受験生だってのに、その自覚が全然ないし、就職組は勉強しても意味がないとだらけきっているし。今の世の中、進学より高卒で就職する方が難しいっていうのが全然理解できてないんですよね、まったく」
「そうだよねえ。僕なんかほら、担当が美術でしょ?選択授業の上に受験に関係ないから、全然聞かないんだよね。教室に寝に来てるだけ。去年は何人か美術系の大学を受ける子がいたから張り合いもあったけど、今年はねえ」
言葉とは正反対の表情で呟くと、小笠原先生は自分のコップを傾けた。人には湯呑でホットミルクのくせに、自分はきれいなマグカップに入れたアールグレイである。レモンの輪切りもいい感じだ。俺はその中にコーヒーを入れたやりたくなった。もちろん、表面張力の力が働くまでなみなみと注いでやる。
「あいつら自分の将来のことなのに、なんとかならないもんですかねえ。生活指導の片岡先生も大変そうだし」
俺が言うと小笠原先生はうーんと唸りながら、自分の頭をつるんと撫でてぺたんと叩いた。つるんぺたん、つるんぺたん。彼の奇妙な癖だ。一体何ゆえの行動かは存ぜぬが、気になって仕方がない。
「正直なところね、僕はもうあの子たちがどこの大学に行こうが、どこに就職しようが、構わなくなっちゃったんだよね。あの子たちが母校に迷惑をかけさえしなければ、僕にはちっとも関係ないからね。彫刻さえやっていれば、僕は幸せだし」
そう言って、あははと笑った。それでもあんた教師かと思ったが、自称ウイルスはそんなことにはお構いなしに続ける。
「担任も持ってなくて美術担当だと、ほんと誰がどこに行ったかどころか、誰がどこのクラスかさえよく知らないし」
つるんぺたん、つるんぺたん。
「受かりました、ってな報告してくれる子なんて全然いないよ」
「僕は主要教科を受け持っていますけど、やっぱりここ三年ほどはいないですねえ、そういう子」
「道徳はどこに行ったんだろうなあ。やっぱり寺子屋教育がいいんだろうね。小学校の道徳の授業は、偉大なる稲造先生の『武士道』を教科書にすればいいんだよ」
「今の子たち、教えていても張り合いがないですよね」
「昔からないけどねえ。そうだよねえ、なんでもいいから欲しいよねえ、張り合い」
そう言ってなおもつるんぺたん、つるんぺたんとやり続ける。俺の視線はどうしても頭の方へ行ってしまう。俺だけじゃない。職員室の半分の視線の先には彼の頭がある。俺は、はあ、そうですね、と気のない返事をした。つるんぺたん、つるんぺたん。小笠原先生は皆の視線になど気付く様子もない顔で頭を撫でた。
高校時代、一身上の都合により、青春を謳歌しないまま三度の季節を過ごしてしまった俺は、本当のことを言うと何でもいいから部活の顧問でもやって、青春戦局において一挙挽回を計りたいと思っているのだが、今のところそれは叶っていない。
だから終業時刻になれば一目散に帰宅する。俺のタイムカードは遅くとも五時十分までには押されている。公務員体質の権化と呼びたければそう呼ぶがいい。その日も俺は、五時五分にタイムカードを押して学校を出た。
自宅には五年前に結婚した妻の祐子と、夏から飼い始めたパグ犬のマイキーがいるのだけれど、最近マイキーが下剋上しやがった。結婚当初は俺に向けられていた愛情満点の視線は今ではマイキーに向けられ、なんとなく自宅に帰りづらい。大体パグ犬にマイキーなど似合わない。マイキーはやはりレトリバーだと思うのだが、そこらへん世間の皆さま方はいかがでしょう。
決して夫婦仲が悪いわけではない。結婚五年目の夫婦としてはかなり仲がいいほうだと思うのだが、ただマイキーへの愛情が深すぎて、俺に対する愛情は微々たるもののように感じてしまうのだ。砂糖でいえば大さじ二杯くらいだと思う。コーヒーに入れるならそれで十分だが、俺の器はマグカップよりはでかいはずだ。砂糖二杯では苦すぎるのだ。
もちろん、祐子のことは誰よりも大切に思っているが、犬なんぞにジェラシーを抱く自分が情けない。そんなわけで俺は時々公園を散歩してから帰るのだが、その日、俺は運命に出会った。先週あたりから鳴き始めたクマゼミの声が、妙に心地いい夏の夕暮れだった。
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