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1巻
1-2
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◆ ◆ ◆
刺繍をしたあと、ぼんやりしていると、いつの間にか夕日が差し込んでいた。
リオンはゆっくりとした足取りで食堂へ向かう。
いつも夕食は、リオンだけ別の部屋で食べることになっている。リオンはそれでもよかった。
少し寂しいけれど、義理の家族の団欒を邪魔する気にはなれなかったし、なにより、ひとりでいるのは心が安らいだ。
だから、というべきか。珍しく晩餐の席に呼ばれたリオンは、義父母たちが普段こんなに豪華な食事をしていることを知らなかった。
前菜のスープは濃厚で、小麦のパンはふわふわ。
しっとりと焼き上げられた子羊のローストにはたっぷりの色鮮やかなソースがかかっており、高価な香辛料がこれでもかというほどきいている。
デザートまで出されたが、リオンは遠慮した。
久しぶりのボリュームのある食事はリオンの胃には辛かったし、香辛料で口の中がヒリヒリしていたからだ。
ヒルデガルドや義母は、デザートのカスタードプディングまでぺろりと平らげていた。
「今日お前を呼び出したのには、わけがある」
でっぷりと太った義父が、ワインをかぱかぱと飲みながら、リオンへと声をかけた。
今このときまで、義母やヒルデガルドとしか話さなかったのに、突然。
彼は肉に埋もれそうな細い目でリオンを上から下まで見つめ、厭わしそうに鼻を鳴らす。
「婚約披露のパーティーが明日になった。準備をしておけ」
「それは……」
リオンは不思議に思って、長い前髪の隙間から義父を見つめた。
「それは、急ではありませんか?」
「なんだ、いやなのか」
ワインを口からこぼしながら、義父はじとりとリオンを見やる。
婚約の披露が早まるの自体はうれしいと思ったから、リオンは口を笑みの形にした。
「いいえ、シャルルさまと早くに結婚できるのは、とてもうれしいですわ」
「お義姉さまは、シャルルさまがとてもとても好きでいらっしゃるからね」
どこか嘲るような顔で、ヒルデガルドが口を挟んだ。
リオンはヒルデガルドの表情に対してそう思ったのを恥じたけれど、どうしてもそう見えてしまった。
エメラルドのネックレスを持っていかれてしまったのが、結構なショックだったのだろう。
自答しながら、リオンはヒルデガルドにうなずいた。
「ええ、初恋なの」
幼い日の花畑で。リオンは花冠を作って、彼の頭にのせた。遊ぶたびに「必ず迎えに来る」と言ってくれた、白金の髪の少年を思い出す。
あれから十年。リオンは十八歳になった。
シャルルは、どんな王子さまになっているだろう。
「初恋!」
どっと笑いが場に満ちた。
ダニエルは腹を揺らし、マノンはひいひいと苦しそうに、ヒルデガルドに至っては椅子から落ちんばかりに体をよじって笑っていた。
「どうしたの?」
リオンの質問に、三人はにやにやと笑みを深めるだけだ。
後ろに控える給仕が、痛ましそうな目をしているのが印象的だった。彼は、両親が生きていた頃から働いている、数少ない使用人のひとりだ。
本当は、もうこのときには、リオンは自分の身に起こっていることに気づいていたのかもしれない。
ただ、そこにあるはずの幸せを信じてすがっていた。
それだけ、愚かだった。
その日の夜、リオンは夢を見た。
リオンが幼い頃からよく見る夢だ。シャルルに恋をしたきっかけの、大切な思い出。
幼いリオンと、太陽の光で金にも銀にも見える髪の少年が、花畑で遊んでいる。
「リオン、私の愛しいひと」
「もう、大人ぶっちゃって」
リオンがそう言って笑うと、少年も同じように笑って言う。
「そりゃあ、私は君よりずっと年上だもの」
「うそ、わたくしと同じくらいの背じゃない」
「君に合わせているんだよ」
「あなたは魔法使いみたいなことを言うのね」
「魔法使いだからね」
「うふふ。あのね、魔法っていうのは、竜にしか使えないのよ?」
「さすが、リオンは物知りだ」
少年はうれしげな、そしてリオンが愛しくてならないといった表情をする。そしてリオンの前髪を上げて、その額に口付けた。
「けれどね、リオン、私の愛しいひと。私の唯一。君だって魔法を使えるんだよ」
「えっ?」
リオンは目をしばたたいた。だってリオンはただの人間だ。魔法なんて使い方も知らないし、使うための力もない。
「わたくし、魔法なんて使えないわよ?」
「使えるよ」
白金の髪をした少年は、黄金の目をきらきら輝かせ、リオンの指に自分のそれを絡ませた。
「リオン、私の番。君の目は、私が君を見つける目印で、君の声は、私を幸せにする歌で、君の存在は、私をこの世界で最強にしてくれる。私は君が、心底愛しい」
少年が黄金の目を細めて笑う。リオンの頬が染まる。
それを見て、少年が言った。
「リオン、必ず君を迎えに来る。私の花嫁として。君をこの世の悪意あるすべてから守り、君をこの世で最も愛する。だから誓っておくれ、リオン」
少年は、リオンの瞳に自分を映した。
「君のこの目を、君は愛して。君の目は欠陥品じゃない。私の愛する君の、大切な体の一部。星屑の瞳なのだから」
次の瞬間、視点が移り変わる。
――いやだ、見たくない。やさしい思い出だけを見ていたいのに。
そう思いながらも、リオンはいつも目をそらせない。
炎がなにかを包んでいる。なにかが燃えている。
リオンの大切なものが燃えていた。
「お母さま‼ お父さま‼」
幼いリオンが泣きながら、口から血を吐くほど叫んでいる。その体は、だれかに押さえつけられていた。
「離して! お母さまが! お父さまが! まだ中にいるの!」
「だめだ。リオン。君だけは失えない。もう、父君も母君も助からない」
「お願い! 離して!」
「ごめん、リオン、ごめんね……」
だれかは泣いていた。怪我をしているような声だった。リオンと同じくらい、悲痛なものに思えた。
そのだれかが、ふっとリオンの目に手をかぶせる。
「リオン、忘れて。もう苦しまないで。これは私の勝手だ。君が悲しんでいるのが、なにより苦しい私の勝手だ」
きらきらとした光が、炎の赤を塗りつぶしていく。
リオンの視界が暗くなる。
暗い視界の中で、ただ、ただ、一筋の白金だけが、輝いて見えた。
「リオン、それでも君を、愛しているよ」
その声は、リオンの想像だろうか。そう、聞こえたような気がして。
それを最後に、リオンの意識は朝日に溶け出した。
古びたカーテンの隙間から雨上がりの太陽の光が漏れてきて、リオンはゆるゆると目を開ける。
つう、と涙が頬を伝うのを感じて、リオンはカーテンに遮られた窓の向こうをぼんやりと見た。
「また、この夢……」
この夢はいつも、花畑の場面が一変し、視界が黒く染まるところで終わる。
いいや、終わるというのは語弊がある。
正確には、そこまでしか覚えていられないのだ。
そのあと、なにか大切なことがあるはずなのに、目が覚めると忘れてしまう。
残るのは幸せな初恋の記憶と、胸が締めつけられるような、理由のわからぬ悲しみだけだ。
「シャルルさま……」
夢の中で、少年はリオンの目を綺麗だと言った。
大人になったリオンは、この目が好きではない。
少年――シャルルは、今のリオンを見てどう思うのだろう。
シャルルが好きだ、とても好きだ。
この十年間、会ったことはないけれど、あの少年はこの国の第一王子であるシャルルだとわかる。わかるはずだ。
そうでなくては、白金の髪だけしか記憶にない、この夢にすがった意味がなくなってしまう。
「シャルルさまに、会えば」
今日、シャルルに再会する。顔は知っている。絵姿で何度も見た。
記憶のシャルルは顔がぼやけてよく見えないけれど、脳裏で煌めく光の粉のようななにかが、彼をシャルルだと思わねばならないと告げるのだ。
だからシャルルに会えば、この言いようのない苦しみから解放されるに違いない。
境遇も、義理の家族に受けた行為も、侮蔑の視線も、すべてよいものに変換できる。
自分は苦しみなど覚えていない。幸せな花嫁になる。
そうだ。リオンは苦しいことなどなにも覚えていないのだから。
――忘れて、リオン。
頭の中で、だれかの声がした。
「リオンさま、おはようございます」
ぼんやりしたままベッドに座り込むリオンの応えを待つことなく、ひとりのメイドが部屋に入ってきた。リオンの世話を命じられているメイドだ。
表面上はにこやかに接してくれるが、この間、「リオンの世話はいやだ、ヒルデガルド付きになりたかった」と話しているのを聞いてからは、彼女を積極的に頼ることをやめていた。
せめて、ヒルデガルドを支えるための時間を増やしてあげたいと思ったのだ。
幸い、リオンに与えられている服は、ヒルデガルドのお下がりの簡素なワンピースのみであったため、ひとりでも脱ぎ着に困ることはなかった。
そういったわけで、リオンのもとに、このメイドが来ることは滅多にない。それが、わざわざ起こしに来るためだけに、ここにやってくるとは思えなかった。
「……おはよう。ごめんなさい、もうそんな時間なのね。今日は、どうしたの?」
「お忘れですか、リオンさま。今日はリオンさまの婚約……婚約、お披露目の日です」
なにか言い淀んだのが気になったが、このメイドがリオンをいやがっているせいだと解釈した。
「覚えているわ。大丈夫よ、起きているでしょう? けれど、こんなに早く準備をするの?」
「もちろんです。リオンさまには最高級のものを、と奥さまと旦那さまから任せられていますので」
メイドはそう言いきって、扉を大きく開けた。
その向こうには、たくさんのメイドがいた。
真っ赤な布地に金糸で刺繍された豪華なドレスを抱える者や、絢爛な宝石類の詰まった箱を持っている者……様々な髪飾りや、化粧道具も揃っている。
それぞれが、リオンの目から見ても、たしかに高価だとわかるものであった。
ただ、リオンの趣味とは違う……というか、かなり、けばけばしい。
「リオンさま、動かないでください」
「ヒルデガルドお嬢さまなら、もっとお似合いになりますが……まあ、こんなものでしょう」
「ぷっ……先輩、これはさすがに……」
「いいえ、いいえ、これが流行なのですよ」
メイドたちが囁く。本当にこれが流行の服装なのか少しだけ不安になったけれど、社交界を知らぬリオンはうなずくほかない。
それになにより、リオンはうれしかったのだ。今まで義理の両親に嫌われていると思っていたから。
ついに歩み寄れたのだと思った。リオンのためにたくさんの用意をしてくれた彼らに感謝をした。
だから、その不安は彼らへの不義理だと思った。
リオンは長く下ろしたままの前髪の奥で、にっこりと笑う。
「ありがとう、みんな。とても素敵ね」
メイドたちは笑顔になって礼をとったから、これできっと間違っていない。
リオンは、片付けをし出したメイドたちのだれにも伴われることのないまま、階下の玄関ホールへ下りる。そこには、すでにヒルデガルドがいた。
「まあ、お義姉さま。とっても素敵な格好ね」
「ありがとう、ヒルダ。あなたにそう言ってもらえてうれしいわ」
「お義姉さまにはよく似合っているわ。あたしが選んだのよ」
「まあ」
リオンは口元を綻ばせた。ヒルデガルドともこんなに打ち解けられたのだと思って。
脳裏に警鐘が響くけれど、それは無視した。
「さ、王宮へ向かいますよ」
「さっさと乗りなさい」
義母と義父が、リオンを促す。
リオンは、けばけばしく毒々しい深紅のドレスに身を包み、滑稽なほど高く結い上げた髪にがちゃつく宝石をちりばめて、馬車に乗り込んだ。
「いってらっしゃいませ。旦那さま、奥さま、ヒルデガルドお嬢さま……リオンさま」
家令がリオンたちを送り出す。どうやらまた家令が変わったらしく、新しく見る男性だった。
リオンは微笑んで、ヒルデガルドに向き直る。
ぎり、と歯噛みする音がして、リオンは首を傾げた。
険しい表情をしていたヒルデガルドは、リオンの視線に気づくなり、わざとらしいほどにっこり笑い返してくる。
彼女の首元には、リオンの母の形見であるエメラルドのネックレスが輝いていた。
「ヒルダ、わたくしのネックレスを、あとで返してね。お披露目のときに、持っていたいの」
リオンがそう言ったとき、ヒルデガルドの口がたしかに歪んだ。それを、リオンは見た。
そうして、ああ、と思った。
「もちろんよ、きっと、返すわ」
「ありがとう。ヒルダ。きっとよ」
ヒルデガルドを信じたい。けれど、本当のところは、リオンの望まぬことになるのだろう。
それでも、リオンはどうにかしようとは思えなかった。
愚直に信じた先に、絶望があるのなら、それでもいいかとさえ思った。
馬車に揺られ王宮へ着くと、リオンは義父に引きずられるようにして大広間に連れていかれた。
普通、婚約のお披露目は夜会のような華々しい場で行われる。昼間から夜会なんてあるはずがない。
だから、ここはリオンにとっての処刑台なのだった。
たどり着いた部屋には、たくさんのひとがいた。
その中心に、立っているのは。
「シャルル、さま」
か細い声が、口からこぼれ出る。
彼はリオンがこれまで見たことのないほど整った顔立ちをした、美しい青年だ。けれど、夢にまで見たシャルルの姿とあまりに違って、リオンは困惑した。
青い目をした美丈夫は、貴族の若者たちを従えてリオンを見下すように見ている。
そうして、心底軽蔑したという顔でこう言った。
「リオン・ロッテンメイヤー伯爵令嬢。……いいや、もう、元伯爵令嬢か。リオン、君との婚約は破棄させてもらう」
衆目の中、じしんの婚約者から放たれた言葉に、リオンはめまいを覚えた。
ぱち、ぱちと、長い前髪で隠された目をしばたたいて、これが現実でないことを祈って。それでもやっぱりこれは現実で――
ぐらぐらする頭を押さえ、回る視界に耐え、それでもゆっくり口を開く。
「……シャルルさま。わたくしに、なにか至らないところがございましたか」
「なにか、だと? しらじらしい。君が義理の妹であるヒルデガルドを何年も苛めていたというのは、この国の社交界では皆が知るところだ」
そう言って、シャルルはまるで汚らしいものを見るような目でリオンを見た。
「わたくし、は、そんなことを、しておりません」
声がつっかえたのは、背後から義理の両親の視線を感じたからだ。
しかし、シャルルは後ろめたいことがあるせいだと思ったのだろう。それ見たことかと言いたげに、リオンを睥睨した。
「ならば、なぜ声が震える? 恥じることがないなら堂々としていればいい。できないのは、君に非があるから。違うか?」
「……あ」
違う、と言いたい。だって本当に違う。
自分はヒルデガルドを苛めてなんていないし、シャルルに隠すことなどなにもない。神に誓って言える。
それでも、リオンに用意された現実はなにより残酷だった。
「ちが、い、ます」
声が震える。言いきることはできた。だけど、こんな状況では、最悪の挙動だ。
震える声で立ち竦む、赤毛の華奢な少女。それだけならまだましだった。
今、リオンの体は、けばけばしいドレスと、重たい高価な宝石に包まれている。その上、長い前髪で隠された、顔の上半分。怪しんでくれと言わんばかりだ。
普段社交界に出ないリオンを、知っている人間は少ない。
義父母が、突然リオンに華美なものを与えたのは、こういうことだったのだ。
やっぱりという気持ちと、しんしんと降り積もるような絶望が、リオンの足元をぐらつかせる。
シャルルは、リオンをなおも責め立てた。
「違うわけがない。かわいそうなヒルダを苛め、ドレスを奪い、宝石を奪い、下働きのような仕事をさせていたというではないか」
「そんな、ことは――」
「していない、とは言わせない。だいたい、君の姿を見ればわかる。目を隠して……やましいことをしているというなによりの証拠だ」
リオンのあがきにも似た弁明は、周囲の人々の発するざわめきにかき消される。
リオンの声は、だれにもとどかない。
大きく息を吸うと、背中にある腫れが痛んだ。以前義父に戯れに鞭打たれてできたものだ。
喉が引きつれた音を漏らす。
「本当に、本当に、ち、ちがうの、です」
リオンはやっとのことで声を出す。背後から、責めるような義理の両親の視線を感じた。
それでもようやく言えたリオンの意志は、最後に信じていたひと――ヒルデガルドによって、簡単にはねのけられた。
タイミングを計ったように、たたた、とヒルデガルドがシャルルに駆け寄る。
シャルルは両手を広げて彼女を迎え、当然のように抱き締めた。
「シャルルさまぁ、シャルルさまが助けてくださらなければ、あたし、きっと死んでいましたわ……」
「ああ、ヒルダ。恐ろしかったな。もう大丈夫だ。君をもうリオンの手には触れさせないから」
ヒルデガルドを慰めるシャルルの青い目が、リオンを睨んだ。もはや憎しみすらこもっている。
金の髪が、大広間のシャンデリアの光に照らされる。
彼は、正義をもって悪女を断罪する、高潔な騎士のように見えた。
少しだけでも、通じ合っていると思っていた。
初恋の少年。幼いリオンを、だれの手からも救うと言ってくれたひと。
今やその腕はリオンではない相手を支え、その目はリオンを睨み据え、その唇はリオンをなじるものになった。
シャルルの、光の加減で銀に見える髪と青い目が好きだった。
――本当に?
彼は言った。「必ず、君を迎えに来るよ」と。
青い目がやさしく細まって、リオンの前髪をかき上げていた。
――青い目?
脳裏によぎる輝かしい金の色が、リオンをますます混乱させる。
「シャルル王子殿下。わたくしどもも、この娘には苦しめられてきました。たび重なる浪費を窘めても、先代の伯爵の威光を笠に着て……」
その声とともに、だれかがリオンの肩を強い力でつかむ。
振り返るとそれは義父で、気づけば反対側には義母が立っていた。
背中が痛む。恐怖と、そして悲しみのあまり倒れそうだ。
周囲はきっと、リオンの側に立つ彼らを、勇気をもって義理の娘の悪事を告発した親だと思っているのだろう。
違うのに、違うのに。
リオンの処刑台は、残酷だ。
貴族の声が響く。リオンを国外に追放するらしい。
リオンはもはや完全に、絵に描いたような悪役だった。
悪意ばかりが渦巻くこの場で、ヒルデガルドが駆け寄ってくる。そして、不意にリオンの手を取った。
それを見たシャルルが、眉間にしわを寄せ、厳しい大声を上げる。
「ヒルダ、そんな女に情けをかける必要なんてない!」
「いいえ、シャルルさま。こんなひとでも、あたしの義姉ですもの。最後の言葉くらい、かけさせてくださいな」
「なんとやさしい……ヒルダ、君はリオンと大違いだ。女神のような君を、僕は愛している」
「シャルルさま……」
ヒルデガルドは一度シャルルのほうを振り返り、うっとりと両の手を組む。
そうしてわざとらしく、衆目の中、リオンにやさしい声をかけた。
「お義姉さま。あたし、お義姉さまと最後までわかり合えませんでしたけれど、お義姉さまのことが大好きでしたわ……本当に」
なんと慈悲深い……まさに未来の王妃だ! なんて歓声が上がって、小さな声がかき消されていく。ヒルデガルドは、リオンに顔を近づけて、にたぁ、と心から嘲るように笑った。
「本当に、ばかなお義姉さま。やさしいだけで幸せになれるなんて、おとぎ話の中だけに決まってるじゃない」
「……ヒルダ……」
かわいい妹だった。ずっと、いつか仲良くなれると信じていた。
けれど、こんな結末を、つきつけられた。
――それでも、信じたことを後悔はしていない。
目に涙が盛り上がる。けれど、リオンはせめて後悔しないと決めた。
だが、現実はそれを打ち砕いた。
ぽろりと涙を流したリオンの手に、なにかとがったものが押しつけられる。鋭い痛みでリオンは顔をしかめた。手を開いた、そこには。
「これ、おかあ、さまの」
「ちょっと踏んだら、簡単に割れちゃったわぁ。ふふ、安物はだめねぇ」
ヒルデガルドに奪われた、エメラルドのネックレス。
大切なそれが、無残な姿でリオンの手にのっていた。
「あ、ああ、あ、あ」
嗚咽の声がこぼれる。周囲はそれを、「今更後悔するなんて」となじった。
家族を失い、宝物を奪われ、婚約者を奪われ、誇りすら打ち捨てられて。
今になって、やっとリオンは自分の選択の愚かさを知った。
リオンは、どこともなく、虚空へ手を伸ばす。
ヒルデガルドは天使のような愛らしい顔で悪辣に微笑み、表向きには悲しそうに、その実心の底から楽しそうに、口に手を当てる。
「この、ロッテンメイヤー元伯爵令嬢、リオンを国外追放とする!」
シャルル・ヴィラール王子の英断に、歓声が上がった。
義理の両親はリオンの肩を押さえつけて嗤う。
ヒルデガルドは楽しそうに目を細める。
この中に、救いがあるなんて思えない。それでも。
「だれか……助けて……」
リオンは、初めて伸ばした手を、だれかに取ってほしかった。
両親を失った日から、リオンはだれにも救いを求めなかった。
義理の家族を信じようとしながらも、心のどこかであきらめていたから。
リオンは目を閉じる。伸ばした手から力が抜けた。
そのときだった。
「――私の、愛しい番に、なにをしている」
金を銀に溶かし込んだような髪色の青年が、リオンの手を取っていた。
その場のすべてが霞むほどに麗しい彼は、いつの間にかリオンを抱き締めている。
そして、その長い髪で守るように、リオンの姿を煌めく白金のカーテンに閉じ込めた。
刺繍をしたあと、ぼんやりしていると、いつの間にか夕日が差し込んでいた。
リオンはゆっくりとした足取りで食堂へ向かう。
いつも夕食は、リオンだけ別の部屋で食べることになっている。リオンはそれでもよかった。
少し寂しいけれど、義理の家族の団欒を邪魔する気にはなれなかったし、なにより、ひとりでいるのは心が安らいだ。
だから、というべきか。珍しく晩餐の席に呼ばれたリオンは、義父母たちが普段こんなに豪華な食事をしていることを知らなかった。
前菜のスープは濃厚で、小麦のパンはふわふわ。
しっとりと焼き上げられた子羊のローストにはたっぷりの色鮮やかなソースがかかっており、高価な香辛料がこれでもかというほどきいている。
デザートまで出されたが、リオンは遠慮した。
久しぶりのボリュームのある食事はリオンの胃には辛かったし、香辛料で口の中がヒリヒリしていたからだ。
ヒルデガルドや義母は、デザートのカスタードプディングまでぺろりと平らげていた。
「今日お前を呼び出したのには、わけがある」
でっぷりと太った義父が、ワインをかぱかぱと飲みながら、リオンへと声をかけた。
今このときまで、義母やヒルデガルドとしか話さなかったのに、突然。
彼は肉に埋もれそうな細い目でリオンを上から下まで見つめ、厭わしそうに鼻を鳴らす。
「婚約披露のパーティーが明日になった。準備をしておけ」
「それは……」
リオンは不思議に思って、長い前髪の隙間から義父を見つめた。
「それは、急ではありませんか?」
「なんだ、いやなのか」
ワインを口からこぼしながら、義父はじとりとリオンを見やる。
婚約の披露が早まるの自体はうれしいと思ったから、リオンは口を笑みの形にした。
「いいえ、シャルルさまと早くに結婚できるのは、とてもうれしいですわ」
「お義姉さまは、シャルルさまがとてもとても好きでいらっしゃるからね」
どこか嘲るような顔で、ヒルデガルドが口を挟んだ。
リオンはヒルデガルドの表情に対してそう思ったのを恥じたけれど、どうしてもそう見えてしまった。
エメラルドのネックレスを持っていかれてしまったのが、結構なショックだったのだろう。
自答しながら、リオンはヒルデガルドにうなずいた。
「ええ、初恋なの」
幼い日の花畑で。リオンは花冠を作って、彼の頭にのせた。遊ぶたびに「必ず迎えに来る」と言ってくれた、白金の髪の少年を思い出す。
あれから十年。リオンは十八歳になった。
シャルルは、どんな王子さまになっているだろう。
「初恋!」
どっと笑いが場に満ちた。
ダニエルは腹を揺らし、マノンはひいひいと苦しそうに、ヒルデガルドに至っては椅子から落ちんばかりに体をよじって笑っていた。
「どうしたの?」
リオンの質問に、三人はにやにやと笑みを深めるだけだ。
後ろに控える給仕が、痛ましそうな目をしているのが印象的だった。彼は、両親が生きていた頃から働いている、数少ない使用人のひとりだ。
本当は、もうこのときには、リオンは自分の身に起こっていることに気づいていたのかもしれない。
ただ、そこにあるはずの幸せを信じてすがっていた。
それだけ、愚かだった。
その日の夜、リオンは夢を見た。
リオンが幼い頃からよく見る夢だ。シャルルに恋をしたきっかけの、大切な思い出。
幼いリオンと、太陽の光で金にも銀にも見える髪の少年が、花畑で遊んでいる。
「リオン、私の愛しいひと」
「もう、大人ぶっちゃって」
リオンがそう言って笑うと、少年も同じように笑って言う。
「そりゃあ、私は君よりずっと年上だもの」
「うそ、わたくしと同じくらいの背じゃない」
「君に合わせているんだよ」
「あなたは魔法使いみたいなことを言うのね」
「魔法使いだからね」
「うふふ。あのね、魔法っていうのは、竜にしか使えないのよ?」
「さすが、リオンは物知りだ」
少年はうれしげな、そしてリオンが愛しくてならないといった表情をする。そしてリオンの前髪を上げて、その額に口付けた。
「けれどね、リオン、私の愛しいひと。私の唯一。君だって魔法を使えるんだよ」
「えっ?」
リオンは目をしばたたいた。だってリオンはただの人間だ。魔法なんて使い方も知らないし、使うための力もない。
「わたくし、魔法なんて使えないわよ?」
「使えるよ」
白金の髪をした少年は、黄金の目をきらきら輝かせ、リオンの指に自分のそれを絡ませた。
「リオン、私の番。君の目は、私が君を見つける目印で、君の声は、私を幸せにする歌で、君の存在は、私をこの世界で最強にしてくれる。私は君が、心底愛しい」
少年が黄金の目を細めて笑う。リオンの頬が染まる。
それを見て、少年が言った。
「リオン、必ず君を迎えに来る。私の花嫁として。君をこの世の悪意あるすべてから守り、君をこの世で最も愛する。だから誓っておくれ、リオン」
少年は、リオンの瞳に自分を映した。
「君のこの目を、君は愛して。君の目は欠陥品じゃない。私の愛する君の、大切な体の一部。星屑の瞳なのだから」
次の瞬間、視点が移り変わる。
――いやだ、見たくない。やさしい思い出だけを見ていたいのに。
そう思いながらも、リオンはいつも目をそらせない。
炎がなにかを包んでいる。なにかが燃えている。
リオンの大切なものが燃えていた。
「お母さま‼ お父さま‼」
幼いリオンが泣きながら、口から血を吐くほど叫んでいる。その体は、だれかに押さえつけられていた。
「離して! お母さまが! お父さまが! まだ中にいるの!」
「だめだ。リオン。君だけは失えない。もう、父君も母君も助からない」
「お願い! 離して!」
「ごめん、リオン、ごめんね……」
だれかは泣いていた。怪我をしているような声だった。リオンと同じくらい、悲痛なものに思えた。
そのだれかが、ふっとリオンの目に手をかぶせる。
「リオン、忘れて。もう苦しまないで。これは私の勝手だ。君が悲しんでいるのが、なにより苦しい私の勝手だ」
きらきらとした光が、炎の赤を塗りつぶしていく。
リオンの視界が暗くなる。
暗い視界の中で、ただ、ただ、一筋の白金だけが、輝いて見えた。
「リオン、それでも君を、愛しているよ」
その声は、リオンの想像だろうか。そう、聞こえたような気がして。
それを最後に、リオンの意識は朝日に溶け出した。
古びたカーテンの隙間から雨上がりの太陽の光が漏れてきて、リオンはゆるゆると目を開ける。
つう、と涙が頬を伝うのを感じて、リオンはカーテンに遮られた窓の向こうをぼんやりと見た。
「また、この夢……」
この夢はいつも、花畑の場面が一変し、視界が黒く染まるところで終わる。
いいや、終わるというのは語弊がある。
正確には、そこまでしか覚えていられないのだ。
そのあと、なにか大切なことがあるはずなのに、目が覚めると忘れてしまう。
残るのは幸せな初恋の記憶と、胸が締めつけられるような、理由のわからぬ悲しみだけだ。
「シャルルさま……」
夢の中で、少年はリオンの目を綺麗だと言った。
大人になったリオンは、この目が好きではない。
少年――シャルルは、今のリオンを見てどう思うのだろう。
シャルルが好きだ、とても好きだ。
この十年間、会ったことはないけれど、あの少年はこの国の第一王子であるシャルルだとわかる。わかるはずだ。
そうでなくては、白金の髪だけしか記憶にない、この夢にすがった意味がなくなってしまう。
「シャルルさまに、会えば」
今日、シャルルに再会する。顔は知っている。絵姿で何度も見た。
記憶のシャルルは顔がぼやけてよく見えないけれど、脳裏で煌めく光の粉のようななにかが、彼をシャルルだと思わねばならないと告げるのだ。
だからシャルルに会えば、この言いようのない苦しみから解放されるに違いない。
境遇も、義理の家族に受けた行為も、侮蔑の視線も、すべてよいものに変換できる。
自分は苦しみなど覚えていない。幸せな花嫁になる。
そうだ。リオンは苦しいことなどなにも覚えていないのだから。
――忘れて、リオン。
頭の中で、だれかの声がした。
「リオンさま、おはようございます」
ぼんやりしたままベッドに座り込むリオンの応えを待つことなく、ひとりのメイドが部屋に入ってきた。リオンの世話を命じられているメイドだ。
表面上はにこやかに接してくれるが、この間、「リオンの世話はいやだ、ヒルデガルド付きになりたかった」と話しているのを聞いてからは、彼女を積極的に頼ることをやめていた。
せめて、ヒルデガルドを支えるための時間を増やしてあげたいと思ったのだ。
幸い、リオンに与えられている服は、ヒルデガルドのお下がりの簡素なワンピースのみであったため、ひとりでも脱ぎ着に困ることはなかった。
そういったわけで、リオンのもとに、このメイドが来ることは滅多にない。それが、わざわざ起こしに来るためだけに、ここにやってくるとは思えなかった。
「……おはよう。ごめんなさい、もうそんな時間なのね。今日は、どうしたの?」
「お忘れですか、リオンさま。今日はリオンさまの婚約……婚約、お披露目の日です」
なにか言い淀んだのが気になったが、このメイドがリオンをいやがっているせいだと解釈した。
「覚えているわ。大丈夫よ、起きているでしょう? けれど、こんなに早く準備をするの?」
「もちろんです。リオンさまには最高級のものを、と奥さまと旦那さまから任せられていますので」
メイドはそう言いきって、扉を大きく開けた。
その向こうには、たくさんのメイドがいた。
真っ赤な布地に金糸で刺繍された豪華なドレスを抱える者や、絢爛な宝石類の詰まった箱を持っている者……様々な髪飾りや、化粧道具も揃っている。
それぞれが、リオンの目から見ても、たしかに高価だとわかるものであった。
ただ、リオンの趣味とは違う……というか、かなり、けばけばしい。
「リオンさま、動かないでください」
「ヒルデガルドお嬢さまなら、もっとお似合いになりますが……まあ、こんなものでしょう」
「ぷっ……先輩、これはさすがに……」
「いいえ、いいえ、これが流行なのですよ」
メイドたちが囁く。本当にこれが流行の服装なのか少しだけ不安になったけれど、社交界を知らぬリオンはうなずくほかない。
それになにより、リオンはうれしかったのだ。今まで義理の両親に嫌われていると思っていたから。
ついに歩み寄れたのだと思った。リオンのためにたくさんの用意をしてくれた彼らに感謝をした。
だから、その不安は彼らへの不義理だと思った。
リオンは長く下ろしたままの前髪の奥で、にっこりと笑う。
「ありがとう、みんな。とても素敵ね」
メイドたちは笑顔になって礼をとったから、これできっと間違っていない。
リオンは、片付けをし出したメイドたちのだれにも伴われることのないまま、階下の玄関ホールへ下りる。そこには、すでにヒルデガルドがいた。
「まあ、お義姉さま。とっても素敵な格好ね」
「ありがとう、ヒルダ。あなたにそう言ってもらえてうれしいわ」
「お義姉さまにはよく似合っているわ。あたしが選んだのよ」
「まあ」
リオンは口元を綻ばせた。ヒルデガルドともこんなに打ち解けられたのだと思って。
脳裏に警鐘が響くけれど、それは無視した。
「さ、王宮へ向かいますよ」
「さっさと乗りなさい」
義母と義父が、リオンを促す。
リオンは、けばけばしく毒々しい深紅のドレスに身を包み、滑稽なほど高く結い上げた髪にがちゃつく宝石をちりばめて、馬車に乗り込んだ。
「いってらっしゃいませ。旦那さま、奥さま、ヒルデガルドお嬢さま……リオンさま」
家令がリオンたちを送り出す。どうやらまた家令が変わったらしく、新しく見る男性だった。
リオンは微笑んで、ヒルデガルドに向き直る。
ぎり、と歯噛みする音がして、リオンは首を傾げた。
険しい表情をしていたヒルデガルドは、リオンの視線に気づくなり、わざとらしいほどにっこり笑い返してくる。
彼女の首元には、リオンの母の形見であるエメラルドのネックレスが輝いていた。
「ヒルダ、わたくしのネックレスを、あとで返してね。お披露目のときに、持っていたいの」
リオンがそう言ったとき、ヒルデガルドの口がたしかに歪んだ。それを、リオンは見た。
そうして、ああ、と思った。
「もちろんよ、きっと、返すわ」
「ありがとう。ヒルダ。きっとよ」
ヒルデガルドを信じたい。けれど、本当のところは、リオンの望まぬことになるのだろう。
それでも、リオンはどうにかしようとは思えなかった。
愚直に信じた先に、絶望があるのなら、それでもいいかとさえ思った。
馬車に揺られ王宮へ着くと、リオンは義父に引きずられるようにして大広間に連れていかれた。
普通、婚約のお披露目は夜会のような華々しい場で行われる。昼間から夜会なんてあるはずがない。
だから、ここはリオンにとっての処刑台なのだった。
たどり着いた部屋には、たくさんのひとがいた。
その中心に、立っているのは。
「シャルル、さま」
か細い声が、口からこぼれ出る。
彼はリオンがこれまで見たことのないほど整った顔立ちをした、美しい青年だ。けれど、夢にまで見たシャルルの姿とあまりに違って、リオンは困惑した。
青い目をした美丈夫は、貴族の若者たちを従えてリオンを見下すように見ている。
そうして、心底軽蔑したという顔でこう言った。
「リオン・ロッテンメイヤー伯爵令嬢。……いいや、もう、元伯爵令嬢か。リオン、君との婚約は破棄させてもらう」
衆目の中、じしんの婚約者から放たれた言葉に、リオンはめまいを覚えた。
ぱち、ぱちと、長い前髪で隠された目をしばたたいて、これが現実でないことを祈って。それでもやっぱりこれは現実で――
ぐらぐらする頭を押さえ、回る視界に耐え、それでもゆっくり口を開く。
「……シャルルさま。わたくしに、なにか至らないところがございましたか」
「なにか、だと? しらじらしい。君が義理の妹であるヒルデガルドを何年も苛めていたというのは、この国の社交界では皆が知るところだ」
そう言って、シャルルはまるで汚らしいものを見るような目でリオンを見た。
「わたくし、は、そんなことを、しておりません」
声がつっかえたのは、背後から義理の両親の視線を感じたからだ。
しかし、シャルルは後ろめたいことがあるせいだと思ったのだろう。それ見たことかと言いたげに、リオンを睥睨した。
「ならば、なぜ声が震える? 恥じることがないなら堂々としていればいい。できないのは、君に非があるから。違うか?」
「……あ」
違う、と言いたい。だって本当に違う。
自分はヒルデガルドを苛めてなんていないし、シャルルに隠すことなどなにもない。神に誓って言える。
それでも、リオンに用意された現実はなにより残酷だった。
「ちが、い、ます」
声が震える。言いきることはできた。だけど、こんな状況では、最悪の挙動だ。
震える声で立ち竦む、赤毛の華奢な少女。それだけならまだましだった。
今、リオンの体は、けばけばしいドレスと、重たい高価な宝石に包まれている。その上、長い前髪で隠された、顔の上半分。怪しんでくれと言わんばかりだ。
普段社交界に出ないリオンを、知っている人間は少ない。
義父母が、突然リオンに華美なものを与えたのは、こういうことだったのだ。
やっぱりという気持ちと、しんしんと降り積もるような絶望が、リオンの足元をぐらつかせる。
シャルルは、リオンをなおも責め立てた。
「違うわけがない。かわいそうなヒルダを苛め、ドレスを奪い、宝石を奪い、下働きのような仕事をさせていたというではないか」
「そんな、ことは――」
「していない、とは言わせない。だいたい、君の姿を見ればわかる。目を隠して……やましいことをしているというなによりの証拠だ」
リオンのあがきにも似た弁明は、周囲の人々の発するざわめきにかき消される。
リオンの声は、だれにもとどかない。
大きく息を吸うと、背中にある腫れが痛んだ。以前義父に戯れに鞭打たれてできたものだ。
喉が引きつれた音を漏らす。
「本当に、本当に、ち、ちがうの、です」
リオンはやっとのことで声を出す。背後から、責めるような義理の両親の視線を感じた。
それでもようやく言えたリオンの意志は、最後に信じていたひと――ヒルデガルドによって、簡単にはねのけられた。
タイミングを計ったように、たたた、とヒルデガルドがシャルルに駆け寄る。
シャルルは両手を広げて彼女を迎え、当然のように抱き締めた。
「シャルルさまぁ、シャルルさまが助けてくださらなければ、あたし、きっと死んでいましたわ……」
「ああ、ヒルダ。恐ろしかったな。もう大丈夫だ。君をもうリオンの手には触れさせないから」
ヒルデガルドを慰めるシャルルの青い目が、リオンを睨んだ。もはや憎しみすらこもっている。
金の髪が、大広間のシャンデリアの光に照らされる。
彼は、正義をもって悪女を断罪する、高潔な騎士のように見えた。
少しだけでも、通じ合っていると思っていた。
初恋の少年。幼いリオンを、だれの手からも救うと言ってくれたひと。
今やその腕はリオンではない相手を支え、その目はリオンを睨み据え、その唇はリオンをなじるものになった。
シャルルの、光の加減で銀に見える髪と青い目が好きだった。
――本当に?
彼は言った。「必ず、君を迎えに来るよ」と。
青い目がやさしく細まって、リオンの前髪をかき上げていた。
――青い目?
脳裏によぎる輝かしい金の色が、リオンをますます混乱させる。
「シャルル王子殿下。わたくしどもも、この娘には苦しめられてきました。たび重なる浪費を窘めても、先代の伯爵の威光を笠に着て……」
その声とともに、だれかがリオンの肩を強い力でつかむ。
振り返るとそれは義父で、気づけば反対側には義母が立っていた。
背中が痛む。恐怖と、そして悲しみのあまり倒れそうだ。
周囲はきっと、リオンの側に立つ彼らを、勇気をもって義理の娘の悪事を告発した親だと思っているのだろう。
違うのに、違うのに。
リオンの処刑台は、残酷だ。
貴族の声が響く。リオンを国外に追放するらしい。
リオンはもはや完全に、絵に描いたような悪役だった。
悪意ばかりが渦巻くこの場で、ヒルデガルドが駆け寄ってくる。そして、不意にリオンの手を取った。
それを見たシャルルが、眉間にしわを寄せ、厳しい大声を上げる。
「ヒルダ、そんな女に情けをかける必要なんてない!」
「いいえ、シャルルさま。こんなひとでも、あたしの義姉ですもの。最後の言葉くらい、かけさせてくださいな」
「なんとやさしい……ヒルダ、君はリオンと大違いだ。女神のような君を、僕は愛している」
「シャルルさま……」
ヒルデガルドは一度シャルルのほうを振り返り、うっとりと両の手を組む。
そうしてわざとらしく、衆目の中、リオンにやさしい声をかけた。
「お義姉さま。あたし、お義姉さまと最後までわかり合えませんでしたけれど、お義姉さまのことが大好きでしたわ……本当に」
なんと慈悲深い……まさに未来の王妃だ! なんて歓声が上がって、小さな声がかき消されていく。ヒルデガルドは、リオンに顔を近づけて、にたぁ、と心から嘲るように笑った。
「本当に、ばかなお義姉さま。やさしいだけで幸せになれるなんて、おとぎ話の中だけに決まってるじゃない」
「……ヒルダ……」
かわいい妹だった。ずっと、いつか仲良くなれると信じていた。
けれど、こんな結末を、つきつけられた。
――それでも、信じたことを後悔はしていない。
目に涙が盛り上がる。けれど、リオンはせめて後悔しないと決めた。
だが、現実はそれを打ち砕いた。
ぽろりと涙を流したリオンの手に、なにかとがったものが押しつけられる。鋭い痛みでリオンは顔をしかめた。手を開いた、そこには。
「これ、おかあ、さまの」
「ちょっと踏んだら、簡単に割れちゃったわぁ。ふふ、安物はだめねぇ」
ヒルデガルドに奪われた、エメラルドのネックレス。
大切なそれが、無残な姿でリオンの手にのっていた。
「あ、ああ、あ、あ」
嗚咽の声がこぼれる。周囲はそれを、「今更後悔するなんて」となじった。
家族を失い、宝物を奪われ、婚約者を奪われ、誇りすら打ち捨てられて。
今になって、やっとリオンは自分の選択の愚かさを知った。
リオンは、どこともなく、虚空へ手を伸ばす。
ヒルデガルドは天使のような愛らしい顔で悪辣に微笑み、表向きには悲しそうに、その実心の底から楽しそうに、口に手を当てる。
「この、ロッテンメイヤー元伯爵令嬢、リオンを国外追放とする!」
シャルル・ヴィラール王子の英断に、歓声が上がった。
義理の両親はリオンの肩を押さえつけて嗤う。
ヒルデガルドは楽しそうに目を細める。
この中に、救いがあるなんて思えない。それでも。
「だれか……助けて……」
リオンは、初めて伸ばした手を、だれかに取ってほしかった。
両親を失った日から、リオンはだれにも救いを求めなかった。
義理の家族を信じようとしながらも、心のどこかであきらめていたから。
リオンは目を閉じる。伸ばした手から力が抜けた。
そのときだった。
「――私の、愛しい番に、なにをしている」
金を銀に溶かし込んだような髪色の青年が、リオンの手を取っていた。
その場のすべてが霞むほどに麗しい彼は、いつの間にかリオンを抱き締めている。
そして、その長い髪で守るように、リオンの姿を煌めく白金のカーテンに閉じ込めた。
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