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1巻
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しおりを挟むプロローグ
この手を取ってほしかった。
だれかに、だれでもいいから、もう大丈夫だと言ってほしかった。
この手は、両親を失ったあの日から、だれにも握ってもらえなかった手だ。
だから、救いが来るなんて、本当は思っていなかった。
「――私の、愛しい番に、なにをしている」
金を銀に溶かし込んだような髪色の青年が現れた、このときまでは。
第一章
広い屋敷の中の最も小さな部屋で、リオン・ロッテンメイヤーは家庭教師の話を聞いていた。
義母が、久しぶりに授業を受けさせてくれたからだ。
幼い頃からリオンに辛く当たる義母や義父は、リオンに令嬢としての教育をなにも受けさせなかった。
けれど、ここ一か月は普通の令嬢がしているようなことをさせてくれる。
だから、ようやく仲良くできるのかもしれない、と、リオンは期待に胸を膨らませていた。
リオンは先代のロッテンメイヤー伯爵の娘として生まれて幸せに暮らしていたが、十年前、火事で両親を喪ってしまった。
それから爵位を継いだ叔父の家に引き取られ、今は義父母、義妹と生活している。お世辞にもいい生活をさせてもらっているとは言えなかったが、悪いひとたちではないのはわかっていた。
リオンは、父と仲が悪かったらしい義父の中にあるわだかまりがなくなれば、いつか仲良くなれると思っている。
昨日、火かき棒を押しつけられた太ももがひりひりと痛んだけれど、リオンはそう信じていた。そう信じなければ、生きてはいけなかった。
それに、リオンには苦しい日々を耐えられる理由がある。
今は亡き父が取り決めてくれた、第一王子シャルル・ヴィラールとの婚約だ。
リオンの父は生前、宰相として働いており、国王の信頼が厚かった。
その縁で、リオンとシャルルとの婚約が結ばれていたのだ。リオンがまだ赤ん坊のときの話である。
シャルルはリオンの初恋のひとだ。そんなひとと結ばれるのは幸せ以外の何物でもない。
だから、辛いことがあっても、頑張れる。
彼の妻という立場に恥じぬよう、また世話になった義父母の顔に泥を塗らないよう、リオンは勉学に勤しんでいるのだ。
たとえそれが偏った思想でも、リオンは知ることを幸せだと思っていた。
「――昨日のおさらいですが、竜は高慢な種族なのです。自分たちが上位種だと誇示するために、空に住んでいるのですから」
そう言いきる家庭教師を、リオンはチェリーブロンドの長い前髪を揺らして見上げた。
「けれど先生。それは、戦わないためではないでしょうか。ひとのほうが竜より弱いのは……ええと、そうなんでしょう?」
リオンの生まれ育ったここ、アルトゥール王国は、大陸の端に存在し、人間の王を戴く国だ。海と山を持ち、大きくはないが決して小さくもない。
だが最近、アルトゥール王国は魔石の鉱石の鉱山が見つかり、急速に豊かになった。
魔石は、魔法を使うために必要なエネルギーである魔力の結晶だ。魔力は限られた生物のみが持っているとされるが、魔石はどういうわけかそれを凝縮し、鉱石となったらしい。
もともと魔力を持たぬ存在でも、魔石を壊すことによって魔力を得て、魔法を使えるようになる。
風を操り、火を起こし、無から有を生み出すことすらできる万能の力、魔法。
それを使うために必要な魔石は、ほとんどの国で採掘されず、採掘できてもその量はほんのわずかというほど希少なもので、世界中から求められているのだ。
その点で、魔石鉱山があるアルトゥール王国は、ひとの国の中では頭ひとつ飛び出ているといえる。
だが、それはあくまで人間の国、というくくりで見た場合だ。
大きな港を持ち、鉱山も持つアルトゥール王国ではあるが、はるか天空を治める竜の国や、広大な土地と豊かな森を抱く獣人の国にはかなわない。
そもそも、人間は竜のように魔法が使えるわけでなく、獣人のようにけた外れの身体能力を持っているわけでもない。まず種族の違いという前提から、国の軍事力が弱いのである。
かつては人間と獣人が土地を求め、熾烈な戦争があったらしい。
だが、それを見かねた竜が戦を仲裁するまで、人間の国はほとんどが獣人の属国となっていたのだから、双方の力量差は推して知るべしである。
そんな、人間を圧倒した獣人ですらまったくかなわないのが竜だ。
種としての強者、生態系の頂点に立つ彼ら竜は、数こそ人間や獣人より少ないものの、彼らだけが使える魔法という力で土地を空に浮かせ、人間や獣人からの侵略を阻んでいるという。
竜は、人間をむやみに傷つけないように、そうしているのではないだろうか。人間が攻めてくれば、防衛のために攻撃せざるを得ないから。
リオンはそう思って答えたのだが、家庭教師は気に入らなかったようだ。
「人間が弱い?」
ぴくり、と家庭教師は眉をひそめ、眼鏡の奥で細いつり目をきゅっと引き上げた。
彼女は、思わずびく、と震えたリオンの腕を捕まえる。そして鞭でリオンの手を打った。
「あう!」
「人間が弱かったのは、もう数百年も前の話です。今や人間は多くの武器を作りました。人間は圧倒的に多いのです。我らが武器を持ち立ち向かえば、あの高慢な竜や野蛮な獣人など敵ではありません」
「けれど……」
「リオンさま?」
なおも言い募ろうとしたリオンを、家庭教師が鋭く睨む。
「……はい、先生」
リオンはひりひりと痛む、服に隠れた腕をさすりながら、静かにそう答えた。
「だいたい、十年前に大暴れして、この国を滅ぼしかけた竜に、人間のような理性などあるわけがありません。おわかりですか?」
「…………は、い」
リオンは竜という存在に、昔からずっと親しみを覚えている。会ったこともないのに。
だから竜が貶められているのはいやだったけれど、否定しても、また教鞭で外から見えないところをぶたれるだけだろう。
「まったく。妹君のヒルデガルドさまは、あんなに優秀でいらっしゃるのに。ヒルデガルドさまは竜や獣人の下劣さを、すぐご理解くださいました。リオンさま、あなたとは大違いです」
「……ごめんなさい」
うなだれるリオンに、家庭教師がふん、と鼻を鳴らす。
「竜学者のように、まったくもって愚かな思想。先代のロッテンメイヤー伯爵もそうでした。そんなくだらないものを受け継いで。あなたにはヒルデガルドさまとも同じ血が流れているというのに。リオンさま、あなたにヒルデガルドさまのような聡明さがあれば……もうじき王宮で婚約のお披露目があるのですから、それまでに仕上げねばならないのに……」
「わたくしが至らないせいですね、ごめんなさい」
「まったくです」
そのとき、ふいにノックの音がした。
リオンの答えを待たずにドアを開け放ったのは、くるくると巻いた金髪をリボンで二つに結わえた、愛らしい容姿の少女だ。
「ヒルデガルドさま! どうなされたのです? こんなところに……」
ここは、最近義父たちに与えられたリオンの部屋だ。日当たりは悪く、狭い。
たしかに質素だけれど、リオンがこれまで住んでいた、みすぼらしい離れとは名ばかりの小屋より、ずっと素晴らしいと思う。
それを簡単に「こんなところ」と言ってしまう家庭教師に、リオンの胸がちくりと痛んだ。
「先生、ここは素敵なお部屋よ。ねえ、お義姉さま」
ヒルデガルドが、にっこりとその愛らしい顔に笑みを作る。
リオンはヒルデガルドがそう言ってくれたことがうれしく、微笑みを返した。
「ありがとう、ヒルダ」
家庭教師はまあ、と頬を染めて、かわいらしい生徒だという表情でヒルデガルドを見つめた。
そのあと、もっとヒルデガルドに感謝すべきだと非難する目でちらりとリオンを見やるのも忘れない。
ヒルデガルドは、これまでずっとリオンのことをいやがっていた。
けれど、婚約式が近づくと、これまでのわだかまりが解けたのか、リオンのことを「お義姉さま」と呼んで慕ってくれるようになったのだ。
だから、リオンはヒルデガルドのことが好きだった。
「まあ、お義姉さま、今日も髪がボサボサよ。あたしが梳かしてあげるわ」
「ありがとう、ヒルダ。でもごめんなさい。今は授業中なの」
「リオンさま、ヒルデガルドさまの厚意を無下にするとは何事ですか! ヒルデガルドさまはあなたのような方にもやさしい、素晴らしい方ですのに!」
家庭教師が憤慨するのを押しとどめて、ヒルデガルドはゆったりと笑う。
「まあ、素晴らしいだなんて。あたし、そう言ってくれる先生が大好きよ」
「ヒルデガルドさま……!」
感激した様子の家庭教師に微笑んで、ヒルデガルドがリオンの髪をつかむ。それは手櫛でくしけずるというより、引っ張るというようだった。
乱暴な手つきのせいで、リオンのチェリーブロンドの髪がぶちぶちと、数本抜ける。
「あら、お義姉さま、ごめんあそばせ? 悪気はないのよ」
「……いいのよ、ヒルダ」
少しというにはすぎるくらい痛かったけれど、わざとではないのだから怒ることではない。
それに、リオンはこのやさしい義妹を叱るなどしたくはなかった。
これは、鞭でぶたれてひりひりとまだ痛む腕に、ヒルデガルドの腕が当たるたびにも思うことだった。
ふいに、ヒルデガルドがリオンの前髪を上げる。
途端、家庭教師がいやそうな顔をして、ヒルデガルドも眉をひそめた。
「やっぱり、お義姉さまの目は気味が悪いわね。青の中に屑が散っているようだわ」
「ええ、ヒルデガルドさまの美しい空の色とは大違いです」
「……ごめんなさい」
この目は、まだ生きていた頃の両親が褒めてくれた目だ。
星屑をちりばめた夜空の目だと、両親は言ってくれたけれど、たぶん、この気味の悪い目をかわいそうに思ったのだろう。
その証拠に、今リオンの前髪を掴んでいるやさしいヒルデガルドは唇を曲げているし、家庭教師は口元を押さえて顔を背けている。
リオンの目を見たひとは、一様にこのような反応をした。
リオンの目は、ひとを不快にするのだ。
だからリオンは前髪を伸ばし、その目を隠しているのだった。
「ごめんなさい、気持ちが悪いわね。すぐに隠すわ。……ヒルダ、放してくれる?」
「ああ、そうね、悪かったわ、お義姉さま。気持ちの悪いところを曝したりして」
ヒルデガルドがリオンの前髪をパッと放す。ヒルデガルドの指に絡んだ前髪がぶちぶちと抜ける音と同時に、鋭い痛みが頭皮に走った。
「痛ッ」
「あら、汚い」
ヒルデガルドがリオンの髪を払って顔を歪める。
そんな風にするほど、自分の髪は汚いだろうか。昨日もバスタブで体を洗ってもらったのに。
スポンジでこすられた体は、多少の擦り傷はあれど綺麗なはずで、当然髪も綺麗なはずだった。
「ヒルダ……えっと……」
「お義姉さま、なにかしら」
ヒルデガルドは、やはり愛らしい顔で微笑んだ。
だからリオンはゆるゆるとかぶりを振って、なんでも、と隠れた目を細める。
こんなに愛らしいヒルデガルドが、自分を疎んでいるなんて気のせいだと思って。
「あ、そうだわ、お義姉さま!」
唐突に、ヒルデガルドが両の手を打った。
目を細め、幸せな少女の顔をして、リオンに笑いかける。
「お義姉さまのエメラルドのネックレス、あたしに貸してくれないかしら? 明日出かけるときに着けていきたいのよ」
「こ、これは……」
ヒルデガルドの言うエメラルドのネックレスとは、リオンが亡き母から受け継いだ形見のことだ。
財産も爵位も、宝石もドレスも義母や義父に持っていかれてしまったリオンにとって、唯一残された両親との思い出と言ってもよかった。
「これは、貸せないの、ごめんなさい」
「ええ、どうして⁉」
リオンの言葉に、ヒルデガルドの目がみるみる潤んでいく。
どうして自分の思い通りにならないのか心底疑問に思っている様子で、ヒルデガルドは両手で顔を覆った。
家庭教師が怒りの声を上げる。その相手はもちろん、リオンだ。
「リオンさま! アクセサリーひとつ、どうしてヒルデガルドさまに貸さないのですか! まったく……ロッテンメイヤー家の居候にすぎないあなたに、こんなにやさしいヒルデガルドさまへの恩をあだで返すようなことを……」
家庭教師が、鞭でリオンの手を打った。風を切ってしなる鞭は、寸分たがわずリオンを痛めつける。
思わず顔をしかめたリオンに、家庭教師が侮蔑の言葉を投げかけた。
「まったく、貴族の血が流れていながら、アクセサリーひとつを惜しむとは……なんて卑しい人間なんでしょう。ヒルデガルドさま、お気になさいますな」
「あら、いいのよ先生。お義姉さまがどんなひとでも、あたしたちは姉妹ですものね。仲良くするのは当たり前だわ」
「ヒルデガルドさま……!」
家庭教師が感極まって瞳を輝かせる。
リオンは、どうして自分とヒルデガルドはこんなに違うのだろうかと、ふと思った。
愛らしく、みんなに愛されるヒルデガルドと、汚らしい目を持ち、だれからも疎まれるリオン。
愛されたいと思う。けれど、すぐにあきらめた。それが無理な話なのはわかっていたから。
「卑しい方でも、血の繋がった親族ですもの。ね」
「……ありがとう、ヒルダ」
卑しいなんて言われたくはない。本当は、こんな目を向けられたくはない。
けれど、やっぱりヒルデガルドに、ありがとう、以外を伝えることは、どうにもできそうになかった。
「でも、感謝するなら、やっぱりいただいていくわね。大丈夫、きちんと返すわ」
突然、ヒルデガルドがリオンを突き飛ばす。そして、リオンの首にかかっている小さなエメラルドを握った。
家庭教師が心得たような動きでネックレスの留め具を外す。それはヒルデガルドの手の中におさまって、リオンの首から離れていってしまった。
「ヒルダ!」
「あら、いやだ、怖いわ。お義姉さま」
「リオンさま! 令嬢が大声を出すなど、はしたない!」
家庭教師の声に、ひ、と喉から息が漏れた。
そのすきに、ヒルデガルドは楽しそうに笑いながら、部屋のドアを開けて出ていく。
それを目で追い、じしんもヒルデガルドの後を追おうとするが、それはかなわなかった。
「リオンさま、授業中です」
家庭教師が、その行く道を遮り、もう一度リオンを打たんと、鞭を振りかぶる。それを、リオンは真っ白になった頭で眺めることしかできない。
あのネックレスだけは、大切なものなのに。音なき声が、頭の中で響く。
たぶん、それはリオンの叫びだった。
それからの授業は、よく覚えていない。はっと我に返ったときには、もう家庭教師が帰ったあとだった。
ヒルデガルドを追いかけようとしたリオンを見て、家のメイドたちはひそひそと話しながら笑う。おそらく、また家庭教師が、リオンは不出来だと言って回ったのだろう。
仕方ないことだ。自分が出来損ないなのは、本当のことだから。
リオンはとぼとぼと部屋に戻る。窓の外を見ると、雨が降っていた。
授業のあとは、義母の言いつけを守って刺繍をする。
伯爵家の資金は潤沢だが、実の子ではないリオンの食べる分は自分で稼ぐべきだという義理の両親の方針で、売るものを作らなければならないからだ。
特に、いやだと思うことはなかった。殴られたり、鞭で打たれたりするよりずっとましだし、なによりリオンは刺繍が好きだったから。
亡き母から教わった刺繍の技術と図案は、リオンの心を弾ませてくれる。
ひと針ひと針、丁寧に刺していくうちに、みずみずしい花だったり、空を飛ぶ鳥だったり、木の実を食むリスだったりが布の上に現れていく。
鼻歌を歌いながら、常に日当たりの悪い部屋で、たったひとりで針を動かす。
ひとりでいるのは落ち着く。だれにも、この汚らしい目を見せる心配がないから。
今刺しているのは、伯爵家に伝わる伝統的な図案だ。サクラ、という、東の国にのみ咲く花をかたどったものらしい。アーモンドの花に似たこの花は薄いピンクで、色が少しだけ、リオンの髪に似ていた。
「……サクラ。どんな花かしら。見てみたいわ」
枝は茶色だ。枝の中に丸い模様を描いて、今にも花開かんとする、生命力あふれる蕾を刺繍する。
仕上げに糸をはさみで切って、広げて確認する。自分でも満足のいく仕上がりだった。
この布は、ハンカチにしよう。
隅に大きく刺繍をしたから、レースで縁取れば、きっと素敵なハンカチになるだろう。
それを使うのはリオンではないけれど、買ってくれたひとが大切にしてくれればうれしいと思った。
「リオン!」
突然、どん! と、乱暴にドアが開け放たれる。
床がみしみしと音を立てて、リオンは目をぱちぱちとしばたたいた。
「お義母さま、どうなさったのですか?」
「どうしたもこうしたもないわよ、刺繍ひとつにどれだけ時間をかけているの。まったく、作業が遅いのは出来損ないの証ね。先代の伯爵も、とんだお荷物を置いていってくれたものだわ」
「……ごめんなさい、お義母さま、すぐに仕上げますから、どうか、お父さまのことを悪く言わないで……」
父のことをそんな風に言われるのは辛い。リオンが懇願するように言うと、義母――マノンはふんと鼻を鳴らしてリオンの手の中にあるものをひったくった。
「これ? できたなら早く渡しなさい!」
マノンはその刺繍を見て、おやっという顔をする。しかし、またぎゅっと顔をしかめて、呆れ返ったようにリオンをなじった。
「この程度の刺繍に、こんなに時間をかけているの。かわいいヒルダならもっと早く、綺麗な刺繍ができるわよ」
「そうですか……」
じしんが刺繍の名手だとは思っていないけれど、そこまで言われるほど稚拙なものだったのか。渾身の力作だっただけに、リオンは目線を下に向けた。
「精進いたします。お義母さま」
「ええ、そうなさい。こっちだって、好き好んであなたを養ってあげているわけではないのですからね。自分の食べる分くらい、自分で稼ぎなさい」
「はい、お義母さま」
その答えに、不機嫌そうに鼻を鳴らしたマノンは、また大きな音を立てて部屋から出ていった。
その手には、リオンが刺したばかりの刺繍布が握られたままだった。
結局、レースのハンカチにすることはできなかったな、とリオンはため息をつく。
「悪い、ひとではないのよ、リオン。そう、お義母さまとだって、いつか理解し合えるわ……」
雨の音がする。新たな布を手に取るリオンのそのつぶやきが、だれかに聞かれることはなかった。
◆ ◆ ◆
一方、リオンの部屋から出たマノンは上機嫌だった。
またあの忌々しいリオンから、ひとつ刺繍をせしめてやった。リオンの刺繍はよい値になる。
とくに今回の刺繍は上出来だ。
夫が伯爵家を継いでからというもの、このロッテンメイヤー家の家計は火の車だった。
それも当然だ。領地経営などしたことのない夫のダニエルは、すべてを執事に丸投げしており、先代の伯爵の財産で飲んだくれてばかり。マノンも当然相伴にあずかって、ドレスや宝石を新調しているが。
ヒルデガルドのドレスにもお金がかかるし、貴族になってから覚えた美食などとにかく物入りだ。
そこでマノンが目をつけたのが、リオンの刺繍だった。
今手に持っているこれひとつでも、向こう一か月は裕福な生活が送れるだろう。
「ヒルダ! また新しい刺繍布を持ってきたわよ」
「お母さま! ありがとう。これは、あたしが刺した刺繍ね?」
「もちろん。ヒルデガルド・ロッテンメイヤーは刺繍の名手ですからね」
リオンの刺繍を、ヒルデガルドのものと偽って売る行為は、とてもうまくいっている。
刺繍は貴族女性のたしなみであるし、上等な刺繍小物は収集家がいるくらいに人気がある。
刺繍がうまい女性は、それだけで結婚相手に困らないくらいだ。
おかげで伯爵家の財布を潤すだけでなく、ヒルデガルドの評判もうなぎのぼりである。
それに、つい最近、この『ヒルデガルドの刺繍』の小物を、とても高い値段で買ってくれる上客ができた。
顔は見せないが、見えている部分から推察するに、白金の髪をしている背の高い男だ。
怪しい男だが、金のある好事家なのだろう。この男にひとつ売るだけで、酒も宝石も浴びるほど買える金額になる。まったくもって、いい商売である。
「あら、この刺繍はアーモンドね? これはポーチにしましょうか」
「いい考えね、ヒルダ」
ヒルデガルドはサクラをアーモンドと言いきると裁縫箱を開け、すでに糸の通された針で、刺繍布を刺した。
ぐしぐしと縫っていくその手つきは危なっかしく、縫い目もばらばらだ。
「ねえ、お母さま。明日のことがうまくいったら、お義姉さまをあたし専用のお針子にしてもいいかしら」
「うまくいったらではなく、うまくいくのよ、かわいいヒルダ。そうねえ。それなら、ヒルダがこれからもこの刺繍布を売ることができるものねえ。あの娘がなにか言ったとしても、ただのお針子の言葉なんてだれも信じやしないわ」
うふふ、とふたりで顔を合わせて笑う母子の顔は、いつの間にか醜悪な嘲りに染まっている。
楽しい生活だと、ふたりは笑った。
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