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第2章

アインヴォルフの犬

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「わたしは、何の力もないのね」
「おひいさま……」

 アルブレヒトの出て行った扉を見つめながら、シャルロットはぽつりと呟いた。

「わたし、アルブレヒトさまに、何ができていたのかしら」

 泣くことはできない。
 胸の中の何かが枯れたのを感じていた。
 ふと、窓際に飾られた花瓶を見る。咲き誇る白い薔薇ーーヒュントヘン公爵家の庭師が作った「シャルロット」。薔薇のシャルロットは綺麗で、けれど現実のシャルロットは、アルブレヒトのように、シャルロット自身を守ることもできない。
 身を投げ打つことしか知らなかったシャルロットが、何をすればいいのだろう。
 学べばいいのか。勉強は得意だ。だが、そういうものではないと、シャルロットが誰より理解していた。

「おひいさま、腕力だけが、アルブレヒト様を守るものではありませんよ」
「アンナ……?」
「おひいさまが生きて、アルブレヒトさまから逃げず、隣にいてくださった……。おひいさまは、アルブレヒトさまの心を、お守りになってくださったのです」
「……こじつけだわ」
「いいえ、いいえ。おひいさまは、おひいさまにしかできない方法で、アルブレヒトさまを守ってくださった……おひいさま以外の誰にもできなかったことです」

 寂しそうに微笑むアンナの声が優しく響く。
 シャルロットは、触れたままの手を滑らせ、アンナの手を握った。
 ふっくらした手は、それでもシャルロットよりずっと長く生きているからか、少しだけかさかさしている。

「わたしにしかできないこと……」
「おひいさま、おひいさまが王城に来てくださる前、アルブレヒトさまが、王宮でなんと言われていたかご存知ですか?」
「氷の、王太子?」

 その硬質な美貌を表して、誰かがつけた呼び名だ。
 シャルロットを見つめるアンナは、頷いて、しかし、口ではいいえと否定した。

「氷と言うのは容貌のことではありません。心が凍っておられると……人の心がないのだと、そういう悪意の込められた言葉でした。シャルロットさまが、変えてくださったのですよ」

 驚いてエメラルドグリーンの目を見張るシャルロットに、アンナは続けた。

「おひいさまが来てくださってから、アルブレヒト様は変わられました。食事もきちんと取るようになり、貼り付けたような顔で話すこともなくなりました」

 アルブレヒト様は気づいておられないでしょう、とアンナは言う。

「おひいさまが来られた当初、アルブレヒト様の執着は異常でした。私共は、アルブレヒト様からおひいさまを守らねばと必死でした。時が来れば逃がさねば。おひいはまが儚くなってしまう前にと。……けれど、おひいさまは、アルブレヒト様と一緒にいてくださった」
「アルブレヒトさまと一緒に居たかったからいたのよ、たったそれだけ……」
「それだけのことが、アルブレヒトさまの心をお救いになったのです」

 アンナは、穏やかで、けれど強い言葉で断言した。
 息を呑んだシャルロットをまぶしそうに見て、細まった目を笑みの形にした。

「ですから、私共は、みんな、おひいさまのことが大好きなのです。大切なアルブレヒト殿下をお救いくださった仔犬姫さま…。シャルロット・シャロ・ヒュントヘンさま、ご自身が無力だと、お泣きなさるな……」

 シャルロットは、アルブレヒトを守っていたのだろうか、本当に?
 アンナの優しさかもしれない。ごまかしかもしれない……いいや、それでも、一筋の光のようにすら思えて、シャルロットは信じたく思った。

「アンナ、わたしはどうすればいいの。アルブレヒトさまを、傷つけてしまったわ」
「あんなことで傷が付くようにはお育てしておりません。怪我なんて唾をつけておけば治ります」

 ふふ、と笑ったアンナは、だから、と続けた。

「何があっても、生きてください。アルブレヒトさまの隣で、ずっと生きてください」

 ゆるゆると、アンナの腕がシャルロットの背に回る。抱きしめてくれた腕は震えていた。
 ごめんなさい、シャルロットは呟いた。
 生きるという、そのたった一点が、一番簡単で、一番大切な事ーー。

「わたしを、守ってくれる?アンナ。わたしが、アルブレヒトさまの隣で生きるために」
「ええーーええ、おひいさま。このアンナでは力不足でしょうが、全力でお守りいたします」

「ーー力不足なら、わたくしも使っていただけますか」

 扉の向こうから、声が聞こえた。
 振り返ると、豪奢な金髪が視界に入る。
 クロエやアガーテ。アデーレたちに囲まれるようにして、マルティナ・ティーゼが入ってくるのが見えて。
 思わず身構えるシャルロットの前に、金髪がふわりと舞った。

「マルティナ・ティーゼ?」
「力が足りないのであれば、わたくしの力をお使いください。シャルロット・シャロ・ヒュントヘン。命をお返しすると申しました。わたくしの身を、あなたの手足として、あなたをお守りください」

 マルティナが言う。シャルロットを見つめる目は、シャルロットより濃い色をしている。苛烈な眼差しーーしかし、それは、シャルロットをねめつけているわけではない。

 跪き、手を胸に当て、請い願うような響きでシャルロットに提案しているマルティナに、シャルロットは尋ねた。

「どうして、あなたがわたしを守ろうと言うの?あんなことを言ったのに」

 わたしも、あなたも。だから両成敗だと思ったのに。
 うろたえたシャルロットに、マルティナはとんでもないことを言う。

「あなたを愛しているからです。シャルロット・シャロ・ヒュントヘン」

 マルティナは言った。シャルロットが瞠目すると、マルティナはふっと微笑んだ。

「敬愛しています。シャルロット・シャロ・ヒュントヘン。あなたを心より尊敬しているーーわたくしは、あなたを守る「犬」になりたい」
「犬?」
「ええ、犬です。あなたも同じ犬の一族なら、きっとわかるでしょう」
 
 マルティナは、そう言ってこうべを垂れる。
 待っているのだ。シャルロットはそれが誰よりよくわかった。
 そうか、犬ーーそういえば、誰もかれも、最初は犬だった。犬は家族で、友でーー愛犬とはまた別の、心から信頼できる存在を、父は、母は、兄は、姉たちはーーこの国の、最初の王は、犬と呼んだのだった。

「犬だもの、ね」

 シャルロットは思い出して目を細める。
 なんだかとてもおかしかった。

「そうねーーわたし達、アインヴォルフの人間は、みんな濃くとも薄くとも「仔犬姫」の血を引いているのだわ」

 よくわかるわ、シャルロットは晴れやかに笑った。
 膝をついて、立ち上がる。もう、震えはなかった。

「マルティナ・ティーゼ。あなたをわたしの「犬」にします。マルティーズ。あなたは、これより、マルティナ・マルティーズ・ティーゼ。わたしの犬ーーわたしの騎士。わたしの、親友」
「ーーは。拝命いたします。わたくしの主人、わたくしの姫君。わたくしーーマルティナ・マルティーズ・ティーゼの、この世で一番愛すべき、友よ」

 シャルロットの手の甲へ唇を寄せ、心から喜ばしそうに、顔を上げたマルティナは、シャルロットを見つめる。
 苛烈な緑は、最初から。けしてシャルロットを憎んでいたわけではないのだと、シャルロットは今この時、たしかに理解したのだった。
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