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第2章

死んだ後に残るものは

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 鼻をつく、鉄錆の臭い。
 訪れると思った痛みはなく、けれど鼻にこびりつく不快な臭いが不思議で、シャルロットはギュッと瞑った目を開いた。

 ぽたり、ぽたりと、落ちていく、この花びらはなんだろうか。
 信じたくない思いが強くて、シャルロットは幻覚を見ているのではないかしらと思った。

 途端、空気がどっと押し寄せるように、つんざくような悲鳴がシャルロットの鼓膜を震わせる。
 足音が、ばらばらと聴こえて、取り押さえろ!というだれかの怒声が続いた。

「アル、無事か!」
「かすり傷だ」

 ヴィルヘルムの声がする。氷ですら暖かく感じるような、きいんと冷えた声がシャルロットの頭上に落ちた。
 シャルロットが突き飛ばしたアルブレヒトはしかし、シャルロットに凶刃が届く直前、自分の腕を思い切り突き出して白銀の軌道を遮ったのだ。
 アルブレヒトの纏う黒のジェストコートが、水ではない何かに汚されてーー。

「シャロ」

 アルブレヒトが、片腕の中にきつく閉じ込めたシャルロットを呼ぶ。冷たい声が、他の誰でもなく、シャルロットに向けられていた。
 それに返事をするために開けた口ーーは、開いていた。喉が引き攣れて声が出ないーーいいや、シャルロットは声を出している。
 今この部屋を満たす、狂気的な女の悲鳴、それを発していたのはシャルロットだった。

「あ、る、」
「シャロ」
「いや……いやよ……あるぶれひとさま」

 後ずさることすら許されない。
 シャルロットは寒気がして歯を鳴らした。
 アルブレヒトは怪我をしたーーシャルロットのせいで。
 シャルロットが守れなかった。守る以前に、シャルロットを庇ったせいで、アルブレヒトにいらぬ怪我を負わせた。血を流させた。
 だからきっと、アルブレヒトは怒っているのだ。
 無能で愚かなシャルロットは、シャロとして死んだ瞬間から何も変わっていないーーいいや、守って死ねた昔の方がきっとましだった。

「アルブレヒトさま、ごめんなさい、ごめんなさいーー……!」

 半狂乱で暴れるシャルロットの爪が、アルブレヒトの頬に食い込み、赤い筋を増やしていく。
 それにまた悲鳴をあげたシャルロットを、アルブレヒトはしかし、けして離しやしなかった。

「シャロ、お聞き」
「ある、ああ、いいえ、はい、あ、」

 シャルロットの顎が掬い上げられる。強制的に絡んだ視線と、嫌でも増した、むせかえるような血の匂い。
 そのどれもがシャルロットを打ちのめして、けれど、アルブレヒトはけしてシャルロットから目を逸らさず、シャルロットを燃えるようなまなざしで責めた。
 アルブレヒトが怒るところを、初めて見た。
 氷みたいな声なのに、炎のような感情をぶつけられて体がこわばる。
 シャルロットは、自分の無能さに喉をひきつらせた。

「僕は、今、生きてきた中で、最も、腹が立っている」
「わ、わたしが、役に立たなかったから」
「ーー違う!」

 窓が震えるほどの怒声がシャルロットに降りかかる。アルブレヒトの爛々と輝いた瞳が痛々しくシャルロットを串刺しにした。
 がたがたと震えるシャルロットに、アルブレヒトが怒りに満ち満ちた、けれど、泣きそうな声を震わせて、血を吐くように告げた。

「君がッ!命を投げ捨てようとするからだ!僕のために命をかけるな!シャルロット・シャロ・ヒュントヘン!」

 アルブレヒトは叫び、そうして、シャルロットを両手で掻き抱いた。
 アルブレヒトの血が、シャルロットの白い肌を汚す。べっとりついた赤い花から、命の匂いがした。

「わたし、は、」

 シャルロットは、アルブレヒトの奥底を見たくて、ぎゅっと眉根を寄せた。

「わたしは、アルブレヒトさまを守りたかった!アルブレヒトさまが死ぬなんて嫌だからーー!」
「君が死んだら、君はこの世にもういないんだ!!」

 アルブレヒトが言う。そんなの、当たり前のことだった。それでもアルブレヒトが生きているならば、シャルロットは笑って逝ける。
 シャロだってそうだったんだから。

「君が死んだら、もう、シャルロット・シャロはいないーー」

 アルブレヒトは、シャルロットの名前を告げる。
 灼けるような雫が、シャルロットの頰に落ちた。

「ーーそれがわかっていて、君は、僕に何度絶望を叩きつければ気がすむんだ!」

 シャルロットは呼吸を止めた。
 怖かったのではない、悲しかったのでもない。
 アルブレヒトの死を想像したのだ。
 アルブレヒトの死んだ世界に色はなく、未来もなく、そしてそこに、もはやシャルロットはいなかった。
 シャルロットの形をしたなにか、得体の知れないものがあるだけでーーそんなものに、シャルロットはーーいいや、シャルロットは、アルブレヒトをそうしようとしたのか。まさか。

 先ほどとは違う意味の震えが湧き起こる。
 アルブレヒトが死ぬーー絶望よりなお暗い、どす黒い感情。それを、アルブレヒトはすでに味わったのだ。
 ーーシャロが死んだ、あの日に。

 ずるずるとへたり込んだシャルロットから、アルブレヒトは顔を背けた。

「治療を頼む」
「……わかった。医務室へ。シャルロットには」
「マルティナ・ティーゼを」

 解かれた腕。
 あんなに安心した檻の中が遠ざかる。
 シャルロットは、自身を抱き起こすアンナの腕にそっと触れる。

 息が苦しい。それは、アルブレヒトの腕の中にいないからというだけでは、けして、けしてありはしなかった。
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