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第1章
雪が融けて
しおりを挟むくるくる、くるり。
アルブレヒトに手を取られ、シャルロットは微笑んだ。
途中で中断されてしまった婚約披露のパーティーは、別の、シャルロットのお披露目という形に改めて、一か月後に開かれた。
ファーストダンスを踊る二人を、王妃がほほ笑んで見つめている。
あれだけの騒ぎがあってもシャルロットを表立って侮るものは、そのほとんどすべてが今日の参加を自粛させられている。
といっても、その数は微々たるもので、ほとんどの貴族たちは、シャルロットが表舞台に立って披露した、その美麗な歌声や、学者ですら舌を巻く教養の深さ、そして、どこまでもまっすぐにこちらを見つめるエメラルドグリーンに屈服――いいや、心酔した。
さすが、ヒュントヘンの才媛。仔犬姫。
根強い噂は完全に消えはしない。けれど、貴族たちのそれは、新たなうわさで上書きされようとしていた。
シャルロットのまとっている、真っ白なドレスの裾が空気を含んでひらめく。シャルロットの茶の混じった銀の髪は、これから花開く娘らしく、そのすべてを結い上げずにいるから、肩からすとんと落ちて、シャルロットの動きに合わせて揺らめいている。
それがまたドレスの白と相まって、えも言われぬほど美しいのだった。
シャルロットの目は、深い緑。どこまでも透明で、どこまでも奥深い色――森の色。
アルブレヒトのスカーフも同じ色だ。
少し青の混じった黒い礼服の、ところどころにシャルロットの色がある。それにいったい何人が気づくだろうかと、シャルロットは面映ゆくなって、ターンの間、密着したアルブレヒトの胸に、頬を寄せた。
「シャロ、」
驚いたように、アルブレヒトがシャルロットを呼ぶ。
ただそれだけのことがうれしくって、シャルロットは花がほころぶような笑みを見せた。
「もっと呼んで、アルブレヒトさま」
「……ああ!」
シャルロットの体が床を離れる。アルブレヒトが、シャルロットの華奢な体を抱き上げたからだ。つま先がゆらゆら揺れる。楽しくなって、シャルロットはふふ、と笑い声をあげた。
それに微笑んだアルブレヒトが、シャルロットを高くあげて、くるくると回る。
アルブレヒトの瞳と同じ、青いリボンがふわりと舞った。
気を利かせた楽団が、テンポの速い曲を奏でだしたから、それはまるでそういう踊りのようにすら見える。
貴族の誰かがほう、とため息をついた。
「まこと、健国王と仔犬姫の伝説のようだ」
賛同するように頷くものがちらほらいる。
ここ一か月でひろまった噂――アルブレヒトと、シャルロットが、初代国王と愛犬の生まれ変わりだというそれ。
仲睦まじい次世代の国王夫婦は、この国の繁栄を約束しているように思えたのかもしれない。けれど、今このときにおいて、シャルロットにはそんなこと、関係のないことだ。
――アルブレヒトが大好きだ。
笑っているアルブレヒトに抱き着きたい。
泣いているアルブレヒトを抱きしめたい。
暗い目をして、シャルロットを見つめるアルブレヒトだって、シャロのご主人様であり、シャルロットのこの世で一番大好きなひとだ。
曲の最後、アルブレヒトはもう一度シャルロットを抱きしめた。
シャルロットはアルブレヒトの背に手を回す。それが当然のように。
名残惜しく離れたシャルロットを、アルブレヒトはおなかがすいたような目で見つめた。
最近、アルブレヒトはよくこういう顔をする。
そんな目をしても、シャルロットの細い体には肉などほとんどない。アルブレヒトの空腹が満たされることはないと思う、そうシャルロットがいうと、アルブレヒトは「君が理解できるよう、僕ががんばるよ」と言った。
シャルロットは、その気迫に負けてはい、と答えたのだけれど、もしかして、あれはシャルロットをおいしくするための、何かそういうおまじないだったりするのだろうか。
「アルブレヒト、あなた、シャルロットがつかれているでしょう。飲み物すら運べない男には育てていませんよ」
「母上。ああ、たしかに。シャロ、少し待っていて」
王妃が歩み寄る。それほど仲がよいところを見なかった王妃とアルブレヒト。そのふたりがこんなにも近しく会話しているのを見て、貴族らはそろって目を丸くした。
シャルロットを介して、王妃とアルブレヒトが歩み寄ったのだろう、ほっとするように笑うのは、古くから国に仕える老貴族だ。
王妃とシャルロットが並んでいると、アルブレヒトがいるより親しみやすいのか、挨拶に来るものが増える。
それに笑顔で応じていると、シャルロットの前に、シャルロットよりくすんだ銀髪をした令嬢が、親に連れられて歩み寄ってきた。
「ごきげんよう、フント伯爵。最近、気候がすぐれないようですが、領民は大丈夫かしら」
王妃がにこやかに伯爵を呼ぶ。フント伯爵は、最近よい噂をあまり聞かない人間だ。
シャルロットのうわさを吹聴していた一人であり、だからこそ、王妃は釘を刺したのだろう。
シャルロットに何か用か、と。
そういえば、連れられている令嬢には見覚えがあった。いつのまにかお茶会に来なくなった令嬢だ。
シャルロットが自分も声をかけようと口を開く、が彼女はそれより早く、あなどるような目をしてシャルロットを見た。
「ごきげんよう、シャルロット様、先日の、マルティナ様を懲らしめるその手腕、見事でしたわ。シャルロット様にあのような……ごめんあそばせ、殿方につかみかかるような面があるとは、存じ上げませんでした」
フント伯爵令嬢が笑う。伯爵はうろたえて、自身の娘の肩をつかもうとした。
シャルロットは、にこりと笑った。顎を引き、前を見据え、フント伯爵令嬢の目をまっすぐに射貫きながら、口を開く。
「わたしは、まだ許可を出していません。いいえ、いいえ、わたしだけなら、そうです、わたしはまだ未熟ですもの。しかし、王太子の婚約者であるわたしを侮ること、それは、アルブレヒト王太子殿下への無礼です」
「え……?」
シャルロットが言い返すとは思っていなかったのだろう。フント伯爵令嬢がぽかんと口を開ける。
「も、申し訳ありません、シャルロット様。まだ至らぬ娘、よくよく言い聞かせておきますので……」
そそくさと、娘を引きずるように連れて行ったフント伯爵の背を眺める。
うまくできただろうか。震える足を叱咤して、シャルロットは何でもないようにもう一度笑顔を浮かべなおした。
「シャルロット」
「お兄さま」
ふいに、声をかけられて振り返る。ヴィルヘルムが、王太子であるアルブレヒトより王子のようなきらきらしい笑顔で歩み寄ってきた。
「きれいになったね、シャルロット。もちろんずうっと前から綺麗だったけれど、今はかわいいより、きれいという印象を受けるよ」
「まあ、お兄さまったら」
「久しいですね、ヴィルヘルム」
「王妃殿下。ご機嫌麗しく……」
「かしこまらないで。わたくし、シャルロットがいると、毎日が楽しいの。ヒュントヘン家には心から感謝をしています」
「ありがたく存じます」
ヴィルヘルムは、胸に手をあて、整った所作で礼をする。ヴィルヘルムを慕う令嬢らの黄色い声が聞こえた。
「ヴィル、お前、お……僕がいない間にシャロにちょっかいをかけるんじゃない」
「殿下、愛しい妹に会うななどと、ひどいことをおっしゃらないでください。久々のシャルロット成分、摂取せねば干からびて死んでしまいます。僕は今か今かと待っている家族のもとへ、妹を連れ出したく参っただけです」
「な……」
「お兄さま!お父さまたちが来ていらっしゃるの?」
「ああ、そうだよ。今日はアレクシアとクリスティーネも一緒だ」
「まあ!」
からかうようなヴィルヘルムの言葉に、シャルロットが反応する。だからアルブレヒトは、押し黙って、そしてはあとため息をついた。
「アルブレヒト、婚約者がそんな狭量なことでどうします。ほら、ご両親のところまでエスコートなさい」
「……わかりました」
母王妃はこんな人だっただろうか。もっと鬱々としていた母しか知らないために、アルブレヒトは最近母に会うたび面食らう。
「シャロ、手を」
「はい、アルブレヒトさま」
――けれど、これもシャルロットの力だ。シャルロットは、アルブレヒトの世界を二度も一変させた。
シャルロットは、アルブレヒトの力になれないと悩んでいたけれど――本当は、アルブレヒトこそ、シャルロットの力になりたかったのだと言えば、シャルロットはどんな顔をするだろう。
マルティナとの一件後、シャルロットは強くなった。
それは、もとからシャルロットが持っていたものだ。発露しただけで、こんなにシャルロットはきらめく。
それに気づいたマルティナに、少々の嫉妬を覚えるけれど。
自分の嫉妬深さに苦笑して、突然の笑い声に自分を見上げるシャルロットが、どうしようもなくかわいい。
アルブレヒトは、湧き上がっても湧き上がっても尽きることのない、シャルロットへのいとおしさに、雪解けのような笑みを浮かべた。
春が、やってきた。
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