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花祭りの歌姫5
しおりを挟むフェリクスが客席に向かって叫んだ言葉に、観客たちが「皇太子殿下!?」とさざめく。
そんな観客たちに、フェリクスは凛とした声で続ける。
「疑うなとは言わない。しかし、彼女が歌姫たりえたのは彼女のたゆまぬ努力の結果だ!アンリエッタは幼いころから訓練していた。そこには生まれによる優れた環境があっただろう。しかし、それを実力にしたのは彼女の賢明さだ!」
フェリクスの張り上げた声に、観客たちが息を呑む。おだやかなことで有名なフェリクス皇太子が声を荒げたことに驚いているようだった。
フェリクスは頭を下げた。秀麗で、聡明な皇太子だ。その立場も尊いお方がそうしたことに、会場がざわめきに包まれる。
「それを――信じてくれ!」
吐き出すような声だった。皇太子が頭を下げるなんてあってはならないことだ。
それが、今非難めいた声を向けられている婚約者のためにそうしたことに、誰もが戸惑った。
アンリエッタの心にひとつ、しずくのようなものが落ちる。
フェリクスの言葉が、自分の心のやわらかいところに触れたのを感じた。
ぐちゃぐちゃの思考が透明になっていく。ざわめきが消える――いいや、消えたわけじゃない。アンリエッタの耳に、音として響いている。
けれど、その音は、アンリエッタの中では意味をなさないものだった。
フェリクスの言葉が、心ない言葉の何倍も強かったからだ。
信じたかった。信じたい。
この人の言葉を、信じている。
そう思ったから、アンリエッタは胸に手を当てた。
拡声魔法石が宙に浮いて、アンエッタの声に呼応する。
もう、喉の奥にはなにも詰まってはいなかった。
しこりがなくなり、アンリエッタは目を閉じて、そして歌を歌った。
伴奏のない、アカペラの歌声。それは、花女神をたたえる歌のひとつだ。
しかし、同時に、花女神が愛した人間の歌でもあった。
しんしんと降る雪のような、透明で、澄んだ歌声がのびやかに響く。
ひたむきな恋に向き合うから、あなたを好きだと気付いた。そういう歌だった。
楽団がはっとしたように頷きあい、楽器を手にする。
流れ出したメロディは、軽やかにアンリエッタの歌をまとって空高く駆け上がった。
それは短い歌だった。しかし、時の流れを忘れさせるほどの威力のある歌だった。
アンリエッタが歌い終わり、礼をしたとき、それを嘲笑するものは誰一人としていなかった。フェリクスが「アンリエッタ」と自分を呼ぶ。そのまっすぐなまなざしが優しくて、万雷の拍手の中、アンリエッタは「あ」と思った。
――私、フェリクスが好きなんだわ。
――……と。
今さら、と思う。遅いとも思う。
今まで想ったことの繰り返しかと思う。
けれど違う。アンリエッタは今、再びフェリクスに恋をした。恋に堕ちた、と言ってもよかった。……私は、あなたに、溺れるような恋をしている。
会場を割れんばかりの拍手が覆う。フェリクスに手を引かれ、舞台を降りるアンリエッタの胸は、まだどきどきと高鳴っていた。
アンリエッタの順番は最後だったから、舞台裏で待つ時間はすくなかった。
――結果として、アンリエッタは花女神に選ばれた。
反対意見はなかったという。もちろん、フリージアの歌姫が出るなんて反則だ、という意見はあるにはあったが、それも嫉妬というよりは「完敗だった」とか「さすがフリージアの歌姫だ」という感情に近かった。
帰り道、花女神の証である花冠を頭に乗せ、アンリエッタははにかんだ。
フェリクスも嬉しそうに、アンリエッタの白銀の髪をなぜる。
だから、だろうか。アンリエッタは安心して。つい、ぽつり、と、その告白を口にしていた。
「……私、あなたが好き。フェリクス」
フェリクスの空色の目が見開かれる。
一陣の風が吹き、二人の、金と銀に輝く髪を揺らす。
――フェリクスからもたらされたものは、アンリエッタが予想していなかったものだった。
「……アンリエッタ。それは、勘違いだ」
「え……?」
アンリエッタが目を瞬く。抱きしめてくれると思っていた。けれど、そうでない、どころか、アンリエッタが受け取ったのは明確な拒絶で。
「僕が無理矢理番にしたから、オメガの本能で僕を好きだと――愛さなくてはいけないと、錯覚しているだけだ」
「ど、うして」
アンリエッタは喘ぐように息をした。フェリクスが苦し気な顔をして言う。
「ごめん。だから、アンリエッタ。その想いを、僕は受け取れない」
――瞬間。どくん、と心臓が跳ねた。鼓動が速くなり、胸が苦しい。どれだけ捨ても息がすえなくて、アンリエッタはその場に膝をついた。
「は、は、は、は……」
視界がぐるぐる回る。フェリクスがうろたえたような声を出した。今、何が起こっているのか、わからない。アンリエッタの中の、オメガの本能が、番に拒絶されたことにショックを受けて発作のようなものを起こしている。
「アンリエッタ!息をして、落ち着いて」
「は、は、は」
不規則な呼吸。喘鳴に近い。それは、アンリエッタの苦しみを強めるばかりだ。アンリエッタの背をさすっていたフェリクスが、アンリエッタの口をなにか柔らかなものでふさいだ。新鮮な空気が吹き込まれる。アンリエッタの口と、そのふさいだものの間から、ひゅー、ひゅー、と音が漏れる。
涙目になって、アンリエッタは体を震わせた。怖い、怖い、怖い――……何が起きているの?
アンリエッタがしがみついたひとが、この場所が、誰で、どこなのかもわからない。
アンリエッタの意識が遠ざかる。意識が途切れる直前――唇に触れたものの正体に気付く。そのあたたかさに、少しずつ、呼吸が楽になるのを感じて。
「ふぇ、りくす……」
アンリエッタのつぶやきは、フェリクスの唇が、息つぎのために離れたとき、ふいに落とされた。視界が溶ける。闇に飲み込まれていく。
「アンリエッタ……」
最後に、聞こえた名前に。溶けて消えゆく意識を、そうと理解できぬまま、アンリエッタの意識は暗転した。
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