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うなじを噛まれて1
しおりを挟む顔をあげて歩く。しゃんと背を伸ばして、前だけを見て。けして泣いたりしないように。
周囲の生徒たちが遠巻きにアンリエッタを見る。きっともうアンリエッタの家が没落したことは知れ渡っているのだろう。
生徒たちは、何か言おうとしては口をつぐみ、心配げにアンリエッタを見ながらもアンリエッタがそちらを向くと目をそらす。
陰口をたたかれないだけ私は幸せだわ、とアンリエッタは思った。
アンリエッタはその生まれと容姿、成績から、学園でも人気のあったほうだ。
少なくとも、アンリエッタの周囲にはいつも人がいたし、その誰もがアンリエッタに好意的だった。アンリエッタを尊重してくれるフェリクスの存在もあって、アンリエッタは――主に王子妃の地位を欲しがる女生徒から多少の嫉妬を受けつつも――学園ではそれなりの地位を築いていた。
それがまったくなくなってしまった今、下手をすればいじめられてもおかしくはないのに、誰も彼もがアンリエッタの心配をしている。
それは、今までアンリエッタが人気者という立場にありながらも驕らず、皆に優しく、礼儀をもって接してきたからかもしれない。あるいは、アンリエッタが悪名高いフレッド・オークと婚約しなければならない、という事実に同情しているからかもしれなかった。
「よう、アンリエッタ」
「……オーク様」
ふいに、目の前に影が落ちる。
アンリエッタが顔をそちらに向けると、後ろから隣へと近づいてきたフレッドが見えた。
声が硬くなってしまった。フレッドは、そんなアンリエッタの肩を無遠慮に抱いて、そのヒキガエルのような顔をアンリエッタの顔に近づけた。すえた臭いがする。脂の酸化したような臭い。アンリエッタは眉をわずかに上げ、そんな臭いに耐えた。
汗でしっとりとした手がアンリエッタの白いブラウスに触れる。
フレッドは、アンリエッタの体を上から下までじろじろと見やり、軽々しい声でアンリエッタを呼んだ。
「アンリエッタ、硬いなあ。もう婚約者になったんだから、フレッド様、と甘えて呼んでくれてもいいんだぜ」
アンリエッタの婚約者――正確には、まだ書類にサインをしていないので、婚約者予定、だが――となったせいか、フレッドの口調は気安く、その視線はいやらしい。
ねばついた視線がアンリエッタの胸元や腰にまとわりつくのが不快で、けれど一生この視線と付き合っていくのだと思うとどこかむなしい気持ちになる。アンリエッタは、何のために、厳しい学問を修めたのか、わからなくなる。
「まだ、婚約者ではありません。節度は守るべきですわ」
アンリエッタの声はわずかに揺れた。じっとりとした目でアンリエッタを見るフレッド。けれど、これを振り払うことは許されない。そんなことをしてフレッドの不興を買い、借金を帳消しにする、という話がなくなれば、困るのはアンリエッタではなくアンリエッタの愛する家族であり、アンリエッタがいつくしむべき領民であるからだ。
「お堅いねえ。でも、ま、どうせ今日が終わって、お前が学園をやめれば、お前は名実ともに俺の婚約者だ」
フレッドの手が下がり、アンリエッタの腰をぬるりと撫でた。
ぞぞぞ、とアンリエッタの背におぞけが走る。
アンリエッタは、生理的な嫌悪感をどうにかごまかすように小さく、小さく息をした。
「でも、おやじには感謝だな。お前の家に金を貸したんで、今日の夜にはお前を犯せると思うとぞくぞくするぜ」
「…………ッ」
アンリエッタは息を呑んだ。
フリージア帝国は、花嫁の純潔を尊ぶ。それは花嫁がアルファだとしても変わらない。
特に、アンリエッタは貴族の令嬢である。せめて結婚までは、アンリエッタの純潔は尊重されると思っていた。
アンリエッタは、自身の最低限の矜持すら保つことを許されないのだ。
「せめて、式をあげるまでは……」
「ハァ?何を言ってるんだ。なんのためにお前の家をつぶしたと思ってるんだ」
フレッドがヒキガエルのような顔を不機嫌に歪める。
アンリエッタの髪が強い力で引かれ、何本かがぶちぶちと力任せに引き抜かれた。
けれど、そんな痛みより、聞き逃せないことがあって、アンリエッタは思わず聞き返していた。
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