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恋の始まり3
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アンリエッタがそれを歌だと思ったのは、それが人の声で発せられているから、というその一点のみが理由だ。
少年が歌っていた。全然うまくもなんともない。お世辞にも耳に優しいとは言えない、ただの不愉快な音。
不愉快――不愉快だろうか。アンリエッタは、一瞬、その音痴の歌を聞いて、確かに耳に優しくない音だと思った。けれど、その歌がアンリエッタを傷つけたりすることはなかった。
その音は優しく、ただ、あー、と発声されただけの音は、アンリエッタをあたたかな温度で包み込むようだった。
その歌は、下手だった。声は美しいボーイソプラノだったけれど、技術はありていに言って、聴き苦しいものだった。
だけど、その歌は――少年の歌は、アンリエッタの涙をぬぐい去ってくれたのだ。
歌が終わる。しいんとした静寂があたりに広がる。アンリエッタは、気づけば手をぱちぱちと叩いていた。
「ありがとう。……ね、下手だろう? 本気で歌ってこれなんだ」
拍手への礼を言って、少年はまた楽しそうに言葉を紡いだ。
「どうして……そんなに、嬉しそうなの?」
「うん? ああ。君が、聴いてくれたからかな。乳母には騒音だって言われるのに、君は最後まで聴いてくれたもの」
「騒音……」
その言葉を否定することは、アンリエッタにはできなかった。
でも、けして不快ではなかったのだと伝えたくて、アンリエッタは「でも」と続けた。
「……私は、好きだったわ」
「――……ありがとう」
少年の声は、一拍、驚いたように震えた。
不思議だった。少年の顔も名前もわからないのに、少年がどんな表情をしているか、アンリエッタには簡単にわかったのだから。
「君は、歌が下手な僕のことを、情けないと思う?」
「思わないわ……」
「そうだろう? そう言うと思った。君は優しいから」
「私は本当にそう思ったのよ。……私のことを知ってるの?」
「いいや」
アンリエッタは、わかったように口をきく少年のことを不思議に思って尋ねたが、少年はあっけらかんと答える。
「初対面だよ。……いや、対面すらしてないか。でも、この短時間でも、君がやさしいってわかるよ。とっても頑張り屋だってことも」
垣根の下の隙間から、一枚の紙が差し入れられる。
思わず受け取ったアンリエッタが見ると、それは一枚の楽譜だった。
楽譜を読むことはできる。短いフレーズをただ繋げただけの曲は、子供のつたない筆跡で書かれたつたないものだった。
「これ、さっきの歌」
「え?」
「僕は作曲家になりたかったんだけど、だめ。絶望的に才能がないんだ」
「そんなこと……」
「大丈夫。今は追ってない夢だよ。でも、そうだな……」
少年は、思案気に言った。
「もしよかったら、その歌、歌ってくれない? 楽譜、読めるんだろう?」
「少しだけ。……どうしてわかったの?」
「これでも観察眼はあるほうなんだ。耳もいい。アルファだからかな。そういう身体能力は優れているかもしれないな。ま、音楽の才能はないんだけれど」
「アルファ……」
アンリエッタは、こんなアルファもいるのね、と思った。
同時に、この少年を嫌いではない、とも思った。
少なくとも――少なくとも、悪い人ではないのだろう、と。
アンリエッタは、少しの間口をつぐんだ。
楽譜に素早く目を走らせ、音程を頭に浮かべる。
「きみ――どうし、」
「ラ――……」
アンリエッタは、のどを震わせた。
涙でかすれた声が、それでも二人きりの空間にしいんとしみいるように響く。
薔薇の花が風で揺れ、アンリエッタの声を匂いに乗せて運ぶようだった。
たった数行の歌だ。歌詞も何もない歌を、アンリエッタはすぐに歌い終わった。
歌っていて気付く。これは、先ほど少年が歌っていた歌なのだと。
静かに楽譜を胸にあてたアンリエッタを、少年の力いっぱいの拍手が包む。
あまりの音に目をぱちくりさせたアンリエッタに、少年は嬉しそうに言った。
「すごい! すごいすごい! 君の歌、きれいだ! 僕が今まで聴いたことのあるどんな歌よりきれいで、素晴らしかった!」
興奮したようにいう少年に、アンリエッタは頬が熱くなるのを感じた。
「こんなの、たいしたこと――」
ないわ、そう言おうとして、言い切る前に、少年の声にさえぎられる。
「ある! 大したことあるよ。少なくとも、僕はそう思った。全世界の人間が否定したって、僕は素晴らしかったって胸を張って言えるよ」
アンリエッタは言葉をうしなった。
今まで、そんなことを言ってくれるひとはいなかったからだ。できなくてもいいんだよ、がんばっているんだから、と家族は言う。
少年が歌っていた。全然うまくもなんともない。お世辞にも耳に優しいとは言えない、ただの不愉快な音。
不愉快――不愉快だろうか。アンリエッタは、一瞬、その音痴の歌を聞いて、確かに耳に優しくない音だと思った。けれど、その歌がアンリエッタを傷つけたりすることはなかった。
その音は優しく、ただ、あー、と発声されただけの音は、アンリエッタをあたたかな温度で包み込むようだった。
その歌は、下手だった。声は美しいボーイソプラノだったけれど、技術はありていに言って、聴き苦しいものだった。
だけど、その歌は――少年の歌は、アンリエッタの涙をぬぐい去ってくれたのだ。
歌が終わる。しいんとした静寂があたりに広がる。アンリエッタは、気づけば手をぱちぱちと叩いていた。
「ありがとう。……ね、下手だろう? 本気で歌ってこれなんだ」
拍手への礼を言って、少年はまた楽しそうに言葉を紡いだ。
「どうして……そんなに、嬉しそうなの?」
「うん? ああ。君が、聴いてくれたからかな。乳母には騒音だって言われるのに、君は最後まで聴いてくれたもの」
「騒音……」
その言葉を否定することは、アンリエッタにはできなかった。
でも、けして不快ではなかったのだと伝えたくて、アンリエッタは「でも」と続けた。
「……私は、好きだったわ」
「――……ありがとう」
少年の声は、一拍、驚いたように震えた。
不思議だった。少年の顔も名前もわからないのに、少年がどんな表情をしているか、アンリエッタには簡単にわかったのだから。
「君は、歌が下手な僕のことを、情けないと思う?」
「思わないわ……」
「そうだろう? そう言うと思った。君は優しいから」
「私は本当にそう思ったのよ。……私のことを知ってるの?」
「いいや」
アンリエッタは、わかったように口をきく少年のことを不思議に思って尋ねたが、少年はあっけらかんと答える。
「初対面だよ。……いや、対面すらしてないか。でも、この短時間でも、君がやさしいってわかるよ。とっても頑張り屋だってことも」
垣根の下の隙間から、一枚の紙が差し入れられる。
思わず受け取ったアンリエッタが見ると、それは一枚の楽譜だった。
楽譜を読むことはできる。短いフレーズをただ繋げただけの曲は、子供のつたない筆跡で書かれたつたないものだった。
「これ、さっきの歌」
「え?」
「僕は作曲家になりたかったんだけど、だめ。絶望的に才能がないんだ」
「そんなこと……」
「大丈夫。今は追ってない夢だよ。でも、そうだな……」
少年は、思案気に言った。
「もしよかったら、その歌、歌ってくれない? 楽譜、読めるんだろう?」
「少しだけ。……どうしてわかったの?」
「これでも観察眼はあるほうなんだ。耳もいい。アルファだからかな。そういう身体能力は優れているかもしれないな。ま、音楽の才能はないんだけれど」
「アルファ……」
アンリエッタは、こんなアルファもいるのね、と思った。
同時に、この少年を嫌いではない、とも思った。
少なくとも――少なくとも、悪い人ではないのだろう、と。
アンリエッタは、少しの間口をつぐんだ。
楽譜に素早く目を走らせ、音程を頭に浮かべる。
「きみ――どうし、」
「ラ――……」
アンリエッタは、のどを震わせた。
涙でかすれた声が、それでも二人きりの空間にしいんとしみいるように響く。
薔薇の花が風で揺れ、アンリエッタの声を匂いに乗せて運ぶようだった。
たった数行の歌だ。歌詞も何もない歌を、アンリエッタはすぐに歌い終わった。
歌っていて気付く。これは、先ほど少年が歌っていた歌なのだと。
静かに楽譜を胸にあてたアンリエッタを、少年の力いっぱいの拍手が包む。
あまりの音に目をぱちくりさせたアンリエッタに、少年は嬉しそうに言った。
「すごい! すごいすごい! 君の歌、きれいだ! 僕が今まで聴いたことのあるどんな歌よりきれいで、素晴らしかった!」
興奮したようにいう少年に、アンリエッタは頬が熱くなるのを感じた。
「こんなの、たいしたこと――」
ないわ、そう言おうとして、言い切る前に、少年の声にさえぎられる。
「ある! 大したことあるよ。少なくとも、僕はそう思った。全世界の人間が否定したって、僕は素晴らしかったって胸を張って言えるよ」
アンリエッタは言葉をうしなった。
今まで、そんなことを言ってくれるひとはいなかったからだ。できなくてもいいんだよ、がんばっているんだから、と家族は言う。
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