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第9章 新たな関係
5.雨の洞窟
しおりを挟むシュゼールの街を出て、マードリアに向かう何もない街道を歩いていると、さっきまで遠くの方にあった黒い雲がいつの間にか近付いていた。
「雨が降りそうだな。カッパあるか?」
ルクトは黒い雲を見上げて苦々しげに呟いた。
雨が降れば傘を差して移動すれば良いのだが、傘は水を弾く蝋を布地に薄く塗った手間のかかるものなので高価だし、天気がいい日の移動には邪魔になるので旅人は普通持ち歩かない。その代わり、すっぽりと身体を包むローブ型のカッパを着る。
だが、この世に水を弾く生地はない。
傘はカッパに比べれば小さいので蝋を塗ることで水を弾く製品として成立しているが、人が身に着けるローブに蝋を使うと手間がかかりすぎるので使われていない。
だからカッパは水を弾くことはなく、吸水性の悪い生地を使った物に過ぎないので、しばらくカッパを着て雨に降られていると、次第に水が染み込んでくる。
旅の途中で雨に降られた場合、カッパを着て雨宿りできる場所を急いで探すしかない。
「いつも着てるこのローブ、カッパと同じ生地なんだ。ルクトはカッパ持ってる?」
私がローブを買う時、雨対策用にカッパと同じ生地のローブを毎回選んでいる。
私が旅を始めた頃、カッパと同じ生地を使っているローブは灰色や黒といった暗い色の物が多かったが、最近は色合いもデザイン性のあるものも増えてきたので、普通のローブと変わらない見かけになった。
「いや、俺は持ってない。早く雨宿り出来る場所を見つけないとな」
「うん。でもこの辺じゃ雨宿りできそうな場所がないね」
辺りを見渡して見ても、街道沿いには大きな木はないし、休憩の出来る旅人小屋も集落も町もない。
あるのは私の背の高さくらいの木と雑草くらいなので、とても雨宿り出来る場所はなかった。
「あっちの方に森があるから、そっちに向かって急いで歩くぞ」
ルクトは街道を進んだ先にある、緑色の海のような場所を指し示した。私にはそこら辺にある木と同じに見えるが、きっと雨宿りができそうな背の高い木が生えているのだろう。
私達は駆け足で歩き始めたが、森に足を踏み入れる頃には頭にポツリポツリと雨粒が落ちてきた。
「あ、雨!」
私が隣にいるルクトを見上げると、彼は目が良いからか、私には見えない場所を指で指し示した。
「あそこまで走るぞ」
雨がサーっと細かく降ってきたので私はローブのフードを被り、ルクトに指し示された方向に走った。
走っている途中で雨粒が大きくなり、ザーっという激しさを増した音に変わって本格的に降ってきた。そんな風に雨が降ると、視界が悪くなって走りにくい状況になった。
自然と走るペースが落ちて、隣を走っていたルクトの後ろを追いかける形になってしまった。
「こっちだ」
真っ直ぐ走っているつもりが、足元を見ていたからか斜めに走っていたらしく、ルクトが私の手をしっかり握って目的の場所まで導いてくれた。
「この様子じゃ、しばらく止みそうにねぇな」
「そうだね。早く止むといいなぁ」
小さな洞窟の入り口に滑り込んだ時、バケツをひっくり返したような激しい土砂降りになった。
ルクトと一緒に入り口から空を見上げると、厚く黒い雲が空を一面覆っていて、もうすぐ夕暮れが近くなりそうなのに、まるでもう夜が近いかと思うくらい暗くなった。
「奥に行くか。転ばないように足元に気ぃつけろよ」
「うん」
ルクトは金色の髪からポタポタと水滴を滴らせながら、暗い洞窟の奥へと進んでいった。
魔力の光で照らしながらゴツゴツとした足場の悪い細長い洞窟を歩くと、奥に進むに連れて洞窟は狭くなる。
辿り着いた洞窟の最奥は、大人2人がなんとか横に並べるくらいしか幅がない。
奥の壁の近くには、焚き火をした跡と誰かが集めたのか枯れ木がどっさり置いてあった。
「ここ、誰か使ってたのかな?」
「焚き火が出来るようになってるってことは、誰かが雨宿りにでも使ったんだろ」
ルクトはこの洞窟に危険はないと判断したらしく、背中に背負っていた鞄を下ろし始めた。
それに倣って、私はぐっしょり濡れたローブとブーツを脱いだ。
状況を確認すると、ローブの下に背負っていた鞄は濡れていたが、旅装束はなんとか濡れずに済んだ様だ。
「ほら、奥に座れ。俺も隣に座るから詰めろよ」
「隣に?反対側じゃなくて?」
「奥は良いが、他の岩肌は寄りかかりにくい。狭くなるけど我慢しろ。結界張っとけよ」
ルクトは紺色の上着を脱ぎながら私にそう言って、黒の旅装束姿になった。彼は全身ずぶ濡れで、足元には水たまりが出来ている。その様子を見ると、カッパと同じ生地を使ったローブの効果は高かったようだ。
「う、うん」
ルクトの言葉を確認するように周囲の岩肌を見てみれば、奥の岩肌は多少デコボコしているが、凭れるのは問題なさそうだ。でも奥以外の岩肌は、先端は折れているが突き出る様に尖った岩肌になっていて、確かに寄りかかれない。
私は洞窟全体に結界を張ると、ルクトと身体をくっつけるようにして座り、膝の上にローブを小さく広げて火の魔法をかけて乾かした。
「ルクト、濡れた服を乾かすから貸して」
自分のローブ、ブーツ、鞄を乾かした後は、ルクトの分も乾かそうと声をかけた。
「そうか?んじゃこれ頼む」
ルクトは紺色の上着、ブーツ、鞄をひとまとめにして私に手渡した後、立ち上がって黒の旅装束の上着を脱ぎ始め、水を吸って重くなったその上着も差し出してきた。
「………」
ーーうへぁ。教科書で見た筋肉標本みたい…。
私の目を気にすることなく服を脱いだルクトは上半身裸だ。
脱いだ本人ではなく、私の方が恥ずかしくて目を逸らしたが、彼の浅黒い肌、割れた腹筋、分厚い胸板、血管が浮き出た太い腕に一瞬釘付けになった。
目を閉じてもその姿が鮮明に浮かぶほど焼き付けられていて、何だかドキドキしてくる。
ルクトは私の動揺など気付いておらず、私の隣に胡座をかいて座ると、そばに置いてあった枯れ木を組み上げて焚き火の支度を始めた。
「あ。えっと…。火、つけるね」
メラメラと燃え始めた焚き火の炎に照らされたルクトの横顔をチラリと見ると、彼は服を脱いでいるのを忘れているみたいに普通の顔をしている。
私は目のやり場に困ってしまい、ルクトから預かった濡れた服を一生懸命乾かし始めた。
ーーやっぱりおっきいなぁ。私のサイズとは大違いだ。
ルクトの服を膝の上に乗せて乾かしていると、私よりも大きなサイズを見て男女の差を感じる。
チラリと隣のルクトを見れば、気だるそうに大きく欠伸をして予備の枯れ木を弄っている。
治療中は仕事だから何にも感じないが、こうして目の前でルクトの裸の上半身を見ると異様に恥ずかしくて堪らない。
今までの4人の護衛も男性で、その人達の晒された上半身も見たことあるが、こんな風にドキドキしたことなんてなかった。
何でルクトにはこんなにドキドキするだろう。
シュゼールの街でレナフェさんに、ルクトを1人の男性として見てあげてと言われたからだろうか。
「ル、ルクト…。乾いたよ 」
預かった物を乾かし終わると、時間が少し経った今でもドキドキと恥ずかしさが消えない。
普通の顔を出来そうになかったので、渡す服に視線を落としたまま声をかけた。
「ありがとな」
ルクトのズボンも濡れているが、恥ずかし過ぎて「脱いで」と言えず、私が直接ズボンに触れて乾かすというのも恥ずかし過ぎて言えない。
ーーごめんルクト。もし風邪を引いたら私が治療するから!
心の中でルクトに謝ると、私は鞄から干し肉を出して彼に渡した。
「なんで顔が赤いんだ?熱でもあんのか?」
「え?た、焚き火の炎の色だよ」
「そうか?無理すんなよ」
あれだけ恥ずかしかったのに、ルクトの言葉に思わずプッと小さく笑ってしまった。
「なんで笑うんだよ」
笑われた理由が分からないルクトは、当然不機嫌そうな顔になった。
「いや、何かルクトって最初に会った時に比べて、随分優しくなったなって思って」
ルクトを見ると、彼はプイッと反対側に顔を向けてしまった。
ぶっきらぼうな言い方はそのままだが、「ありがとう」とか「大丈夫か?」とか「無理すんなよ」とか、気遣う言葉を言うようになった。
最初は尖った感じの雰囲気だったが、今では少し丸くなった気がする。
「……悪いか」
「ううん。優しくなるのは良い変化じゃない。何かあったの?」
「怪我させたり攫われたりして、俺も反省したからな」
私が怪我をしてから、彼は過保護になったし心配性になったみたいに変わった。私が突き落とされたあの事件は、彼の転換期になったのだろう。
「ルクト、いつも守ってくれてありがと」
いつもルクトに守ってもらっているから、私はこうして旅を続けられるし安心して仕事も出来る。
良い機会だから、こういう時こそ素直にお礼を言おう。
「……仕事だからな」
私は焚き火の炎で赤く見えるルクトの横顔を見ながら、干し肉を頬張った。
ポツリポツリと他愛のない話をしていると、洞窟の出口から聞こえてくる雨音は相変わらず激しいままである事に気付いた。
「雨、止まないね」
「この様子じゃ明日の朝に止んでるか怪しいな。とりあえず寝るか」
「そだね」
寝袋を広げようかと思ったのだが、横になると焚き火にぶつかってしまう。どうしようかと思っていると、ルクトが私の鞄からはみ出た毛布を指差した。
「ここじゃ寝袋は諦めろ。毛布に包まって後ろにもたれかかって眠れ」
「そうだね」
ルクトに言われたとおり、毛布に包まって後ろの壁にもたれかかってみたが、毛布越しでも背中にゴツゴツした岩肌を感じる。何だか収まりが悪くて、何度もモジモジと体勢を変えてみた。
「寝にくいか?」
「うん。なんかこう、しっくりこなくてさ」
私が何度も体勢を変えるのを見かねたのか、ルクトは私の肩に腕を回し、彼の首元に寄りかかるような形に抱き寄せられた。
「嫌じゃないなら貸してやる」
「へ?え…。あ、ありがとう。ルクトは辛くないの?」
「こんくらい、どうってことねぇよ。毛布は身体の前に掛けとけ」
「う、うん」
服越しでも感じるルクトの規則的な胸の上下動と、私の肩を抱き寄せる大きな手が何だか凄く安心する。
ルクトの存在をこんな風に間近に感じるのは初めてだ。私の心臓がバクバクと早い鼓動で動いているのがルクトにも伝わるのではないか、と思うくらいとてもドキドキしている。
そんな状況で、この洞窟に入る時にルクトに握られた手と、さっき見た彼の逞しくてカッコいい上半身を思い出してしまうと、胸が更にドキドキして意味の無い言葉を叫びながら走り出したくなる。
ーーだ、だめだ。とりあえず落ち着こう。目を閉じて深呼吸、深呼吸……。
目を閉じて深呼吸すると、少しだけ落ち着きを取り戻してきた。こんな風になるのは、随分と久しぶりな気がする。
目を閉じたまま眠ろうとしてみたが、普段より寝るには早い時間だからか、なかなか眠気が来てくれない。
ーーあ、手に力が入った。
身動ぎしてルクトの手がズレて落ちそうになると、彼の手にグッと力が入って抱き寄せるように動いた。
その動きを感じると、目を閉じたままルクトのことを考え始めた。
鋭い視線で威圧している顔は怖いけど、鍛錬している時の生き生きした顔も、時折見せる笑顔もとっても素敵だと思う。
だから、あんなに美人のおねーさんが追っかけてくるのも納得だ。ルクトってカッコイイから、モテるんだろうなぁ。
そう言えば、私の護衛をしているから、あのおねーさんに冷たい態度を取ったのかなぁ。私が宿の部屋に戻った後、折角仕事を辞めて追っかけてきてくれたんだから、おねーさんと話くらいしてあげても良かっただろうに。
そんなことを考えていたら、不意にルクトの手が私の肩から離れ、私の頭を彼の首元に密着するように軽く押し付けられた。
頭に置かれた手が髪を優しく撫で始めると、何だかくすぐったいような気持ちが良いような、心地よさに包まれ始めた。
身体全体がスッポリとルクトのあったかさで覆われる様で、なんか落ち着くし気持ちがいい。
その暖かさを感じ始めると、次第に思考が鈍くなり始め、眠気が遠くから私を迎えに来ているような気がした。
鈍くなり始めた思考の中でも、不思議と彼のことをずっと思い浮かべていた。
コロシアムでの試合やレオンとの鍛錬の時のルクトは、凛々しくて強さと自信に満ち溢れていた。
大好物のマールの塩焼きを食べている時、一心不乱に食べては「美味い。やっぱりマールは塩焼きに限るな」と言って、子供のような無邪気な顔をしている。
子供に泣かれてプイッとそっぽを向く時、「なんで泣くんだよ」とちょっと不満そうな横顔をする。
情報屋でお酒を飲みながら話を聞いていた時、その横顔は『大人の男性』って感じですごくカッコよかった。
彼の色んな表情を思い出すと可愛くて、どんどん顔がにやけた感じになってくる。
くっついているからバレないと思うが、今ルクトに私のだらしなくにやけた顔の理由を聞かれたら、上手く誤魔化せそうにない。
正直に「ルクトの色んな表情が可愛いから」なんて言ったら、彼は不機嫌になりそうな気がする。
『ルクトを1人の男性として見る』ってどうすれば良いのかよく分からないが、彼のこういう一面を振り返ったりすればいいのだろうか。
ルクトって口は悪いし、みんなに怖がられたりするけど、私はこんなに頼もしくてカッコいい人に守ってもらってたんだなぁと、今更ながらしみじみと実感した。
彼の存在をこんなに近くで感じながら色々と考えると、胸がぽかぽかあったかくて、ドキドキして落ち着かなくなる。
ずっと前、私がまだ故郷の中等科に居た時、友達が「恋をしたら胸がドキドキして、その人のことしか考えられなくなるの」と言っていた。
こういう気持ちって初めてだけど、これが恋なのかな。
うん、きっとそうだ。だってドキドキして、ルクトのことばっかりしか考えられないもの。
初めての恋心を自覚すると、なんだかとても照れくさい。私は明日の朝、ルクトの顔が直視出来なくなりそうだった。
ルクトが私の頭を撫でる一定のリズムが続くと、ようやく私の目の前に到着してくれた眠気が、クスクスと笑いながら私を夢の世界へと連れて行ってくれた気がした。
ふと、澄んだ空気が入ってきていることに気付いて目が覚めた。
「起きたか」
目を擦りながら欠伸をしていると、至近距離からルクトの声がした。
ーーん?なんでルクトの声がこんな近くでするんだ?肩になんか乗ってる?ルクトの手??
私の肩を抱き寄せる彼の手に疑問を持ったが、記憶を辿ると一気に眠気が覚めた。
「あ、おはよう。雨止んでるね」
ドキドキする気持ちを必死に抑えて、冷静に声を出した。思った以上に普通の声が出たことに、自分が一番安心した。
「おはよ。明け方に止んだ」
「あ…。もしかして眠れなかった?」
ルクトは肩を抱き寄せる手はそのままなので、私は彼を見上げれば大きく欠伸をしていた。
「いや、寝た。もともと眠りが浅いだけだ。お前は眠れたみたいだな」
「うん。おかげさまで。ありがとう」
「お前は俺より体力ないからな。さっさと支度して、こっから出るぞ」
「うん!」
洞窟を出ると、雨の匂いと澄んだ空気に包まれながら、また街道をのんびりと歩き出した。
昨晩はルクトの顔を直視出来ないかと心配したものの、今は照れずにちゃんと見れている。
目のやり場に困る裸の上半身さえ見なければ、普段通りに接することが出来そうだ。あの見惚れるような肉体美は、ものすごく私を動揺させるから危険だ。
そして。
私がルクトに恋をしたと気付くと、何だかウキウキと胸が高鳴ってしまうのと同時に、ルクトが居なくなったらどうしようという不安が襲ってきた。
彼が護衛を辞めて戦場に戻る日が来たら、私はどうしたら良いだろうか。
行かないでと言って縋りたくなりそうな気もするが、主従の誓いでルクトを縛っていた負い目があるから、私は彼がそう判断したのなら恋心に蓋をして笑顔で送り出したいと思う。
初恋は実らないって言うし、ルクトは戦場に戻りたがっていたから、きっとこの恋は成就することはないのかなと、半ば諦めの気持ちもどこかにある。
そんな別れの日が来ないことを祈りながら、とりあえずは今を楽しみたいと気持ちを入れ替えた。
恋をしたと自覚した後の世界は、いつも見ていた世界よりも、何だかとてもキラキラしたように感じた。
応援ありがとうございます!
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