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第17章 変化の時
2.褒美の約束
しおりを挟む私が別れの言葉を言うと、ルクトは驚いたように目を見開いたけど、すぐに普通の顔に戻った。笑い声はなかったけど、彼の口元には嘲笑が浮かんでいる。
私がルクトという存在を失くせば、護衛も恋人も失って1人になるからそんな事できるはずがない、と思っているのだろう。
「別れようって何の冗談だよ。俺と離れてる間、ディスコーニに何か吹き込まれたのか?」
「ディズはルクトのこと何も言ってないし、別れようって冗談で言ってないよ。
私ね、今はルクトへの気持ちが分からないの。あやふやなまま一緒にいるのは、お互いのためにも良くないと思って。それに。私はディズのことが好きになったから、ルクトとは」
「はぁ?!浮気したのかよ!」
「そう言われても仕方がないと思ってる」
ルクトの大きな声に気圧されないように、彼の目を見てはっきりそう言うと、怒りの表情になったルクトは私に向かって一歩距離を縮めてきた。叩かれると思って目をギュッと瞑って全身に力を入れると、小さな溜息が聞こえた。そっと目を開けてみると、ルクトはそれ以上近付いていないし、手は彼の太ももの横にあるから叩こうとはしなかったらしい。
「恋人にしてやるって言ったのか?」
「ううん。友達になっただけだよ」
「いいか、何回も言ってるがディスコーニは将軍だぞ!?信用できる奴じゃねぇだろ。お前を利用しようとしてるだけだ。奴に頼らざるを得ない状況に付け込まれて、たぶらかされてるんだって言ってるだろ!目を覚ませ!」
「彼はそんな人じゃないよ。鍾乳洞に居る間、利用しようとか何か情報を引き出そうとか、そういうことはなかったよ」
「色々あってお前が疲れてて、正常な判断が出来てないだけだろ。時間が経てば冷静になって、お前があいつのことを好きだと思うのは間違いだったって気付くから、別れる必要なんてないだろうが!」
確かにディズがどんな人か知らなければ、将軍という肩書だけで「信用出来ない人」と思ったと思う。
でも、出口があるか分からない、どこに進めばいいかわからない、助けが来るのかも分からない、トラント兵に攫われるかもしれない。そんな不安でしかない環境で私達が生き抜いて、『聖なる一滴』を使ってもちゃんとした精神状態で戻ることが出来たのは、ディズの存在があってこそ。だから、私を責めるような強い言葉や口調は許せても、ディズを悪く言うのは許せなかった。
「ねぇ、どうして乱暴にしたの?私はルクトにとって、手っ取り早く手が出せる存在だから?」
「手っ取り早く手が出せるとか、そんな風に思ってない。あの時は、気が昂ぶって……。感情のコントロールが出来なくて。悪かった」
私が問いかけると彼はハッとした顔を浮かべたけど、すぐに視線を下げて言いにくそうに、小さな声で謝罪の言葉を口にした。
彼が謝るってそうあることじゃない。謝罪を口にした、というだけで褒めてあげるくらいのことだと思う。でも、私の怒りは収まらなかった。
「私は自分の意思を無視して、何かを押し付けられるのは嫌い。あの晩、やめて欲しいって、痛いって言ってもやめてくれなかった。怖かった。痛かった。あんなこと恋人にすることじゃないよ」
「お前を傷付けるつもりも、怖がらせるつもりもなかった。もうあんな風にしないから」
「ルクトがそう言っても、いつかまたされるんじゃないかと思って怖いし、信用出来ない」
私がルクトの言葉を遮るようにそう言うと、彼は俯いて黙ってしまった。
チラリと見えた彼の顔にはさっきまでの怒りの表情は残っておらず、何とも言えない複雑な表情を浮かべていた。
たっぷりと沈黙の時間が過ぎた時、テラスを少し強めの風が抜き抜けると、彼はようやく顔を上げて私を見た。その顔は俯いた時と同じで、何の表情が浮かんでいるのか私には分からなかった。
「もう2度とあんな風にしないって約束する。それに俺のことが嫌いじゃないなら、別れる必要はないだろ。俺が怖いとか、気持ちが分からないなら、しばらく部屋を別にするとか距離を置くだけで十分だろ?」
「あやふやな気持ちのまま、今までみたいに一緒に居られないよ」
「それは恋人ってだけじゃなくて、護衛もクビってことか?」
「そうしないと旅はやり辛いと思う」
今まで彼に依存してきた私が、本気で完全な別れを告げるなんて思わなかったのだろう。彼はショックを受けたような顔をしたけど、すぐに不機嫌そうな顔になってしまった。
この戦争が始まる前までなら、彼に依存しきっていた私は別れるなんて考えもしなかったと思う。でも、今は。ディズという存在がなくても、私はルクトへの気持ちが分からない以上恋人としてやっていける自信がないし、彼との信頼関係は崩れているから護衛として旅を続けるのも難しいと思った。
「なら護衛はどうすんだよ」
「アネシスのイルバ様とシューザに声をかけてみようと思ってる」
「イルバって…あいつは神殿の奴だぞ?!いつかの奴みたいに襲ってくるぞ!」
「神殿からの紹介の人は信用出来ないのは変わらない。イルバ様とは少ししか話してないけど、ルクトみたいに私の意見を無視したりしないと思う。それに、イルバ様は神殿を辞めても良いって言ってくれたから、そうお願いしてみるつもり。
もちろんイルバ様がどんな人なのか分からないから、シューザにも声をかけて傭兵団の人を紹介して貰おうと思う」
私の話を聞こうとしない上に、一方的に自分の意見を押し付けるルクトより、一定の距離感を保ったままで接してくれたイルバ様の方がマシだと思う。
イルバ様なら長期間の護衛をお願い出来ると思うけど、彼がどういう人なのか分からないから、シューザにお願いして短期間の護衛を数回お願いしよう。イルバ様が他の護衛に対してどんな風に接するのか、他の護衛達から見てイルバ様はどんな人なのか意見を聞いてみたい。
長期的な護衛を頼むかどうかは、そうやって時間をかけて見極めていけばいい。神殿に所属している人だけど、声をかけてみたいと思えるくらいにはディズに似た誠実さを感じた。
「お前が俺のことを怖がってるのは分かるから、距離を取るのは納得出来る。でも、別れるのも護衛を辞めるのも、そこまでする必要ないだろ?」
「ルクトはそれで良いかもしれないけど、私はあやふやな気持ちで一緒に旅は出来ないよ。
私がルクトをもう一度好きだと思っても、ディズを好きになったのは確かなことだから、きっとルクトは私を浮気したと思い続けるだろうし、私もルクトに後ろめたいことをしたと思い続けると思う。だからこそ、私はちゃんと筋を通したい。
それに、今まで王族や貴族、将軍らに関わらないように避けていたけど、これからは避けるだけにしない。話してみて、信頼できる人だと感じたらカケラを交換したり、招きに応じて訪問したいと思ってる。私は私の意思を尊重してくれる人を護衛にして楽しく旅がしたい。
私がそう思っていても、ルクトは王族や貴族、将軍達に近付くのは嫌でしょ?これは私が勝手に決めたことだから、ルクトに嫌な思いをさせてまで付き合わせる必要はないと思うの」
私は彼の目を見据えて話し終えると、すっかり黙ってしまったルクトは表情が見えないほど俯いて、どんな顔をしているか分からない。例え彼に怒られても、罵られても、叩かれても、私は自分で決めたことを曲げるつもりはない。
ディズの言う通り、『聖なる一滴』の存在が世界中の上層部に明るみになった以上、私を利用しようという人は今後たくさん出てくるだろう。今までみたいに彼らを避け続けることは出来るだろうし、守ってくれる人に依存するのは簡単だけど、自分や大事な人を守るために立ち向かうことも必要なのだと痛感した。
「ウィニストラの首都には私だけで行けるから、ここで別れましょ。今までありがとう。ルクトとの旅は楽しかったと思う。元気でね」
私は扉に向かおうと一歩踏み出そうとすると、目の前の彼は顔を上げて私の進路を遮った。
「なぁ」
暗い表情をした彼が、開いていた手をギュッと硬く握り締めたことに気付いた。殴られるのだろうか、と不安に思ったけどその拳は握りしめられたまま微動だにしなかった。
「ゼニールのコロシアムで褒美をくれるって話、覚えてるか?」
「え?あ……うん。覚えてるよ」
言われるまで忘れていたけど、確か私がルクトにそんな話をしたのを思い出した。
「今、それを言っていいか?」
「うん、いいよ」
出来るだけわだかまりなく別れたいし、私が言い出した約束なのだから、最後に叶えてあげるべきだろう。お酒好きの彼なら、きっとビンテージもののお酒と言うだろうからお金を渡せば終わりだ。
「俺にもう一度やり直すチャンスを与えて欲しい」
「え?」
「別れたいっていうお前の意思は尊重すべきだと思う。お前の意思を曲げる代わりに俺の自由を拘束できる主従の誓いを結んで、もう一度やり直すチャンスをくれないか?」
「え?でも……私、ディズのことが」
ルクトが何を言っているのか、理解出来ない。
彼への気持ちが分からないけど、浮気したと言われても仕方ないことをしたから、きちんと筋を通したい。そして好きな人とだけ付き合いたいという自分自身の考えに基づいて、決意を固めて別れを切り出した。浮気した私を彼が許すとは思ってなかったから、やり直したいなんて願いは予想外過ぎて頭がついていかない。
「お前があいつを好きになったから、筋を通したいって言ってるのは分かってる。
でも俺はやり直したい。俺はお前がディスコーニとキスをしようが、好きになろうが、お前にはっきり嫌いだと言われるまで別れたくない。俺達の関係が前みたいな状態だったなら、奴が入り込むことは出来なかったと思う。自分の蒔いた種が原因だと思うと、後悔ばかりで諦められない」
「ルクト…」
「もう2度とお前の嫌がることはしない。嫌なことがあれば遠慮なく押さえつけてくれていい。お前がやるって決めたことには、俺も従う。
そう思えるくらい、俺はお前が好きなんだ。やり直してみて、お前が俺を嫌いだと思うなら諦める。だから、もう一度チャンスをくれないか」
頭を下げ、そう言ってくれたルクトからの『好き』という言葉に、胸が締め付けられた。
今までずっと欲しかった言葉をもらえて嬉しいはずなのに、素直にそう思えない。どこか一歩引いたような気持ちで見てしまっている気がしたのは、彼との信頼関係が崩れている上に、気持ちがディズに向いているからだろうか。
「お前の優しさに甘え過ぎて、俺はお前に何をしても許されると思い込んでたんだ。
あの時も。朝になったらお前は何もなかったように振舞ってくれて、時間をおけば許してくれると思ってた。
お前に拒絶されて、日に日に溝が深くなって。謝りたくても謝れなくて、イライラして。お前と離れている間、死んでるんじゃないかって心配で堪らなかった。俺を怖がる顔が最後に見た顔になったんじゃないかって、自分のやった事を後悔した。
お前が帰ってきた時、『会いたかった』とか『寂しかった』とか言ってほしかったんだ。それが無かった上にディスコーニと仲良くしてるのを見て、あいつとキスしたとか、あいつのことを好きだとか聞いて頭に血が上った。本当なら、ここで話すのもお前を責めるんじゃなくて、謝ることを最初にすべきだったのに、それすらも出来なくてすまなかった。
でも、頼む。もう一度だけ俺にチャンスを与えてくれないか」
頭を下げたままのルクトは、最後は縋るような弱い声になった。
私も苦しかったけど、彼もこんなに苦しんでいるなんて、自分のことで精一杯で思い当たらなかった。ルクトの望みを叶える約束をしたのは私だし、約束したことはきちんと果たしたい。
でも、私はルクトへの気持ちが分からないまま彼を護衛として、恋人としてもう一度受け入れられるのだろうか。私がディズを好きだと思う気持ちは、どうすれば良いのだろうか。
「ごめん、今は答えが出せない。ちょっと考えさせてくれる?」
「分かった」
「じゃあ疲れたから部屋に戻るね」
私はルクトの横を通り過ぎ、廊下に戻るガラス扉のノブを掴もうとすると、ローブの裾を引っ張られた。
何かに引っかかったのかと思って振り向いて確認してみれば、ルクトが頼りなさげに裾をつまんで居た。
「これだけ教えてくれないか。あいつと…。ディスコーニとは本当にキスだけか?」
「うん。……ごめん」
決して嘘はついていないけど、ディズを好きになってしまったこと、キスしたことが後ろめたくて私は俯いた。しばらく沈黙が下りたことで私が顔を上げると、ルクトも俯いていてどんな顔をしていたか分からない。
「お前が他の男を好きになっていても、はっきり嫌いだと言われるまで、もう一度やり直したいって気持ちは変わらないってことは覚えておいてくれ。傷付けて本当にすまなかった」
俯いたまま絞り出すようにそう言ったルクトだったけど、裾を放した彼の手がギュッと握り締めるのを見た。
「部屋に送る」
険しい表情のルクトに見送られて私は部屋に入ると、扉の前に立ったルクトは、私を不安そうな顔で見下ろした。
「髪留めとピアス。外したのか?」
ルクトは消え入りそうな小さな声で呟いた。
「あ……。髪留めとピアスは鍾乳洞に落ちた時に、衝撃で外れて失くしてしまったの。ごめんなさい」
「そうか。お前が無事ならそれで十分だから、謝らなくていい」
ルクトの悲しそうな声を聞いたら、お気に入りだった髪留めを故意に外したわけでもないし、潰したわけでもないのに、罪悪感が襲ってきて私まで泣きそうになった。
そんな顔を見せたくなくて、私は彼に「おやすみ」と小さな声で伝えて扉を閉めた。
部屋に備え付けのお風呂に入ってベッドに横になると、ディズのこと、ルクトのことが頭から離れない。
ルクトはあの晩のことを謝ってくれたし、私も彼に言いたいことは言った。彼に浮気だと言われたし、私がディズを好きになったのだと正直に言った。それを聞いた彼は、私を許せなくて別れに同意するものだと思っていたのに。それでもやり直したいと言われるなんて思ってもみなかった。
「どうしたら良いんだろう…」
ルクトとやり直すなら、ディズのことは忘れないといけないと思う。けど……。
優しくて強く、何より『聖なる一滴』の共犯になったディズは、私にとってかけがえのない存在として刻まれてしまっている。
ーーシェニカ、貴女が好きです。愛しています。
ディズの気持ちがこもった言葉が全身を包み、心の奥底に芽吹いた若葉は生き生きと存在感を放っていて。彼を忘れることは出来そうにない。
ルクトとやり直すってことは、もう一度彼を好きになって恋人同士になるってことなのに、自分の気持ちはディズにも向いていて。
どうすれば良いのだろう。
疲れているのに眠れない。小さな窓から見える中天の大きな月が傾いて窓から見えなくなった頃、分厚い雲が空を覆い始めて月の光が届かなくなった。
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