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第16章 日の差さぬ場所で
14.立ち向かう覚悟
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「シェニカ、大丈夫ですか?坂の途中ですが休憩しましょうか」
「ううん。大丈夫だよ」
乳白色しかない世界なのは変わらないけど、段々と道の様子が変わってきた。先に進む道はゆるやかな登り坂だったのに、ディズに引っ張ってもらわないと足を滑らせてしまいそうな急斜面に変わった。
しかも、地面に空いた穴は大きくなって数も増えたし、地面を踏むとバキッと音を立てることもあるから、地面が抜けてしまうのではないかと心配になる。
そんな道をしばらく歩いていると、真っ直ぐ進む道と右に進む道がある分岐点に差し掛かった。真っ直ぐの道は、まだまだ先がありそうな急な上り坂。右の道は広いドーム型の平坦な空間になっていて、その奥には落盤があったのか行き止まりになっていた。
「右の道は袋小路になっていますから、そこで休憩しましょうか」
「うん」
私達は右の道に進んで、長椅子のように平たくなった鍾乳石に座って休憩を取ることになった。
座ろうとした鍾乳石に触ってみると、手の平に薄く水がつく程度に濡れている。このまま座ると服が濡れてしまうから、私は火の魔法で乾かしておいた。
「はい、お水どうぞ」
「ありがとうございます。そういえば。シェニカはどうして私と主従の誓いを結ばなかったのですか?階級章を預けるだけでは、不安じゃありませんでしたか?」
ディズは飲み終えたコップを私に戻すと、私を見ながら不思議そうに首を傾げた。
「この鍾乳洞内にいる間だけ」という条件で主従の誓いを結んだとしても、私が地上に出た後も誓いを破棄しない可能性だってある。彼だって将軍という重い立場の人だから、その可能性を考えたと思うんだけど。
ここに落ちた時は、まだ信頼関係なんて無かったと思うけど、彼は私を最初からずっと信じてくれていたのだろうか。私は誰が相手だろうと信頼を裏切るつもりはないけど、一緒に閉じ込められたのがディズで良かった。これが口数が少なさそうなファズ様だったら、居心地の悪い中で出口を進むことになったと思う。ファズ様ならまだ良いけど、これがキルレのソルディナンド様だったり、バーナン神官長だったら……と考えるだけで戦慄する。
ルクトと一緒に閉じ込められたら、一体どうなっていただろうか。彼への恐怖心が抜けない以上、きっと険悪な空気になっていただろうし、私は精神状態がおかしくなっていたかもしれない。
私が不安に取り憑かれることなく頑張って前に進めるのは、間違いなく誠実なディズのおかげだ。だから、彼のために何か報いたい、お礼がしたいと思うようになった。
「階級章って私の額飾りと同じくらい大事なものでしょ?そんな大事な物を外して私に預けるくらいだから、私を信じてくれてるんだって思って、信用してみようと思ったの。
それに。主従の誓いって奴隷契約みたいな感じで思われてるけど、ちょっと違うんだ」
「違ってる、とは?」
「トラント領内にあるシュゼールって街に、主従の誓いの研究者がいるの。その人の所で話を聞いたら、主従の誓いは憎しみ合う関係ならば奴隷の状態に。想い合う関係になったら夫婦の状態になるんだって」
私の膝の上でクルミを食べていたユーリくんは、食べていたクルミを頬袋に収めると私をジッと見てきた。彼におかわりのクルミをあげたけど、もう頬袋には入りきれないのか受け取らなかった。水が欲しいのかと思ってコップに水を溜めてみれば、彼は斜めにしたコップに上半身を突っ込むという可愛い体勢で飲み始めた。
「そうなんですか。初耳です。夫婦の状態になると、どうなるんですか?」
「2人の関係が良好な場合、主人も従者も互いの匂いを感じるとか、従者が匂いを辿って主人を追いかけられるとか、従者は主人から逃げられなくなるとか、どちらの立場でも片方が張った結界に自由に出入り出来るとか、互いが近くにいなければ落ち着かなくなるとか色々あるんだけど。
夫婦の状態になると、その……。身体の相性が最高になって、互いに求め合って繋がりをより深くするんだって」
「主従の誓いとは、そういうものだったのですね。奴隷の誓いとしか認識していなかったので、興味深いです」
「だから奴隷扱いなんてしなくても、決して軽い気持ちで結ぶもんじゃないと思ったんだ。ディズも興味を持ったらシュゼールの研究者に話を聞いてみてね」
「ええ。そうします」
私の膝の上でユーリくんが寝そべってくつろいでいると、ディズが立ち上がって落盤が起きている方にある壁に向かって歩き出した。どうしたのだろうかと見ていると、壁の前で立ち止まったディズは首を傾げながら壁に触れた。
「これは何でしょうか。模様?」
「どうしたの?」
ユーリくんを肩に乗せてディズの隣に行くと、濡れた壁の目線の高さに何か薄い模様のようなものがある。それは、今いる場所から落盤で塞がった場所にかけて帯のように広がっていて、水の侵食を受けているけど間違いなく文字だった。
「明らかに人為的な物のようですが、何だか分かりませんね」
「これはね、結構古い旧字だよ」
文字の上にある水を払おうと壁に触れてみると、手にはピリッとする刺激を感じた。その刺激はディズと一緒に渡った池よりも強く、私はすぐに自分の手と壁全体に浄化の魔法をかけた。
「旧字ですか。文字があるということはこの辺りに人の出入りがあったのでしょうが、この先は落盤で行き止まりですし、人の気配もありません。空気の変化もないようなので、この落盤は随分昔に起きたようですね」
「えっと…。『私が正気だとガーファエルが知ったら』?」
「シェニカは読めますか?」
「うん。読めるよ。でも侵食されてる部分が多くて、読める部分は少ないみたいだけど。読める部分を読み上げてみるね。
『私が正気だとガーファエルが知ったら』
『私は彫刻家として生きていけたのに』
『ある意味血筋のせいだったのだろう。でも、私の血を引いた子に』
『このまま誰にも伝わらずに消えて行きたくない。殺さないでと』
……こっから先は落盤で塞がれて分からないね」
「ガーファエルというのは誰でしょうか。申し訳ないのですが、この壁にある言葉をメモしてもらってもいいですか?地上に戻った時にバルジアラ様に報告しましょう」
「うん。分かった」
「それにしてもシェニカは凄いですね。昔の文字も読めるなんて」
私がメモを始めると、私の肩にいたユーリくんは差し出されたディズの手に駆け出していった。ディズの肩に乗ったユーリくんは私をジッと見つめている。手を動かしながらユーリくんに笑顔を向けていると、ディズがそんな風に言ってくれた。
「私、ローズ様から旧字の辞書を貰って勉強してたから、これよりも古い字も読めるんだ」
「ということは、この文字を書いた人は随分昔の人なんですね」
「そうみたいね。ここに人が来たってことは、入り口が近いってことなのかな。塞がれた先の道が行けたら良かったのにね」
「この先が行けなくても、必ず外に出る道はあるはずです。ここに誰か来たことがあるということだけでも、気持ちが軽くなります」
「うん、そうだね。よし、メモ終わったよ」
「ではユーリ。またお仕事お願いしますね」
「チチッ!」
ディズからユーリくんを受け取ると、ひとまず私の肩に彼を置いた。肩にいるユーリくんは、私が服のボタンを開けるのを今か今かと待っている気がする。
すっかり私のリスボタンなユーリくんに、心の中でうへへ~と喜びの声を上げながらボタンを開けた。すると、爪を引っ掛けること無く器用に旅装束を駆け下りて、開いた隙間に身体を滑り込ませると、ヒョッコリと小さな顔を出してくれた。
ーーやぁぁん!もうこの瞬間が可愛いのなんの!もう私はユーリくんと結婚したい!そういえば、ユーリくんって決まった相手はいるのだろうか。
ハッ!主人をディズから変えることはなくても、ディズが想い人と結婚しても、私がユーリくんのお嫁さんになればいつでも会える。これって万事解決ではないだろうか……!
妙案を思いついた私は、結婚式を想像してみた。
真っ白なウェディングドレスに身を包んだ私が、肩にタキシード姿のユーリくんを乗せ、神殿でローズ様から祝福を受けるというシーンが頭に浮かんだ。タキシード姿のユーリくんを想像するだけでも、胸がキュンキュンしちゃう!
『シェニカ・ヒジェイト、貴女はユリウス・オオカミリスを生涯に渡って愛することを誓いますか?』
『はい、誓います。うふふっ!ユーリくんが居てくれるなら、私はもう誰にもナンパしませんし、人間の誰とも結婚しません!』
ユーリくんも『チチチッ!』と誓いの言葉を言ったら、私の手の平に乗ったユーリくんと私は見つめ合って誓いのキスを……。いやぁん!
結婚したら、私はユーリくんのお嫁さんとして、新居でお仕事を終えた可愛い旦那様の帰りを待って…。
『あなた、おかえりなさい!今夜は高級クルミ入りのパンを焼いたの!』とか『あなた、お風呂に入りましょうか。あなたの全身を拭かせて?』とか言っちゃったりして!いやぁぁん、ラブラブ!
ユーリくんがディズと一緒に戦場に行く時、戦場に行けない私はバスタオルで涙を拭きながら、旦那様の帰りを今か今かと近くの街で待ったり……。
ん?待てよ。私は、一箇所に長期間留まることは許されていない。ユーリくんは、ディズと一緒にお仕事するからウィニストラから自由に出られない。ということは、ユーリくんと結婚しても、私はウィニストラから出られない?これって、全然解決になっていない?
いや!ここはユーリくん次第で乗り越えられるかもしれない!愛があれば何でも乗り越えられるって聞いたことがあるから、私とユーリくんが結婚したら奇跡が起きて私を第2の主人と認めてくれるかもしれない!
まずユーリくんが独身なのか、誰か決まった子がいないかを確認しないと……。
「ユーリくんって独身?」
「ええ、独身です。オオカミリスは春が恋の季節で、1年ごとに相手を変えるんです。ユーリをオオカミリスの生息域に数日放してお見合いしてみたんですが、ずっとメスのリスに追い掛け回されていたらしく、様子を見に来た私を見つけると、衰弱して戻ってきて追いかけてきたメスに怯えていました。その後もう一度放してみたのですが、すぐにポーチに逃げ込んで出てきませんでした。モテたようですが、相性が合わなかったようで残念ながらずっと独身です」
「そっか。ユーリくんって放してもディズの所に戻ってくるんだ」
「ええ。オオカミリスは主人と認めた人間の匂いを嗅ぎ分けますし、耳が良いので、名前を呼べばちゃんと戻ってきます」
「オオカミリスの女の子にもモテモテだなんて、流石ユーリくんだね。も、もし良かったら私と結婚する?」
スポッ!
え?今、スポッ!ってすごく良い音を立てて、リスボタンなユーリくんが服の中に消えた……?
「あ、あれ?ユ、ユーリくん?」
ドキドキしながら一世一代のプロポーズの言葉を口にした途端、ユーリくんは服の中に隠れてしまった。これってフラれたのだろうか。結構ショックだ。立ち直れない…。
ユーリくんがさっきまで居た服の隙間を見たまま呆然としていると、隣からクスッと聞こえた。
「人間であるシェニカがユーリと結婚するとなると、主人の私も自動でくっついてきてしまいますよ」
「お互いに愛があれば、種族とか何とかなるかな~とか思ったけど、フラれちゃったから諦めるしかないかぁ。お~いユーリくーん。もうプロポーズしないし、ユーリくんとの結婚は諦めるから出てきて~」
私の訴えが聞こえたのか、服の中に顔を引っ込めてしまったユーリくんがゆっくりと顔を出してくれた。失恋したのは悲しいけど、また出てきてくれたのが嬉しくて小さな頭を指で優しく撫でた。
「シェニカにプロポーズされたユーリは幸せ者ですね。そろそろ行きましょうか」
私達は分岐点に戻って奥に続く上り坂を歩き始めると、高い天井に向けて平べったい鍾乳石が階段のように伸びた、行き止まりの場所に辿り着いてしまった。
この場所はポツポツと天井から雨粒のような水滴が落ちてきて地面も壁も濡れているから、ここも水の侵食が進んでいるらしい。
「行き止まりだけど、どうしよう」
肌に触れるとピリピリと刺激を感じる雨に打たれながら、進める場所がないかと周囲を見渡しながら中に進み、階段状の鍾乳石の前で立ち止まった。
目の前から始まる鍾乳石は大小様々で、足を運べる鍾乳石が斜め上だったり、ジャンプしないといけないような少し離れた場所にあったりするけど、もし順調に登っていくことが出来れば天井にほど近い場所まで辿り着けるだろう。
でも、ここを登って天井近くに辿り着けたとしても、そこからどうすればいいのだろう。
「ここを登って上の階層に行けないか見てきます。シェニカはここで待っていて下さいね」
ディズはその鍾乳石を慎重に登ると、最上段の鍾乳石の上に膝立ちになって目の前の天井を調べ始めた。彼はしばらく天井を触ると、慎重に鍾乳石を下りて私の前に戻ってきた。
「天井は上の空間が見えるくらい岩肌が薄いので、そこを壊して上の階層に進みましょう。ただ、この階段状の足場もかなり脆そうですから、気を付けて下さいね」
「うん」
ディズに手を引かれながら階段になった鍾乳石を登っていると、踏みしめた鍾乳石からバキバキとヒビが入る音が聞こえてくる。このまま崩れ落ちたらどうしようかと思いながら慎重に登ると、一番上の鍾乳石で立ち止まった彼は腰に差した剣を引き抜いて、鞘で天井をガツガツと壊し始めた。すると、薄氷にヒビが入るみたいに、薄い乳白色の天井はヒビ割れてバラバラと落ちた。
1人が通れるくらいの穴が空いたら、ディズはそこに入り込むように立ち上がると魔力の光を作って登った。彼に続いて私も穴を登ろうと一番上の足場を踏みしめると、バキバキと割れるような音がしてグラグラと足元がふらついた気がした。
「シェニカ、手を」
足元が崩れそうだと思った私は、慌てて腰の位置にある穴の縁に手をついて登ろうとすると、彼は私に向かって両手を伸ばした。
「ありがとう。……ひゃぁっ!」
彼の両手を掴んだ瞬間、私の足元がガラガラと大きな音を立てて崩れ始めた。そのまま落ちると思った時、繋いだ両手がグッと持ち上げられて身体が浮いた。下を見ると、登ってきた鍾乳石が全部残骸になっていて、落ちたら運が良くて大怪我という高さで宙吊りになっていた。急に崩れてビックリするし、ディズと繋いだ手だけが頼りという状況で怖かったけど、彼はスムーズに私を両手で釣り上げて彼の隣に下ろしてくれた。
「お、重くなかった?腕、大丈夫?」
「こういう引き上げる訓練もしてますから大丈夫ですよ。シェニカは軽いから片手でも出来ますが、バルジアラ様は死ぬ気で両腕で持ち上げないと出来ません」
「やったことあるの?」
湖でバルジアラ様をおぶって泳がされたり、引き上げたり。普段、軍部でどんな訓練をしているのだろうか。
「上から垂らしたハシゴに足をかけて、逆さ吊りの状態で下にいる人を持ち上げて、そのハシゴに掴まらせるという訓練があるんです。その訓練の時に、腕の関節が外れても大丈夫だから俺を引き上げてみろ、とバルジアラ様に言われたことがあるんです。
私が『引き上げられずに顔面に向かってダイブしたら、もしかしたら私のファーストキスの相手は貴方様になってしまうかもしれません。だからやめましょう』と言ったんです。そしたら嫌そうな顔をして『もしそうなったら顔を潰す』と言われて、容赦なく引き上げさせられました」
「あははは!ディズっておもしろいね」
周囲を見渡してみると、この場所はちょうど行き止まりになっていた。1人がやっと通れるような狭い道を進んでいくと、この階層はさっき登ってきた洞穴と違って、水の侵食を受けていないのか地面も壁も乾いていた。でも、どこかに水が流れる場所があるのか、チョロチョロという水の音が微かに聞こえる。
狭い道の先にあった緩やかな登り坂を上り始めた時、私の胸元に居たユーリくんの尻尾がピン!と張ったのが、私の肌に当たるフサフサの毛の動きで伝わってきた。
「ジジッ!」
どうしたのかとユーリくんに視線を落とすと、彼は警戒した短い鳴き声を出した。ユーリくんが警戒してるってことは何かを察知したのだろう。
ディズが足を止めて坂の上の方に顔を向けたけど、数呼吸後に私の方に振り向いた。
「私にはまだ分かりませんが、ユーリの反応だとこの先に人の気配がありそうです。物音を立てないように注意していきましょう」
登り坂を上りきった鍾乳石の上に、『落下の可能性有り。立ち入り禁止』と張り紙がされた板が置いてあった。人の話し声や足音は聞こえないけど、この張り紙は明らかに最近の物だ。ということは人が近いんだろう。
私が視線だけでディズに声をかけると、彼は神妙な面持ちで頷いた。
「この辺にはまだ人はいません。ですが、やはり人の活動があります。足音を立てないように、ゆっくりと行きましょう。決して私の後ろから出ないようにして下さいね」
それからはゆっくりと足音と呼吸を忍ばせて凸凹した地面を慎重に歩いたが、この辺には誰もいなかった。
右に曲がる急カーブに差し掛かった緩やかな登り坂を歩いていると、隣にいるディズが急に立ち止まった。ディズがいる道の右側は壁があるけど、私の左側は底の見えない崖になっている。早く通り過ぎたくなる場所で立ち止まってどうしたのかと思っていると、彼は自分の口元に指を当てて静かにするように指示を出した。
しばらくそのままでいると、複数の男性の小声が断片的に聞こえてきた。足音は聞こえないけど、声は徐々に近付いてきているような感じで、私はこのままで大丈夫だろうかと繋いでいたディズの手をギュッと握りしめた。すると彼は洞穴の先を見ていた顔を私に向けて、微笑みながらギュッと握り返してくれた。それだけのことだけど、彼がいれば大丈夫だと不思議と安心出来た。
「アステラ様……は、……ご……を?」
「……ワイン………陛下……です」
声は小さいし内容ははっきりと分からないけど、トラントの人達がこの急カーブの先に居るのだろう。彼らがこっちに来るんじゃないかとドキドキしていると、声はやがて聞こえなくなって静かになった。
「ここにいるのはトラント兵ですね。距離を詰めたら私が兵士を無力化していきますので、合図をしたらその場所で結界を張って、ユーリと一緒に待っていて下さいね」
「うん。気を付けてね」
急カーブの先を行くと、また右にカーブした緩やかな登り道が続いていた。その道を歩いている途中、ディズは繋いでいた手を離して「ここで待ってて下さいね」と合図をした。
私はドキドキしながら結界を張ると、リスボタンのまま警戒しているユーリくんとその場で待つことになった。シンと静かな場所だけど、悲鳴も呻き声も、誰かが倒れる音もしない。ディズは大丈夫だろうかと心配していると、坂道の上から彼が戻ってきた。怪我1つ無い様子のディズを見て、心の底からホッとした。
「兵士は気絶させていますが、目を覚まして暴れられると困るので、大人しくしているように強制催眠をかけてもらってもいいですか?」
「分かった」
ディズの案内で坂道の先に進むと、ポッカリと空いた洞穴の中に、縛り上げられ猿轡を噛ませられた3人の兵士が居た。
気絶している兵士を1人ずつ目覚めの魔法をかけて起こし、呻き声を挙げる前に強制催眠をかけることを繰り返すと、ボーっとした顔をして大人しくなった。
それから奥の道に進んでいくと、小さな洞穴を見つける度に数人のトラント兵が居た。ディズがどうやって気絶させているのか分からないけど、暴れさせずに気絶させるなんて私にはとても出来ない芸当だ。
順調に進みながら兵士を無力化させていくと、彼が気絶させた兵士の中に銀の階級章をつけた人が居ることに気付いて驚いた。
いくら彼が将軍とはいえ、副官相手だと流石に見つかったり、暴れられるのではないかと思ったのだけど。彼は副官を相手にしても、階級章をつけていない兵士と同じ様に簡単に無力化してしまった。
「ねぇ、ディズ。どうやって気絶させたの?」
「気配を完全に消して近付いて、背後から首を絞めて気絶させたんですよ」
「副官の人にも気付かせないなんて、ディズは凄いね」
私がそう言うと、ディズは警戒態勢のままのユーリくんの頭を指で撫で、少し照れたようにはにかんだ微笑を浮かべた。
「副官と将軍には力の差がありますから」
「そんなに違うの?」
「副官として将軍の元で多くの経験を積み、将軍と同等以上の実力を備えていると判断されれば、将軍になれます。でも将軍は数が決まっていますし、なれるまでに相応の時間がかかりますし、競争率も激しくなります。副官として20年働いても将軍になれない者もいます」
「そうなんだ。ディズって優しいのに強くって紳士的だし、とってもカッコイイね」
「ありがとうございます。シェニカにそう言われると、とても嬉しくて照れてしまいます」
ディズはそう言って幸せそうに笑うと、私に手を差し伸べて奥に続く道を進もうと促した。
一歩踏み出したところで、彼は繋いだ手にギュッと力を入れた。どうしたのかと思って見上げると、ディズは何だかとても嬉しそうに微笑んでいた。彼のその微笑みにつられるように私も笑った時、リスボタンのユーリくんが「ぷきゅっ」と小さなくしゃみをした。
そのくしゃみが可愛くて、私とディズは顔を見合わせてまた声もなく笑った。
それからもディズは進む先にいる兵士達を気絶させて拘束していき、一本道をゆっくりと進んだ。
拘束した兵士の中に副官が数人いたのを見て、私には出来ないことを事も無げにやってのけるディズをとても尊敬した。
彼と繋いだ手、優しげな表情、柔和な雰囲気、チラッと見てしまった彼の逞しい身体、全部がとても頼もしくカッコよくて、私にはルクトがいると分かっているのに彼を意識してしまう。
しばらく誰も居ない道を歩いていると、分岐点に差し掛かった。
一方は壁の両側に1人くらいなら待ち伏せ出来そうな窪みが不規則に出来ている道、もう一方はカマドがある簡易的な炊事場と、子供のお風呂にも使えそうなくらいの大きな桶が積み重なった広い空間になっていた。
地面に置かれた桶の1つには、グシャグシャのシャツがたくさん入っているから、どうやらここは炊事場と洗濯場が一緒になった空間らしい。ディズと一緒にこの洞穴を調べてみても、奥に続く道はなかった。
「こっちしか進めないね」
「シェニカ、ちょっと待って下さい」
窪みの有る道の手前で立ち止まったディズを不思議に思いながら、彼より先に一歩足を踏み出そうとした時、彼は私の右手をグッと強く引いた。
引っ張られるという思わぬ行動に対処出来なかった私は、掴まれた腕を支点にクルリと回った。ディズの胸元にぶつかりそうになったけど、その前に彼が私の肩を掴んだから、リスボタンのユーリくんは押し潰されることはなかった。
「どうしたの?こっちも兵士がいるの?」
「いいえ。そこから先はアステラの感知する範囲に入るので、無闇に近付けばアステラがここに来ます」
ディズの言葉に思わず緊張してしまったけど、彼もそうなのか少し硬い声になっていた。やはり強い彼であっても、筆頭将軍を相手にする時には緊張するのだろうか。
「どうして感知する範囲って分かるの?」
「空気が違うんです。この先は今までとは違って少し空気が重いし、緊迫感があります。ユーリも緊張状態ですから、アステラの気配を察知しているようですね」
そう教えてもらっても、私には違いが分からない。どんなに神経を研ぎ澄ませてみても、私に分かるのは空気の冷たさと、音のない静寂な世界だけだった。
ユーリくんの様子を見ると、大きな耳は今までにないくらいピンと張っているし、顔や私の服の中の身体が小刻みに震えている。
ディズやユーリくんのように、気配に敏感になれたらどれだけ危険を回避出来るだろうか。ちゃんと訓練すれば分かるようになるのだろうか。私だけ分からないことが、とても悔しかった。
「でもこの道しかないよね。どうしよう」
「トラント兵の様子や周囲の状況から考えて、ウィニストラやサザベルの者達は地下に来ていないようです。食糧も不安になってきましたから、彼らの助けを待つより自力でここを出るしかありません。
この階層に来てからここまで一本道でしたし、壊せそうな壁や天井はありませんでしたから、この道を進むしか無いのですが、問題はこの鍾乳洞の脆さなんです。ここでは落盤の危険があるので魔法は使えませんし、剣での戦いも相手がアステラといった将軍が相手だと狭くて難しいのが実情です。そこでシェニカに相談です」
「相談?」
ディズが私を緩く抱き締めると、ユーリくんは押し潰されそうだと思ったのか、私の旅装束から出ると目の前のディズの軍服を伝って地面に下りてしまった。
何を相談されるのだろうかと思って彼を見上げると、私を真剣な目で見てきたから一気に不安になった。
「シェニカ、今、『聖なる一滴』を持っていますか?」
「え?あ、うん。持ってるけど……」
「欲しがっていたシェニカが1人で現れれば、流石のアステラも多少気が緩むでしょう。その時に隙を見て、アステラに『聖なる一滴』をかけてくれませんか?アステラさえどうにかできれば、私が国王と神官長を取り押さえることが出来ます。
今この先にいる将軍はアステラだけなので、ここに他の将軍が来る前になんとかしたいんです」
「でも解毒薬は私の毒薬には効かないの。それに1人で行くのは……」
筆頭将軍や国王が居るのなら、必ずこの先に出口があるんだろう。
食糧も底が見えてきたし、あてもなく彷徨うよりも出口に続く可能性が高い選択肢を取った方が良いと思う。そう頭では分かっていても、私は『聖なる一滴』を使いたくないし、1人で恐ろしい人達の前になんか行きたくない。でも、彼と一緒にここまで力を合わせて頑張ってきたし、彼の言うことが最善だと十分理解できるから、『行きたくない』『やりたくない』という言葉を言うことは憚られた。
「貴女を苦しめてすみません。ですが、これしか確実な方法がないのです。アステラが『聖なる一滴』を受けた時、私がひと思いに楽にしてあげると約束します。もし罪の意識に押し潰されそうなら私が半分背負います。共犯者になります。だからお願いします」
私は毒薬の結果をまた思い出し、ディズの腕の中で嗚咽を堪えながら静かに泣いた。
ディズは抱き締めてくれたけど、あれをもう一度。今度は誰かの手ではなく、自分の手で使うのかと想像すると、今までと違ってなかなか気持ちが落ち着かない。
「貴女を守りたいのに、私の力が及ばなくて申し訳ありません」
「ううん。仕方のないことだと分かるの。でも。もう少しだけ、このままでいさせて」
彼が今まで私を守ってくれたように、今度は私が彼を守らないと。
ローズ様や今まで雇った護衛、ルクト、ディズ。今まではずっと誰かに守ってもらうばかりだったけど、大事な人を守るために私が強くならないと。
今までみたいに嫌なことから逃げてばかりじゃ、何も解決にならない。今回のように守ってくれる存在に依存し過ぎていれば、何かあった時に何も出来なくなる。これからは、逃げたいことにも目をそらさず、立ち向かって、自分の力で道を切り開いていかないと。
込み上げてくる恐怖心と私に出来るのだろうかという不安を、必死に抑えて自分にそう言い聞かせた。
しばらく泣いて落ち着いた後、覚悟を決めた私はディズから身体を離した。
「じゃあ、私。行ってくるね」
頬に残る涙の跡を拭いながらディズにそう言うと、彼は私の両手をギュッと強く握りしめた。
「近くで見ていたいのですが、最初はアステラに気付かれないために少し離れていないといけなくて。
さっき気絶させた副官に強制催眠でアステラの元に連れて行かせ、その後、私の所に戻るように命じてくれますか?」
「分かった」
私は目を閉じると大きく息を吸った。
「ねぇディズ、もし失敗してしまったら」
もしもの場合のことを頼もうとすると、彼は私の口に人差し指を当てた。ビックリして言葉を出せずにいると、彼は真剣な顔をして私を見た。
「シェニカは気絶くらいはするかもしれませんが、絶対に殺されません。もし、捕まってしまったら、少しの間シェニカに苦しい思いをさせてしまいますが、私が必ず助け出します。だからその先は言わなくて大丈夫です」
彼が力強くそう言い切ったからか、もしもの場合になってもきっと彼が助けに来てくれるのだと確信出来た。それはとても心強くて、胸に渦巻く不安が少しだけ消えた気がした。
「私ね。旅に出た時に、1人でどんなことも切り抜けないといけないと思っていたんだけど、ルクトと付き合うようになってからは、守ってもらうことを任せきりで依存してた。
でも、こんな風になって。これからはそれじゃダメだから、自分で出来ることはやっていかないとダメなんだって思ったの。
私は黒魔法も剣も使えないし、身分をふりかざすのも特権も『聖なる一滴』も好きじゃないけど、私とディズを守るためにやってみる」
「身分や特権、『聖なる一滴』は、シェニカなら正しく使えるはずです」
「怖いけど、勇気出して切り抜けないと」
私がそこまで言うと、ディズは少し身体を離して私の両肩にそっと手を置いた。彼が何をするのか分からず、顔を見上げてみると今までで一番優しげなのに、色っぽい微笑を浮かべていた。その微笑みに、私は思わずドキリと胸が高鳴った。
「なら、私からおまじないをさせて下さい」
「おまじない?」
「不安を勇気に変換するおまじないです。不安な気持ちを込めて私の頬にキスして下さいますか?」
ディズはそう言うと、自分の頬を指差してニッコリ笑った。
「え?キ、キス?」
「シェニカから私に不安を分けるんです。そしたら私がそれを勇気に変換して、シェニカに返すおまじないです」
「なるほど。じゃ、するね」
そんなおまじないは初耳だったけど、覚悟を決めたとは言え不安な気持ちは拭えていない。だから、私は言われた通りにディズの頬にキスをした。すると、彼はギュッと抱きしめて私の頬にキスを返してくれた。
おまじないの効果がすぐに表れたのか、ディズのキスを受けた頬からは、あったかい感触が心まで伝わって心強さに包まれた。
「ありがとう。勇気出た」
「シェニカとの約束は必ず守りますし、守り抜きます」
「うん……」
「では、副官を置いてきた場所まで戻りましょう」
静かに道を戻ると、私は銀の階級章をつけたトラントの副官を起こし、その人に強制催眠をかけた。
そしてディズにロープを手元に巻きつけてもらったけど、すぐに解けるように両端は結ばずに手の中に握った。
「じゃあ、行ってきます」
心配そうなディズと彼の肩に居るユーリくんにそう言って、強制催眠をかけた副官と共に静かに歩みを進めた。
「ううん。大丈夫だよ」
乳白色しかない世界なのは変わらないけど、段々と道の様子が変わってきた。先に進む道はゆるやかな登り坂だったのに、ディズに引っ張ってもらわないと足を滑らせてしまいそうな急斜面に変わった。
しかも、地面に空いた穴は大きくなって数も増えたし、地面を踏むとバキッと音を立てることもあるから、地面が抜けてしまうのではないかと心配になる。
そんな道をしばらく歩いていると、真っ直ぐ進む道と右に進む道がある分岐点に差し掛かった。真っ直ぐの道は、まだまだ先がありそうな急な上り坂。右の道は広いドーム型の平坦な空間になっていて、その奥には落盤があったのか行き止まりになっていた。
「右の道は袋小路になっていますから、そこで休憩しましょうか」
「うん」
私達は右の道に進んで、長椅子のように平たくなった鍾乳石に座って休憩を取ることになった。
座ろうとした鍾乳石に触ってみると、手の平に薄く水がつく程度に濡れている。このまま座ると服が濡れてしまうから、私は火の魔法で乾かしておいた。
「はい、お水どうぞ」
「ありがとうございます。そういえば。シェニカはどうして私と主従の誓いを結ばなかったのですか?階級章を預けるだけでは、不安じゃありませんでしたか?」
ディズは飲み終えたコップを私に戻すと、私を見ながら不思議そうに首を傾げた。
「この鍾乳洞内にいる間だけ」という条件で主従の誓いを結んだとしても、私が地上に出た後も誓いを破棄しない可能性だってある。彼だって将軍という重い立場の人だから、その可能性を考えたと思うんだけど。
ここに落ちた時は、まだ信頼関係なんて無かったと思うけど、彼は私を最初からずっと信じてくれていたのだろうか。私は誰が相手だろうと信頼を裏切るつもりはないけど、一緒に閉じ込められたのがディズで良かった。これが口数が少なさそうなファズ様だったら、居心地の悪い中で出口を進むことになったと思う。ファズ様ならまだ良いけど、これがキルレのソルディナンド様だったり、バーナン神官長だったら……と考えるだけで戦慄する。
ルクトと一緒に閉じ込められたら、一体どうなっていただろうか。彼への恐怖心が抜けない以上、きっと険悪な空気になっていただろうし、私は精神状態がおかしくなっていたかもしれない。
私が不安に取り憑かれることなく頑張って前に進めるのは、間違いなく誠実なディズのおかげだ。だから、彼のために何か報いたい、お礼がしたいと思うようになった。
「階級章って私の額飾りと同じくらい大事なものでしょ?そんな大事な物を外して私に預けるくらいだから、私を信じてくれてるんだって思って、信用してみようと思ったの。
それに。主従の誓いって奴隷契約みたいな感じで思われてるけど、ちょっと違うんだ」
「違ってる、とは?」
「トラント領内にあるシュゼールって街に、主従の誓いの研究者がいるの。その人の所で話を聞いたら、主従の誓いは憎しみ合う関係ならば奴隷の状態に。想い合う関係になったら夫婦の状態になるんだって」
私の膝の上でクルミを食べていたユーリくんは、食べていたクルミを頬袋に収めると私をジッと見てきた。彼におかわりのクルミをあげたけど、もう頬袋には入りきれないのか受け取らなかった。水が欲しいのかと思ってコップに水を溜めてみれば、彼は斜めにしたコップに上半身を突っ込むという可愛い体勢で飲み始めた。
「そうなんですか。初耳です。夫婦の状態になると、どうなるんですか?」
「2人の関係が良好な場合、主人も従者も互いの匂いを感じるとか、従者が匂いを辿って主人を追いかけられるとか、従者は主人から逃げられなくなるとか、どちらの立場でも片方が張った結界に自由に出入り出来るとか、互いが近くにいなければ落ち着かなくなるとか色々あるんだけど。
夫婦の状態になると、その……。身体の相性が最高になって、互いに求め合って繋がりをより深くするんだって」
「主従の誓いとは、そういうものだったのですね。奴隷の誓いとしか認識していなかったので、興味深いです」
「だから奴隷扱いなんてしなくても、決して軽い気持ちで結ぶもんじゃないと思ったんだ。ディズも興味を持ったらシュゼールの研究者に話を聞いてみてね」
「ええ。そうします」
私の膝の上でユーリくんが寝そべってくつろいでいると、ディズが立ち上がって落盤が起きている方にある壁に向かって歩き出した。どうしたのだろうかと見ていると、壁の前で立ち止まったディズは首を傾げながら壁に触れた。
「これは何でしょうか。模様?」
「どうしたの?」
ユーリくんを肩に乗せてディズの隣に行くと、濡れた壁の目線の高さに何か薄い模様のようなものがある。それは、今いる場所から落盤で塞がった場所にかけて帯のように広がっていて、水の侵食を受けているけど間違いなく文字だった。
「明らかに人為的な物のようですが、何だか分かりませんね」
「これはね、結構古い旧字だよ」
文字の上にある水を払おうと壁に触れてみると、手にはピリッとする刺激を感じた。その刺激はディズと一緒に渡った池よりも強く、私はすぐに自分の手と壁全体に浄化の魔法をかけた。
「旧字ですか。文字があるということはこの辺りに人の出入りがあったのでしょうが、この先は落盤で行き止まりですし、人の気配もありません。空気の変化もないようなので、この落盤は随分昔に起きたようですね」
「えっと…。『私が正気だとガーファエルが知ったら』?」
「シェニカは読めますか?」
「うん。読めるよ。でも侵食されてる部分が多くて、読める部分は少ないみたいだけど。読める部分を読み上げてみるね。
『私が正気だとガーファエルが知ったら』
『私は彫刻家として生きていけたのに』
『ある意味血筋のせいだったのだろう。でも、私の血を引いた子に』
『このまま誰にも伝わらずに消えて行きたくない。殺さないでと』
……こっから先は落盤で塞がれて分からないね」
「ガーファエルというのは誰でしょうか。申し訳ないのですが、この壁にある言葉をメモしてもらってもいいですか?地上に戻った時にバルジアラ様に報告しましょう」
「うん。分かった」
「それにしてもシェニカは凄いですね。昔の文字も読めるなんて」
私がメモを始めると、私の肩にいたユーリくんは差し出されたディズの手に駆け出していった。ディズの肩に乗ったユーリくんは私をジッと見つめている。手を動かしながらユーリくんに笑顔を向けていると、ディズがそんな風に言ってくれた。
「私、ローズ様から旧字の辞書を貰って勉強してたから、これよりも古い字も読めるんだ」
「ということは、この文字を書いた人は随分昔の人なんですね」
「そうみたいね。ここに人が来たってことは、入り口が近いってことなのかな。塞がれた先の道が行けたら良かったのにね」
「この先が行けなくても、必ず外に出る道はあるはずです。ここに誰か来たことがあるということだけでも、気持ちが軽くなります」
「うん、そうだね。よし、メモ終わったよ」
「ではユーリ。またお仕事お願いしますね」
「チチッ!」
ディズからユーリくんを受け取ると、ひとまず私の肩に彼を置いた。肩にいるユーリくんは、私が服のボタンを開けるのを今か今かと待っている気がする。
すっかり私のリスボタンなユーリくんに、心の中でうへへ~と喜びの声を上げながらボタンを開けた。すると、爪を引っ掛けること無く器用に旅装束を駆け下りて、開いた隙間に身体を滑り込ませると、ヒョッコリと小さな顔を出してくれた。
ーーやぁぁん!もうこの瞬間が可愛いのなんの!もう私はユーリくんと結婚したい!そういえば、ユーリくんって決まった相手はいるのだろうか。
ハッ!主人をディズから変えることはなくても、ディズが想い人と結婚しても、私がユーリくんのお嫁さんになればいつでも会える。これって万事解決ではないだろうか……!
妙案を思いついた私は、結婚式を想像してみた。
真っ白なウェディングドレスに身を包んだ私が、肩にタキシード姿のユーリくんを乗せ、神殿でローズ様から祝福を受けるというシーンが頭に浮かんだ。タキシード姿のユーリくんを想像するだけでも、胸がキュンキュンしちゃう!
『シェニカ・ヒジェイト、貴女はユリウス・オオカミリスを生涯に渡って愛することを誓いますか?』
『はい、誓います。うふふっ!ユーリくんが居てくれるなら、私はもう誰にもナンパしませんし、人間の誰とも結婚しません!』
ユーリくんも『チチチッ!』と誓いの言葉を言ったら、私の手の平に乗ったユーリくんと私は見つめ合って誓いのキスを……。いやぁん!
結婚したら、私はユーリくんのお嫁さんとして、新居でお仕事を終えた可愛い旦那様の帰りを待って…。
『あなた、おかえりなさい!今夜は高級クルミ入りのパンを焼いたの!』とか『あなた、お風呂に入りましょうか。あなたの全身を拭かせて?』とか言っちゃったりして!いやぁぁん、ラブラブ!
ユーリくんがディズと一緒に戦場に行く時、戦場に行けない私はバスタオルで涙を拭きながら、旦那様の帰りを今か今かと近くの街で待ったり……。
ん?待てよ。私は、一箇所に長期間留まることは許されていない。ユーリくんは、ディズと一緒にお仕事するからウィニストラから自由に出られない。ということは、ユーリくんと結婚しても、私はウィニストラから出られない?これって、全然解決になっていない?
いや!ここはユーリくん次第で乗り越えられるかもしれない!愛があれば何でも乗り越えられるって聞いたことがあるから、私とユーリくんが結婚したら奇跡が起きて私を第2の主人と認めてくれるかもしれない!
まずユーリくんが独身なのか、誰か決まった子がいないかを確認しないと……。
「ユーリくんって独身?」
「ええ、独身です。オオカミリスは春が恋の季節で、1年ごとに相手を変えるんです。ユーリをオオカミリスの生息域に数日放してお見合いしてみたんですが、ずっとメスのリスに追い掛け回されていたらしく、様子を見に来た私を見つけると、衰弱して戻ってきて追いかけてきたメスに怯えていました。その後もう一度放してみたのですが、すぐにポーチに逃げ込んで出てきませんでした。モテたようですが、相性が合わなかったようで残念ながらずっと独身です」
「そっか。ユーリくんって放してもディズの所に戻ってくるんだ」
「ええ。オオカミリスは主人と認めた人間の匂いを嗅ぎ分けますし、耳が良いので、名前を呼べばちゃんと戻ってきます」
「オオカミリスの女の子にもモテモテだなんて、流石ユーリくんだね。も、もし良かったら私と結婚する?」
スポッ!
え?今、スポッ!ってすごく良い音を立てて、リスボタンなユーリくんが服の中に消えた……?
「あ、あれ?ユ、ユーリくん?」
ドキドキしながら一世一代のプロポーズの言葉を口にした途端、ユーリくんは服の中に隠れてしまった。これってフラれたのだろうか。結構ショックだ。立ち直れない…。
ユーリくんがさっきまで居た服の隙間を見たまま呆然としていると、隣からクスッと聞こえた。
「人間であるシェニカがユーリと結婚するとなると、主人の私も自動でくっついてきてしまいますよ」
「お互いに愛があれば、種族とか何とかなるかな~とか思ったけど、フラれちゃったから諦めるしかないかぁ。お~いユーリくーん。もうプロポーズしないし、ユーリくんとの結婚は諦めるから出てきて~」
私の訴えが聞こえたのか、服の中に顔を引っ込めてしまったユーリくんがゆっくりと顔を出してくれた。失恋したのは悲しいけど、また出てきてくれたのが嬉しくて小さな頭を指で優しく撫でた。
「シェニカにプロポーズされたユーリは幸せ者ですね。そろそろ行きましょうか」
私達は分岐点に戻って奥に続く上り坂を歩き始めると、高い天井に向けて平べったい鍾乳石が階段のように伸びた、行き止まりの場所に辿り着いてしまった。
この場所はポツポツと天井から雨粒のような水滴が落ちてきて地面も壁も濡れているから、ここも水の侵食が進んでいるらしい。
「行き止まりだけど、どうしよう」
肌に触れるとピリピリと刺激を感じる雨に打たれながら、進める場所がないかと周囲を見渡しながら中に進み、階段状の鍾乳石の前で立ち止まった。
目の前から始まる鍾乳石は大小様々で、足を運べる鍾乳石が斜め上だったり、ジャンプしないといけないような少し離れた場所にあったりするけど、もし順調に登っていくことが出来れば天井にほど近い場所まで辿り着けるだろう。
でも、ここを登って天井近くに辿り着けたとしても、そこからどうすればいいのだろう。
「ここを登って上の階層に行けないか見てきます。シェニカはここで待っていて下さいね」
ディズはその鍾乳石を慎重に登ると、最上段の鍾乳石の上に膝立ちになって目の前の天井を調べ始めた。彼はしばらく天井を触ると、慎重に鍾乳石を下りて私の前に戻ってきた。
「天井は上の空間が見えるくらい岩肌が薄いので、そこを壊して上の階層に進みましょう。ただ、この階段状の足場もかなり脆そうですから、気を付けて下さいね」
「うん」
ディズに手を引かれながら階段になった鍾乳石を登っていると、踏みしめた鍾乳石からバキバキとヒビが入る音が聞こえてくる。このまま崩れ落ちたらどうしようかと思いながら慎重に登ると、一番上の鍾乳石で立ち止まった彼は腰に差した剣を引き抜いて、鞘で天井をガツガツと壊し始めた。すると、薄氷にヒビが入るみたいに、薄い乳白色の天井はヒビ割れてバラバラと落ちた。
1人が通れるくらいの穴が空いたら、ディズはそこに入り込むように立ち上がると魔力の光を作って登った。彼に続いて私も穴を登ろうと一番上の足場を踏みしめると、バキバキと割れるような音がしてグラグラと足元がふらついた気がした。
「シェニカ、手を」
足元が崩れそうだと思った私は、慌てて腰の位置にある穴の縁に手をついて登ろうとすると、彼は私に向かって両手を伸ばした。
「ありがとう。……ひゃぁっ!」
彼の両手を掴んだ瞬間、私の足元がガラガラと大きな音を立てて崩れ始めた。そのまま落ちると思った時、繋いだ両手がグッと持ち上げられて身体が浮いた。下を見ると、登ってきた鍾乳石が全部残骸になっていて、落ちたら運が良くて大怪我という高さで宙吊りになっていた。急に崩れてビックリするし、ディズと繋いだ手だけが頼りという状況で怖かったけど、彼はスムーズに私を両手で釣り上げて彼の隣に下ろしてくれた。
「お、重くなかった?腕、大丈夫?」
「こういう引き上げる訓練もしてますから大丈夫ですよ。シェニカは軽いから片手でも出来ますが、バルジアラ様は死ぬ気で両腕で持ち上げないと出来ません」
「やったことあるの?」
湖でバルジアラ様をおぶって泳がされたり、引き上げたり。普段、軍部でどんな訓練をしているのだろうか。
「上から垂らしたハシゴに足をかけて、逆さ吊りの状態で下にいる人を持ち上げて、そのハシゴに掴まらせるという訓練があるんです。その訓練の時に、腕の関節が外れても大丈夫だから俺を引き上げてみろ、とバルジアラ様に言われたことがあるんです。
私が『引き上げられずに顔面に向かってダイブしたら、もしかしたら私のファーストキスの相手は貴方様になってしまうかもしれません。だからやめましょう』と言ったんです。そしたら嫌そうな顔をして『もしそうなったら顔を潰す』と言われて、容赦なく引き上げさせられました」
「あははは!ディズっておもしろいね」
周囲を見渡してみると、この場所はちょうど行き止まりになっていた。1人がやっと通れるような狭い道を進んでいくと、この階層はさっき登ってきた洞穴と違って、水の侵食を受けていないのか地面も壁も乾いていた。でも、どこかに水が流れる場所があるのか、チョロチョロという水の音が微かに聞こえる。
狭い道の先にあった緩やかな登り坂を上り始めた時、私の胸元に居たユーリくんの尻尾がピン!と張ったのが、私の肌に当たるフサフサの毛の動きで伝わってきた。
「ジジッ!」
どうしたのかとユーリくんに視線を落とすと、彼は警戒した短い鳴き声を出した。ユーリくんが警戒してるってことは何かを察知したのだろう。
ディズが足を止めて坂の上の方に顔を向けたけど、数呼吸後に私の方に振り向いた。
「私にはまだ分かりませんが、ユーリの反応だとこの先に人の気配がありそうです。物音を立てないように注意していきましょう」
登り坂を上りきった鍾乳石の上に、『落下の可能性有り。立ち入り禁止』と張り紙がされた板が置いてあった。人の話し声や足音は聞こえないけど、この張り紙は明らかに最近の物だ。ということは人が近いんだろう。
私が視線だけでディズに声をかけると、彼は神妙な面持ちで頷いた。
「この辺にはまだ人はいません。ですが、やはり人の活動があります。足音を立てないように、ゆっくりと行きましょう。決して私の後ろから出ないようにして下さいね」
それからはゆっくりと足音と呼吸を忍ばせて凸凹した地面を慎重に歩いたが、この辺には誰もいなかった。
右に曲がる急カーブに差し掛かった緩やかな登り坂を歩いていると、隣にいるディズが急に立ち止まった。ディズがいる道の右側は壁があるけど、私の左側は底の見えない崖になっている。早く通り過ぎたくなる場所で立ち止まってどうしたのかと思っていると、彼は自分の口元に指を当てて静かにするように指示を出した。
しばらくそのままでいると、複数の男性の小声が断片的に聞こえてきた。足音は聞こえないけど、声は徐々に近付いてきているような感じで、私はこのままで大丈夫だろうかと繋いでいたディズの手をギュッと握りしめた。すると彼は洞穴の先を見ていた顔を私に向けて、微笑みながらギュッと握り返してくれた。それだけのことだけど、彼がいれば大丈夫だと不思議と安心出来た。
「アステラ様……は、……ご……を?」
「……ワイン………陛下……です」
声は小さいし内容ははっきりと分からないけど、トラントの人達がこの急カーブの先に居るのだろう。彼らがこっちに来るんじゃないかとドキドキしていると、声はやがて聞こえなくなって静かになった。
「ここにいるのはトラント兵ですね。距離を詰めたら私が兵士を無力化していきますので、合図をしたらその場所で結界を張って、ユーリと一緒に待っていて下さいね」
「うん。気を付けてね」
急カーブの先を行くと、また右にカーブした緩やかな登り道が続いていた。その道を歩いている途中、ディズは繋いでいた手を離して「ここで待ってて下さいね」と合図をした。
私はドキドキしながら結界を張ると、リスボタンのまま警戒しているユーリくんとその場で待つことになった。シンと静かな場所だけど、悲鳴も呻き声も、誰かが倒れる音もしない。ディズは大丈夫だろうかと心配していると、坂道の上から彼が戻ってきた。怪我1つ無い様子のディズを見て、心の底からホッとした。
「兵士は気絶させていますが、目を覚まして暴れられると困るので、大人しくしているように強制催眠をかけてもらってもいいですか?」
「分かった」
ディズの案内で坂道の先に進むと、ポッカリと空いた洞穴の中に、縛り上げられ猿轡を噛ませられた3人の兵士が居た。
気絶している兵士を1人ずつ目覚めの魔法をかけて起こし、呻き声を挙げる前に強制催眠をかけることを繰り返すと、ボーっとした顔をして大人しくなった。
それから奥の道に進んでいくと、小さな洞穴を見つける度に数人のトラント兵が居た。ディズがどうやって気絶させているのか分からないけど、暴れさせずに気絶させるなんて私にはとても出来ない芸当だ。
順調に進みながら兵士を無力化させていくと、彼が気絶させた兵士の中に銀の階級章をつけた人が居ることに気付いて驚いた。
いくら彼が将軍とはいえ、副官相手だと流石に見つかったり、暴れられるのではないかと思ったのだけど。彼は副官を相手にしても、階級章をつけていない兵士と同じ様に簡単に無力化してしまった。
「ねぇ、ディズ。どうやって気絶させたの?」
「気配を完全に消して近付いて、背後から首を絞めて気絶させたんですよ」
「副官の人にも気付かせないなんて、ディズは凄いね」
私がそう言うと、ディズは警戒態勢のままのユーリくんの頭を指で撫で、少し照れたようにはにかんだ微笑を浮かべた。
「副官と将軍には力の差がありますから」
「そんなに違うの?」
「副官として将軍の元で多くの経験を積み、将軍と同等以上の実力を備えていると判断されれば、将軍になれます。でも将軍は数が決まっていますし、なれるまでに相応の時間がかかりますし、競争率も激しくなります。副官として20年働いても将軍になれない者もいます」
「そうなんだ。ディズって優しいのに強くって紳士的だし、とってもカッコイイね」
「ありがとうございます。シェニカにそう言われると、とても嬉しくて照れてしまいます」
ディズはそう言って幸せそうに笑うと、私に手を差し伸べて奥に続く道を進もうと促した。
一歩踏み出したところで、彼は繋いだ手にギュッと力を入れた。どうしたのかと思って見上げると、ディズは何だかとても嬉しそうに微笑んでいた。彼のその微笑みにつられるように私も笑った時、リスボタンのユーリくんが「ぷきゅっ」と小さなくしゃみをした。
そのくしゃみが可愛くて、私とディズは顔を見合わせてまた声もなく笑った。
それからもディズは進む先にいる兵士達を気絶させて拘束していき、一本道をゆっくりと進んだ。
拘束した兵士の中に副官が数人いたのを見て、私には出来ないことを事も無げにやってのけるディズをとても尊敬した。
彼と繋いだ手、優しげな表情、柔和な雰囲気、チラッと見てしまった彼の逞しい身体、全部がとても頼もしくカッコよくて、私にはルクトがいると分かっているのに彼を意識してしまう。
しばらく誰も居ない道を歩いていると、分岐点に差し掛かった。
一方は壁の両側に1人くらいなら待ち伏せ出来そうな窪みが不規則に出来ている道、もう一方はカマドがある簡易的な炊事場と、子供のお風呂にも使えそうなくらいの大きな桶が積み重なった広い空間になっていた。
地面に置かれた桶の1つには、グシャグシャのシャツがたくさん入っているから、どうやらここは炊事場と洗濯場が一緒になった空間らしい。ディズと一緒にこの洞穴を調べてみても、奥に続く道はなかった。
「こっちしか進めないね」
「シェニカ、ちょっと待って下さい」
窪みの有る道の手前で立ち止まったディズを不思議に思いながら、彼より先に一歩足を踏み出そうとした時、彼は私の右手をグッと強く引いた。
引っ張られるという思わぬ行動に対処出来なかった私は、掴まれた腕を支点にクルリと回った。ディズの胸元にぶつかりそうになったけど、その前に彼が私の肩を掴んだから、リスボタンのユーリくんは押し潰されることはなかった。
「どうしたの?こっちも兵士がいるの?」
「いいえ。そこから先はアステラの感知する範囲に入るので、無闇に近付けばアステラがここに来ます」
ディズの言葉に思わず緊張してしまったけど、彼もそうなのか少し硬い声になっていた。やはり強い彼であっても、筆頭将軍を相手にする時には緊張するのだろうか。
「どうして感知する範囲って分かるの?」
「空気が違うんです。この先は今までとは違って少し空気が重いし、緊迫感があります。ユーリも緊張状態ですから、アステラの気配を察知しているようですね」
そう教えてもらっても、私には違いが分からない。どんなに神経を研ぎ澄ませてみても、私に分かるのは空気の冷たさと、音のない静寂な世界だけだった。
ユーリくんの様子を見ると、大きな耳は今までにないくらいピンと張っているし、顔や私の服の中の身体が小刻みに震えている。
ディズやユーリくんのように、気配に敏感になれたらどれだけ危険を回避出来るだろうか。ちゃんと訓練すれば分かるようになるのだろうか。私だけ分からないことが、とても悔しかった。
「でもこの道しかないよね。どうしよう」
「トラント兵の様子や周囲の状況から考えて、ウィニストラやサザベルの者達は地下に来ていないようです。食糧も不安になってきましたから、彼らの助けを待つより自力でここを出るしかありません。
この階層に来てからここまで一本道でしたし、壊せそうな壁や天井はありませんでしたから、この道を進むしか無いのですが、問題はこの鍾乳洞の脆さなんです。ここでは落盤の危険があるので魔法は使えませんし、剣での戦いも相手がアステラといった将軍が相手だと狭くて難しいのが実情です。そこでシェニカに相談です」
「相談?」
ディズが私を緩く抱き締めると、ユーリくんは押し潰されそうだと思ったのか、私の旅装束から出ると目の前のディズの軍服を伝って地面に下りてしまった。
何を相談されるのだろうかと思って彼を見上げると、私を真剣な目で見てきたから一気に不安になった。
「シェニカ、今、『聖なる一滴』を持っていますか?」
「え?あ、うん。持ってるけど……」
「欲しがっていたシェニカが1人で現れれば、流石のアステラも多少気が緩むでしょう。その時に隙を見て、アステラに『聖なる一滴』をかけてくれませんか?アステラさえどうにかできれば、私が国王と神官長を取り押さえることが出来ます。
今この先にいる将軍はアステラだけなので、ここに他の将軍が来る前になんとかしたいんです」
「でも解毒薬は私の毒薬には効かないの。それに1人で行くのは……」
筆頭将軍や国王が居るのなら、必ずこの先に出口があるんだろう。
食糧も底が見えてきたし、あてもなく彷徨うよりも出口に続く可能性が高い選択肢を取った方が良いと思う。そう頭では分かっていても、私は『聖なる一滴』を使いたくないし、1人で恐ろしい人達の前になんか行きたくない。でも、彼と一緒にここまで力を合わせて頑張ってきたし、彼の言うことが最善だと十分理解できるから、『行きたくない』『やりたくない』という言葉を言うことは憚られた。
「貴女を苦しめてすみません。ですが、これしか確実な方法がないのです。アステラが『聖なる一滴』を受けた時、私がひと思いに楽にしてあげると約束します。もし罪の意識に押し潰されそうなら私が半分背負います。共犯者になります。だからお願いします」
私は毒薬の結果をまた思い出し、ディズの腕の中で嗚咽を堪えながら静かに泣いた。
ディズは抱き締めてくれたけど、あれをもう一度。今度は誰かの手ではなく、自分の手で使うのかと想像すると、今までと違ってなかなか気持ちが落ち着かない。
「貴女を守りたいのに、私の力が及ばなくて申し訳ありません」
「ううん。仕方のないことだと分かるの。でも。もう少しだけ、このままでいさせて」
彼が今まで私を守ってくれたように、今度は私が彼を守らないと。
ローズ様や今まで雇った護衛、ルクト、ディズ。今まではずっと誰かに守ってもらうばかりだったけど、大事な人を守るために私が強くならないと。
今までみたいに嫌なことから逃げてばかりじゃ、何も解決にならない。今回のように守ってくれる存在に依存し過ぎていれば、何かあった時に何も出来なくなる。これからは、逃げたいことにも目をそらさず、立ち向かって、自分の力で道を切り開いていかないと。
込み上げてくる恐怖心と私に出来るのだろうかという不安を、必死に抑えて自分にそう言い聞かせた。
しばらく泣いて落ち着いた後、覚悟を決めた私はディズから身体を離した。
「じゃあ、私。行ってくるね」
頬に残る涙の跡を拭いながらディズにそう言うと、彼は私の両手をギュッと強く握りしめた。
「近くで見ていたいのですが、最初はアステラに気付かれないために少し離れていないといけなくて。
さっき気絶させた副官に強制催眠でアステラの元に連れて行かせ、その後、私の所に戻るように命じてくれますか?」
「分かった」
私は目を閉じると大きく息を吸った。
「ねぇディズ、もし失敗してしまったら」
もしもの場合のことを頼もうとすると、彼は私の口に人差し指を当てた。ビックリして言葉を出せずにいると、彼は真剣な顔をして私を見た。
「シェニカは気絶くらいはするかもしれませんが、絶対に殺されません。もし、捕まってしまったら、少しの間シェニカに苦しい思いをさせてしまいますが、私が必ず助け出します。だからその先は言わなくて大丈夫です」
彼が力強くそう言い切ったからか、もしもの場合になってもきっと彼が助けに来てくれるのだと確信出来た。それはとても心強くて、胸に渦巻く不安が少しだけ消えた気がした。
「私ね。旅に出た時に、1人でどんなことも切り抜けないといけないと思っていたんだけど、ルクトと付き合うようになってからは、守ってもらうことを任せきりで依存してた。
でも、こんな風になって。これからはそれじゃダメだから、自分で出来ることはやっていかないとダメなんだって思ったの。
私は黒魔法も剣も使えないし、身分をふりかざすのも特権も『聖なる一滴』も好きじゃないけど、私とディズを守るためにやってみる」
「身分や特権、『聖なる一滴』は、シェニカなら正しく使えるはずです」
「怖いけど、勇気出して切り抜けないと」
私がそこまで言うと、ディズは少し身体を離して私の両肩にそっと手を置いた。彼が何をするのか分からず、顔を見上げてみると今までで一番優しげなのに、色っぽい微笑を浮かべていた。その微笑みに、私は思わずドキリと胸が高鳴った。
「なら、私からおまじないをさせて下さい」
「おまじない?」
「不安を勇気に変換するおまじないです。不安な気持ちを込めて私の頬にキスして下さいますか?」
ディズはそう言うと、自分の頬を指差してニッコリ笑った。
「え?キ、キス?」
「シェニカから私に不安を分けるんです。そしたら私がそれを勇気に変換して、シェニカに返すおまじないです」
「なるほど。じゃ、するね」
そんなおまじないは初耳だったけど、覚悟を決めたとは言え不安な気持ちは拭えていない。だから、私は言われた通りにディズの頬にキスをした。すると、彼はギュッと抱きしめて私の頬にキスを返してくれた。
おまじないの効果がすぐに表れたのか、ディズのキスを受けた頬からは、あったかい感触が心まで伝わって心強さに包まれた。
「ありがとう。勇気出た」
「シェニカとの約束は必ず守りますし、守り抜きます」
「うん……」
「では、副官を置いてきた場所まで戻りましょう」
静かに道を戻ると、私は銀の階級章をつけたトラントの副官を起こし、その人に強制催眠をかけた。
そしてディズにロープを手元に巻きつけてもらったけど、すぐに解けるように両端は結ばずに手の中に握った。
「じゃあ、行ってきます」
心配そうなディズと彼の肩に居るユーリくんにそう言って、強制催眠をかけた副官と共に静かに歩みを進めた。
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