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外伝 間諜ナタリーさん
その六 信頼
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『それで、アネット様の信頼を得る事が出来たら、その次はどうしたら良いでしょう』
『アネットは私の事を誤解してると思う。それを何とか解いてくれないか?』
『何を誤解しているのでしょう?』
『アネットが逃げ出した時の事だ』
ああ、アメリ様が言ってたあれか。
『アメリ様は、ランベルト様がアネット様自身のご身分をアネット様に知らせないようにされたので、ランベルト様の振舞は本心でなく、アネット様を利用しようとしてるとアネット様は思われたのではないかと言っておられました』
『それが誤解だと言っているのだ。ナタリーもアネットの正体を初めて聞かされた時驚かなかったか?』
『驚きました』
『わたしだってそうだ。替え玉だと思ってたのがいきなり本物だと言われても、直ぐにどうして良いか分からなかった。その場で暴露した時アネットがどうするか予想が付かなかった。だからどうするか考える時間が欲しかったのだ。アメリには知らせるなと言ったが、ずっと黙っていろと言う意味ではない』
『それをアネット様が誤解されたと?』
『単なる二人だけの問題ではないのだ。アンジュ公爵が帝国を謀ったわけではないと言う事を陛下にお知らせして善後策を考える必要もあったのだ』
『第一アメリ自身隠してきたではないか?何故私だけが責められる?』
ランベルト様がこんなに感情的になるなんて。
『アネット様にご説明される機会は無かったのですか?』
『私がアウクスブルクでお会いした時、ご説明申し上げたのですが』
『でもその後にアネット様は逃げられたのですよね』
ヤンセン様は嫌な顔をされた。ちょっと言いすぎたかも。
『分かりました。まず信頼を得て、それからランベルト様のお力になれるよう努力します』
『頼む』
会合はそれで終わりになった。あのランベルト様があんなに感情的になるなんて、ほんと、アネット様にぞっこんなんだ。
不遜だけど、ちょっと面白い気がした。
それにしても、アネット様の信頼を得るってどうしたら良いのだろう。アメリ様は心からアネット様の為を思って仕えれば認められるって言ってたけど。
アメリ様はアネット様にかなり影響力があったみたいだし、アメリ様の事はきっと信頼してたのでしょうね。私はアメリ様に後事を託されたけど、もう少し助言をしてくれたら良かったのに。
その日はその後特段何もなかったのだけど、翌々日からアネット様は奇妙な事をされた。どっかから持ってきた木の棒をナイフで削り始めたのだ。出来上がったそれは木剣だった。
アネット様の部屋に散らばった木くずを履き集めて外に捨てに行くと、アネット様が家の前で木剣を持って踊っていた。いえ、剣術の練習をしていた。
流れるような足さばきと次々繰り出される斬撃と刺突。特に心臓に相当する位置を狙ったそれは速かった。
この人はいざとなれば人を殺すことも躊躇しないのだろう。そう思うと寒気がした。
アメリ様から聞いたアネット様の決断力と行動力の源泉を見た気がする。
数日後、外出から帰って来たアネット様につげられた。
『明日から一月半留守にします。今、来月分を払っておきますね』
どう言う事?とにかく情報を。
『何処へ行かれるのですか?』
『あなたには関係ありません』
そう言われるアネット様の目は冷たかった。疑われないように情報を取らなきゃ。
『関係ない事はないですよ。一月半の間私はどうすれば良いのですか?』
『今渡したお金で普通にここで生活していて下さい』
見捨てられたわけではないのでしょうか?
『本当に一月半で戻って来られますか?』
『分かりません。道中何もなければ戻って来れるはずです』
『何かあったらどうなるのですか?』
『あなたが?それとも私が?』
随分親身になってお世話したつもりだったのにこの言い方。
『両方です』
『二カ月経ったらヤンさんが賃借人から来年分の家賃を徴収するはずですから、ヤンさんからあなたの分を貰って下さい』
『いつまでも戻ってこられない場合は?』
『ヤンさんに言って辞めるなり、そのままここで生活するなり、好きにして下さい。辞める時は鍵をヤンさんに渡してくださいね』
『危険な旅ですか』
『安全な旅なんかありませんよ』
とにかく放って置けない。ついて行って宿駅に泊まるように誘導しなければ。そうすればいざという時支援を受けられる。
『後生ですから、私をお連れ下さい』
『駄目です。待つのが嫌なら今直ぐに辞めても良いですよ』
何故そこまで言うの?
『そんな事は』
『じゃ、一月半お願いしますね』
信頼されようとこれまで努力してきたのに、自分が全く信用もされてない事が分かって愕然とした。
翌日、アネット様が早朝に何も荷物を持たずに出かけられると、直ぐクローネ亭へ向かう。泊まり客の朝食の準備をしていた要員に言って支部長と面会した。
『こんなに朝早くになんだ』
支部長は眠そうだった。
『アネット様が一月半留守にすると言われて先程出かけられたのです。警護を出して下さい』
『アネット様?ああ、お前はアネット・ロンの所で女中をしてるのだったな。で、アネット・ロンは何処に行こうとしてるんだ?』
『分かりません』
『ではアネット・ロンは何処にいるんだ?』
『先ほど家を出られました。その後私はこちらに来たので分かりません』
『後をつけなかったのか?』
『ランベルト様に疑われるような事は厳に慎むようにと指示されてます』
『何処にいるかも、何処に向かっているかも分からなければどうしようもないぞ』
『何とかして下さい』
『大体アンジュ公爵家と和解した以上アネット・ロンはそんなに重要じゃないだろう』
その和解の内容がアネット様に関する事なんですよ。アネット様の正体を明かせば分かってもらえると思うけど。
駄目だ。もしアネット様の情報が洩れたら取り返しがつかない。
『ランベルト様は支援を要請すれば組織を上げて支援すると言われました』
『ああ、確かにお前を支援するようにヤンセン様から言われてる。分かった。出来るだけの事をしよう。全ての門に人をやって探させる。それで見つからなければ隣接した宿駅に情報収集させよう。これで良いか?』
『ええ』
『まずアネット・ロンの似顔絵を描け。顔が分からなければ探しようがない』
私の様な情報収集要員にとって似顔絵描きは必要な技能だ。当然私も描ける。
『この人この前ここに来ましたよ』
打合せをしている私達の所に飲み物を持ってきた要員がアネット様の似顔絵を見て言った。
『いつだ』
『ランベルト様とヤンセン様が来られてた時です。そう言えばあなたも来てましたよね』
ランベルト様とお会いしてたのをアネット様に見られてた!
それじゃあ不信感を持たれても仕方がない。私は脱力した。
『それで逃亡したのか。これは失態だな。仮にアネット・ロンを見つけたとしても任務継続は無理じゃないのか?』
『でもアネット様は一月半後に帰えると言われました。少なくとも私から任務を離れる事は出来ません』
『一月半後に帰ると言ったのか?ではアネット・ロンの家に戻って待機しておけ。何か分かったら連絡する』
それから毎日アネット様のいない部屋でアネット様を待ちながら過ごした。冬の準備の費用は叔父さんと言う事になっている管理人のヤンさんから借りた。別に借りる必要は無かったけど、一月1グルデンで雇われた女中という建前を崩せない。
一月が過ぎたある日、床を掃いていると急に扉が開いた。
戻ってこられた。
『ただいま戻りました』
なんとも言えない安心感に思わず涙が出る。
『お帰りなさいませ、アネット様。御無事で』
鼻声になってしまった。
アネット様はきょとんと私を見ている。
鼻水をすすり上げると、今日の昼食は何が良いかと聞いた。
それから冬支度の話をして、費用を清算、その後一月余りの空白が無かったかのような日常が再開した。
冬の3カ月間はアネット様もあまり外出されず、一緒にいる事が多かった。
何とも言いようのない壁をどうする事も出来ないまま時間だけが過ぎていく。
『また明日から1週間留守にします。今回は直ぐ戻って来ますから』
春になり外出される事が多くなったある日、アネット様はそう言われた
『あの。去年の事といい、アネット様は何をしてるのですか?』
『あなたには関係ありません』
一冬一緒に過ごしたのに関係は全然改善していなかった。
『そんな。私の事をもっと信頼していただいても良いでは有りませんか?』
『信用して家を預けてますよ』
全然信用していない目をしてそう言われる。もうアメリ様と過ごされたのと同じ位の時間を一緒に過ごしてきたはずなのに。
このままでは信頼どころか信用される事もないだろう。どうせアネット様は私がランベルト様の手の者だとご存じだ。
『アメリ様はご信頼になっていたと言うのに、何故私は信頼していただけないのですか?』
『アメリさんはマリー様の忠臣ですから』
アメリさんはこの人の事をあれほど讃えていたのに、この人は何故そんな事を言うのだろう?
『アネット様は色々誤解されてると思います。アメリ様は決してアネット様をマリー様の代わりにしていたわけではないと思います』
『アメリさんの事をどうして知っているの?』
知ってるくせに。
『私を選んだのはアメリ様ですから』
自慢げに言う。
『どういう事でしょうか?』
『ランベルト様が挙げられた候補の中からアネット様のお世話をするのに一番ふさわしいとしてアメリ様が私を選ばれたのです』
そう、貴女以外の人からは私は信用されてます。
『何故アメリさんがランベルトに協力しているのです?そもそもあなたは私の監視をするためにランベルトが寄越したのではないのですか?』
毎日貴女の面倒を見てあげてるじゃないですか。
『そんな事はありません。アメリ様はアネット様が家事などが全くお出来にならないので、誰かがお世話をしなくてはいけないと言われて、それでランベルト様が小間使いをつけようと言われたのです。アネット様付きを希望した中からアメリ様が私を選ばれたのです』
『意味が分かりません』
貴女が自分の事が出来ないから、私が面倒を見てるんですよ。ランベルト様はご自分の事を出さずに貴女の面倒を私に見させてるんです。
『カール様がアネット様に説明差し上げたと言っておられましたが、全然信用されていなかったのですね。ランベルト様がお可哀そうです』
『アメリさんはどうなったの?無事?』
それでもアメリさんの事は大切にしてもらえる。
『アメリ様は帝国とアンジュ公爵家との和睦が決定した時、アンジュ公爵家にお帰りになりました』
『分かりました。これまでナタリーさんの事を誤解していた事は謝罪します。今後はアメリさんが選んだナタリーさんをアメリさんと同様に信頼しましょう。実はアウクスブルクから脱出した時、私は隊商の警護団に紛れていたのです。それ以来警護を仕事にしています。去年不在だったのは隊商の警護でニュルンベルクまで行ってきました』
なんですって?警護なんて男の仕事でしょう。
この人、男の人のように育てられたんだ。だから家事が出来ないし、食べ物の値段も知らないんだ。
高貴な生まれだからじゃないんだ。
『アンジュ公爵家のご令嬢で後継者のアネット様がそのような危険で下賎な仕事をされてはいけません。アネット様の財産と比べれば取るに足らないでしょうが、ここの家賃収入だけでも今の生活には十分すぎます』
『生活するのに十分な収入があるのははありがたい事ですが、人には生き甲斐という物が必要です。何もすることがないのは苦痛です。それにこれでも警護として人を救った事があるのですよ』
仕事が生き甲斐だなんて、ほんと男みたい。
『アネット様は随行員のお命をお救いになったではありませんか?』
『彼らの命を危うくしたのも私(わたくし)ですよ』
権力を使うより手足を使う方が自慢だなんて。
『帝国を謀ったのはアンジュ公爵です。アネット様がマリー様として結婚出来ないのは当然ではありませんか』
『兎に角警護の仕事を止める気はありません。ナタリーさんには、私が不在の間、この家だけでなく家主の代理としてこの15軒に関わる全てを差配して下さい。ところでヤンさんがあなたの叔父だと言うのは本当ですか』
『申し訳ありません。その事だけはアネット様を謀りました』
『では問題ありませんね。ヤンさんにもナタリーさんが家主代理である事を伝えておきます』
家主代理というより、ほんとこの家の主婦になったみたい。
これからこの家の中の事はビシバシ取り仕切っていきますからね。
外伝 間諜ナタリーさん 終了
『アネットは私の事を誤解してると思う。それを何とか解いてくれないか?』
『何を誤解しているのでしょう?』
『アネットが逃げ出した時の事だ』
ああ、アメリ様が言ってたあれか。
『アメリ様は、ランベルト様がアネット様自身のご身分をアネット様に知らせないようにされたので、ランベルト様の振舞は本心でなく、アネット様を利用しようとしてるとアネット様は思われたのではないかと言っておられました』
『それが誤解だと言っているのだ。ナタリーもアネットの正体を初めて聞かされた時驚かなかったか?』
『驚きました』
『わたしだってそうだ。替え玉だと思ってたのがいきなり本物だと言われても、直ぐにどうして良いか分からなかった。その場で暴露した時アネットがどうするか予想が付かなかった。だからどうするか考える時間が欲しかったのだ。アメリには知らせるなと言ったが、ずっと黙っていろと言う意味ではない』
『それをアネット様が誤解されたと?』
『単なる二人だけの問題ではないのだ。アンジュ公爵が帝国を謀ったわけではないと言う事を陛下にお知らせして善後策を考える必要もあったのだ』
『第一アメリ自身隠してきたではないか?何故私だけが責められる?』
ランベルト様がこんなに感情的になるなんて。
『アネット様にご説明される機会は無かったのですか?』
『私がアウクスブルクでお会いした時、ご説明申し上げたのですが』
『でもその後にアネット様は逃げられたのですよね』
ヤンセン様は嫌な顔をされた。ちょっと言いすぎたかも。
『分かりました。まず信頼を得て、それからランベルト様のお力になれるよう努力します』
『頼む』
会合はそれで終わりになった。あのランベルト様があんなに感情的になるなんて、ほんと、アネット様にぞっこんなんだ。
不遜だけど、ちょっと面白い気がした。
それにしても、アネット様の信頼を得るってどうしたら良いのだろう。アメリ様は心からアネット様の為を思って仕えれば認められるって言ってたけど。
アメリ様はアネット様にかなり影響力があったみたいだし、アメリ様の事はきっと信頼してたのでしょうね。私はアメリ様に後事を託されたけど、もう少し助言をしてくれたら良かったのに。
その日はその後特段何もなかったのだけど、翌々日からアネット様は奇妙な事をされた。どっかから持ってきた木の棒をナイフで削り始めたのだ。出来上がったそれは木剣だった。
アネット様の部屋に散らばった木くずを履き集めて外に捨てに行くと、アネット様が家の前で木剣を持って踊っていた。いえ、剣術の練習をしていた。
流れるような足さばきと次々繰り出される斬撃と刺突。特に心臓に相当する位置を狙ったそれは速かった。
この人はいざとなれば人を殺すことも躊躇しないのだろう。そう思うと寒気がした。
アメリ様から聞いたアネット様の決断力と行動力の源泉を見た気がする。
数日後、外出から帰って来たアネット様につげられた。
『明日から一月半留守にします。今、来月分を払っておきますね』
どう言う事?とにかく情報を。
『何処へ行かれるのですか?』
『あなたには関係ありません』
そう言われるアネット様の目は冷たかった。疑われないように情報を取らなきゃ。
『関係ない事はないですよ。一月半の間私はどうすれば良いのですか?』
『今渡したお金で普通にここで生活していて下さい』
見捨てられたわけではないのでしょうか?
『本当に一月半で戻って来られますか?』
『分かりません。道中何もなければ戻って来れるはずです』
『何かあったらどうなるのですか?』
『あなたが?それとも私が?』
随分親身になってお世話したつもりだったのにこの言い方。
『両方です』
『二カ月経ったらヤンさんが賃借人から来年分の家賃を徴収するはずですから、ヤンさんからあなたの分を貰って下さい』
『いつまでも戻ってこられない場合は?』
『ヤンさんに言って辞めるなり、そのままここで生活するなり、好きにして下さい。辞める時は鍵をヤンさんに渡してくださいね』
『危険な旅ですか』
『安全な旅なんかありませんよ』
とにかく放って置けない。ついて行って宿駅に泊まるように誘導しなければ。そうすればいざという時支援を受けられる。
『後生ですから、私をお連れ下さい』
『駄目です。待つのが嫌なら今直ぐに辞めても良いですよ』
何故そこまで言うの?
『そんな事は』
『じゃ、一月半お願いしますね』
信頼されようとこれまで努力してきたのに、自分が全く信用もされてない事が分かって愕然とした。
翌日、アネット様が早朝に何も荷物を持たずに出かけられると、直ぐクローネ亭へ向かう。泊まり客の朝食の準備をしていた要員に言って支部長と面会した。
『こんなに朝早くになんだ』
支部長は眠そうだった。
『アネット様が一月半留守にすると言われて先程出かけられたのです。警護を出して下さい』
『アネット様?ああ、お前はアネット・ロンの所で女中をしてるのだったな。で、アネット・ロンは何処に行こうとしてるんだ?』
『分かりません』
『ではアネット・ロンは何処にいるんだ?』
『先ほど家を出られました。その後私はこちらに来たので分かりません』
『後をつけなかったのか?』
『ランベルト様に疑われるような事は厳に慎むようにと指示されてます』
『何処にいるかも、何処に向かっているかも分からなければどうしようもないぞ』
『何とかして下さい』
『大体アンジュ公爵家と和解した以上アネット・ロンはそんなに重要じゃないだろう』
その和解の内容がアネット様に関する事なんですよ。アネット様の正体を明かせば分かってもらえると思うけど。
駄目だ。もしアネット様の情報が洩れたら取り返しがつかない。
『ランベルト様は支援を要請すれば組織を上げて支援すると言われました』
『ああ、確かにお前を支援するようにヤンセン様から言われてる。分かった。出来るだけの事をしよう。全ての門に人をやって探させる。それで見つからなければ隣接した宿駅に情報収集させよう。これで良いか?』
『ええ』
『まずアネット・ロンの似顔絵を描け。顔が分からなければ探しようがない』
私の様な情報収集要員にとって似顔絵描きは必要な技能だ。当然私も描ける。
『この人この前ここに来ましたよ』
打合せをしている私達の所に飲み物を持ってきた要員がアネット様の似顔絵を見て言った。
『いつだ』
『ランベルト様とヤンセン様が来られてた時です。そう言えばあなたも来てましたよね』
ランベルト様とお会いしてたのをアネット様に見られてた!
それじゃあ不信感を持たれても仕方がない。私は脱力した。
『それで逃亡したのか。これは失態だな。仮にアネット・ロンを見つけたとしても任務継続は無理じゃないのか?』
『でもアネット様は一月半後に帰えると言われました。少なくとも私から任務を離れる事は出来ません』
『一月半後に帰ると言ったのか?ではアネット・ロンの家に戻って待機しておけ。何か分かったら連絡する』
それから毎日アネット様のいない部屋でアネット様を待ちながら過ごした。冬の準備の費用は叔父さんと言う事になっている管理人のヤンさんから借りた。別に借りる必要は無かったけど、一月1グルデンで雇われた女中という建前を崩せない。
一月が過ぎたある日、床を掃いていると急に扉が開いた。
戻ってこられた。
『ただいま戻りました』
なんとも言えない安心感に思わず涙が出る。
『お帰りなさいませ、アネット様。御無事で』
鼻声になってしまった。
アネット様はきょとんと私を見ている。
鼻水をすすり上げると、今日の昼食は何が良いかと聞いた。
それから冬支度の話をして、費用を清算、その後一月余りの空白が無かったかのような日常が再開した。
冬の3カ月間はアネット様もあまり外出されず、一緒にいる事が多かった。
何とも言いようのない壁をどうする事も出来ないまま時間だけが過ぎていく。
『また明日から1週間留守にします。今回は直ぐ戻って来ますから』
春になり外出される事が多くなったある日、アネット様はそう言われた
『あの。去年の事といい、アネット様は何をしてるのですか?』
『あなたには関係ありません』
一冬一緒に過ごしたのに関係は全然改善していなかった。
『そんな。私の事をもっと信頼していただいても良いでは有りませんか?』
『信用して家を預けてますよ』
全然信用していない目をしてそう言われる。もうアメリ様と過ごされたのと同じ位の時間を一緒に過ごしてきたはずなのに。
このままでは信頼どころか信用される事もないだろう。どうせアネット様は私がランベルト様の手の者だとご存じだ。
『アメリ様はご信頼になっていたと言うのに、何故私は信頼していただけないのですか?』
『アメリさんはマリー様の忠臣ですから』
アメリさんはこの人の事をあれほど讃えていたのに、この人は何故そんな事を言うのだろう?
『アネット様は色々誤解されてると思います。アメリ様は決してアネット様をマリー様の代わりにしていたわけではないと思います』
『アメリさんの事をどうして知っているの?』
知ってるくせに。
『私を選んだのはアメリ様ですから』
自慢げに言う。
『どういう事でしょうか?』
『ランベルト様が挙げられた候補の中からアネット様のお世話をするのに一番ふさわしいとしてアメリ様が私を選ばれたのです』
そう、貴女以外の人からは私は信用されてます。
『何故アメリさんがランベルトに協力しているのです?そもそもあなたは私の監視をするためにランベルトが寄越したのではないのですか?』
毎日貴女の面倒を見てあげてるじゃないですか。
『そんな事はありません。アメリ様はアネット様が家事などが全くお出来にならないので、誰かがお世話をしなくてはいけないと言われて、それでランベルト様が小間使いをつけようと言われたのです。アネット様付きを希望した中からアメリ様が私を選ばれたのです』
『意味が分かりません』
貴女が自分の事が出来ないから、私が面倒を見てるんですよ。ランベルト様はご自分の事を出さずに貴女の面倒を私に見させてるんです。
『カール様がアネット様に説明差し上げたと言っておられましたが、全然信用されていなかったのですね。ランベルト様がお可哀そうです』
『アメリさんはどうなったの?無事?』
それでもアメリさんの事は大切にしてもらえる。
『アメリ様は帝国とアンジュ公爵家との和睦が決定した時、アンジュ公爵家にお帰りになりました』
『分かりました。これまでナタリーさんの事を誤解していた事は謝罪します。今後はアメリさんが選んだナタリーさんをアメリさんと同様に信頼しましょう。実はアウクスブルクから脱出した時、私は隊商の警護団に紛れていたのです。それ以来警護を仕事にしています。去年不在だったのは隊商の警護でニュルンベルクまで行ってきました』
なんですって?警護なんて男の仕事でしょう。
この人、男の人のように育てられたんだ。だから家事が出来ないし、食べ物の値段も知らないんだ。
高貴な生まれだからじゃないんだ。
『アンジュ公爵家のご令嬢で後継者のアネット様がそのような危険で下賎な仕事をされてはいけません。アネット様の財産と比べれば取るに足らないでしょうが、ここの家賃収入だけでも今の生活には十分すぎます』
『生活するのに十分な収入があるのははありがたい事ですが、人には生き甲斐という物が必要です。何もすることがないのは苦痛です。それにこれでも警護として人を救った事があるのですよ』
仕事が生き甲斐だなんて、ほんと男みたい。
『アネット様は随行員のお命をお救いになったではありませんか?』
『彼らの命を危うくしたのも私(わたくし)ですよ』
権力を使うより手足を使う方が自慢だなんて。
『帝国を謀ったのはアンジュ公爵です。アネット様がマリー様として結婚出来ないのは当然ではありませんか』
『兎に角警護の仕事を止める気はありません。ナタリーさんには、私が不在の間、この家だけでなく家主の代理としてこの15軒に関わる全てを差配して下さい。ところでヤンさんがあなたの叔父だと言うのは本当ですか』
『申し訳ありません。その事だけはアネット様を謀りました』
『では問題ありませんね。ヤンさんにもナタリーさんが家主代理である事を伝えておきます』
家主代理というより、ほんとこの家の主婦になったみたい。
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