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前篇:夢の通ひ路

第三十九話 其の一

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「――すまぬ」

 いつかと同じように赤い目をした姫宮がぽそりと呟いた。もらい泣きをしていた彼女の女房や小梅も、やはり同じような目の色をしている。姫宮の居室には、しんみりとした空気が流れていた。

「なぜ姫宮様がそのようにおっしゃるのでしょう。私こそ、お辛いことを思い出させてしまいました。申し訳ございません」

 肌を撫でる空気はいつの間にか冷たくなっており、女房達が、半分ほど開け放っていた格子を次々に下ろし、代わりに火を灯していく。
 姫宮はその様子を眺め、やがて視線を私に戻した。腫れぼったい瞼が気になるのか、何度か手の甲や指でこすったり触ったりしている。

「……母上のことを話したのは、そなたが初めてじゃ」
「さようでございましたか。ああ、姫宮様、目をこすってはいけませんわ。余計に腫れてしまいますから」
「うん…… 泣いたら、喉が渇いた」

 準備していたらしい女房がさっと白湯を差し出した。彼女はそれを受け取り、一口、二口と飲むと、それきり黙ってしまった。器の中で揺れる白湯をじっと見つめ、微動だにしない。母宮との思い出を、また思い出しているのだろうか。

 この部屋からは、格子や御簾を上げれば、五条院の立派で美しく整えられた庭を一望できる。彼女がすべて閉ざしているのは、母宮との思い出が詰まったその庭を見るのが辛いということも理由にあるのだろう。
 故人を偲べるほど、姫宮の心は穏やかではない。それは、先ほど姫宮が泣き出したことでよくわかっている。むしろ、傷はまだ新しく、少しもかさぶたになっていないような状態だ。

「姫宮様は、中宮様とのことを、院や宮様とはお話しにならないのでございますか?」
「父上や兄上達には、言えるはずもない。みなから母上を奪った我が、なぜ母上のことを話せるだろうか。我は憎まれておる」

 やはり、どこかで行き違いが生じている。上様をはじめ、院や宮は、姫宮を憎むどころか目の中に入れても痛くないというほど可愛いと思っているのに、本人にはまるで伝わっていない。

 中宮の死が、何らかの理由でそう思い込ませているのだろう。なぜか彼女は、自分のせいで母宮が死んだと信じ切っている。そこを探ればあるいは事態は好転するかもしれないが、さすがにここまで弱り切った姫宮の心に更に土足で踏み込むのは躊躇われた。どうにか、これ以上傷を広げずに彼女の誤解を解きたいが、私一人では無理だ。なぜなら私は当事者ではなく、あくまで部外者だから。
 やはり、家族間の問題は、上様や院、宮と解決するのが望ましい。間に私が入っては、正しく本意が伝わらない可能性がある。けれど、手助け程度ならできる。これは宮の頼みでもあるし、私自身も早く姫宮の心を軽くしてあげたかった。

「姫宮様は、上様や院、宮様のことをお嫌いなのでございますか?」
「無礼を申すな! そのようなことがあるわけなかろう!」

 キッと私を睨みつけて、全身で抗議の意を表した姫宮に頷く。こう返されると分かっていて聞いた。彼女は父や兄達のことを心から好きなのだ。宮を自慢に思っていることも、先の会話で分かっている。自分が好きな相手だからこそ、ここまで苦しみ、より頑なになってしまったのだろう。
 だって、拒絶は怖い。否定されたくなどない――私はそれをよく知っている。

「皆様方も同じお気持ちでいらっしゃいます。姫宮様を憎むなど、もっての外。元より、何故私が姫宮様にお仕えすることとなりましたかを、姫宮様はご存知でしょうか」
「父上に言われたからであろ。何をそのような分かり切ったことを」
「では、なぜ院はそのようなことをおっしゃったのか、お考えになられたことはございませんか」
「これまでもそうだったからだ。何人も何人も、どこぞの姫と申す者が現れた。帰れと言えばみな帰ったがの。……そなたを除いては」

 ……まあ、私は平安時代の姫ではないので例外です。そこらの姫より図太い神経ですから。
 といえるはずもなく、とりあえずにっこり笑っておいた。困ったときには笑って誤魔化すのが一番だ。こと姫宮に関しては、三の君の笑顔に弱いらしく、やはり今も「何なんじゃ、急に笑いおって」と照れている。……可愛い。
 ――ではなくて、慎重に言葉を選ばなければ。

「姫宮様は、回りくどいことはお嫌いであると伺っておりますので申し上げます。此度の私の訪問は、上様と院が、姫宮様のことをご心配になられてお決めになったのですわ。おそらく、これまでもそうだったのでしょう。病で伏せ、お辛い姫宮様にご友人のお一人でもいれば、というお心からであると私は伺っております」
「……嘘じゃ。我の元へ来たくなかったから、代わりの者を寄越しただけじゃ。院や兄上達は、我のもとへなど来ようともせぬ」

 ここまで見事にボタンを掛け違えているとは思わなかった。院や上様の厚意は、逆に彼女をより孤立させていたのか。

 ああ、そうか。姫宮は、ずっと淋しかった。同じ年頃の知らない姫よりも、他ならない、家族に傍にいてほしかったのだ。
 私は第三者の立場から見ているので分かるけれど、近すぎる彼等には、どこで糸が捻じれたのかさえも見えないのだろう。灯台下暗しというやつだ。
 姫宮の性格を考えれば、とても簡単なことなのに。

「ご無礼を承知の上で、畏れながら申し上げます。どうか最後までお聞き下さいますよう、お願い申し上げます。私が思いますに、皆様方は少しだけ行き違いがあるのですわ」
「行き違い、じゃと?」
「姫宮様は、これまで院や宮様とお会いになることを何度か拒んだことはございませんでしたか?」

 はっきりと否定できないのは、心当たりがあるからだろう。しばらく視線を彷徨わせ、諦めたように彼女は素直に頷いた。どこか後ろめたさがあるのか、答えた声は弱々しいものだった。

「それは……ある、けれど……」
「憎んでいる、とそう面と向かって言われるのではないかと、怖かったのでございますね?」
「……」
「院や宮様も同じなのです。姫宮様に拒絶されたことで、少なからず傷ついた部分はおありだったのでしょう。それが何度も続けば、足も遠のいてしまいます。院や宮様もまた、姫宮様がお嫌に思うことを無理にして、嫌われたくないと思っておいででしたから」
「そうなのか……? そんな、こと…… 我が、悪いのか?」
「いいえ」

 きっぱりと言って、私は首を振った。まさか、姫宮のせいなどあるはずがない。
 それだけは違う。絶対にそんなふうに思わせてはいけない。彼女は、ただ不器用なだけだ。彼女だけではない、きっと上様も院も、宮も、姫宮が大切で、大切すぎて、どうしていいか分からなかったのだろう。

「誰も悪くなどありません。互いが互いを大切に思うからこそ、少しだけ、行き違ってしまっただけですもの」
「しかし今更、我はどうしたらよいのじゃ。今更……」
「ええ、すぐにお心を整理することはできませんわね。けれど、次に院や宮様がお見えになった折には、少しだけで構いませんから、お話しになって下さい。どんなことでもよいのです。その日の天気のことでも、朝餉のことでも、何でも」
「……我は、嫌われて、ない?」
「ええ、もちろん。宮様は、つい先日も姫宮様のことを心より案じておられました。それに、姫宮様と『竹取物語』を通してお話しできたことを喜んでいらっしゃいました。憎み嫌っている相手にそのようなことはいたしませんわ。院も上様も、きっとそうでいらっしゃると私は思います。それに」
「それに……?」
「こんなに可愛らしい姫宮様をどうして嫌うことなどできるでしょうか」
「何じゃ、そなた……べ、別に我は嬉しくなどない!」

 あ、ツンがでた。これなら、いつもの姫宮だ。
 本当のことを言っただけだったのだけれど、姫宮は照れ隠しのせいか、ぷりぷりと怒っているかように見せていた。素直に喜ばれると、それはそれで私がどう反応していいか困るので、やっぱり姫宮はこうではなくては、と思う。
 つい少し前までは、随分と思い詰めたような顔で、触れると壊れてしまいそうなほど儚げだったけれど、これが出たならもう大丈夫だろう。

 安心したのも束の間、一瞬だけ、目の前が霞んだ。白いもやがかかったように姫宮の顔が滲む。
 気のせいじゃない――まずい、来る。確かに呼ばれている。こんなときに、だめだ、急いで退出しなくては。

「では姫宮様、名残惜しいのですが私はそろそろ退出いたします」
「もう、帰るのか……?」
「申し訳ありません、日も暮れてきたようですし、姫宮様はそろそろ夕餉のお時間でございましょう? どうか、私の申し上げたこと、お忘れにならないで下さいませ。姫宮様はみなに愛されていらっしゃいます。私も、その一人ですわ」
「何なのじゃ、さっきから! そなたといると、いつも調子が狂う……」
「失礼いたしました。……ただ、お伝えしたいと思うた時に、言葉にしたかったのです」

 宮だけではない、姫宮にだって、いつ会えなくなるか分からないから。もう、会えなくなるかもしれないから。あの時ああいえばよかったと、せめて一つでも後悔が減るようにしたくて。それは私の勝手だけれど……
 言葉にしなければ伝わらないことの方が多い。私は姫宮が好きだ、可愛いと妹のように思っている。それを、彼女に知っていて欲しかった。

「それ、では、姫宮様…… また、ご訪問いたします」

 猛烈な睡魔が足の先から指先、頭まで駆け巡っていく。姫宮の前で、五条院で倒れるのだけは嫌だ。
 特にこの子は私に心を開いていてくれているのに、目の前で卒倒することなどあってはならない。せっかくすべていい方向に向かっているのに、また中宮の死を思い起こさせてしまう。それだけは絶対にだめだ。

「三の君…… あ、ありがとう」

 もう会釈するのが精一杯だった。もっと心のこもった言葉をかけてあげてかったのだけど、姫宮の前で醜態をさらさぬように強く気を持つことに全神経を集中させている。抵抗することもできず、視界はどんどん霞んできている。
 それでもなんとか重い足を動かしてひさしを歩き、半ば倒れこむように牛車に乗り込んだところで、私の意識はぷつりと途絶えた。
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