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前篇:夢の通ひ路

第三十六話 其の二

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「宮様? それは、どういう……」

 首を傾げた私に、「先の問いへの答えとなりますが」と彼は続けた。
 真剣な目だった、思わず私もまっすぐに宮を見つめた。宮は、大切なことを話そうとしてくれている。

「上様や父院、私も、姫宮が何故あのような暗い場所へこもるのか、その理由は分かりません。ただ、母上が身罷みまかられた日から、あの子は変わってしまいました」
「え……?」
「六年ほど前のことです。あの子はまだ七つだった。幼い身には随分と辛いことだったでしょう。同じ邸に住む院や私とも言葉を交わせぬほど塞ぎ込み、やがて心を閉ざすように、部屋のすべての格子や御簾を下げるようになりました。以来、私達親兄弟にもよそよそしく、どこか距離を置くようになってしまったのです」

 すぐには言葉が出なかった。
 姫宮に過去に何かあったのだろうとは思っていた。でもそれが、こんなことだったなんて。
 姫宮は母を失い、その上さらに父や兄君達とも疎遠になったというの? しかし、院や宮は彼女のことを気にかけているし、彼らから姫宮を遠ざけることは間違ってもないことだろう。では、姫宮自ら遠ざけた? なぜ? 長兄の帝が内裏にいることを考えても、彼女が頼れる一番近しい相手など、この二人のほかにいるはずもないのに。

 そこまで考えて、はっとした。
 姫宮の母ということは、宮の母でもある。今目の前にいるこの人も、身内を亡くした辛さを背負っているのだ。

「宮様……」
「大丈夫、私ならば己の中でとうに整理はできています。しかし、姫宮はそうではなかった。深く傷を負ったのでしょうね。側付の女房によると、未だに母上の夢を見て泣き叫ぶこともあるのだと」
「そんな……」
「院や私とも、この数年はあまり話したがりませんでした。それが突然、『物語を貸して欲しい』とあの子が伝えてきたのです。驚きましたよ、これまで何を言っても頑なだったあの子が、私にそんな頼みごとをしてくれるだなんて。聞けば、姫の名前が出てくるでしょう。貴女は、どうやってあの子の心に触れたのですか?」
「私は何も……ただ、双六をしただけですわ。姫宮様と、楽しく遊ばせていただいただけ」
「……これまでも、上様や院はあの子の傍に何度も人を仕えさせようとしました。年の近い姫君であれば友人となり、あるいは姫宮にも以前のような明るさが戻るのではないかと。しかし、誰一人として、あの子の姿さえ見ることはできなかった。姫宮の拒絶に泣き出した姫は少なくなかったと思います」

 確かに、私も最初は「帰れ!」と思い切り言われた。しかも、退室間際の捨て台詞は「二度と来るな!」だった。
 あれを、お邸の中で蝶よ華よと大切に育てられた平安時代の姫君たちが食らうと、なかなか再起不能になるかもしれない。お言葉通り、二度と五条院へは通いたくないと泣き伏す気持ちも分かる。
 たとえ上様や院であっても、彼女たちに無理に姫宮への出仕を強いることははばかられたのだろう。私も、翌日院に呼び出されて、そんなようなフォローをされた。

 まあ、私は……子猫の威嚇程度にしか思わなかったので、さほど気にも留めていなかったのだけれど、姫宮にとってはいつもと勝手が違ったのだろう。追い払った相手が、二度も三度ものうのうとやってくる。しかも、院の許しをここぞとばかりに掲げては好き放題、しまいには勝手に部屋で双六を広げて遊び始めたのだ。「なんじゃお前は」と言われたが、彼女の立場から考えればそれも当然だ。
 さぞかし他の姫君達とは様子が違っただろうなと思う……もう、苦笑いを浮かべるしかなかった。天岩戸を開くためとはいえ、今思えば、なかなかに大変なことをやってのけているのだから。

「姫宮は、貴女にも辛く当たったことと思います。それでも、貴女は姫宮の傍にいてくれた。上様や院に代わり、私からもお礼を言わせてください」
「宮様、私は院から、姫宮様の心身がお健やかになられるよう努めよと仰せつかっております。まだお役目途中ですのに、お礼などと…… それに、姫宮様の元へは私も望んで通っておりますの。勿論、初めは義務からでしたけれど、今は違いますわ」

 宮から話を聞いた今はその生い立ちのせい故かと納得もできるが、姫宮は、人の心の動きにとても敏感だ。彼女自身がそうだから。もしも私が、姫宮を嫌悪するような気持ちを少しでも持っていたり、そのようなそぶりを無意識にでも見せてしまったりすれば、彼女へのお目通りは二度と叶わなくなる。
 私が姫宮を好いていることを彼女を本心では感じているから、今でも私が通うことを許し、待っていてくれるのだろう。


 私には、姫宮の気持ちが少しだけ分かる。
 自分に自信がない、そんな自分が嫌い。だから他人になど好いてもらえるはずなどない。
 そう諦めながらも、一方で、ありのままの自分を受け止めてくれる人がいるのではないかと淡い期待を抱く。けれど自分からその人を探し出すことはとても怖い。傷つきたくもないから、相手が近付いてきても拒絶して相手の反応を見て試してしまう。
 私がそうだった。恋愛に疎いだとか、周りとは話が合わないだとか、そんな言い訳を自分にしてきたけれど、誰かと真剣に向き合うのが怖かった。こんな自分を好きでいてくれる人なんていないと決めつけて、でもそんな人に出会いたいと願うばかりで、行動には起こせない。そういう生き方をしてきた。
 そんな私の臆病な心は、姫宮ときっと少しだけ似てる。

 姫宮と私が違うのは、私には古典という素晴らしい世界があったということだ。
 もちろん、古典オタクだとからかわれたり、それを否定されたりしたときに、なぜ周りと自分は違うのだろうと悩まなかった時期が私にもなかったわけではない。誰の言葉も気にせず、好きなことを好きなのだと堂々と胸を張っていえるようになるまで、自分と向き合う時間は必要だった。
 けれど、その先には、同じように古典を愛する人たちがいて、私をよく理解してくれて、新しい世界へと道を繋いでくれた。私が古典を好きでいることを誰も否定しなかったし、私の考えを聞いて肯定までしてくれた。初めて、自分に自信をもっていいのだと思えたような気がした。私を変えてくれたのは、大好きな古典だった。

 姫宮にも、そういう依り代となるような存在があれば、今とは違っていたのかもしれない。
 宮の言う通り、姫宮の母である中宮の死が、何らかの影を姫宮の心に作ったのは確かだろう。それがなぜあの暗い部屋に繋がったのはまだ分からないし、宮も知らないと言う。
 それでも随分と前進したような気がしている。やはり、宮に相談して正解だった。彼が私を信用して話してくれたことも分かるから、それに応えたいとも思う。

 上様と院の命により、姫宮が健やかになるように、と私は彼女の元へ通い始めたが、それは私の想像以上に重い役目だったのだ。
 病に弱りがちな姫宮の身体を丈夫にすることだけではない。願わくば、彼女の心も健やかに――宮も、そう思っている。私にそれができるかは分からないし、正直なところ、全く自信もないのだけれど、私自信も姫宮には心から笑顔を見せてほしい。

 私にとっても、あの子は特別な存在なのだ。妹によく似ていることも理由の一つだけれど、それだけではない。
 あの子は宮と同じように、この世界で、三の君ではない「私」を必要としてくれた人だったから。

「姫宮はあの通り、随分と食が細く痩せていますが、貴女の勧めで食事も摂るようになったのだと聞きました。これまで、誰の忠言も受けようとはしなかったあの子が…… ですから、私たちは期待してしまうのです。姫ならばこの状況を変えてくれるのではないか、と」
「はい、私にできることならば。宮様、姫宮様のこと、私にお話し下さいまして、ありがとうございました。また姫宮様の元へ参る折に、今一度お心の内を伺ってみます」
「姫。どうか一つだけ忘れないでほしいのですが、上様も院も、もちろん私も、姫に全てを押し付けようなどとは思ってはいません。今は貴女に頼るほかないことが、心苦しくはありますが……」
「分かっておりますわ。私も姫宮様のお幸せを願う一人です。先ほども申し上げましたが、義務ばかりで姫宮様の元へ通っているわけではございません。私が、姫宮様に笑っていてほしいのです」

 言い終わると同時に、宮は私を引き寄せていた。耳元で彼が囁く。

「貴女でよかった。本当に」

 こんなに妹のことを心配している宮が、彼女を嫌っているはずはやはりなかった。それを疑っていたわけではないけれど、彼の口からそれを確かめられただけで十分だ。
 姫宮の前で、中宮の死に触れるのはおそらくまだ早い。まずは、どうして彼女自身が親兄弟に嫌悪されていると思い込んでいるのか、そしてそれは違うのだと伝えることから始めよう。

「さて、姫」

 ぱっと身体を話した宮が、私の顔を覗き込んでくる。宮の目には、私が「?」という顔をして映っていた。

「新婚三日目ですから、もう少しそれらしいことをしませんか」
「えっと……それらしいこと、でございますか?」
「はい、それらしいことです。姫は未だに他人行儀なところも残っていますし、私達の距離を縮めましょう」

 あ。しまった……
 うっかり口調のことを忘れていた…… しかも、さきほど言われたばかりだと言うのに。

 そう思ったことが思い切り顔に出ていたのだろう、「やはり忘れていましたね?」と宮が微笑む。だけど、私にも言い分はある。姫宮のことを話すときは敬語で、宮相手には丁寧語でって、そんな使い分けなんてできるほど器用ではない。

 しかし、それらしいことって、なんだ?
 褥は共にしないとはっきり言われているし…… まさか、さっきの、また!?

「そのまさかです」

 声に出ていたらしい、すこぶる嬉しそうな宮が私に口づけた。両手で頬を固定されているので、逃げることもできない。

「何度こうすれば、姫は私を夫なのだと分かってくれるのでしょうか」
「わ、分かっており、あの、いますけれど……」
「褥を共にせぬなど、言わなければよかった。撤回してもいいでしょうか」
「え」
「冗談ですよ。……半分は」

 では、もう半分は?
 聞く前に、瞼に、頬に降りてきた唇が私のものを塞いで言葉にならなかった。確かに、こんな甘い時間は新婚らしいと思う。でも――でも、またを繰り返すなんて、私の胸が耐えられるかどうか。だって刺激が強すぎる。
 一方的なキスだったはずなのに、いつの間にか私も応えていたのは宮が適度に煽ってくるから。
 ……そう、全部、宮のせい。もうそういうことにしてしまおう。どうなってもいいだなんて思ってしまうのも、この人のせい。
 私が、この人を大好きなせい。

「宮様」

 もっと。

 強請ねだるようにその名を呼ぶと、宮は満足げに微笑んだ。私はゆっくりと目を閉じた。
 夜は、まだはじまったばかりだ。
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