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前篇:夢の通ひ路
第六話 其の四
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問いかけられて、返事をするか迷った。
一刻も早くこの危険な男を追い出すべきなのだと頭では分かっている。分かっているのだが、どうしてか、彼の話の続きが気になるのだ。気になって気になって、「出ていけ」の一言が言えない。
ああ、そうだ。だって、もしかしたら。
私が元の世界へ帰る方法に、何か繋がっているかもしれないから。
そんな希望を持てたことなど、これまで一度もなかった。欠片ですら見つからなかった。この世界に順応することに必死で、情報収集までは手が回っていないのが実情だった。
その状態の私の元へ、うっすらと光が差してきたのである。その光の出所がどこか確かめたくなるのは当然だ。だって私は、現代へ帰りたいのだ。
たとえ光ではなかったのだとしても、そうだと確かめるまでは頭の片隅に残り続ける。つまり、私の選択肢などはじめからないに等しい。
相手が宰相中将でなければどれほど良かったか。でも背に腹は代えられない。
「天狗」だなんてきな臭いにも程がある。馬鹿馬鹿しいとも思う。でも……もう少しだけ。そう、あと少しだけ、彼の話を聞いてから判断してもいいのではないか。罠だったとしても、それならその時だ。
「……天狗など、物語の中でしか存じ上げませんわ」
「失礼、言葉足らずでした。物の怪の類ではございませんよ。そう呼ばれている男のことなのです。何でも、人に非ざる不思議な力を持つのだそうです」
「人に非ざる力?」
「これは私もさるお方からお聞きしたのですが、都よりずっと北の、山の麓に彼は住んでいるのだと。その男が触れれば、その身にかかったどのような呪いも、取り憑いた物の怪も、たちまちに消えるそうなのです」
「そのようなお力のあるお方ならば、帝へお仕えしているのではございませんか」
「男は人嫌いなのです。自分が気に入った者の前にしか姿を現さぬのだと。所以天狗と呼ばれてもいるのでしょう」
「にわかには信じがたいお話でございますわ」
「ええ。ですが、真であれば? 姫に取り憑いた物の怪を彼が退治できれば、記憶が戻るとは思いませぬか」
確かに――仮にその話が本当なら、私が元の世界へ戻る手掛かりになる可能性はある。
妖しさ百%で信じるにはあまりにも危険とも思うが、宰相中将の話がすべて嘘だと言える自信もない。実際に今、何百年という時を超えて私は左大臣家の三の君として生きているのだから。それ自体があり得ないことなので、もうどうなことでも否定できない部分もある。それは、私が私のことを否定するのと同じ意味になるから。
「姫はご興味がおありのようですね。この続きは、ぜひ私たちの距離を縮めてからいたしましょう。そちらへ入ってもよろしいでしょうか」
そうきたか。
もっと詳しく教えてやるから、身体を差し出せってこと。この男……本当に最悪だ。人の弱みに付け込むだなんて。
この身体は三の君のもの。くれてやるものなど、髪の毛一本たりともない。
「とても興味深いお話でございました。しかしこれ以上は結構ですわ。近づくことはなりません」
「え?」
「教えていただかずとも、嘘か真か、こちらで調べます」
「そのような時間をかけずとも、私に聞けばよろしいではございませんか。記憶を、一刻も早く戻したくはないのですか」
「まずは真偽を確かめてからでしょう。それに私は何度も申し上げたはず。好いてもおらぬお方にこの身を任せるなどあり得ぬ話」
「私をよくお知りになっていただければ、そのお気持ちは変わるはずです」
あーもー……
しつこい!
プツン、と何かが切れた。
「では、私のことも知っていただかなくてはいけませんわね。おっしゃる通り、お互いのことは何も知りませんもの」
「ええ、姫! もちろんですとも! それでは早速そちらへ――」
「お待ちになって。その前に、お聞きしたいのです」
三の君、ごめん。もう我慢の限界、無理。
もしこれ以上変な噂が立ったら、全力で消えるように頑張る。他のことでなんとかフォローする。だから怒らないで。
「宰相中将様は、あまおうをご存じでいらっしゃいますか?」
「あま、尼王??」
すっとんきょうな声というのか。
それまでは自分のペースだと思い込んでひょうひょうとしていた宰相中将の声音がガラリと変わった。
知ったことか、私は気にせず続ける。なんで突然あまおうを口走ったのか、自分でもよくわからない。もういい、どうとでもなれ。この状況を打破できるならなんでもいい。
「ええ、私はあまおうがとても好きですの」
「な、姫は女性がお好きなのでございますか!? まさか!!」
「あまおうは、その特徴の頭文字をとって名付けられているのですわ。甘くて、丸くて、大きくて」
「姫に甘く、丸々と太った……あ、尼の、王……?」
「ああ、とちおとめも大好きですわよ」
「土地の乙女? な、なんでしょうかそれは。鄙つ女でございますか?」
「とてもしっかりしていて、そのお姿は艶々としておりますの。思わずうっとりしてしまいますのよ」
「うっとりするほど髪のつやつやとした乙女……?」
「ですが、紅ほっぺも甲乙つけ難いのです。あれは少し硬い部分はありますけれど、香りがとても豊かですの」
「香をたきしめた……頬の、赤い女子……」
何一つ嘘はついていない。
令和に生きる人間なら、一度は聞いたことのある苺の品種。苺は私の好物なのだ。そこら辺の人よりは詳しいと自負している。ああ、食べたいな。現代へ戻ったらまずお腹いっぱい苺を食べよう……じゃなかった、今はこの場を切り抜けなければ。
あまおうに宰相中将が挙動不審になったので、ただ苺の名前をつらつらとあげただけなのだが、追い風が吹いている。それも強力な風速の。
私はこれらが人の名前だなんて一度も口にしていない。勝手に勘違いをしているのは宰相中将である。よって私に罪はない。三の君に少し後ろめたい気もするが、乙女を守るためなのだ。許してほしい。
宰相中将は確実に混乱している。押し切るなら、今がチャンスだ。
トドメだ。
「宰相中将様は、あまおうにもとちおとめにも、紅ほっぺにさえ、遠く及びませんわね」
「姫は……私より女がいい? それも一人二人ではなく、三人…… まさか、そんな……」
そんな訳あるか、と言いたいが、ぐっとこらえる。私は正真正銘のノーマル専門だ! 恋愛対象者は男だ!
宰相中将はというと、「……であるなら、私になびかぬのも納得がいく。が、しかし……」等と自分に都合のよい解釈をしつつも、ぶつぶつと言っている。
その隙に、雛菊に振り向いてコクリと頷いた。雛菊もはっとしたように目を瞬かせる。
「まあ大変! 宰相中将様は、ご気分が優れぬようです。今すぐお邸へ戻り、お休みにならなければなりませんわ! 雛菊、客人がお帰りになります。お見送りして差し上げなさい」
「姫!? いいえ、わ、私は」
「かしこまりました、姫様。すぐにご準備をいたします」
「ええ、お願いね、雛菊」
「姫、お待ちください!」
「宰相中将様、もう一度、申し上げますわね? お帰り下さいませ。もう二度と、お会いすることもございません。」
これ以上は見苦しいぞ、と思い切りトゲトゲとした口調で言ってやった。
「どうしてもとおっしゃるのなら、せめて紅ほっぺを超えてからいらしてください」
「そ、そんな……」
最後は、あっけないものだった。意気消沈した宰相中将は、雛菊が呼んできた従者にずるずると引きずられる様に出て行った。ふん、お前なんか紅ほっぺの足元にも遠く及ばないわ。
勝った。
先ほどとは違い、あるべき静寂が戻った部屋の中で一人、ふふふん、と笑みを浮かべた。もちろん、勝者のそれである。
小梅、やったわよ。私は勝ったわ!
勝ち方は……まぁ、あまり理想的なものではないけれど。でもいいでしょう、三の君の身体を守ることが目的で、それは遂げたのだから。
小走り気味にパタパタと戻ってきた雛菊が、目を輝かせて私を見つめた。
「すごいですわ、姫様!! あの色好みと名高い宰相中将様をやり込めてお帰しになるだなんて!! あのお方がこのような時間にお帰りになっただなど、わたくし、聞いたことがございませんわ!」
「運がよかっただけよ。ちょうど、昨夜夢を見たものだからそのお話をしただけなの」
「夢、でございますか?」
おそらく雛菊も、私を女人好きかなんかと勘違いしているんだろう……まあ、それも仕方ないか。宰相中将から身を守るためとはいえ、そうなるように仕向けたのだから。
しかし、あらぬ誤解は三の君の立場を今以上に悪くする。ここはしっかり、きっちりと訂正をしておかなくては。すべて夢の話にしてしまえばいいのだ。我ながら今日は機転が効いている。
純粋な雛菊は何も疑わないだろうし、宰相中将との神経のすり減るやり取りに比べれば随分と楽なことだった。
「苺に名前がついていたの。あまおうと、とちおとめと、紅ほっぺ。可愛らしい名前でしょう」
「なんと!! あれは夢のお話でございましたの?」
「ええ。中将様は何か誤解されていたようだけれどね」
「わ、わたくしも実は……」と小さな本音が聞こえたが、それは聞こえないふりをしておいた。代わりに、「わたしが恋をするとしたら、それはもちろん殿方よ」と微笑んで。雛菊があからさまに安心している。まさか私に狙われるとでも思ったのか…… 素直すぎるのもどうかと思うが、誤解は解けたようならいい。
「それにしても、ああ、疲れたわね……」
「すぐに白湯をお持ちいたしますね」
「ええ、ありがとう。貴女も疲れたでしょう。今日はもう、二人で白湯を飲んだら休みましょう」
長い夜だった……本当に。
これでしばらくは宰相中将も三の君に近づいては来ないだろう。それがいつまでもつかは分からないが、とにかく今夜を乗り切れただけでも上出来だ。そのあとのことは、またその時に考えよう。
今はもう、白湯を飲んで、さっさと寝てしまいたい。
宰相中将のことも「天狗」の話も気になることはあるけれど、頭が全然働かないのだ。もうこの件は明日でいい。
そう、小梅に相談してみよう。一人で考えるよりも、二人で考えた方が効率もいいだろうし。
自分で思うよりもずっと、私は気が張っていたのだろう。
目を閉じると、うつらうつらと舟をこいでしまいそうになる。遠くから、雛菊の「姫様」と呼ぶ声がした。
だが、瞬く間に夢の世界へと誘われて、それに応えることはできなかった。
一刻も早くこの危険な男を追い出すべきなのだと頭では分かっている。分かっているのだが、どうしてか、彼の話の続きが気になるのだ。気になって気になって、「出ていけ」の一言が言えない。
ああ、そうだ。だって、もしかしたら。
私が元の世界へ帰る方法に、何か繋がっているかもしれないから。
そんな希望を持てたことなど、これまで一度もなかった。欠片ですら見つからなかった。この世界に順応することに必死で、情報収集までは手が回っていないのが実情だった。
その状態の私の元へ、うっすらと光が差してきたのである。その光の出所がどこか確かめたくなるのは当然だ。だって私は、現代へ帰りたいのだ。
たとえ光ではなかったのだとしても、そうだと確かめるまでは頭の片隅に残り続ける。つまり、私の選択肢などはじめからないに等しい。
相手が宰相中将でなければどれほど良かったか。でも背に腹は代えられない。
「天狗」だなんてきな臭いにも程がある。馬鹿馬鹿しいとも思う。でも……もう少しだけ。そう、あと少しだけ、彼の話を聞いてから判断してもいいのではないか。罠だったとしても、それならその時だ。
「……天狗など、物語の中でしか存じ上げませんわ」
「失礼、言葉足らずでした。物の怪の類ではございませんよ。そう呼ばれている男のことなのです。何でも、人に非ざる不思議な力を持つのだそうです」
「人に非ざる力?」
「これは私もさるお方からお聞きしたのですが、都よりずっと北の、山の麓に彼は住んでいるのだと。その男が触れれば、その身にかかったどのような呪いも、取り憑いた物の怪も、たちまちに消えるそうなのです」
「そのようなお力のあるお方ならば、帝へお仕えしているのではございませんか」
「男は人嫌いなのです。自分が気に入った者の前にしか姿を現さぬのだと。所以天狗と呼ばれてもいるのでしょう」
「にわかには信じがたいお話でございますわ」
「ええ。ですが、真であれば? 姫に取り憑いた物の怪を彼が退治できれば、記憶が戻るとは思いませぬか」
確かに――仮にその話が本当なら、私が元の世界へ戻る手掛かりになる可能性はある。
妖しさ百%で信じるにはあまりにも危険とも思うが、宰相中将の話がすべて嘘だと言える自信もない。実際に今、何百年という時を超えて私は左大臣家の三の君として生きているのだから。それ自体があり得ないことなので、もうどうなことでも否定できない部分もある。それは、私が私のことを否定するのと同じ意味になるから。
「姫はご興味がおありのようですね。この続きは、ぜひ私たちの距離を縮めてからいたしましょう。そちらへ入ってもよろしいでしょうか」
そうきたか。
もっと詳しく教えてやるから、身体を差し出せってこと。この男……本当に最悪だ。人の弱みに付け込むだなんて。
この身体は三の君のもの。くれてやるものなど、髪の毛一本たりともない。
「とても興味深いお話でございました。しかしこれ以上は結構ですわ。近づくことはなりません」
「え?」
「教えていただかずとも、嘘か真か、こちらで調べます」
「そのような時間をかけずとも、私に聞けばよろしいではございませんか。記憶を、一刻も早く戻したくはないのですか」
「まずは真偽を確かめてからでしょう。それに私は何度も申し上げたはず。好いてもおらぬお方にこの身を任せるなどあり得ぬ話」
「私をよくお知りになっていただければ、そのお気持ちは変わるはずです」
あーもー……
しつこい!
プツン、と何かが切れた。
「では、私のことも知っていただかなくてはいけませんわね。おっしゃる通り、お互いのことは何も知りませんもの」
「ええ、姫! もちろんですとも! それでは早速そちらへ――」
「お待ちになって。その前に、お聞きしたいのです」
三の君、ごめん。もう我慢の限界、無理。
もしこれ以上変な噂が立ったら、全力で消えるように頑張る。他のことでなんとかフォローする。だから怒らないで。
「宰相中将様は、あまおうをご存じでいらっしゃいますか?」
「あま、尼王??」
すっとんきょうな声というのか。
それまでは自分のペースだと思い込んでひょうひょうとしていた宰相中将の声音がガラリと変わった。
知ったことか、私は気にせず続ける。なんで突然あまおうを口走ったのか、自分でもよくわからない。もういい、どうとでもなれ。この状況を打破できるならなんでもいい。
「ええ、私はあまおうがとても好きですの」
「な、姫は女性がお好きなのでございますか!? まさか!!」
「あまおうは、その特徴の頭文字をとって名付けられているのですわ。甘くて、丸くて、大きくて」
「姫に甘く、丸々と太った……あ、尼の、王……?」
「ああ、とちおとめも大好きですわよ」
「土地の乙女? な、なんでしょうかそれは。鄙つ女でございますか?」
「とてもしっかりしていて、そのお姿は艶々としておりますの。思わずうっとりしてしまいますのよ」
「うっとりするほど髪のつやつやとした乙女……?」
「ですが、紅ほっぺも甲乙つけ難いのです。あれは少し硬い部分はありますけれど、香りがとても豊かですの」
「香をたきしめた……頬の、赤い女子……」
何一つ嘘はついていない。
令和に生きる人間なら、一度は聞いたことのある苺の品種。苺は私の好物なのだ。そこら辺の人よりは詳しいと自負している。ああ、食べたいな。現代へ戻ったらまずお腹いっぱい苺を食べよう……じゃなかった、今はこの場を切り抜けなければ。
あまおうに宰相中将が挙動不審になったので、ただ苺の名前をつらつらとあげただけなのだが、追い風が吹いている。それも強力な風速の。
私はこれらが人の名前だなんて一度も口にしていない。勝手に勘違いをしているのは宰相中将である。よって私に罪はない。三の君に少し後ろめたい気もするが、乙女を守るためなのだ。許してほしい。
宰相中将は確実に混乱している。押し切るなら、今がチャンスだ。
トドメだ。
「宰相中将様は、あまおうにもとちおとめにも、紅ほっぺにさえ、遠く及びませんわね」
「姫は……私より女がいい? それも一人二人ではなく、三人…… まさか、そんな……」
そんな訳あるか、と言いたいが、ぐっとこらえる。私は正真正銘のノーマル専門だ! 恋愛対象者は男だ!
宰相中将はというと、「……であるなら、私になびかぬのも納得がいく。が、しかし……」等と自分に都合のよい解釈をしつつも、ぶつぶつと言っている。
その隙に、雛菊に振り向いてコクリと頷いた。雛菊もはっとしたように目を瞬かせる。
「まあ大変! 宰相中将様は、ご気分が優れぬようです。今すぐお邸へ戻り、お休みにならなければなりませんわ! 雛菊、客人がお帰りになります。お見送りして差し上げなさい」
「姫!? いいえ、わ、私は」
「かしこまりました、姫様。すぐにご準備をいたします」
「ええ、お願いね、雛菊」
「姫、お待ちください!」
「宰相中将様、もう一度、申し上げますわね? お帰り下さいませ。もう二度と、お会いすることもございません。」
これ以上は見苦しいぞ、と思い切りトゲトゲとした口調で言ってやった。
「どうしてもとおっしゃるのなら、せめて紅ほっぺを超えてからいらしてください」
「そ、そんな……」
最後は、あっけないものだった。意気消沈した宰相中将は、雛菊が呼んできた従者にずるずると引きずられる様に出て行った。ふん、お前なんか紅ほっぺの足元にも遠く及ばないわ。
勝った。
先ほどとは違い、あるべき静寂が戻った部屋の中で一人、ふふふん、と笑みを浮かべた。もちろん、勝者のそれである。
小梅、やったわよ。私は勝ったわ!
勝ち方は……まぁ、あまり理想的なものではないけれど。でもいいでしょう、三の君の身体を守ることが目的で、それは遂げたのだから。
小走り気味にパタパタと戻ってきた雛菊が、目を輝かせて私を見つめた。
「すごいですわ、姫様!! あの色好みと名高い宰相中将様をやり込めてお帰しになるだなんて!! あのお方がこのような時間にお帰りになっただなど、わたくし、聞いたことがございませんわ!」
「運がよかっただけよ。ちょうど、昨夜夢を見たものだからそのお話をしただけなの」
「夢、でございますか?」
おそらく雛菊も、私を女人好きかなんかと勘違いしているんだろう……まあ、それも仕方ないか。宰相中将から身を守るためとはいえ、そうなるように仕向けたのだから。
しかし、あらぬ誤解は三の君の立場を今以上に悪くする。ここはしっかり、きっちりと訂正をしておかなくては。すべて夢の話にしてしまえばいいのだ。我ながら今日は機転が効いている。
純粋な雛菊は何も疑わないだろうし、宰相中将との神経のすり減るやり取りに比べれば随分と楽なことだった。
「苺に名前がついていたの。あまおうと、とちおとめと、紅ほっぺ。可愛らしい名前でしょう」
「なんと!! あれは夢のお話でございましたの?」
「ええ。中将様は何か誤解されていたようだけれどね」
「わ、わたくしも実は……」と小さな本音が聞こえたが、それは聞こえないふりをしておいた。代わりに、「わたしが恋をするとしたら、それはもちろん殿方よ」と微笑んで。雛菊があからさまに安心している。まさか私に狙われるとでも思ったのか…… 素直すぎるのもどうかと思うが、誤解は解けたようならいい。
「それにしても、ああ、疲れたわね……」
「すぐに白湯をお持ちいたしますね」
「ええ、ありがとう。貴女も疲れたでしょう。今日はもう、二人で白湯を飲んだら休みましょう」
長い夜だった……本当に。
これでしばらくは宰相中将も三の君に近づいては来ないだろう。それがいつまでもつかは分からないが、とにかく今夜を乗り切れただけでも上出来だ。そのあとのことは、またその時に考えよう。
今はもう、白湯を飲んで、さっさと寝てしまいたい。
宰相中将のことも「天狗」の話も気になることはあるけれど、頭が全然働かないのだ。もうこの件は明日でいい。
そう、小梅に相談してみよう。一人で考えるよりも、二人で考えた方が効率もいいだろうし。
自分で思うよりもずっと、私は気が張っていたのだろう。
目を閉じると、うつらうつらと舟をこいでしまいそうになる。遠くから、雛菊の「姫様」と呼ぶ声がした。
だが、瞬く間に夢の世界へと誘われて、それに応えることはできなかった。
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