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前篇:夢の通ひ路

第六話 其の一

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 少しだけ欠けた月に、半分ほど雲がかかっていた。
 昼間の兄との会話を思い出していると、およそ静寂な夜に似つかわしくない騒音が響いた。

 どざざざざざ。
 着物を引きずって急ぐとこういう音がするのか、などと暢気に思う。昔から私の擬音はおかしいと周囲によく言われるが、本当にそう聞こえるので仕方がない。とにかく文字にすると、どざざざざざ、と音がしたのだ。

 おそらくは小梅が急いできたのだろうが、何事だろうか。「左大臣家の三の君らしく、優雅に振る舞いましょう」が口癖の彼女が、音を立ててやってくるなど初めてのことだ。
 勢いよく部屋に飛び込んできた小梅の顔はやはり真っ青だったので、さすがの私も不安になる。

「どうしたの、小梅?」
「ああ姫様、大変、大変です、姫様!!」
「落ち着きなさい、どうしたの? ほら、息を吸って、はいて」
「すぅぅ……はぁぁ…… は! そんなことをしている場合ではありませんわ! わ、わたくしの知人が耳にした話なのですが、さ、さ」
「笹? 庭に生えているわよ」
「違います! 宰相中将様が、今夜こちらお見えになる予定だと!!」

 思わず檜扇を落としてしまった。

「なんですって? どういうこと?」

 宰相中将が!?

 まさに先ほど、要注意人物と兄に言われたばかりではないか。
 小梅は青い顔のまま早口に続けた。

「女房仲間から聞いたのです。彼女の恋人は宰相中将様の舎人とねり(※従者)なのですが、その舎人の話によれば、中将様が姫様に会うには強行突破をするしかないとおっしゃっていたのだと。し、しし、しかも、その計画の日が今夜なのだと」
「強行突破!? 力づくで来ようっていうの!?」
「彼女は大変なことになるかもしれないと急ぎ私に文をくれたのです。本当に今夜お見えになるかは分かりませんが、わたくしはどうしても冗談には思えないのです、ああ、姫様」

 確かに……兄がわざわざやってきて「気をつけろ」と忠告するくらいの男なのだ。
 宰相中将には、恐ろしいほどに行動力抜群な一面もあるのだろう。全くもって迷惑な行動力だ。そのエネルギーを仕事や他の女性に回せないのか。
 いや、回せないからここへ来るのだ。
 私も混乱している、自分に突っ込んでいる場合ではない……

「姫様、姫様、どうしましょう!!」
「どうするも何も、お帰りいただくほかないわ。そもそも小梅が傍に控えていれば何も起こらないでしょう」

 女性側に手引きをする女房がいて初めて、男性は通うことができる。
 私の場合はもちろん、その女房役は小梅になるのだが、小梅がそんなことをするとは思えないし心配もしていない。三の君付き女房は他にもいたはずだが、そのうちの一人でも怪しい動きがあろうものなら、姫様第一の小梅が黙ってはいない。

「しかし、相手は宰相中将様ですわ。すんなり引き下がるとは思えません」

 小梅の言うことももっともだ。
 そんな聞き分けのいい公達なら、そもそもあんなにしつこく文も送ってこないだろう。
 兄は一歩遅かったのだ。太い釘をぐさりと刺す前に、宰相中将は夜這い計画を立てていたのだから。

 ああ、こうなるなら、返歌でも書いてのらりくらりとかわしておけばよかったのか。
 いいえ、そんなことをしたら、どんな内容でもすぐにでも宰相中将はやってきただろう。夜這いが早まるだけだ、バッドエンド一直線。

 断っても無理だったのに、では他にどう手を打つことができたと?
 宰相中将に他の想い人が見つかることを祈るしか道はなかったはずだ。そしてそれは祈りのまま消え、現実にならなかった。しかし、他に女性は山ほどいるのに、なぜ私なのだ。なぜ??
 一切無視を貫いて人を人とも思わぬ態度でいたというのに、本当に誰か教えて。何がこうも宰相中将を熱くさせたのか。あれか? 障害があれば燃える恋というやつか? そもそも障害に囲まれまくって燃える材料も酸素もなかっただろうと思うのだが。
 ねえ、本当なんで私なのよ?

 しかし、ここは天下の左大臣家である。
 たとえ向こうが邸までやってきたとしても、そう易々と三の君の身辺まで近づくことはできないはずだ。手引きをする女房もいない中で、警備の目をくぐり抜け、この部屋までたどり着けるとは思えない。とは言いつつも、何が起こるかわからないので安心もできないのだが。

 もう、どうしてこう、次から次へと問題が起きるのか。
 心の休まる暇もない。心労がたたって倒れる! ……と思うけれど、悲しいことに、私は心労や過労では倒れないタイプなのだろう。身体はいたって健康でぴんぴんしている。

 もしも本当に宰相中将がここへ来るのなら、もっと夜も遅い時間――おおよそ、あと、一、二時間程度か。
 時間がない。
 左大臣と東の方に相談する?

 ――いいえ、駄目だ。

 度々会いにくる彼らは、少し痩せたように見えた。母の方はそれが顕著で、眠れぬ日もあるのか、化粧では隠しきれない隈がうっすらとあった。
 毎回、「記憶は戻ったか」と聞くのも、三の君のことを心配してのことだと分かっている。
 彼らの立場になって考えてみれば、元々病弱な娘が死にかけて、一命を取りとめたものの記憶を失った。それだけでも十分な、それこそ心労だ。二人は、三の君の兄を……長男を過去に亡くしているのだ。

 私は学生でもちろん独身だったから子供はいないけれど、我が子を失った二人の悲しみはとても深いものだったであろうことは分かる。三の君の危篤は、その悲しみを思い出させ、もう一度失う苦しみを味わうかもしれない恐怖を思い起こさせるには十分であったはずだ。
 そんな両親に、これ以上心配をかけたくないのだ。たとえ私が、本当の娘ではなかったとしても。

 これまでの小梅情報と今日の兄の話から想像するに、三の君はまだ乙女だ。すなわち、処女。
 左大臣家という家柄なら、将来的には同格かそれ以上、つまり帝や東宮と結婚(入内じゅだい)する可能性だって高い。ここで宰相中将などに処女を奪われることなどあってはならない。この身体は、私と三の君の心があるべき場所へ戻り、三の君が望む相手に捧げられるべきものであって、宰相中将の一夜の遊びに付き合うためにあるのではない。
 なんとしてでも、三の君の身体を死守しなくては。

 顔を上げたのと、目を見開いたのはおそらく同時だった。
 小梅の顔が青いを通り越して、白くなっていたのだ。こんな血の気の引いた小梅を、数日前に私は見ている。
 倒れる!――とっさに手が伸びた。

「小梅っ!?」
「も、申し訳ございません、姫様…… わたくし、少し眩暈が……」
「いいから早く横になって! 私の寝所を使いなさい」
「そんなことはおそれ多くてできませんわ。ああ、こんな時に、どうしてわたくしは……」

 思えば、小梅はこの数日働き詰めだった。
 きっと、私がこの世界へ来る前、それこそ三の君が高熱を出してうなされていたというあの頃からほぼ休まずに、私の傍にいてくれたに違いない。

 主従関係があるとはいえ、小梅だって家族のようなものだ。三の君が幼い頃から姉妹のように一緒だったのだ。彼女もまた、三の君の両親と同じような悲しみや恐怖に触れた場面がいくらでもあっただろうし、私の記憶喪失の件で大きな負担をかけていることは事実だ。
 ストレスや疲れが、ここで眩暈という形でドッと出たとしてもなんらおかしくはなかった。明らかに過労である。記憶喪失を聞いたときには卒倒した彼女だ、これまで気丈に自分を奮い立たせていたがその限界がきたのだろう。

「とにかく休みなさいってば」
「いいえ、姫様のご寝所になど。わたくしは、姫様の女房なのです、分はわきまえておりますわ」
「そんな白い顔をして何を言っているの!」

 どんなに言っても一向に寝所で休もうとはしない小梅に、私は首を縦に振るしかなかった。
 未だ白い顔の小梅と、これ以上のやりとりをしても時間の無駄だ。

「分かったわ。どうしてもここで休めないというなら、私室に下がりなさい」
「ですが、姫様!」
「これは命令よ。小梅、下がって休みなさい。あなたが倒れてしまったら私が困るの。だから、私のために休んでちょうだい。それならいいでしょう?」
「姫様……」
「宰相中将様のことなら大丈夫よ。一人でどうにかできるわ。いざとなったら、必ず大声で小梅に助けを求めるから」
「誠でございますか?必ず小梅を呼ぶと、約束して下さいますか?」
「ええ、本当よ。だからその時に駆け付けられるように、あなたは今休むの。まだ数刻あるし、私は大丈夫」

 本当は……嘘、全然大丈夫なんかじゃない。
 ずっとそばにいてくれた小梅が離れるなんて、考えたくもない。不安で不安でたまらない。でもそれを少しでも見せれば、小梅は使命感からここに居続けるに決まっているのだ。彼女はそういう女性だ。
 だけど、こんなに体調の悪い彼女を見ている方が私は辛かった。三の君がもしここにいたら、きっと同じことを言ったと思う。

 この世界にきて、三の君として目覚めてまだ数日。それでも私は、三の君がいかに皆に大切にされ、愛されているかを知っていた。彼女を大切に思ってくれる人は、彼女だって大切に思っているはずだ。

「わたくしがここにいても何もできませんものね…… 姫様、お言葉通り、わたくしは下がります」
「ええ」
「大事の折にはすぐにお呼びくださいませね。お約束でございますよ?」
「分かっているわ」

 限界の限界だったらしい。
 ふらりとよろめいた小梅を抱き留めたまま、私は他の女房を呼んだ。
 そうこうしているうちに、時間は刻一刻と過ぎていた。

 宰相中将から文が届いたのは、それから数分後のことだった。
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