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第三章 婚約者編【完】

幸せの隠れ場所 《7》

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 立派な庭を見渡せるテラスは、人気が少ない。
 月明かりと、窓から洩れる部屋の中の光で仄かに輝く中。
 先ほどの興奮を冷まそうと思っていたアリメアだったが、そうはならなかった。
 ぱちぱちと拍手の音が聞こえ、そちらを向けば、立っていたのはアリメアには驚くべき人だったからだ。

「おーやったじゃないか、アリメア!」
「……チェ、チェルトさ、ま?」

 二人を讃えるように拍手をしていたのは、旦那さまにそっくりで……しかし旦那さまよりは快活な印象を与える青年だ。

 旦那さまの兄君である、チェルトさまである。

 家業を継ぐために、すでに両親の仕事を手伝っている彼は、買い付けの為にいろんな国を飛び回り、殆どこの国に居なかった。
 旦那さまのご両親と同じく、手紙と執事のオルティスさま経由で二人の結婚を伝えていたが、直接の体面は初めてで。

 こんな所でお会いするとは思ってもみなかったし、あんなところを見られていたと混乱するアリメアは、あわてて使用人としての態度で礼をとってしまう。それを、チェルトさまはにこやかに止めた。

「先ほどから、ちらちらとこちらを見ていたようですが、今更出てくるなんてどうしたんですか?」
「え、いらっしゃったのですか?」

 アリメアは全く気が付かなかったので、驚いた。
 なんという姿を見せていたのだろうか。と、またアリメアは卒倒しそうになる。

「いやはや、僕が出て行って、まぜっかえすのはやめた方がいいかな? という、状況判断だよ」
「そんなに気を使うようでしたら、ずっと出てきてくれなくてもよろしかったんですよ、兄上」
「いやー。やっぱり?
 でも次に会えるのいつになるかわからないしねぇ」
「当分は、王都に滞在すると、オルティスから聞きましたが」
「居る事は居るんだけどねー。色々と野暮用があって」
「では。遠慮しないで、うちにも来てくださいよ。いいでしょうか、アリメア」
「え、は、はいっ……。
 お待ちしております」
「え、いいの? そんな事言うと入り浸っちゃうよ?」
「お越しくださると、嬉しいです」

 今までチェルトさまにお会いできなかったのは、もしかしたらアリメアの事を少なからずとも気に入らなかったのかもしれない。そう思っていたので、こう何事もないように認められているのが感じられると、すごく嬉しくなる。
 エイダさまといい、チェルトさまといい、実際に会ってみると――嘘みたいなほどあっけなくアリメアの事を、旦那さまの相手として認めてくれている。

「うん。久しぶりにアリメアの入れてくれる紅茶が飲みたいと思っていたんだよ。
 よかった……コイツの許しがないとなんだか行くの遠慮しちゃってね」
「兄上が、遠慮するとは珍しい事ですね」
「いや、だって今でも…………うん。なんでもない」

 チェルトさまを前にすると、旦那さまもいつもと違う砕けた雰囲気になる。
 兄弟というのが感じ取れる、貴重な時間だ。

「あー久しぶりにお前と会ったら、喉渇いちゃったよ。飲み物、何かとってきてくれる?」
「……わかりました。アリメアを頼みます」
「わ、私が……」
「いいんだって。コイツに取りに行かせれば、いってらっしゃい」

 少し、心配そうにアリメアの方を見ながら旦那さまは明るい窓辺へと去っていく。
 ひらひらと手を振り見送るチェルトさまと、二人きりになったと意識したアリメアは緊張した。

 だって。
 ――チェルトさまはにこやかで朗らかでも、旦那さまとは根本的に違う。
 軽い言葉の中にも、厳しさが時折混ざる。
 少しの沈黙に耐えられなくて、アリメアは思い出したことを言った。

「あ、あの……ご婚約おめでとうございます」
「あぁ、ありがとう。でもそれって、こっちの台詞でもあるね、アリメアもおめでとう」

 旦那さまからチェルトさまも婚約されたと聞いていた。

「今日は婚約者さまは……?」

 確かチェルトさまの婚約者は伯爵家のご令嬢で、アリメアとは比べ物にならない素晴らしい女性とお聞きしていた。だからこんな席に同伴されていても、何の遜色もない方のはずだ。
 チェルトはアリメアに尋ねられて、ニヤリとする。

「ああ、僕の婚約者殿は意外と小心者だからね。まぁ心構えが決まったら君に紹介するよ」
「そ、そうなのですか……?」

 伯爵令嬢でも、このような場に出るのに気後れしてしまう方もいるのかと、アリメアはほっとする。

「あの、私が旦那さまの奥さまになることはその方には……」

 親戚に使用人がいても許してくれる方だろうか、とアリメアは急に不安になった。

「大丈夫、大丈夫。
 我が愛しの婚約者殿は、むしろ君の義姉になることを喜んでいるよ。いつか会えた時は深く考えずに仲良くしてやってね」

 それを聞いて、アリメアはほっとする。
 ユーフェリヌさまのように、仲良くできるだろうか。

「それにしても、本当に今回の結婚には驚いたよ」

 手すりに持たれながら、チェルトさまが、アリメアを覗き込む。
 その瞳は、エイダさまにそっくりだった。
 試すような、こちらを覗き込むような、瞳。

「母さんから聞いたよ、逃げようとしたんだって?」

 その言葉に、夜の空気が冷たい事をアリメアは思い出した。
 急に身がすくんでしまう。
 震えて、言葉が出ない。

「いや、責めてるんじゃないよ。アリメアからしてみれば当然の事だと思うし、でも」

 チェルトは一度言葉を切った。
 そして、アリメアの顔を見つめる顔からは、社交的な笑みが消える。

「一応、僕も弟を心配する身としては、ちょっとお節介しておきたくてね」

 やっぱり。お忙しいチェルトさまが、偶然にこの場所にいて……と言う事はなかったのだ。
 きっとそのことで、アリメアにわざわざお忙しい合間をぬってお話に来たのだと、理解する。
 アリメアは、チェルトさまが何かを言うのを待った。それが、どんな厳しい言葉でも、受け止めなければいけない。事実は事実だったから。

 でも意外なほど、あっけなく、チェルトさまはそれを許す。

「でも、あのセールブリア嬢に立派に受け答えしていたので、安心したよ」

 立派というよりは、必死だったので、何が満足して頂けたのかはわからない。
 でも、満足して頂けなくても、アリメアはもう引く気は無かったから。

「そ、その……エイダさまから言われて、考えたんです。それで、旦那さまと一緒に頑張っていきたいというのが私の答え、です」
「うんうん。それで、いいんじゃないかな?」

 チェルトさまの態度は驚くべきほど軽い。

 自分がやったことが酷い行動だったとアリメアが十分に自覚している分。本当に許して頂けたのかと、素直に受け取れない。

「それにね、アリメア。
 環境の変化で戸惑う事はいっぱいあると思うし、ましてや人生を変えてしまう結婚だ。不安になってもしかたがないと思うよ、マリッジブルーって言葉もあることだし?」

 ――ま、こういうときこそ、傍にいる旦那が花嫁の不安を拭い去るのが甲斐性だよね。

 アリメアはそんな言葉と、自分の状況が重ならなくて戸惑う。

 確かに。
 旦那さまとの関係は、使用人から婚約者として変わったけれど。
 環境は変わるどころか、アリメアは前の通り旦那さまの身の回りのお世話をするのは変わらなかった。それどころか、旦那さまとずっと一緒に居てもいいという、変わらない確かな未来を約束してもらったぐらいだ。

 でも本当は……この胸に常に渦巻いていた不安は「それ」だったのだろうか。
 そうと分からない漠然とした不安ものに、名前が付いただけなのに、アリメアは安心感を持つ。

「あの……では、チェルトさま、も?」
「僕が!?」

 心底考えても見なかった事をアリメアに振られたようで、チェルトさまはとても驚いた声を上げた。

「うーん。
 まぁ実は内緒だけど、彼女と長く続けられるかって不安はある……けど、でも」

 顎に手をそえて、チェルトさまは斜め上に視線を向け、考えているようだった。
 しばらくするとその視線が、答えが出たようで、アリメアを射る。

「それよりも、これから二人で居るなりの沢山の出来事があって楽しいんだろうなって、ワクワクしてくるよ。アリメアもだろ?」
「……」
「あれ? 考えなかった?」
「あの。今現在だけでも精一杯で……」
「アリメアらしいなぁ」
 チェルトさまはくしゃりと笑う。

「僕達ソル家は、普通の家族とはちょっと違うから……君には戸惑う事ばかりだろうけれど、これからは家族としてよろしくね。お兄ちゃんって呼んでくれてもいいよ? いや、兄様もいいかなー」

 チェルトさまがそう言い終わった途端。ぎくりとアリメアをみて怯む。
 アリメアは、思わず泣いていた。

 許してもらったと気が緩んだ、だけじゃない。
 奥さまの時は、ただ認めてもらえた、それだけだったのに。
 チェルトさまの言い方で気が付いた。

 ――天涯孤独な自分に家族が増えた。

 そんな事考えてもみなかったから。

 暖かいものが、胸にこみ上げる。

「まいったなぁ……。君を泣かせたと知られたら殺される」
「も、申し訳ありませんっ……!」
「さ、これをあげるから、内緒にしてくれる?」
 美しい刺繍が入ったハンカチを差し出され、アリメアは少しためらいながら受け取った。泣いているのを旦那さまに見られたら、チェルトさまにご迷惑をおかけしてしまう。
 泣きやむのをいつもの軽口で場を和ませながら、チェルトさまは待ってくれた。
 幸いにも旦那さまはまだ返って来ない。やっと泣き止んだあとに、ポツリとチェルトさまは呟いた。

「それにしても、応援してたことはしてたけど、君たち二人が結婚するとは」
「そうですね、私なんかが……旦那さまには不釣り合いですけど。でも、頑張りますから……これからよろしく、お願いします」

 アリメアは泣いた目を拭って頭を下げる。
 化粧が取れていたけれど、その顔は生き生きとしていた。

「そういう意味じゃなかったんだけど……いや、まいいか」

 少し不思議な顔をしてチェルトさまはそういった。アリメアは自分がなにか聞き間違えて答えてしまったのだろうかと考えるけれど。

「兄上?」
「あ、来た。僕はあと一つ用事があってね、二人でそれ飲んでよ、じゃ!」

 少し離れた場所に、旦那さまが飲み物をもって立っているのが見えると。チェルトさまはアリメアが何か言う前に身をひるがえす。
 泣き止んだとはいえど、化粧の落ちた顔と、赤くなった目では……秘密でもなんでもない。旦那さまに深く追求される前に、チェルトさまは逃げ出した。
 登場した時と同じように、風のように去っていくチェルトさまをアリメアは、茫然と見送るしかなかった。そのあと旦那さまに納得してもらうために説明するのと、そして落ちてしまった化粧をどう誤魔化すかに苦労する。

 初めて出た夜会はとても刺激的過ぎて、アリメアはとても気疲れしてしまった。家に帰り着いた頃には、旦那さまが「あまり行くのは好きではない」と言っていた事が嘘でも謙遜でもないと、身を以て分かってしまう。
 息苦しそうに、正装を緩めた旦那さまが居間のソファの定位置に座って、言った言葉は。

「お茶を入れていただけませんか? アリメア」

 旦那さまが選び取ったものは、きらびやかな世界ではなく。

「やはり、家に帰って貴女の入れてくれたお茶を飲む、それが一番の贅沢です」
「こんなささやかな事でいいんですか?」

 アリメアは、紅茶を入れながら、旦那さまに尋ねる。
 自分にはこんな些細な事しかできない。

「ええ。私には十分過ぎる、幸せですよ」

 その答えだけで、アリメアは十分に幸せだった。
 幸せは、いつだってこんな些細な所にあふれてる。


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