11 / 18
不知火
一
しおりを挟む
神田明神門前町に、桔梗屋という屋号の旅籠がある。
10年前に神田明神下で始めた桔梗屋は繁盛し、3年前には上方にも店を出した。
ただし、上方桔梗屋は江戸桔梗屋とは趣が違う。
江戸桔梗屋は神田明神下にあるため、神田明神に参拝に来た人や江戸に仕事や観光で来た人が主な客層であったが、上方桔梗屋は料理を中心としており旅籠というより料亭の寄りの店であった。
店主の小平太は五十手前で、小柄で穏やかな顔つきをした男だった。
普段は江戸の店は長男の栄一と番頭の宇吉が、上方の店は次男の恵次と番頭の勘助が店を切り盛りしていた。
小平太は江戸と上方を行ったり来たりしながら、所々で評判の店に赴いては全国津々浦々その地方の名物料理を食べ歩きしているのが常であった。
小平太はその土地土地の店での良いところを見習って江戸と上方の桔梗屋に生かし、そしてそのおかげで店を繁盛させていると自負していた。つまりは自分が全国を渡り歩いて美味いものを食べに行くのは、全ては桔梗屋のためと主張しているのであった。
この食道楽が高じて、上方の桔梗屋を始めたことは言うまでもない。
だが次男の恵次に言わせると、「親父殿は風来坊が性に合うのさ。」というのが本当のところだろう。
そんな滅多に江戸にいることのない小平太が、珍しく今は江戸桔梗屋で久々に羽を伸ばしていた。先日まで上方桔梗屋おりそれから東海道を下って、吉原宿で老舗の旅籠屋鯛屋に泊まり吉原名物の美味いうなぎを食べてきたという。
「お義父さん、吉原のうなぎはそんなに美味いんですか?」
この桔梗屋を営む一家は、皆が皆美味いものには目がない。育った家が飯屋をしている沙絵も例外ではなく、彼女も肥えた舌を持っていた。
彼女はたまに帰ってくる義理の父の旅の話を聞くのが何よりも大好きで、彼が帰ってくる度に旅先の話をねだるのであった。沙絵の養父はこの小平太とは長年の付き合いで、幼い頃から知っている沙絵を小平太も実の娘のように可愛がっていた。
沙絵の手元には箱根名物の寄木細工の小物入れがある。東海道を旅して来た小平太の土産の一つだ。
「ああ、美味かったね。絶妙な焼き加減で、わしは三杯もお代わりしてしまったよ」
楽しそうに小平太が笑って言うと、話を聞いていた息子の栄一は渋い顔する。
「親父、食べ過ぎだ。もう年なんだから、気をつけないとそのうち腹を壊すぞ。」
そう息子が小言を言うと、父はフンと顔を背ける。
「何を言う!わしの腹はそんな柔な腹ではないわ!」
怒ったように小平太が言うと、沙絵と栄一は苦笑する。
まだまだ自分は若い者には負けないと自負している、小平太だった。
「まぁまぁ。お義父さんそんなことを言わないで。この人はお義父さんの体を心配しているだけなんですから…。」
取り成すように沙絵が言うと、途端に小平太の機嫌がよくなる。
「沙絵はいい娘だのう。」
嬉しそうに小平太が言うと、夫婦は嬉しげな父親の様子に笑みを浮かべた。
「それはそうと、沙絵。お前の兄というものが見つかったというが、本当のことなのかい?」
心配げに小平太が顔を曇らす。
15年も前に生き別れになった兄にこの江戸で逢うなど、俄かには信じがたい話であった。
「はい。お義父さん、本当でございますよ。」
嬉しそうに沙絵が笑うと、その横にいる栄一も顔を曇らせている。
「…俺も半信半疑なんだが、琥太郎がいうにはその御仁は沙絵にとてもよく似ておいでだそうだよ」
「…そうなのかい。」
眉をひそめて小平太は相槌を打つと、躊躇うように言葉を続けた。
「…それも侍で、二本松藩の藩士とはね…。俄かには信じられないよ。」
閉口したように小平太が言うと、栄一も頷く。
「俺もそう思う。…それに…」
迷うように栄一は、言葉を濁した。
沙絵も夫が言いたいことは分かっていた。
「お前さん、分かっていますよ。兄様には本業の話は絶対にしません」
きっぱり沙絵が言い切ると、栄一は表情を緩ませた。
小平太も義理の娘の言葉に、無言で頷く。
「兄様は立派な武家のお家の人。私たちの本当の稼業のことは悟らせません。私たちが盗賊不知火の一味のものであることをね」
そう。この者たちは表向きは神田明神下で旅籠を営んでいるが、実を言うと裏の稼業は江戸市中もしくは全国で人様の店に入っては、お金を頂戴している盗賊なのであった。
10年前に神田明神下で始めた桔梗屋は繁盛し、3年前には上方にも店を出した。
ただし、上方桔梗屋は江戸桔梗屋とは趣が違う。
江戸桔梗屋は神田明神下にあるため、神田明神に参拝に来た人や江戸に仕事や観光で来た人が主な客層であったが、上方桔梗屋は料理を中心としており旅籠というより料亭の寄りの店であった。
店主の小平太は五十手前で、小柄で穏やかな顔つきをした男だった。
普段は江戸の店は長男の栄一と番頭の宇吉が、上方の店は次男の恵次と番頭の勘助が店を切り盛りしていた。
小平太は江戸と上方を行ったり来たりしながら、所々で評判の店に赴いては全国津々浦々その地方の名物料理を食べ歩きしているのが常であった。
小平太はその土地土地の店での良いところを見習って江戸と上方の桔梗屋に生かし、そしてそのおかげで店を繁盛させていると自負していた。つまりは自分が全国を渡り歩いて美味いものを食べに行くのは、全ては桔梗屋のためと主張しているのであった。
この食道楽が高じて、上方の桔梗屋を始めたことは言うまでもない。
だが次男の恵次に言わせると、「親父殿は風来坊が性に合うのさ。」というのが本当のところだろう。
そんな滅多に江戸にいることのない小平太が、珍しく今は江戸桔梗屋で久々に羽を伸ばしていた。先日まで上方桔梗屋おりそれから東海道を下って、吉原宿で老舗の旅籠屋鯛屋に泊まり吉原名物の美味いうなぎを食べてきたという。
「お義父さん、吉原のうなぎはそんなに美味いんですか?」
この桔梗屋を営む一家は、皆が皆美味いものには目がない。育った家が飯屋をしている沙絵も例外ではなく、彼女も肥えた舌を持っていた。
彼女はたまに帰ってくる義理の父の旅の話を聞くのが何よりも大好きで、彼が帰ってくる度に旅先の話をねだるのであった。沙絵の養父はこの小平太とは長年の付き合いで、幼い頃から知っている沙絵を小平太も実の娘のように可愛がっていた。
沙絵の手元には箱根名物の寄木細工の小物入れがある。東海道を旅して来た小平太の土産の一つだ。
「ああ、美味かったね。絶妙な焼き加減で、わしは三杯もお代わりしてしまったよ」
楽しそうに小平太が笑って言うと、話を聞いていた息子の栄一は渋い顔する。
「親父、食べ過ぎだ。もう年なんだから、気をつけないとそのうち腹を壊すぞ。」
そう息子が小言を言うと、父はフンと顔を背ける。
「何を言う!わしの腹はそんな柔な腹ではないわ!」
怒ったように小平太が言うと、沙絵と栄一は苦笑する。
まだまだ自分は若い者には負けないと自負している、小平太だった。
「まぁまぁ。お義父さんそんなことを言わないで。この人はお義父さんの体を心配しているだけなんですから…。」
取り成すように沙絵が言うと、途端に小平太の機嫌がよくなる。
「沙絵はいい娘だのう。」
嬉しそうに小平太が言うと、夫婦は嬉しげな父親の様子に笑みを浮かべた。
「それはそうと、沙絵。お前の兄というものが見つかったというが、本当のことなのかい?」
心配げに小平太が顔を曇らす。
15年も前に生き別れになった兄にこの江戸で逢うなど、俄かには信じがたい話であった。
「はい。お義父さん、本当でございますよ。」
嬉しそうに沙絵が笑うと、その横にいる栄一も顔を曇らせている。
「…俺も半信半疑なんだが、琥太郎がいうにはその御仁は沙絵にとてもよく似ておいでだそうだよ」
「…そうなのかい。」
眉をひそめて小平太は相槌を打つと、躊躇うように言葉を続けた。
「…それも侍で、二本松藩の藩士とはね…。俄かには信じられないよ。」
閉口したように小平太が言うと、栄一も頷く。
「俺もそう思う。…それに…」
迷うように栄一は、言葉を濁した。
沙絵も夫が言いたいことは分かっていた。
「お前さん、分かっていますよ。兄様には本業の話は絶対にしません」
きっぱり沙絵が言い切ると、栄一は表情を緩ませた。
小平太も義理の娘の言葉に、無言で頷く。
「兄様は立派な武家のお家の人。私たちの本当の稼業のことは悟らせません。私たちが盗賊不知火の一味のものであることをね」
そう。この者たちは表向きは神田明神下で旅籠を営んでいるが、実を言うと裏の稼業は江戸市中もしくは全国で人様の店に入っては、お金を頂戴している盗賊なのであった。
0
お気に入りに追加
3
あなたにおすすめの小説
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

獅子の末裔
卯花月影
歴史・時代
未だ戦乱続く近江の国に生まれた蒲生氏郷。主家・六角氏を揺るがした六角家騒動がようやく落ち着いてきたころ、目の前に現れたのは天下を狙う織田信長だった。
和歌をこよなく愛する温厚で無力な少年は、信長にその非凡な才を見いだされ、戦国武将として成長し、開花していく。
前作「滝川家の人びと」の続編です。途中、エピソードの被りがありますが、蒲生氏郷視点で描かれます。
織田信長IF… 天下統一再び!!
華瑠羅
歴史・時代
日本の歴史上最も有名な『本能寺の変』の当日から物語は足早に流れて行く展開です。
この作品は「もし」という概念で物語が進行していきます。
主人公【織田信長】が死んで、若返って蘇り再び活躍するという作品です。
※この物語はフィクションです。

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜
かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。
徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。
堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる……
豊臣家に味方する者はいない。
西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。
しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。
全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。
独裁者・武田信玄
いずもカリーシ
歴史・時代
歴史の本とは別の視点で武田信玄という人間を描きます!
平和な時代に、戦争の素人が娯楽[エンターテイメント]の一貫で歴史の本を書いたことで、歴史はただ暗記するだけの詰まらないものと化してしまいました。
『事実は小説よりも奇なり』
この言葉の通り、事実の方が好奇心をそそるものであるのに……
歴史の本が単純で薄い内容であるせいで、フィクションの方が面白く、深い内容になっていることが残念でなりません。
過去の出来事ではありますが、独裁国家が民主国家を数で上回り、戦争が相次いで起こる『現代』だからこそ、この歴史物語はどこかに通じるものがあるかもしれません。
【第壱章 独裁者への階段】 国を一つにできない弱く愚かな支配者は、必ず滅ぶのが戦国乱世の習い
【第弐章 川中島合戦】 戦争の勝利に必要な条件は第一に補給、第二に地形
【第参章 戦いの黒幕】 人の持つ欲を煽って争いの種を撒き、愚かな者を操って戦争へと発展させる武器商人
【第肆章 織田信長の愛娘】 人間の生きる価値は、誰かの役に立つ生き方のみにこそある
【最終章 西上作戦】 人々を一つにするには、敵が絶対に必要である
この小説は『大罪人の娘』を補完するものでもあります。
(前編が執筆終了していますが、後編の執筆に向けて修正中です)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる