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不知火
一
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神田明神門前町に、桔梗屋という屋号の旅籠がある。
10年前に神田明神下で始めた桔梗屋は繁盛し、3年前には上方にも店を出した。
ただし、上方桔梗屋は江戸桔梗屋とは趣が違う。
江戸桔梗屋は神田明神下にあるため、神田明神に参拝に来た人や江戸に仕事や観光で来た人が主な客層であったが、上方桔梗屋は料理を中心としており旅籠というより料亭の寄りの店であった。
店主の小平太は五十手前で、小柄で穏やかな顔つきをした男だった。
普段は江戸の店は長男の栄一と番頭の宇吉が、上方の店は次男の恵次と番頭の勘助が店を切り盛りしていた。
小平太は江戸と上方を行ったり来たりしながら、所々で評判の店に赴いては全国津々浦々その地方の名物料理を食べ歩きしているのが常であった。
小平太はその土地土地の店での良いところを見習って江戸と上方の桔梗屋に生かし、そしてそのおかげで店を繁盛させていると自負していた。つまりは自分が全国を渡り歩いて美味いものを食べに行くのは、全ては桔梗屋のためと主張しているのであった。
この食道楽が高じて、上方の桔梗屋を始めたことは言うまでもない。
だが次男の恵次に言わせると、「親父殿は風来坊が性に合うのさ。」というのが本当のところだろう。
そんな滅多に江戸にいることのない小平太が、珍しく今は江戸桔梗屋で久々に羽を伸ばしていた。先日まで上方桔梗屋おりそれから東海道を下って、吉原宿で老舗の旅籠屋鯛屋に泊まり吉原名物の美味いうなぎを食べてきたという。
「お義父さん、吉原のうなぎはそんなに美味いんですか?」
この桔梗屋を営む一家は、皆が皆美味いものには目がない。育った家が飯屋をしている沙絵も例外ではなく、彼女も肥えた舌を持っていた。
彼女はたまに帰ってくる義理の父の旅の話を聞くのが何よりも大好きで、彼が帰ってくる度に旅先の話をねだるのであった。沙絵の養父はこの小平太とは長年の付き合いで、幼い頃から知っている沙絵を小平太も実の娘のように可愛がっていた。
沙絵の手元には箱根名物の寄木細工の小物入れがある。東海道を旅して来た小平太の土産の一つだ。
「ああ、美味かったね。絶妙な焼き加減で、わしは三杯もお代わりしてしまったよ」
楽しそうに小平太が笑って言うと、話を聞いていた息子の栄一は渋い顔する。
「親父、食べ過ぎだ。もう年なんだから、気をつけないとそのうち腹を壊すぞ。」
そう息子が小言を言うと、父はフンと顔を背ける。
「何を言う!わしの腹はそんな柔な腹ではないわ!」
怒ったように小平太が言うと、沙絵と栄一は苦笑する。
まだまだ自分は若い者には負けないと自負している、小平太だった。
「まぁまぁ。お義父さんそんなことを言わないで。この人はお義父さんの体を心配しているだけなんですから…。」
取り成すように沙絵が言うと、途端に小平太の機嫌がよくなる。
「沙絵はいい娘だのう。」
嬉しそうに小平太が言うと、夫婦は嬉しげな父親の様子に笑みを浮かべた。
「それはそうと、沙絵。お前の兄というものが見つかったというが、本当のことなのかい?」
心配げに小平太が顔を曇らす。
15年も前に生き別れになった兄にこの江戸で逢うなど、俄かには信じがたい話であった。
「はい。お義父さん、本当でございますよ。」
嬉しそうに沙絵が笑うと、その横にいる栄一も顔を曇らせている。
「…俺も半信半疑なんだが、琥太郎がいうにはその御仁は沙絵にとてもよく似ておいでだそうだよ」
「…そうなのかい。」
眉をひそめて小平太は相槌を打つと、躊躇うように言葉を続けた。
「…それも侍で、二本松藩の藩士とはね…。俄かには信じられないよ。」
閉口したように小平太が言うと、栄一も頷く。
「俺もそう思う。…それに…」
迷うように栄一は、言葉を濁した。
沙絵も夫が言いたいことは分かっていた。
「お前さん、分かっていますよ。兄様には本業の話は絶対にしません」
きっぱり沙絵が言い切ると、栄一は表情を緩ませた。
小平太も義理の娘の言葉に、無言で頷く。
「兄様は立派な武家のお家の人。私たちの本当の稼業のことは悟らせません。私たちが盗賊不知火の一味のものであることをね」
そう。この者たちは表向きは神田明神下で旅籠を営んでいるが、実を言うと裏の稼業は江戸市中もしくは全国で人様の店に入っては、お金を頂戴している盗賊なのであった。
10年前に神田明神下で始めた桔梗屋は繁盛し、3年前には上方にも店を出した。
ただし、上方桔梗屋は江戸桔梗屋とは趣が違う。
江戸桔梗屋は神田明神下にあるため、神田明神に参拝に来た人や江戸に仕事や観光で来た人が主な客層であったが、上方桔梗屋は料理を中心としており旅籠というより料亭の寄りの店であった。
店主の小平太は五十手前で、小柄で穏やかな顔つきをした男だった。
普段は江戸の店は長男の栄一と番頭の宇吉が、上方の店は次男の恵次と番頭の勘助が店を切り盛りしていた。
小平太は江戸と上方を行ったり来たりしながら、所々で評判の店に赴いては全国津々浦々その地方の名物料理を食べ歩きしているのが常であった。
小平太はその土地土地の店での良いところを見習って江戸と上方の桔梗屋に生かし、そしてそのおかげで店を繁盛させていると自負していた。つまりは自分が全国を渡り歩いて美味いものを食べに行くのは、全ては桔梗屋のためと主張しているのであった。
この食道楽が高じて、上方の桔梗屋を始めたことは言うまでもない。
だが次男の恵次に言わせると、「親父殿は風来坊が性に合うのさ。」というのが本当のところだろう。
そんな滅多に江戸にいることのない小平太が、珍しく今は江戸桔梗屋で久々に羽を伸ばしていた。先日まで上方桔梗屋おりそれから東海道を下って、吉原宿で老舗の旅籠屋鯛屋に泊まり吉原名物の美味いうなぎを食べてきたという。
「お義父さん、吉原のうなぎはそんなに美味いんですか?」
この桔梗屋を営む一家は、皆が皆美味いものには目がない。育った家が飯屋をしている沙絵も例外ではなく、彼女も肥えた舌を持っていた。
彼女はたまに帰ってくる義理の父の旅の話を聞くのが何よりも大好きで、彼が帰ってくる度に旅先の話をねだるのであった。沙絵の養父はこの小平太とは長年の付き合いで、幼い頃から知っている沙絵を小平太も実の娘のように可愛がっていた。
沙絵の手元には箱根名物の寄木細工の小物入れがある。東海道を旅して来た小平太の土産の一つだ。
「ああ、美味かったね。絶妙な焼き加減で、わしは三杯もお代わりしてしまったよ」
楽しそうに小平太が笑って言うと、話を聞いていた息子の栄一は渋い顔する。
「親父、食べ過ぎだ。もう年なんだから、気をつけないとそのうち腹を壊すぞ。」
そう息子が小言を言うと、父はフンと顔を背ける。
「何を言う!わしの腹はそんな柔な腹ではないわ!」
怒ったように小平太が言うと、沙絵と栄一は苦笑する。
まだまだ自分は若い者には負けないと自負している、小平太だった。
「まぁまぁ。お義父さんそんなことを言わないで。この人はお義父さんの体を心配しているだけなんですから…。」
取り成すように沙絵が言うと、途端に小平太の機嫌がよくなる。
「沙絵はいい娘だのう。」
嬉しそうに小平太が言うと、夫婦は嬉しげな父親の様子に笑みを浮かべた。
「それはそうと、沙絵。お前の兄というものが見つかったというが、本当のことなのかい?」
心配げに小平太が顔を曇らす。
15年も前に生き別れになった兄にこの江戸で逢うなど、俄かには信じがたい話であった。
「はい。お義父さん、本当でございますよ。」
嬉しそうに沙絵が笑うと、その横にいる栄一も顔を曇らせている。
「…俺も半信半疑なんだが、琥太郎がいうにはその御仁は沙絵にとてもよく似ておいでだそうだよ」
「…そうなのかい。」
眉をひそめて小平太は相槌を打つと、躊躇うように言葉を続けた。
「…それも侍で、二本松藩の藩士とはね…。俄かには信じられないよ。」
閉口したように小平太が言うと、栄一も頷く。
「俺もそう思う。…それに…」
迷うように栄一は、言葉を濁した。
沙絵も夫が言いたいことは分かっていた。
「お前さん、分かっていますよ。兄様には本業の話は絶対にしません」
きっぱり沙絵が言い切ると、栄一は表情を緩ませた。
小平太も義理の娘の言葉に、無言で頷く。
「兄様は立派な武家のお家の人。私たちの本当の稼業のことは悟らせません。私たちが盗賊不知火の一味のものであることをね」
そう。この者たちは表向きは神田明神下で旅籠を営んでいるが、実を言うと裏の稼業は江戸市中もしくは全国で人様の店に入っては、お金を頂戴している盗賊なのであった。
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