夜桜仇討奇譚(旧題:桜の樹の下で)

姫山茶

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うしとら屋

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 結局、沙絵は目的のお鶴の大福を手に入れると、そのまま深川にあるうしとら屋まで行くことにする。
 桔梗屋女将の沙絵を一人歩きさせられないという事で、うしとら屋までは琥太郎がついて歩いて行くことになった。その後、琥太郎はトンボ帰りして紅梅屋に戻ってくる事で話が決まる。
 お鶴とお秋に別れを告げて沙絵が紅梅屋を出た時は、昼七つ(午後四時)を回っていた。ここから急いで歩いて行けば暮六つ(午後五時)くらいにはうしとら屋に着く事が出来るだろう。
  行きより若干急ぎ足で沙絵と琥太郎は、深川方面へ向かう。
  家路を急ぐ棒手振ぼてふりや行商人などで人通りも多く、また仕事終わりに一杯引っかけて行こうと暖簾の中に消えていく者たちで帰り道は賑わっていた。
 その中を、沙絵と琥太郎は急ぎ足で歩いて行く。
 そうして歩いて行くと、見慣れた暖簾がかかった一軒の飯屋が見えてくる。
 細い綱を連ねた暖簾の横には大きな提灯があり、中に灯されている灯で提灯に”うしとら屋”と書かれているのが見える。
 この時外は大分暗くなっており、その提灯の明かりが目印になっていた。
 沙絵がうしとら屋に近づくにつれ、店の前まで来た職人風の男二人が暖簾をくぐって行くのが見える。
 はやる気持ちを抑えながら沙絵は綱の暖簾をくぐると、店の引き戸を開ける。
「いらっしゃい。」
 開いた扉の中から、落ち着いた女の声が二人を迎えた。
 彼女は沙絵の顔を見ると驚いた顔をして、
「お沙絵、まぁどうしたの?」
 心配げな顔をしてお駒は、すぐ沙絵のところに駆けつける。
 彼女はこのうしとら屋の女将で、沙絵の母親代りである。
 四十代のお駒は地味な見た目であるが、人好きのする笑顔を浮かべる心の根の優しい女であった。
「養母さん、ただいま。」
 そう娘が言うと、お駒はすぐお沙絵を店内奥に誘導して行く。
 店内にいる常連は沙絵とは顔見知りなので、沙絵を見ると所々から声がかかる。
「おう、お沙絵ちゃん。」
「お沙絵、久しぶりだなぁ。」
「元気そうだな。」
 皆、笑顔でこの店の娘を迎えてくれる。
 沙絵はそれぞれに笑顔で挨拶を返していく。その後ろを当たり前の顔をして琥太郎が付いていく。
 調理場の暖簾をくぐると、男二人が沙絵を見た。
 養父である左内と、店の名の元になっている義理の祖父の寅吉である。
 二人は沙絵の顔を見ると、手を動かしながらも尋ねる。
「お沙絵、どうしたんだ。こんな時分に、もう暮六つ(午後五時)過ぎているぞ。」
 左内がそう言うと、近くで酒を間につけている寅吉も頷く。
「全くだ。どうしたんだ、何か急用か?」
 優しい祖父は、心配そうな顔で孫を気遣う。
「今日はお鶴婆のところに行ったんだけど、思いの外遅くなっちまったから、今夜はここに泊めてもらおうかと思って。それから、父さん達に話もあるんだ。」
「お鶴か、元気にしていたか?」
 寅吉が嬉しそうに顔をほころばせると、沙絵は頷く。
「元気だったよ。お土産にお鶴の大福があるからね。」
 娘の言葉に両親と祖父が嬉しそうに目を輝かせる。うしとらの面々も例に漏れず、お鶴の菓子が大好物なのだ。
「お沙絵、居間で待ってろ。何か持っていくから。琥太郎、何か食べたいものはあるか?」
 娘の付き人である琥太郎に左内が尋ねると、彼は申し訳なさそうな顔で頭を下げた。
「左内さん、お気遣い痛み入ります。俺はこの後紅梅屋へ戻らなければならないんで、残念ですがこのままおいとまします。」
「おい、本気で言ってるのか?」
 琥太郎の言葉に訝しげに左内が眉を顰めると、沙絵が無言で頷く。
 その娘の様子に何かを察した左内は、琥太郎に待つように言いつける。
 すぐ大きな握り飯を二つ握ると、竹の籠に握り飯と卵焼きに香の物を入れ琥太郎に手渡す。
「持ってけ。」
 お駒も今日作ったばかりの甘露煮をお土産に持たせると、琥太郎は嬉しそうに顔を綻ばせる。
 きっと紅梅屋に帰っても琥太郎の夕飯は用意されていると思うが、若い琥太郎にとっては美味しいものをたくさん食べられる事が嬉しいのだ。
「女将さん、明日迎えに参ります。」
 そう言って琥太郎は頭を下げると、うしとら屋を後にした。
「上がるよ。」
 沙絵は一言告げると、返事も聞かずに居間へと入って行く。
 無言で娘の後ろ姿を見送ると、父と祖父は黙々と仕事に打ち込み始めた。

 
 居間に落ち着いた沙絵は手短に今日あったことを手紙に書くと、常連の中に知り合いがいたのでその手紙を託す。彼は夫の栄一の友人の一人で沙絵の頼みを二つ返事で引き受けると、そのまま神田に帰っていった。
 しばらくして、居間にお駒が夕飯を持って沙絵のところにやってきた。
 彼女は沙絵と話しながら手早く飯を済ませると、休む間も無くすぐ店に戻っていく。
 客の姿が一人、二人と減っていき、お駒が暖簾をしまったのは暮四つ(午後九時)を過ぎた時分だった。
 店の後片付けを終えた後、うしとら屋の居間には沙絵の他、寅吉、左内、お駒がいる。
 仕事を終えた彼らは、思い思いに寛いでいた。
 寅吉とお駒は熱い茶を啜りながら、お鶴の大福をぱくついている。この親子は昔から大の甘党であった。
 そして、左内は熱燗とお鶴の大福で一杯やっている。酒呑みな彼は、たまに甘味と酒という独特な組み合わせで酒を呑むことがある。
 左内は不知火時代に小平太と一緒に全国を渡り歩いて、美味い酒を飲み尽くしたものだ。
 甘いものが好きな小平太も酒を呑む時は塩辛いものをつまみにするので、左内のその呑み方に大いに物申したものだが、それでも左内はやめようとはしなかった。彼の中では酒のつまみは、塩辛い物と甘い物どっちも有り、なのである。
 不知火を引退した左内は、その頃の培った縁であちこちから安く美味い酒を仕入れては、このうしとら屋で出すようにしていた。小さな酒蔵で作られる美味い酒は、滅多に江戸に入ってくることはないので、飲兵衛の間で色々な地方の美味い地酒が呑めると人伝てに噂が広がり、今では珍しい酒を呑みにくる客がうしとら屋で増えていた。
 今夜左内が晩酌で呑んでいる酒は、常陸国の土浦で作られている地酒で、大福と一緒に一杯やり満足げにため息をつく。
 そして、彼は久しぶりに顔を見せた娘に視線を向けた。
「それで、どうしたんだ。お沙絵。」
 左内の言葉に寅吉とお駒も、視線を沙絵に向ける。
「実は…」
 沙絵は顔を俯かせて、口を開いた。





 補足

 棒手振り:ざる、木桶、木箱、籠などを前後に天秤棒に振り下げて歩いて商品などを販売する者たちの事。
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