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前編
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これ以上この屋敷に留まらないで欲しい。
旦那様に気付かれぬようにどこかへ姿を消して欲しい。
屋敷の者の提案は当然のことだとルーカスは思った。何せ今の自分ときたら戦争で負った傷によって右腕は無いし、顔も右半分が大きく焼け爛れていて醜悪で、誰もが目を背けたくなる怖ろしい姿をしているのだから。
華やかで美しいこの場所には全くそぐわない。
目の前の家令の男が何度も顔をしかめる姿を見るたびに、ルーカスは自分の姿をはっきりと意識してしまっていたたまれなくなる。
彼がうんざりするのもよく分かる。
これまでたくさん迷惑をかけてしまった。
新しい真っ白なシーツを怪我した体から流れる浸出液で何度も汚してしまったし、夜中には熱でうなされて何度も叫び声を上げてしまった。その度に彼やメイド達は昼夜関係なくこの部屋に来ざるを得なかったのだ。本当に申し訳なく思った。
ルーカスは先月まで帝国の軍に所属していた。
大陸を2つに分けた大戦の間前線に出ており、その最中怪我を負い、それが元で戦列を離れざるを得なくなった。戦争終結間際のことである。
軍の病院ではなく上官であるケヴィン・スノービル少佐の屋敷に運び込まれたルーカスは、夢うつつの中でラジオから流れる戦争終結の放送を耳にした。それは自国の勝利を告げるものだった。
窓から差し込む光がまだ暑い9月のこと。
その放送を聞き終えたルーカスの頬に涙が伝って落ちた。
自国の勝利に対する思いや、命を奪ってしまった相手のことでもあったし、そして……。
スノービル少佐の無事を心から喜んだということが最も大きい。
屋敷の中の様子は夢うつつの中でも常に気を配っていた。
少佐の訃報が届いたら屋敷の中は大変な騒ぎになっていただろうし、それが無かったということは彼が無事であることに他ならない。
良かった。
あの人が無事で……本当に。
ルーカスが怪我を負ってから1ヵ月。この屋敷に運び込まれてから現在まで、少佐が屋敷を訪れることはなかった。
今頃はまだ戦後の処理に奔走していることだろう。
スノービル少佐のことを考え、以前彼からもらった手紙を握りしめた。
真っ白だったその手紙はルーカスが何度も読むものだから、擦り切れてボロボロになってしまっているし、乾いた血もあちこちにこびりついている。だがそれは生まれて初めて誰かからもらった手紙、それも誰よりも大切な人からの。手放せるはずもない。大切に荷物の1番奥へと仕舞い込んだ。
ソファから立ち上がったルーカスはモスグリーンの肩掛けかばんを下げて、人目を避けるために外套のフードを目深にかぶった。
「こちらをお持ちください」
ルーカスが屋敷を出る直前、家令の男から封筒を差し出された。確かな厚みのその封筒に首を傾げていると「次の生活の支度金です」と告げられた。
とんでもない、と首を横に振った。
十分良くしてもらった。
伯爵家の者達には医者の手配をしてもらったり、これまで面倒を見てもらったのだ。
薬だって足りていない中ルーカスは優先的に飲ませてもらった。何よりも怖ろしい感染症を引き起こさずに済んだのもスノービル少佐の援助のお陰だ。それが無ければ命を失っていたかもしれない。
その上お金までもらうわけにはいかない。
これ以上迷惑をかけられない。
ルーカスは頑なだったが、家令の男もまた頑なだった。
怪我した軍人であるルーカスを屋敷から追い出す罪悪感からかもしれない。彼はとうとう肩掛けかばんの荷物の底に封筒を押し込んで来た。ルーカスが利き腕ではない慣れぬ左手でもたもたと荷物の底をあさっている間に、腕を取られて屋敷から連れ出されて車に押し込められてしまった。
車の扉が閉められて、ブロ……とエンジン音を響かせて車が走り出す。
(少佐…さようなら……どうかお元気で)
車窓から後ろに流れていく少佐の屋敷を振り返る。残った左手でガラス窓に張り付いた。屋敷が小さくなって、やがて見えなくなって景色が移り変わってもルーカスはいつまでも後ろを振り返っていた。
***
運転手はルーカスの故郷まで運転していくつもりのようだったが、故郷はすでに地図上から姿を消して久しい。ルーカスには待っている家族もいないし、大地は焦土となっていてとても人が住めるような場所ではない。
ルーカスの希望で、帝都の一角に下ろしてもらった。
屋敷からそれほど離れていない場所だから、戻って来られたら困ると運転手は考えたようだがルーカスが「絶対に少佐には会いません」と告げると信じてくれたようだ。運転手がルーカスのことを大変気の毒に思っているのが彼の態度から伝わってきた。家令には逆らえなくて仕方なく命令に従った、そんな風に思えた。
申し訳なさそうに頭を下げる運転手を見送って、それからルーカスは帝都の片隅でその日暮らしをするようになった。
「やあ、ルーカス。今日の首尾はどうだい?」
「うん、まあまあだよ」
街角に座り込んでいるルーカスに声を掛けてきた男がいる。
彼は路上生活の仲間だ。初めてここを訪れた時に職も見つからず、どうやって暮らしていこうかと途方に暮れていたルーカスに声を掛けてくれた親切な男だ。
ルーカスの片腕が無いことを知ると、どうやって生活していけば良いかを教えてくれた。
彼もまた片足が無かった。
軍人であるルーカスとは違い、一般市民である彼は故郷で砲撃を受け、戦火を逃れてここまで流れ着いてきたのだと言った。
ルーカスの故郷が長きに渡る大戦によって地図から消えたように、帝都もまた大きな被害を受けていた。建物ではない。人々の心と体にだ。
街は浮浪者や戦災孤児で溢れかえっており、まともな職に就くこともできず、路上には力なく座り込む人々の姿があった。
彼らのような者が生きて行く方法は3つ。
盗むか、体を売るか、同情を引いて恵んでもらうかというものだった。
どれもルーカスには出来そうにはなくて、困ってしまった。そんな困り切っているルーカスに男はさらに別の方法、芸を売る道を教えてくれた。
唯一ルーカスには得意なことがあって、それはハーモニカを吹くというもの。
これは少佐から教えてもらった。
戦地でもよく少佐に求められて音色を奏でていた。
これならば片手でもできるしフードを被ったままでも問題無い。
街角でハーモニカを吹いてはわずかばかりのお金をもらって、ルーカスは暮らしていた。
男は皿の中に入った数枚の小銭を見て、気の毒そうに眉を下げた。
「寒くなってきたせいか、景気が悪いなぁ……」
確かに12月に近づくにつれて段々と皿の中に入れてもらう金額が減っているのを感じていた。寒さは懐の財布をも締めてしまうらしい。
これでは1食食べられるかどうかといったところか。
「今年もたくさん人が死ぬのかな……」
去年の冬を何とか路上で越した男は、悲しそうにつぶやいた。
去年は寒さに耐えきれず次々と人が死んでいったという。ルーカスが路上生活を始めて2ヵ月。彼もまたそれを実感していた。先週まで挨拶を交わしていた人がある日の朝に突然冷たくなっている。そういうことが増えていた。
スノービル家の屋敷でもらった金はどうなったかというと……。
一ヵ月ぐらい前のことになる。怪我を負って死にそうになっていた戦災孤児に薬と温かい洋服を買ってあげたら、あっという間に消えてしまった。
医者にかかることもできず、薬は闇市で買うしかなかったのだ。当然値段は恐ろしく高額だった。
男はルーカスの行動を馬鹿だなぁと呆れた目で見ていた。
自分が生きるか死ぬかの時に他人に気を配っている場合ではないと。だがあのお金はもうじき死ぬルーカスよりも未来ある子供に使った方がいいと思ったのだ。元々もらうつもりも無かったお金だ。
コホコホと咳き込んだ。
帝都はいつも排気ガスが立ち込めていて空気が悪い。常に路上にいるルーカスの肺はとても弱っていた。冬が近づくにつれて、寒さも相まって体が限界を迎えていた。この弱った体では冬を越すことはできないだろう。自分もまた逝ってしまった彼らと同じ末路を辿ることになる。
少佐との約束を破ることになってしまうが、仕方がない。
元々ルーカスの命は少佐を救ったあの時に尽きていた。そこから先のこの3ヵ月はおまけみたいなものだ。そのおまけの人生でたった1人の子供の命を助けられたのだから、上出来だと思う。
***
ルーカスは砂煙を上げて砲撃が次々と降り注いでくる戦場をひたすらに走っていた。心臓は潰れそうに痛むし、肺だってすでに限界を訴えている。それでも決して足を止めようとしなかった。
隣軍によって帝都近くに敷かれた防衛線が突破されてしまった。ルーカスが少佐の命令を受けて戦地を離れたほんの少しの間に。ルーカスと少佐が所属していた第五師団の守る場所、あそここそが最も激戦の地となった。
あの人は、それを予想していたのだ。
予想していて――ルーカスを別の場所へと追いやったのだ。
ルーカスが戦場を離れることになったのは、重要な手紙を家に届けて欲しいという命令を少佐から受けたためだ。
「何故僕が? その命令は聞けません。ここを離れるわけにはいきません」
戦争が終わる最後の時までスノービル少佐の傍を離れるまいと考えていたルーカスにとって、その命令は到底受け入れることのできないものだった。
そんなルーカスに少佐は困った顔をしながらも手紙を握らせてきた。
「これは私が最も信頼する君にしか頼めないことだ。どうか聞いて欲しい」
ああ、そんな風に。
そんな風に言われて、どうして拒むことができようか……。
スノービル伯爵家に手紙を届け、すぐにまた戦地へと引き返そうとしたルーカスは家令の男に引き留められた。もう戦場に戻ってはなりません、と。驚くルーカスの手に手紙が握らされた。
それはスノービル少佐の命令でルーカス自身が屋敷へと運んできた手紙だった。
家令の男に促されて中身を開くと、紛れもなく自身に宛てられたものだった。あまり文字を読むことが得意ではないルーカスだったが、ゆっくりと美しい書体で書かれた文字を目で追っていく。
『 親愛なるルーカス
君ならば何があってもこの手紙を無事に屋敷に届けてくれたのだと信じている。その上でこれから君がしなければならないことを書き記す。これは私が君に宛てる初めての手紙なのだから、どうか怒らずに最後まで読んで欲しい。
これから私たちのいる地は激戦となるだろう。生きて戻れる可能性は残念ながらとても低い。だから君はこのままスノービルの屋敷に留まり、これより先は決して戦地に戻って来てはならない。
これまで私を慕い最前線までついて来てくれて感謝している。君が傍にあることでどれほど私の心が慰められたことだろう。だからこそ公私混同だと罵られてもこれ以上君をあの戦場に置いておきたくないのだ。
戦争が終結し、生活が落ち着いたら学校へ通いなさい。これからは何者にも縛られず好きなことして過ごして欲しい。家令には君の面倒を見るように頼んであるから心配はいらない。
君が怪我や病気などせずに健やかに暮らすことを心より願っています。
ケヴィン・スノービル 』
手紙を託された時に「すぐに手紙を届け、ここへ戻ります」そう言い、敬礼したルーカスにスノービル少佐はただ目を細めただけで何も答えなかった。
あの時はもう最後の別れを覚悟していたとでも言うのだろうか。
冗談じゃない、とルーカスは思った。
あの人の傍を離れるものか。
家令が必死に引き留めるのも聞かず、ルーカスは戦地に引き返した。
驚いた顔のスノービル少佐と再会し、そして―――。
空から降り注ぐ砲弾から、彼を守ったのだ。
旦那様に気付かれぬようにどこかへ姿を消して欲しい。
屋敷の者の提案は当然のことだとルーカスは思った。何せ今の自分ときたら戦争で負った傷によって右腕は無いし、顔も右半分が大きく焼け爛れていて醜悪で、誰もが目を背けたくなる怖ろしい姿をしているのだから。
華やかで美しいこの場所には全くそぐわない。
目の前の家令の男が何度も顔をしかめる姿を見るたびに、ルーカスは自分の姿をはっきりと意識してしまっていたたまれなくなる。
彼がうんざりするのもよく分かる。
これまでたくさん迷惑をかけてしまった。
新しい真っ白なシーツを怪我した体から流れる浸出液で何度も汚してしまったし、夜中には熱でうなされて何度も叫び声を上げてしまった。その度に彼やメイド達は昼夜関係なくこの部屋に来ざるを得なかったのだ。本当に申し訳なく思った。
ルーカスは先月まで帝国の軍に所属していた。
大陸を2つに分けた大戦の間前線に出ており、その最中怪我を負い、それが元で戦列を離れざるを得なくなった。戦争終結間際のことである。
軍の病院ではなく上官であるケヴィン・スノービル少佐の屋敷に運び込まれたルーカスは、夢うつつの中でラジオから流れる戦争終結の放送を耳にした。それは自国の勝利を告げるものだった。
窓から差し込む光がまだ暑い9月のこと。
その放送を聞き終えたルーカスの頬に涙が伝って落ちた。
自国の勝利に対する思いや、命を奪ってしまった相手のことでもあったし、そして……。
スノービル少佐の無事を心から喜んだということが最も大きい。
屋敷の中の様子は夢うつつの中でも常に気を配っていた。
少佐の訃報が届いたら屋敷の中は大変な騒ぎになっていただろうし、それが無かったということは彼が無事であることに他ならない。
良かった。
あの人が無事で……本当に。
ルーカスが怪我を負ってから1ヵ月。この屋敷に運び込まれてから現在まで、少佐が屋敷を訪れることはなかった。
今頃はまだ戦後の処理に奔走していることだろう。
スノービル少佐のことを考え、以前彼からもらった手紙を握りしめた。
真っ白だったその手紙はルーカスが何度も読むものだから、擦り切れてボロボロになってしまっているし、乾いた血もあちこちにこびりついている。だがそれは生まれて初めて誰かからもらった手紙、それも誰よりも大切な人からの。手放せるはずもない。大切に荷物の1番奥へと仕舞い込んだ。
ソファから立ち上がったルーカスはモスグリーンの肩掛けかばんを下げて、人目を避けるために外套のフードを目深にかぶった。
「こちらをお持ちください」
ルーカスが屋敷を出る直前、家令の男から封筒を差し出された。確かな厚みのその封筒に首を傾げていると「次の生活の支度金です」と告げられた。
とんでもない、と首を横に振った。
十分良くしてもらった。
伯爵家の者達には医者の手配をしてもらったり、これまで面倒を見てもらったのだ。
薬だって足りていない中ルーカスは優先的に飲ませてもらった。何よりも怖ろしい感染症を引き起こさずに済んだのもスノービル少佐の援助のお陰だ。それが無ければ命を失っていたかもしれない。
その上お金までもらうわけにはいかない。
これ以上迷惑をかけられない。
ルーカスは頑なだったが、家令の男もまた頑なだった。
怪我した軍人であるルーカスを屋敷から追い出す罪悪感からかもしれない。彼はとうとう肩掛けかばんの荷物の底に封筒を押し込んで来た。ルーカスが利き腕ではない慣れぬ左手でもたもたと荷物の底をあさっている間に、腕を取られて屋敷から連れ出されて車に押し込められてしまった。
車の扉が閉められて、ブロ……とエンジン音を響かせて車が走り出す。
(少佐…さようなら……どうかお元気で)
車窓から後ろに流れていく少佐の屋敷を振り返る。残った左手でガラス窓に張り付いた。屋敷が小さくなって、やがて見えなくなって景色が移り変わってもルーカスはいつまでも後ろを振り返っていた。
***
運転手はルーカスの故郷まで運転していくつもりのようだったが、故郷はすでに地図上から姿を消して久しい。ルーカスには待っている家族もいないし、大地は焦土となっていてとても人が住めるような場所ではない。
ルーカスの希望で、帝都の一角に下ろしてもらった。
屋敷からそれほど離れていない場所だから、戻って来られたら困ると運転手は考えたようだがルーカスが「絶対に少佐には会いません」と告げると信じてくれたようだ。運転手がルーカスのことを大変気の毒に思っているのが彼の態度から伝わってきた。家令には逆らえなくて仕方なく命令に従った、そんな風に思えた。
申し訳なさそうに頭を下げる運転手を見送って、それからルーカスは帝都の片隅でその日暮らしをするようになった。
「やあ、ルーカス。今日の首尾はどうだい?」
「うん、まあまあだよ」
街角に座り込んでいるルーカスに声を掛けてきた男がいる。
彼は路上生活の仲間だ。初めてここを訪れた時に職も見つからず、どうやって暮らしていこうかと途方に暮れていたルーカスに声を掛けてくれた親切な男だ。
ルーカスの片腕が無いことを知ると、どうやって生活していけば良いかを教えてくれた。
彼もまた片足が無かった。
軍人であるルーカスとは違い、一般市民である彼は故郷で砲撃を受け、戦火を逃れてここまで流れ着いてきたのだと言った。
ルーカスの故郷が長きに渡る大戦によって地図から消えたように、帝都もまた大きな被害を受けていた。建物ではない。人々の心と体にだ。
街は浮浪者や戦災孤児で溢れかえっており、まともな職に就くこともできず、路上には力なく座り込む人々の姿があった。
彼らのような者が生きて行く方法は3つ。
盗むか、体を売るか、同情を引いて恵んでもらうかというものだった。
どれもルーカスには出来そうにはなくて、困ってしまった。そんな困り切っているルーカスに男はさらに別の方法、芸を売る道を教えてくれた。
唯一ルーカスには得意なことがあって、それはハーモニカを吹くというもの。
これは少佐から教えてもらった。
戦地でもよく少佐に求められて音色を奏でていた。
これならば片手でもできるしフードを被ったままでも問題無い。
街角でハーモニカを吹いてはわずかばかりのお金をもらって、ルーカスは暮らしていた。
男は皿の中に入った数枚の小銭を見て、気の毒そうに眉を下げた。
「寒くなってきたせいか、景気が悪いなぁ……」
確かに12月に近づくにつれて段々と皿の中に入れてもらう金額が減っているのを感じていた。寒さは懐の財布をも締めてしまうらしい。
これでは1食食べられるかどうかといったところか。
「今年もたくさん人が死ぬのかな……」
去年の冬を何とか路上で越した男は、悲しそうにつぶやいた。
去年は寒さに耐えきれず次々と人が死んでいったという。ルーカスが路上生活を始めて2ヵ月。彼もまたそれを実感していた。先週まで挨拶を交わしていた人がある日の朝に突然冷たくなっている。そういうことが増えていた。
スノービル家の屋敷でもらった金はどうなったかというと……。
一ヵ月ぐらい前のことになる。怪我を負って死にそうになっていた戦災孤児に薬と温かい洋服を買ってあげたら、あっという間に消えてしまった。
医者にかかることもできず、薬は闇市で買うしかなかったのだ。当然値段は恐ろしく高額だった。
男はルーカスの行動を馬鹿だなぁと呆れた目で見ていた。
自分が生きるか死ぬかの時に他人に気を配っている場合ではないと。だがあのお金はもうじき死ぬルーカスよりも未来ある子供に使った方がいいと思ったのだ。元々もらうつもりも無かったお金だ。
コホコホと咳き込んだ。
帝都はいつも排気ガスが立ち込めていて空気が悪い。常に路上にいるルーカスの肺はとても弱っていた。冬が近づくにつれて、寒さも相まって体が限界を迎えていた。この弱った体では冬を越すことはできないだろう。自分もまた逝ってしまった彼らと同じ末路を辿ることになる。
少佐との約束を破ることになってしまうが、仕方がない。
元々ルーカスの命は少佐を救ったあの時に尽きていた。そこから先のこの3ヵ月はおまけみたいなものだ。そのおまけの人生でたった1人の子供の命を助けられたのだから、上出来だと思う。
***
ルーカスは砂煙を上げて砲撃が次々と降り注いでくる戦場をひたすらに走っていた。心臓は潰れそうに痛むし、肺だってすでに限界を訴えている。それでも決して足を止めようとしなかった。
隣軍によって帝都近くに敷かれた防衛線が突破されてしまった。ルーカスが少佐の命令を受けて戦地を離れたほんの少しの間に。ルーカスと少佐が所属していた第五師団の守る場所、あそここそが最も激戦の地となった。
あの人は、それを予想していたのだ。
予想していて――ルーカスを別の場所へと追いやったのだ。
ルーカスが戦場を離れることになったのは、重要な手紙を家に届けて欲しいという命令を少佐から受けたためだ。
「何故僕が? その命令は聞けません。ここを離れるわけにはいきません」
戦争が終わる最後の時までスノービル少佐の傍を離れるまいと考えていたルーカスにとって、その命令は到底受け入れることのできないものだった。
そんなルーカスに少佐は困った顔をしながらも手紙を握らせてきた。
「これは私が最も信頼する君にしか頼めないことだ。どうか聞いて欲しい」
ああ、そんな風に。
そんな風に言われて、どうして拒むことができようか……。
スノービル伯爵家に手紙を届け、すぐにまた戦地へと引き返そうとしたルーカスは家令の男に引き留められた。もう戦場に戻ってはなりません、と。驚くルーカスの手に手紙が握らされた。
それはスノービル少佐の命令でルーカス自身が屋敷へと運んできた手紙だった。
家令の男に促されて中身を開くと、紛れもなく自身に宛てられたものだった。あまり文字を読むことが得意ではないルーカスだったが、ゆっくりと美しい書体で書かれた文字を目で追っていく。
『 親愛なるルーカス
君ならば何があってもこの手紙を無事に屋敷に届けてくれたのだと信じている。その上でこれから君がしなければならないことを書き記す。これは私が君に宛てる初めての手紙なのだから、どうか怒らずに最後まで読んで欲しい。
これから私たちのいる地は激戦となるだろう。生きて戻れる可能性は残念ながらとても低い。だから君はこのままスノービルの屋敷に留まり、これより先は決して戦地に戻って来てはならない。
これまで私を慕い最前線までついて来てくれて感謝している。君が傍にあることでどれほど私の心が慰められたことだろう。だからこそ公私混同だと罵られてもこれ以上君をあの戦場に置いておきたくないのだ。
戦争が終結し、生活が落ち着いたら学校へ通いなさい。これからは何者にも縛られず好きなことして過ごして欲しい。家令には君の面倒を見るように頼んであるから心配はいらない。
君が怪我や病気などせずに健やかに暮らすことを心より願っています。
ケヴィン・スノービル 』
手紙を託された時に「すぐに手紙を届け、ここへ戻ります」そう言い、敬礼したルーカスにスノービル少佐はただ目を細めただけで何も答えなかった。
あの時はもう最後の別れを覚悟していたとでも言うのだろうか。
冗談じゃない、とルーカスは思った。
あの人の傍を離れるものか。
家令が必死に引き留めるのも聞かず、ルーカスは戦地に引き返した。
驚いた顔のスノービル少佐と再会し、そして―――。
空から降り注ぐ砲弾から、彼を守ったのだ。
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