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第12章 サーカスの夜
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「ああ、若君。立派になりましたね……」
ハラハラと落ちる涙を拭いながら感慨深げにつぶやいたのはリグだった。団長達が全員集まった中央広場で、サーカスの団長の正装である燕尾服を着たスキルの団長就任挨拶は無事終了した。
いつも苦労ばかりかけられている彼が今、こうして団長の座に就いている。立派な姿で。ついこの間までは考えられないことだった。
「おめでとー!」
団員達は次々と祝福の言葉を述べる。
「若君、私は今日という日をこんなにも嬉しく思ったことはありません」
「おいおい、もう呼び名は『若君』じゃなくって『団長』だぜぇ?」
そのリグの様子に呆れかえったように傍に立っていたブレンはため息をつく。
「いいんです。私にとって若君はいつまでたっても若君なんですから!」
そう言うリグの顔には誇らしげな表情が浮かんでいた。
シルクハットを外して挨拶を終えたスキルはもう一度口を開いた。
「堅苦しいことは抜きにして今日は思いきり楽しんでくれ。だがその前に1つ、言っておきたいことがある」
何だろうと首を傾げる団員達に対して彼は高らかに宣言した。
「今日をもって黒のピエロ団を解散したい」
ザワ
その突然の宣言に会場全体が震えるようにざわめいた。
それもそのはず、彼らの盗賊稼業はサーカスの創始者でもある曽祖父の時代から続いているものだった。ある意味伝統ともいえる盗賊稼業の終結宣言は彼らに与える衝撃としては充分なものだった。
これからこのサーカス団がどうなるのだろうと誰もが考えているのが分かった。
ザワザワしている皆を手で制して、スキルは言葉を続ける。
「皆知ってのとおり、前団長の代からサーカスの経営が軌道に乗り始めた。そしてこれからもますますこのサーカスの発展を目指す。盗賊稼業をしなくても飢えや貧しい思いは決してさせない。約束する。だから――どうか俺を信じてついてきて欲しい」
水を打ったように静まり返った。
しかし、次の瞬間ワッと団員達の歓声が響き渡った。
「あったり前だろー! 俺達はいつだって団長についていくぜぇ!」
「しっかしまあ、よく決心したもんだぜ。貴族連中のお宝を盗めないのはちっとばかり残念だけどよ。せめて一言くらい俺に相談しろっての! このやろ」
スキルのこめかみにグリグリと拳を押し当ててブレンは飛びついた。次々と団員達も押し寄せ一気にスキルを取り囲んだ。
レイピアは遠巻きで、複雑そうな表情をしてその光景を見ていた。
***
スキルの黒のピエロ団解散宣言が終わった後は、サーカスの新しい門出を祝って飲めや歌えのドンチャン騒ぎになった。
中央広場に設置されたテーブルの上には所狭しと料理が並べられたし、会場内にはワインの樽ごと運び込まれる始末で、それらは次々と団員達の胃袋に流し込まれた。
歌い出す者、ひたすら話に興じる者、大笑いをしすぎて転倒する者すらいた。
ソアラとヴォルクがダンスをし、それをうらやましそうに見る団員達。
リグは羽目を外しすぎて目を回した団員の介抱のために、会場中を駆けずりまわる。
シアはブレンをダンスに誘おうとして失敗。結果いつも通りの口喧嘩になりお互いそっぽをむいてしまった。
スキルはパーティーの主役として詰めかける団員達とお酒を飲みながら話に興じていた。
そしてレイピアはというと……。
団員達によって半ば強引に誘われ、ダンスをしていた。
彼らの間で踊られるものは貴族の社交場で踊られるものとは違って、型が決まっていない。軽快な音楽に合わせて自分の好きなようにくるくると回りながら踊る。時に手と足を鳴らしてリズムを取り、隣り合う人と視線が合ったらにっこりと微笑む。そんな踊りだった。
初めての踊りに戸惑いながらも、レイピアは心の底から楽しんでいた。
パーティーは最高潮に達し、夜もだいぶ更けてきた頃。レイピアは会場を後にし、1人木に背をもたせかけて考え事をしていた。
黒のピエロ団の解散を宣言したスキル。
―――その意図は……?
そのことをずっと考え続けていたのだ。
「こんなところにいた」
「!」
いきなり背後から声を掛けられ、レイピアは飛び上がるくらいに驚いた。振り返るとスキルの姿が。なぜいつも気配も足音も無く現れるのだろうか。
心臓に悪い……。
「パーティーの主役がこんなところにいていいの?」
「まあね。あとは団員達で勝手にやるさ。君こそどうしてこんなところに?」
「私は……少し疲れたから」
人込みに酔ってしまったのだ。浅くため息をつくと、スキルを見上げ問いかける。
「ねえ。どうして……」
盗賊をやめるなんて言ったの?
レイピアの言わんとしていることを察したスキルはレイピアが言い終わるよりも先に口を開いた。
「今回のことで、少し考えた。俺はこのサーカスを守っていかなくてはならない立場だ。盗賊稼業で団員達を危険にさらすわけにはいかない」
スキルが盗賊稼業をやめようと決めた最大のきっかけはやはりユーザのことだった。彼の身に起こったことは何も特別なことではない。形こそ違っても、スキルの身にも起こり得ることなのだ。盗賊稼業を続けている限りその危険は常につきまとう。
「いつまた君みたいに追いかけてくる貴族が現れるかわからないしね」
「そうね。きっとそれが1番いいのかもしれないわ」
心からの言葉だった。
団員達やスキルが捕まる姿など見たくはなかった。そしてユーザのような悲しい人を出してはいけないと思った。
「でも、このダイヤは……返さない。最後の獲物だからね」
スキルはそう言って、ダイヤの入っている胸元にそっと手を置く。レイピアもまた彼のそんな態度に口元を笑みの形に歪めてみせた。
「望むところよ。絶対に、期日内に奪い返してやるんだから」
「さて、決意も新にしたところで…せっかくのパーティーですから踊りましょうか?」
半ば強引にレイピアの手を取り、踊り出す。似ているな、と思った。初めて会ったときに。
レイピアは領主の娘としてパーティーに参加し、スキルは『ランス』という名の貴族として現れた。
あの時もこんな風に踊ったっけ……。
軽やかなステップで優雅な振る舞い。リードが上手いと思った。
少し前のことなのに、何だか遠い昔のことのようにも感じられる。
「香水つけてる。この香りは…スズラン?」
顔を首元近くまで寄せられて、ギクッと体が強張る。
なんでそんなことまでわかるのよ、と思いつつ頷く。
「…ええ」
「君に良く似合ってる……」
真顔で瞳を覗き込まれて、不覚にも心臓が跳ね上がった。じわじわと頬に熱が上る。
うろたえるレイピアに
「―――毒があるところなんて、特に」
そう付け加え、ニッと唇の端を吊り上げた。またしてもスキルにからかわれたと知り、今度は怒りで顔を染める。
「ええ、そうでしょうとも。どうせ毒だらけよっ!」
くっくっとスキルが喉の奥で笑う。
「そのワンピースも可愛いね。真っ白で。スズランの妖精みたいだ」
「ええ、ええ。毒だらけのね」
「うーん。褒めているのになぁ」
苛立ちつつも、レイピアはそのやりとりに、最初出会った頃みたいに明らかな嫌悪感を抱かずにいた。むしろ、心地よささえ感じている自分に気がついていた。
ステップしていた足を止め、レイピアは1回深呼吸をすると、まるで独り言を言うようにつぶやいた。
「ありがとう。今回のこと感謝しているわ……」
ユーザとの件について、これまで言えずにいたお礼を伝えることにした。
スキルはわずかに肩をすくめただけで答えなかった。
「あなたがあの時、教えてくれなかったら…私はユーザを永遠に憎んだままだったと思う。本当にありがとう」
深々と頭を下げる、そしてそれからスキルを真っ直ぐに見据えた。
「でも、わからないことがあるの。なぜあなたは助けてくれたの……?」
本当に分からないという様子のレイピアの問いにスキルは苦笑をもらした。
「本当、鈍いね。まだわからないの……? 前にも言っただろう、好きだからって」
「何言ってるの。いつもそう、冗談ばかり言って……。からかわないで」
視線を外し、困惑したように左、右とうろうろと彷徨わせた後で顔も背ける。
「冗談なんかじゃない。好きでもない女のために命の危険を侵してまで闘ったりしないよ」
レイピアの髪の毛を一房すくい上げ、愛しげに唇を寄せた。
「美しいな……」
その熱を帯びた声に弾かれるように、スキルを見上げる。
何? 何を言ってるの……。
おかしい、変だ。この人はどうしてしまったのだろう。
「酔っているの……?」
「いたって素面だよ」
「嘘。さっき飲んでいたじゃない」
「あんなの飲んだうちに入らない」
微かに上気した頬。
そして向けられたのは熱を帯びた視線。
風に吹かれて揺らめく炎のようなその視線から逃れるようにレイピアは再び顔を背けた。自分の顔に急速に血が集まっていくのがわかる。息が苦しくなって頭がくらくらした。
「おかしいかな?」
「変。変よ、あなたさっきから自分で何を言っているかわかっているの?」
後ずさりする。
2歩ほど下がったところでトン、と背中に木の幹が当たる。動揺し、顔を上げるとスキルが微かに笑うのが視界に映った。
「キスしてもいい?」
「―――え……?」
それは問いかけというより合図のようなものだった。
レイピアが驚き、目を見開くよりも先に唇が重なった。まるで壊れ物を扱うように軽く触れるだけのものが1回、2回。
以前のような薬を飲ませるためのものではなく、純粋に唇を重ねるための行為。いつものからかうような態度とは明らかに異なっているその態度。
「な……」
何で、と思う。
頭が真っ白になる。バクバクと鳴る心臓の音が耳にまで届いてくる。逃れようとして手を突っ張って押しのけようとしたが逆に押し戻されてしまった。
「逃げないで」
耳元で囁かれる、声。
ゾクリと体が震えた。
レイピアの顔を挟むようにして木の幹に両手をつくスキル。顔を背けることもできそうにない。
スキルと視線がぶつかる。
レイピアは若干の冷静さを取り戻した。ぼんやりと今、手を伸ばせばスキルの懐にあるダイヤを取り返せそうだと考えた。
隙を見せたことのないスキルが初めて見せた、隙。
絶好のチャンス。
少し手を伸ばせば。
その手を伸ばしさえすれば……。
だが、実際にレイピアがとった行動といえばスキルの背に両腕をまわすことだった。碧色の瞳に吸い込まれるようにゆっくりと瞳を閉じる。
再び重ねられる口づけ。
唇を割りスキルの舌が侵入してくる。
―――深い。
思考能力が奪われる。頭がくらくらする。木の幹に背をもたせかけていなかったら、その場にへたり込んでしまったかもしれない。
サワ。
風が吹いて木々の枝がこすれ合う音がした。
「………ッ!」
その瞬間、レイピアは夢から目覚めたように一気に現実に引き戻され、思いきりスキルを突き飛ばした。
「私……っ!」
唇を手の平で覆って絶句する。
スキルの碧色の瞳と再び視線がぶつかると、たまらずレイピアはその場から逃げ出していた。
がむしゃらに走った。
頭が真っ白になってなにも考えることができない。途中、何人かの団員に出くわしたけれど、それを押しのけるようにしてひたすら走った。
「あ……っ!」
何かに足を取られ派手に転んでしまった。
運の悪いことにそこは小石がたくさん落ちているところで、転んだ拍子にワンピースのスカートが破け、擦りむいた膝からは血がにじみ出た。
それでもレイピアは怪我に構うこともなく呆然としてその場に座り込んでいた。
私、忘れてた……。
あの時の一瞬……ダイヤのことを。1番忘れてはいけないものなのに。それを取り返すことだけが今のレイピアの唯一の目的。
それなのに――――――。
「何で……!?」
両耳を押さえてうずくまる。頭が混乱し、平静を取り戻すことができずにいた。
「どうしてっ」
どうしてダイヤのことなど、どうでもいいと思ってしまったのだろう?
そんな風に思ってしまった自分が許せなかった。母親の顔が脳裏に浮かぶ。
「お母様、お母様……っ」
ごめんなさい、ごめんなさいと何度も心の中で謝る。
ダイヤのことを忘れてしまってごめんなさい…。
スキルの所為でいとも簡単に心が乱れてしまう自分がたまらなく嫌だった。初めて出会ったときからいつも、そう。
スキルの一挙一動にどうしようもないほどに心が乱される。
「ああ、若君。立派になりましたね……」
ハラハラと落ちる涙を拭いながら感慨深げにつぶやいたのはリグだった。団長達が全員集まった中央広場で、サーカスの団長の正装である燕尾服を着たスキルの団長就任挨拶は無事終了した。
いつも苦労ばかりかけられている彼が今、こうして団長の座に就いている。立派な姿で。ついこの間までは考えられないことだった。
「おめでとー!」
団員達は次々と祝福の言葉を述べる。
「若君、私は今日という日をこんなにも嬉しく思ったことはありません」
「おいおい、もう呼び名は『若君』じゃなくって『団長』だぜぇ?」
そのリグの様子に呆れかえったように傍に立っていたブレンはため息をつく。
「いいんです。私にとって若君はいつまでたっても若君なんですから!」
そう言うリグの顔には誇らしげな表情が浮かんでいた。
シルクハットを外して挨拶を終えたスキルはもう一度口を開いた。
「堅苦しいことは抜きにして今日は思いきり楽しんでくれ。だがその前に1つ、言っておきたいことがある」
何だろうと首を傾げる団員達に対して彼は高らかに宣言した。
「今日をもって黒のピエロ団を解散したい」
ザワ
その突然の宣言に会場全体が震えるようにざわめいた。
それもそのはず、彼らの盗賊稼業はサーカスの創始者でもある曽祖父の時代から続いているものだった。ある意味伝統ともいえる盗賊稼業の終結宣言は彼らに与える衝撃としては充分なものだった。
これからこのサーカス団がどうなるのだろうと誰もが考えているのが分かった。
ザワザワしている皆を手で制して、スキルは言葉を続ける。
「皆知ってのとおり、前団長の代からサーカスの経営が軌道に乗り始めた。そしてこれからもますますこのサーカスの発展を目指す。盗賊稼業をしなくても飢えや貧しい思いは決してさせない。約束する。だから――どうか俺を信じてついてきて欲しい」
水を打ったように静まり返った。
しかし、次の瞬間ワッと団員達の歓声が響き渡った。
「あったり前だろー! 俺達はいつだって団長についていくぜぇ!」
「しっかしまあ、よく決心したもんだぜ。貴族連中のお宝を盗めないのはちっとばかり残念だけどよ。せめて一言くらい俺に相談しろっての! このやろ」
スキルのこめかみにグリグリと拳を押し当ててブレンは飛びついた。次々と団員達も押し寄せ一気にスキルを取り囲んだ。
レイピアは遠巻きで、複雑そうな表情をしてその光景を見ていた。
***
スキルの黒のピエロ団解散宣言が終わった後は、サーカスの新しい門出を祝って飲めや歌えのドンチャン騒ぎになった。
中央広場に設置されたテーブルの上には所狭しと料理が並べられたし、会場内にはワインの樽ごと運び込まれる始末で、それらは次々と団員達の胃袋に流し込まれた。
歌い出す者、ひたすら話に興じる者、大笑いをしすぎて転倒する者すらいた。
ソアラとヴォルクがダンスをし、それをうらやましそうに見る団員達。
リグは羽目を外しすぎて目を回した団員の介抱のために、会場中を駆けずりまわる。
シアはブレンをダンスに誘おうとして失敗。結果いつも通りの口喧嘩になりお互いそっぽをむいてしまった。
スキルはパーティーの主役として詰めかける団員達とお酒を飲みながら話に興じていた。
そしてレイピアはというと……。
団員達によって半ば強引に誘われ、ダンスをしていた。
彼らの間で踊られるものは貴族の社交場で踊られるものとは違って、型が決まっていない。軽快な音楽に合わせて自分の好きなようにくるくると回りながら踊る。時に手と足を鳴らしてリズムを取り、隣り合う人と視線が合ったらにっこりと微笑む。そんな踊りだった。
初めての踊りに戸惑いながらも、レイピアは心の底から楽しんでいた。
パーティーは最高潮に達し、夜もだいぶ更けてきた頃。レイピアは会場を後にし、1人木に背をもたせかけて考え事をしていた。
黒のピエロ団の解散を宣言したスキル。
―――その意図は……?
そのことをずっと考え続けていたのだ。
「こんなところにいた」
「!」
いきなり背後から声を掛けられ、レイピアは飛び上がるくらいに驚いた。振り返るとスキルの姿が。なぜいつも気配も足音も無く現れるのだろうか。
心臓に悪い……。
「パーティーの主役がこんなところにいていいの?」
「まあね。あとは団員達で勝手にやるさ。君こそどうしてこんなところに?」
「私は……少し疲れたから」
人込みに酔ってしまったのだ。浅くため息をつくと、スキルを見上げ問いかける。
「ねえ。どうして……」
盗賊をやめるなんて言ったの?
レイピアの言わんとしていることを察したスキルはレイピアが言い終わるよりも先に口を開いた。
「今回のことで、少し考えた。俺はこのサーカスを守っていかなくてはならない立場だ。盗賊稼業で団員達を危険にさらすわけにはいかない」
スキルが盗賊稼業をやめようと決めた最大のきっかけはやはりユーザのことだった。彼の身に起こったことは何も特別なことではない。形こそ違っても、スキルの身にも起こり得ることなのだ。盗賊稼業を続けている限りその危険は常につきまとう。
「いつまた君みたいに追いかけてくる貴族が現れるかわからないしね」
「そうね。きっとそれが1番いいのかもしれないわ」
心からの言葉だった。
団員達やスキルが捕まる姿など見たくはなかった。そしてユーザのような悲しい人を出してはいけないと思った。
「でも、このダイヤは……返さない。最後の獲物だからね」
スキルはそう言って、ダイヤの入っている胸元にそっと手を置く。レイピアもまた彼のそんな態度に口元を笑みの形に歪めてみせた。
「望むところよ。絶対に、期日内に奪い返してやるんだから」
「さて、決意も新にしたところで…せっかくのパーティーですから踊りましょうか?」
半ば強引にレイピアの手を取り、踊り出す。似ているな、と思った。初めて会ったときに。
レイピアは領主の娘としてパーティーに参加し、スキルは『ランス』という名の貴族として現れた。
あの時もこんな風に踊ったっけ……。
軽やかなステップで優雅な振る舞い。リードが上手いと思った。
少し前のことなのに、何だか遠い昔のことのようにも感じられる。
「香水つけてる。この香りは…スズラン?」
顔を首元近くまで寄せられて、ギクッと体が強張る。
なんでそんなことまでわかるのよ、と思いつつ頷く。
「…ええ」
「君に良く似合ってる……」
真顔で瞳を覗き込まれて、不覚にも心臓が跳ね上がった。じわじわと頬に熱が上る。
うろたえるレイピアに
「―――毒があるところなんて、特に」
そう付け加え、ニッと唇の端を吊り上げた。またしてもスキルにからかわれたと知り、今度は怒りで顔を染める。
「ええ、そうでしょうとも。どうせ毒だらけよっ!」
くっくっとスキルが喉の奥で笑う。
「そのワンピースも可愛いね。真っ白で。スズランの妖精みたいだ」
「ええ、ええ。毒だらけのね」
「うーん。褒めているのになぁ」
苛立ちつつも、レイピアはそのやりとりに、最初出会った頃みたいに明らかな嫌悪感を抱かずにいた。むしろ、心地よささえ感じている自分に気がついていた。
ステップしていた足を止め、レイピアは1回深呼吸をすると、まるで独り言を言うようにつぶやいた。
「ありがとう。今回のこと感謝しているわ……」
ユーザとの件について、これまで言えずにいたお礼を伝えることにした。
スキルはわずかに肩をすくめただけで答えなかった。
「あなたがあの時、教えてくれなかったら…私はユーザを永遠に憎んだままだったと思う。本当にありがとう」
深々と頭を下げる、そしてそれからスキルを真っ直ぐに見据えた。
「でも、わからないことがあるの。なぜあなたは助けてくれたの……?」
本当に分からないという様子のレイピアの問いにスキルは苦笑をもらした。
「本当、鈍いね。まだわからないの……? 前にも言っただろう、好きだからって」
「何言ってるの。いつもそう、冗談ばかり言って……。からかわないで」
視線を外し、困惑したように左、右とうろうろと彷徨わせた後で顔も背ける。
「冗談なんかじゃない。好きでもない女のために命の危険を侵してまで闘ったりしないよ」
レイピアの髪の毛を一房すくい上げ、愛しげに唇を寄せた。
「美しいな……」
その熱を帯びた声に弾かれるように、スキルを見上げる。
何? 何を言ってるの……。
おかしい、変だ。この人はどうしてしまったのだろう。
「酔っているの……?」
「いたって素面だよ」
「嘘。さっき飲んでいたじゃない」
「あんなの飲んだうちに入らない」
微かに上気した頬。
そして向けられたのは熱を帯びた視線。
風に吹かれて揺らめく炎のようなその視線から逃れるようにレイピアは再び顔を背けた。自分の顔に急速に血が集まっていくのがわかる。息が苦しくなって頭がくらくらした。
「おかしいかな?」
「変。変よ、あなたさっきから自分で何を言っているかわかっているの?」
後ずさりする。
2歩ほど下がったところでトン、と背中に木の幹が当たる。動揺し、顔を上げるとスキルが微かに笑うのが視界に映った。
「キスしてもいい?」
「―――え……?」
それは問いかけというより合図のようなものだった。
レイピアが驚き、目を見開くよりも先に唇が重なった。まるで壊れ物を扱うように軽く触れるだけのものが1回、2回。
以前のような薬を飲ませるためのものではなく、純粋に唇を重ねるための行為。いつものからかうような態度とは明らかに異なっているその態度。
「な……」
何で、と思う。
頭が真っ白になる。バクバクと鳴る心臓の音が耳にまで届いてくる。逃れようとして手を突っ張って押しのけようとしたが逆に押し戻されてしまった。
「逃げないで」
耳元で囁かれる、声。
ゾクリと体が震えた。
レイピアの顔を挟むようにして木の幹に両手をつくスキル。顔を背けることもできそうにない。
スキルと視線がぶつかる。
レイピアは若干の冷静さを取り戻した。ぼんやりと今、手を伸ばせばスキルの懐にあるダイヤを取り返せそうだと考えた。
隙を見せたことのないスキルが初めて見せた、隙。
絶好のチャンス。
少し手を伸ばせば。
その手を伸ばしさえすれば……。
だが、実際にレイピアがとった行動といえばスキルの背に両腕をまわすことだった。碧色の瞳に吸い込まれるようにゆっくりと瞳を閉じる。
再び重ねられる口づけ。
唇を割りスキルの舌が侵入してくる。
―――深い。
思考能力が奪われる。頭がくらくらする。木の幹に背をもたせかけていなかったら、その場にへたり込んでしまったかもしれない。
サワ。
風が吹いて木々の枝がこすれ合う音がした。
「………ッ!」
その瞬間、レイピアは夢から目覚めたように一気に現実に引き戻され、思いきりスキルを突き飛ばした。
「私……っ!」
唇を手の平で覆って絶句する。
スキルの碧色の瞳と再び視線がぶつかると、たまらずレイピアはその場から逃げ出していた。
がむしゃらに走った。
頭が真っ白になってなにも考えることができない。途中、何人かの団員に出くわしたけれど、それを押しのけるようにしてひたすら走った。
「あ……っ!」
何かに足を取られ派手に転んでしまった。
運の悪いことにそこは小石がたくさん落ちているところで、転んだ拍子にワンピースのスカートが破け、擦りむいた膝からは血がにじみ出た。
それでもレイピアは怪我に構うこともなく呆然としてその場に座り込んでいた。
私、忘れてた……。
あの時の一瞬……ダイヤのことを。1番忘れてはいけないものなのに。それを取り返すことだけが今のレイピアの唯一の目的。
それなのに――――――。
「何で……!?」
両耳を押さえてうずくまる。頭が混乱し、平静を取り戻すことができずにいた。
「どうしてっ」
どうしてダイヤのことなど、どうでもいいと思ってしまったのだろう?
そんな風に思ってしまった自分が許せなかった。母親の顔が脳裏に浮かぶ。
「お母様、お母様……っ」
ごめんなさい、ごめんなさいと何度も心の中で謝る。
ダイヤのことを忘れてしまってごめんなさい…。
スキルの所為でいとも簡単に心が乱れてしまう自分がたまらなく嫌だった。初めて出会ったときからいつも、そう。
スキルの一挙一動にどうしようもないほどに心が乱される。
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