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第10章 2年前の、あの日
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爽やかな朝だった。
空は青くて雲1つない。
まるでレイピアの新しい旅立ちを祝福しているように頬を撫でる風が心地良い。
両手いっぱいの荷袋を抱えてレイピアはホットリープの街を歩いていた。
目的は1つ、この街を出て冒険者になること。
レイピアは幼い頃から冒険というものに憧れを抱いていた。しかしながら世間知らずということもあり冒険者になるためにはこれからどこへ行って、何をしたらいいのかわからなかったから今はホットリープの街をぶらぶらと歩いている。
今まで屋敷から1人で外へ出たことなどなかったから、不安もあるけれどそれ以上に心は弾んでいる。大嫌いな家から、そして父親の元から離れられたことが嬉しくてたまらない。
屋敷を飛び出したのは今朝のこと。
元々あった確執が今朝になって埋めようがないくらいに広がったからだ。
仕事だ、そう言って父は1ヵ月も前から約束していた母親の墓参りを放り出した。少しも悪びれることなく当然のような顔をして仕事に向かおうとした。
腹が立ったから思いっきり平手打ちをした。人を引っ叩いたのは初めてだったから手は痛かったけれど、それ以上に心の方が痛かった。
少しは私とお母様の心の痛みを知ればいいんだわ!
それなのに父はレイピアの気持ちを知るどころかさっさと仕事に行ってしまった。悔しくて悲しくてレイピアは出て行くことを決意して、すぐに荷物をまとめると屋敷を飛び出した。
つい最近になってから婚姻話が出ていたこともある。父と母のような愛のない結婚なんて御免だ!
もう2度とあの屋敷に戻ることはない、そう思って。
初めは目に映る景色が珍しくて、目を輝かせて歩き回っていた。
かわいい雑貨のお店を覗いたり、普段食べたこともないような珍しいお菓子を買ってみたり。屋敷から持ち出したお金や宝石があったので金銭面では当分困らないだろう。
しかし楽しくてたまらなかったというのに、だんだんと日が沈んでいくにつれて気持ちも沈んできた。勢いで屋敷を飛び出したものの、これからどうしたらいいのだろうかと途方に暮れる。
歩き慣れていないせいもあって、足はへとへとでとっくに限界を迎えていた。
宿を取りたいと思ったが、お嬢様として育てられてきたレイピアには宿の取り方もそして肝心の宿の場所もまるっきりわからなかった。
「どうしよう…」
夜になると急に冷え込んできた。寒さから身を守るようにして胸の前で荷袋を抱え込む。
こんな風に冷え込むことなど予想してなかったから、荷袋には薄着のものしか詰めていない。とことん世間知らずだ。そのことがいっそうレイピアの心を沈ませた。
伏目にした青い瞳が潤んでいく。
いつの間にかとぼとぼ歩いている内に路地の奥の方に来ていたらしい。ハッと顔をあげると今までまばらにあった人通りがまったく無くなっていた。
積み重なった空き箱が路上の半分を覆い尽くしていて、息苦しささえ感じるような、そんな場所。
やがてしばらく歩いていると一件の店から漏れる明かりが目に飛び込んできた。その明かりに引き寄せられるようにレイピアは近づいて行った。
おずおずと上半分が開いている扉越しに中を覗いてみると、見たことも無い光景が広がっていた。たくさんのテーブルにたくさんの椅子、そして談笑しながらグラスを傾ける人達。
何のお店かしら?
酒場というものを見たことがなかったレイピアにはその店が何なのか見当もつかなかった。
楽しそうな場所であることはわかった。
すると急に扉が開き中から人が出てきた。中に入ることもなく突っ立っているレイピアに不思議そうな視線を向けると、そのままその人達は暗い路地へと消えていった。それをぼんやりと見送ってから、意を決したように店の中に入った。
外とはうってかわって店の中は熱気に包まれていた。酒の匂いと煙草のきつい匂いに思わずレイピアは顔をしかめて口元を覆う。
店内を見回した後、どうしたらいいのかわからなくて入り口で所在なさげにポツンと佇む。
カウンターには店主らしき男がいて、夜中にたった1人で現れたレイピアに怪訝そうな目を向けると近づいてきた。
「こんなところに何の用だい? ここはあんたみたいなお嬢さんの来る場所じゃないよ」
男はレイピアの上等な布地を使った服装から良い身分の娘であることを判断したのだろう、そんなことを言った。恐らく親切心から出た言葉だろう。
「あ、あの…私、道に迷ってしまって……」
顔を俯きがちにして声を震わせた。
「だったらなおさらこんな所に来るべきじゃない。ここは裏通りの酒場だ。荒くれ者達がいっぱいいるだろう?」
店主の男が顎で店内を指し示す。
その方向を恐る恐る見ると、30歳前後の大男達が酒を片手にしながらレイピアの方に視線を向けてにやにやと下卑た笑いを浮かべている。そればかりでなく彼女と同じ年頃の男達までもが舐めまわすようにレイピアの全身を見つめてきているではないか。
裏通りの酒場に女が1人で入り込むほど危険なものはない。
本能がこの場に留まることを危険だと告げ、ぞくりと肌があわ立つ。
青ざめた顔で震えるレイピアを見て店主の男はため息をつく。
「どこに向かおうとしてたんだい?」
「や、宿屋へ…」
親切にも店主の男はレイピアのために、わざわざメモ帖に宿屋への行き方を書いてくれた。「気をつけるんだよ」そう言ってくれた男に何度もお礼を言って早々と酒場を後にする。
早くここから離れなくては、そう思いくたくたになった足に鞭をうつ。しかし、何歩も歩かないうちにすぐに酒場から追いかけて来たらしい男達によって囲まれる。
「よお、オネーチャン。俺達が宿屋まで案内してやろうか?」
頬に傷のある大男が口を開いた。
明らかに酔っ払っていて、口元はにやにやと笑みの形に歪めている。
レイピアにはこういうときの対応がちっともわからない。何しろ酔っ払いに囲まれるなど初めてのことだったからだ。だから無言で首を横に振ることしかできなかった。すぐにでも逃げ出したいのに足がガクガク震えて言うことを聞かないのだ。
どうしよう、どうしよう。
頭の中は真っ白になっていてパニック寸前にまで陥っている。
男は強引にレイピアの腕を掴むと暗い路地の方へ連れて行こうとした。
「や、やめて…っ!」
裏返って、ほとんど声にならない声で叫ぶ。
レイピアは本当に恐怖を感じているときは声が出ないことを知った。大声を出して助けを求めたいのに、それができない。声が喉に張り付いてしまったみたいに。
「ハッハッハ。聞いたか? やめて、だってよ。何てかわいらしい声なんだ」
「それに美人だな、こんな極上の女そうそういねえや」
大男の手が背中の辺りまで伸ばしたレイピアの髪に触れる。その瞬間ぞっと鳥肌が立って、思いっきり大男の足を踏みつける。レイピアにできる精一杯の抵抗。痛みに堪えきれず叫び声を上げた大男の手を振りほどき、逃げ出した。
先程の店にさえ逃げ込めばあの店主が助けてくれるかもしれない、そう思って。
しかしすぐに別の男がレイピアの肩を掴んで路上に叩きつけた。石畳の固い路上にしたたかに背中を打った衝撃で思わず咳込む。
「この女…っ!」
足を踏まれた男は怒り狂って馬乗りになると、レイピアの胸倉を掴み上げて思いっきり拳を振り上げた。
殴られる――――。
そう思った瞬間、大男の体がいきなり吹き飛んだ。酒場の外壁に沿って積み上げられた木の箱の山へと頭から突っ込む。
驚いてレイピアが見上げると、そこには男が立っていた。
ホットリープの辺りでは滅多に見かけることのない褐色肌の異国風の男。
背中まである黒い髪の毛を1本に束ね、闇の中でもギラギラ光るタイガーイエローの瞳は氷のように冷たい。腰には剣を差して皮の胸当てをつけ、剣士風の格好をしている。
近寄るだけでズタズタに切り裂かれてしまいそうな、抜き身の刃のような男だとレイピアは思った。
「邪魔だ、酒場に入れねぇだろうが」
その男は忌々しそうに冷たい声で気絶してしまった大男に言い放つと、呆然と座り込むレイピアなどまるで眼中にないように通り過ぎた。
「て、てめえ!」
大男の仲間は顔を真っ赤にして怒りをあらわにすると褐色肌の男に殴りかかった。
「低脳なサルが!」
男は吐き捨てるように言い放つと腰に下げている剣に手を伸ばすことなく、襲い掛かってきた男達を次々と素手で殴り倒した。剣を抜くまでもない、そう考えているのだろう。
数十秒もしないうちに全員を地面に叩き伏せた。
「クソッタレ。手が汚れたじゃねえか」
手をぶらぶらと振りながら面倒くさそうにそう毒づいて、褐色肌の男は再び酒場に向けて歩き出した。
「あ、あの…っ、ちょっと待……」
その迫力に圧倒されながらも、レイピアは何とか勇気を振り絞って褐色肌の男を呼び止めた。
振り向いた男は冷ややかな目でレイピアを見た後、いきなり胸倉を掴んで酒場の外壁に押し当てた。その勢いにケホ、とむせ込む。
「そもそもの原因はおまえか?」
レイピアはびっくりして目を見開いた後、申し訳なさそうに俯いた。
「は、はい。ごめんなさい」
男はレイピアの身なりの良い服装を見てつまらなそうにため息をついた。
「どこぞの貴族の馬鹿女か。どういうつもりで来たか知らんがさっさと消えちまえ」
今まで生きてきてこんなひどい言葉を投げつけられたことはない。
目障りだ、と言われそのあまりにきつすぎる言葉に心を切り裂かれるような、そんな気持ちだったが深々と頭を下げる。
「あ、あの…ありがとうございました」
「勘違いするなよ。あのサル共が邪魔だったから退かしただけだ」
「それでも…っ、助けてもらったことに変わりはないから。ありがとうございます。私の名前はレイピアと言います。このお礼なら何でもしますから!」
男は何の感情もこもらない目で見ていたが、レイピアの発言に考え込むそぶりをした。
「ふ…ん。何でもする、ね。よく見るとなかなかの美人じゃないか」
一瞬男の目に剣呑な光が浮かんだ。
男はレイピアの顎を強引に持ち上げると、戸惑い震える唇に自らのそれを重ねた。
さらに口づけを繰り返そうとするが、レイピアが何の反応も示さなかったので興ざめしたように舌打ちをすると男はレイピアを突き放した。よろ、とよろける。
「少しぐらい抵抗しろよ。つまらねえ…」
レイピアは唇を押さえたまま目をまん丸に見開いた。
「今の…って」
今のって…今のって……。
もしかして……。
呆然とするレイピアに男は盛大にため息をついた。
「おいおい、まさか本当にお嬢様なのか? キスも知らないなんて」
「は、話には聞いたことがあるけど…」
「マジかよ…」
呆れかえったように頭をガシガシと掻く。しかしその表情には悪びれた様子は少しもない。ふいに何かを思いついたように、男はレイピアの手を強引に引いて歩き出した。
半ば引きずられそうなほどの力に戸惑いの声を上げる。
「あの、どこに…?」
「大方家出でもして行くところがないんだろう? しばらく面倒見てやってもいいぜ」
「でも…私、あなたのこと全然知らないもの」
その言葉に男はつまらなそうに顔をしかめる。
「そうか、それじゃあな。せいぜい同じ目に遭わないように気をつけろよ」
意外なほどにあっさりとレイピアの手を離すと、そのまま背を向けて歩いて行く。人気のない路地に取り残されそうになって慌てて男を呼び止める。いつまた変な男にからまれるかわからない状態なのだ。
「ま、待って!」
振り返った男はにやりと笑って手を突き出した。
まるで初めからレイピアが追いすがってくるのがわかっていたかのように。
「来いよ、レイピア」
事実レイピアは男から逃げることができなかった。
惹かれてしまったから。
名前も、年も、職業も、何1つ目の前の男のことを知らないというのに―――それでも惹かれた。
男の、孤高の狼のような野性的で荒々しいところに。凍った月を思わせるような冷たすぎるほどのタイガーイエローの瞳に囚われた。
おずおずと手を伸ばす。
「私、足手まといになるかもしれないけど…がんばるから…だから、連れて行って」
突き出された男の手をぎゅっと握った。
置いていかれないように、決して離れてしまわないように―――。
爽やかな朝だった。
空は青くて雲1つない。
まるでレイピアの新しい旅立ちを祝福しているように頬を撫でる風が心地良い。
両手いっぱいの荷袋を抱えてレイピアはホットリープの街を歩いていた。
目的は1つ、この街を出て冒険者になること。
レイピアは幼い頃から冒険というものに憧れを抱いていた。しかしながら世間知らずということもあり冒険者になるためにはこれからどこへ行って、何をしたらいいのかわからなかったから今はホットリープの街をぶらぶらと歩いている。
今まで屋敷から1人で外へ出たことなどなかったから、不安もあるけれどそれ以上に心は弾んでいる。大嫌いな家から、そして父親の元から離れられたことが嬉しくてたまらない。
屋敷を飛び出したのは今朝のこと。
元々あった確執が今朝になって埋めようがないくらいに広がったからだ。
仕事だ、そう言って父は1ヵ月も前から約束していた母親の墓参りを放り出した。少しも悪びれることなく当然のような顔をして仕事に向かおうとした。
腹が立ったから思いっきり平手打ちをした。人を引っ叩いたのは初めてだったから手は痛かったけれど、それ以上に心の方が痛かった。
少しは私とお母様の心の痛みを知ればいいんだわ!
それなのに父はレイピアの気持ちを知るどころかさっさと仕事に行ってしまった。悔しくて悲しくてレイピアは出て行くことを決意して、すぐに荷物をまとめると屋敷を飛び出した。
つい最近になってから婚姻話が出ていたこともある。父と母のような愛のない結婚なんて御免だ!
もう2度とあの屋敷に戻ることはない、そう思って。
初めは目に映る景色が珍しくて、目を輝かせて歩き回っていた。
かわいい雑貨のお店を覗いたり、普段食べたこともないような珍しいお菓子を買ってみたり。屋敷から持ち出したお金や宝石があったので金銭面では当分困らないだろう。
しかし楽しくてたまらなかったというのに、だんだんと日が沈んでいくにつれて気持ちも沈んできた。勢いで屋敷を飛び出したものの、これからどうしたらいいのだろうかと途方に暮れる。
歩き慣れていないせいもあって、足はへとへとでとっくに限界を迎えていた。
宿を取りたいと思ったが、お嬢様として育てられてきたレイピアには宿の取り方もそして肝心の宿の場所もまるっきりわからなかった。
「どうしよう…」
夜になると急に冷え込んできた。寒さから身を守るようにして胸の前で荷袋を抱え込む。
こんな風に冷え込むことなど予想してなかったから、荷袋には薄着のものしか詰めていない。とことん世間知らずだ。そのことがいっそうレイピアの心を沈ませた。
伏目にした青い瞳が潤んでいく。
いつの間にかとぼとぼ歩いている内に路地の奥の方に来ていたらしい。ハッと顔をあげると今までまばらにあった人通りがまったく無くなっていた。
積み重なった空き箱が路上の半分を覆い尽くしていて、息苦しささえ感じるような、そんな場所。
やがてしばらく歩いていると一件の店から漏れる明かりが目に飛び込んできた。その明かりに引き寄せられるようにレイピアは近づいて行った。
おずおずと上半分が開いている扉越しに中を覗いてみると、見たことも無い光景が広がっていた。たくさんのテーブルにたくさんの椅子、そして談笑しながらグラスを傾ける人達。
何のお店かしら?
酒場というものを見たことがなかったレイピアにはその店が何なのか見当もつかなかった。
楽しそうな場所であることはわかった。
すると急に扉が開き中から人が出てきた。中に入ることもなく突っ立っているレイピアに不思議そうな視線を向けると、そのままその人達は暗い路地へと消えていった。それをぼんやりと見送ってから、意を決したように店の中に入った。
外とはうってかわって店の中は熱気に包まれていた。酒の匂いと煙草のきつい匂いに思わずレイピアは顔をしかめて口元を覆う。
店内を見回した後、どうしたらいいのかわからなくて入り口で所在なさげにポツンと佇む。
カウンターには店主らしき男がいて、夜中にたった1人で現れたレイピアに怪訝そうな目を向けると近づいてきた。
「こんなところに何の用だい? ここはあんたみたいなお嬢さんの来る場所じゃないよ」
男はレイピアの上等な布地を使った服装から良い身分の娘であることを判断したのだろう、そんなことを言った。恐らく親切心から出た言葉だろう。
「あ、あの…私、道に迷ってしまって……」
顔を俯きがちにして声を震わせた。
「だったらなおさらこんな所に来るべきじゃない。ここは裏通りの酒場だ。荒くれ者達がいっぱいいるだろう?」
店主の男が顎で店内を指し示す。
その方向を恐る恐る見ると、30歳前後の大男達が酒を片手にしながらレイピアの方に視線を向けてにやにやと下卑た笑いを浮かべている。そればかりでなく彼女と同じ年頃の男達までもが舐めまわすようにレイピアの全身を見つめてきているではないか。
裏通りの酒場に女が1人で入り込むほど危険なものはない。
本能がこの場に留まることを危険だと告げ、ぞくりと肌があわ立つ。
青ざめた顔で震えるレイピアを見て店主の男はため息をつく。
「どこに向かおうとしてたんだい?」
「や、宿屋へ…」
親切にも店主の男はレイピアのために、わざわざメモ帖に宿屋への行き方を書いてくれた。「気をつけるんだよ」そう言ってくれた男に何度もお礼を言って早々と酒場を後にする。
早くここから離れなくては、そう思いくたくたになった足に鞭をうつ。しかし、何歩も歩かないうちにすぐに酒場から追いかけて来たらしい男達によって囲まれる。
「よお、オネーチャン。俺達が宿屋まで案内してやろうか?」
頬に傷のある大男が口を開いた。
明らかに酔っ払っていて、口元はにやにやと笑みの形に歪めている。
レイピアにはこういうときの対応がちっともわからない。何しろ酔っ払いに囲まれるなど初めてのことだったからだ。だから無言で首を横に振ることしかできなかった。すぐにでも逃げ出したいのに足がガクガク震えて言うことを聞かないのだ。
どうしよう、どうしよう。
頭の中は真っ白になっていてパニック寸前にまで陥っている。
男は強引にレイピアの腕を掴むと暗い路地の方へ連れて行こうとした。
「や、やめて…っ!」
裏返って、ほとんど声にならない声で叫ぶ。
レイピアは本当に恐怖を感じているときは声が出ないことを知った。大声を出して助けを求めたいのに、それができない。声が喉に張り付いてしまったみたいに。
「ハッハッハ。聞いたか? やめて、だってよ。何てかわいらしい声なんだ」
「それに美人だな、こんな極上の女そうそういねえや」
大男の手が背中の辺りまで伸ばしたレイピアの髪に触れる。その瞬間ぞっと鳥肌が立って、思いっきり大男の足を踏みつける。レイピアにできる精一杯の抵抗。痛みに堪えきれず叫び声を上げた大男の手を振りほどき、逃げ出した。
先程の店にさえ逃げ込めばあの店主が助けてくれるかもしれない、そう思って。
しかしすぐに別の男がレイピアの肩を掴んで路上に叩きつけた。石畳の固い路上にしたたかに背中を打った衝撃で思わず咳込む。
「この女…っ!」
足を踏まれた男は怒り狂って馬乗りになると、レイピアの胸倉を掴み上げて思いっきり拳を振り上げた。
殴られる――――。
そう思った瞬間、大男の体がいきなり吹き飛んだ。酒場の外壁に沿って積み上げられた木の箱の山へと頭から突っ込む。
驚いてレイピアが見上げると、そこには男が立っていた。
ホットリープの辺りでは滅多に見かけることのない褐色肌の異国風の男。
背中まである黒い髪の毛を1本に束ね、闇の中でもギラギラ光るタイガーイエローの瞳は氷のように冷たい。腰には剣を差して皮の胸当てをつけ、剣士風の格好をしている。
近寄るだけでズタズタに切り裂かれてしまいそうな、抜き身の刃のような男だとレイピアは思った。
「邪魔だ、酒場に入れねぇだろうが」
その男は忌々しそうに冷たい声で気絶してしまった大男に言い放つと、呆然と座り込むレイピアなどまるで眼中にないように通り過ぎた。
「て、てめえ!」
大男の仲間は顔を真っ赤にして怒りをあらわにすると褐色肌の男に殴りかかった。
「低脳なサルが!」
男は吐き捨てるように言い放つと腰に下げている剣に手を伸ばすことなく、襲い掛かってきた男達を次々と素手で殴り倒した。剣を抜くまでもない、そう考えているのだろう。
数十秒もしないうちに全員を地面に叩き伏せた。
「クソッタレ。手が汚れたじゃねえか」
手をぶらぶらと振りながら面倒くさそうにそう毒づいて、褐色肌の男は再び酒場に向けて歩き出した。
「あ、あの…っ、ちょっと待……」
その迫力に圧倒されながらも、レイピアは何とか勇気を振り絞って褐色肌の男を呼び止めた。
振り向いた男は冷ややかな目でレイピアを見た後、いきなり胸倉を掴んで酒場の外壁に押し当てた。その勢いにケホ、とむせ込む。
「そもそもの原因はおまえか?」
レイピアはびっくりして目を見開いた後、申し訳なさそうに俯いた。
「は、はい。ごめんなさい」
男はレイピアの身なりの良い服装を見てつまらなそうにため息をついた。
「どこぞの貴族の馬鹿女か。どういうつもりで来たか知らんがさっさと消えちまえ」
今まで生きてきてこんなひどい言葉を投げつけられたことはない。
目障りだ、と言われそのあまりにきつすぎる言葉に心を切り裂かれるような、そんな気持ちだったが深々と頭を下げる。
「あ、あの…ありがとうございました」
「勘違いするなよ。あのサル共が邪魔だったから退かしただけだ」
「それでも…っ、助けてもらったことに変わりはないから。ありがとうございます。私の名前はレイピアと言います。このお礼なら何でもしますから!」
男は何の感情もこもらない目で見ていたが、レイピアの発言に考え込むそぶりをした。
「ふ…ん。何でもする、ね。よく見るとなかなかの美人じゃないか」
一瞬男の目に剣呑な光が浮かんだ。
男はレイピアの顎を強引に持ち上げると、戸惑い震える唇に自らのそれを重ねた。
さらに口づけを繰り返そうとするが、レイピアが何の反応も示さなかったので興ざめしたように舌打ちをすると男はレイピアを突き放した。よろ、とよろける。
「少しぐらい抵抗しろよ。つまらねえ…」
レイピアは唇を押さえたまま目をまん丸に見開いた。
「今の…って」
今のって…今のって……。
もしかして……。
呆然とするレイピアに男は盛大にため息をついた。
「おいおい、まさか本当にお嬢様なのか? キスも知らないなんて」
「は、話には聞いたことがあるけど…」
「マジかよ…」
呆れかえったように頭をガシガシと掻く。しかしその表情には悪びれた様子は少しもない。ふいに何かを思いついたように、男はレイピアの手を強引に引いて歩き出した。
半ば引きずられそうなほどの力に戸惑いの声を上げる。
「あの、どこに…?」
「大方家出でもして行くところがないんだろう? しばらく面倒見てやってもいいぜ」
「でも…私、あなたのこと全然知らないもの」
その言葉に男はつまらなそうに顔をしかめる。
「そうか、それじゃあな。せいぜい同じ目に遭わないように気をつけろよ」
意外なほどにあっさりとレイピアの手を離すと、そのまま背を向けて歩いて行く。人気のない路地に取り残されそうになって慌てて男を呼び止める。いつまた変な男にからまれるかわからない状態なのだ。
「ま、待って!」
振り返った男はにやりと笑って手を突き出した。
まるで初めからレイピアが追いすがってくるのがわかっていたかのように。
「来いよ、レイピア」
事実レイピアは男から逃げることができなかった。
惹かれてしまったから。
名前も、年も、職業も、何1つ目の前の男のことを知らないというのに―――それでも惹かれた。
男の、孤高の狼のような野性的で荒々しいところに。凍った月を思わせるような冷たすぎるほどのタイガーイエローの瞳に囚われた。
おずおずと手を伸ばす。
「私、足手まといになるかもしれないけど…がんばるから…だから、連れて行って」
突き出された男の手をぎゅっと握った。
置いていかれないように、決して離れてしまわないように―――。
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