始まりは嘘

奈越 三郎

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狂乱

第二十五話 大崎さん

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 家に帰ると、時刻は六時を少し過ぎていて、大崎さんはまだ帰っていなかった。その日の彼は、愛夢との談笑で心を楽にさせたせいか、一人でカレーを作ろうと考えていた。人参と玉ねぎ、そしてじゃがいもの皮を剥き、洗ってから、まな板と包丁を取り出し、不器用なりにそれらの野菜を切った。

 鍋にそれらの野菜を入れ、水も適量入れてから、彼は鍋に入った野菜を煮込んだ。そして煮込み終わるのを待っている間に、彼は炊飯器でお米を炊いた。大崎さんが帰ってくる。彼は玄関まで歩いて、彼女に向かって、カレーを作っている途中ですと言った。大崎さんは何かあったのと聞いてきた。

 「何もないんです。作ってみたくなって作ったんです」

 「そう。すごいね。ありがとう」

 守は大崎さんに褒められて、少し嬉しくなり、笑みがこぼれた。彼はその言葉が聞きたいがために、料理をしたのではないかと考えた。ルーを取り出そうとしていたときに、またあの寂しい寂しいという声を聞き、思わずルーを落としてしまう。

 「守くん、大丈夫?」

 「大丈夫です。ちょっと疲れているみたいです」

 「そう。体を大事にしてね」

 はいと、彼は必死で声を振り絞って答え、落ちたルーを手に取り、包装を剥がしてから鍋に入れた。彼はオモイを渇望している自分に気がついたが、その渇望を必死でこらえて、彼はカレーの入った鍋をテーブルへと運んでいく。

 彼はこの幻聴が幻聴であることを知っていた。それは虚空に向かって拳を振り下ろすウシミツの姿を覚えていたためだった。幻聴は、無視をすればなんとかやり過ごすことができた。しかし、オモイを渇望する心だけは制御できなかった。カレーの食欲をそそる匂いに、その渇望はひとまず消える。

 「いただきます」

 二人はそう言って食べ始めた。

 「ねぇ守くん、最近眠れている?」

 「いえ、あまり」

 「そう、体調に気をつけてね」

 その言葉に、彼は泣きそうになってしまった。しかし彼は、彼女に心配され、この現実離れした体験を語って、狂人であると思われたくはなかった。だから彼はどうしても泣くことができなかった。彼のカレーを食べていた手が止まり、彼女が心配そうに彼を見る。

 「どうしたの?」

 「いえ、ちょっとお手洗いに行ってきます」

 彼は席を離れた。そしてトイレのドアを閉め、ノノに自分の悩みを打ち明けた。それは大崎さんに自分の悩みを打ち明けてしまいたいという内容だった。彼の悩みとは、中毒になってしまった自分の処遇をどうか決めてほしいというものだった。

 「なぁノノ、俺はどうしたらいい?」

 「私に分からないの。でも、どんな決断をしてもそばにいるよ」

 「ありがとう」

 彼はノノを抱きしめたいと思った。しかしそれはやはりできないことだった。

 「なぁノノ、俺を抱きしめてくれないか?」

 「いいよ」

 ノノは彼の両肩に彼女の両腕をそえた。そして彼の首の前で彼女の両手をからませた。

 「大丈夫?」

 彼女は彼の耳元で囁く。彼は、大丈夫、落ち着いてきたと言って、立ち上がった。そしてドアを開け、洗面所で手を洗ってから、食卓に戻った。カレーは少しだけ冷めていた。

 彼はやはり、無数の魂を斬り殺した自分が許せなかった。けれども現実はどんどん無情に進んでいく。彼にはそのことが十分すぎるほど分かっていた。そしてまた、殺人鬼ではない彼の姿を、この人間界の人間が見ており、そんな自分を演じ続ける必要があることも、彼は気づいていた。

 しかし、自分の罪がないように振る舞う姿がこの世にあることすら、彼はどうしても許せなかった。そのために、彼は自分を罰してくれる誰かを探していたのだった。しかし、愛夢は彼の意志の弱さを責めなかった。そのことが、彼の苦悶をさらに深めていたのだった。

 また、彼が大崎さんに伝えたところで、大崎さんはただ頷くだけであろうことも、彼には分かっていた。彼の周囲にはどうも優しい人間が多すぎると、彼は思い、そのことに、彼は泣きながら笑いたい気分になった。彼の周りに彼を責めるような人間は、どうやらいないようだった。

 「ねぇやっぱり、守くん変だよ」

 向かい合う大崎さんが彼に言った。

 「変ですか?」

 「そう、変。どこか体調が悪いの?」

 「悪いところはないんです。ただ」

 「ただ?」

 彼はもう少しで、悩みを打ち明けるところだった。しかし、彼は思いとどまった。何も話さない彼に、大崎さんは話したくないなら話さなくていいのよと言ってくれる。それから、でも無理はしないでねと付け加えた。彼はまた、泣きたくなった。その涙もこらえて、彼はカレーを食べ続ける。

 食事が済んで、彼はお皿を洗い終わってから、部屋に戻った。部屋に戻って彼は、こらえていた涙を流した。頭を抱えて彼は今までの自分の悪行を振り返った。すると、彼の頭には懺悔の二文字がちらついた。彼は、自殺しても足りないほどの罪を、自分は抱えたのだと考えた。

 彼の思考はもう行き止まりであった。償えない罪を犯したのだという後悔が彼の頭をちらついた。彼は自分が嫌になって、夢玉を一つ開けた。それは彼が愛夢から買い取った夢玉だった。そして彼は夢をみた。
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