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第一章 かめ、大いに驚く
悪魔が来たりて笛を吹く
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女中の朝は早い。
雄鶏の鳴き声が雷のように全身を貫き、あたしは薄いボロ布団から跳ね起きた。
くぅ~、いい夢見てたのに。習慣って恐ろしいわね!
半分しか開かない寝ぼけまなこを擦りながら、薄暗い部屋で着替えを済ませ、納屋を這うように外に出る。
ようやく山の向こうが白んできたけど、日の出にはまだ早く、上着を羽織っても腕の皮膚に鳥肌が立つくらいには寒い。
ふあぁ、眠い。
虫が出るような隙間だらけの納屋でも、自分の体温で暖まった寝台を出るのは、名残惜しいのよ。
でも、歩いて十歩の通勤時間じゃ、遅刻もズル休みも出来ないのよね。
「おはようございます。」
いつものように屋敷の勝手口から元気に入った私は、途端に違和感に包まれた。
「たけさん、居ないの?」
いつもなら一番乗りで仕事場に立っているはずの、女中頭であるたけさんが居ない。
それどころか、厨房には火の気が無く、他の女中や使用人の気配すら感じられない。
いつもの慌ただしい朝の仕事風景は、一体どこに行っちゃたの?
ちょっと待って。
普通に、こんなのあり得ない!
ドキドキしながら台所を出て本館の通路に出ると、大広間の方から聞きなじみのある話声がボソボソと聞こえてきた。
なんだ。
みんな大広間に居たのね。
ホッとして通路から大広間の前にツカツカと移動する。
今日、話し合いがあるなら、事前に言ってくれてもいいのに。
恨み事を頭の中で組み立てながら両開きの開け戸を押そうとした時、部屋の中から怒号が響いた。
「葛丸の野郎、ふざけやがって!」
え?
それは料理長の寿さんの声音だった。
押そうとした扉の前で、あたしは唇を噛んで固まった。
当主である葛丸様を『野郎』だなんて・・・どういうつもり?
「葛人様はご存じなのだろうか?
最近、公爵家の羽振りが良くないとは感じてはいたが、こんな改革は無謀すぎる。
当主を受け継いだ途端、このような暴挙に出るとは・・・このままでは公爵家の未来は無いぞ。」
「私はこの屋敷に祖父の代から仕えているんだ。それなのに、慈悲の欠片も無いじゃないか。」
「私もです。」
「酷すぎる。」
やがて執事の太郎さんやたけさんの声、それに若い女中たちのすすり泣きも聞こえてきた。
まずいわ。
この部屋に入るべきではないと本能が言っている。
そうだ、聞かなかったことにしよう!
開け戸から手を放し後ずさろうと踵を返した瞬間、振り向いた先に居た人物に派手にぶつかった。
バイン!
跳ね飛ばされて思わず部屋の扉をぶち破ると、あたしは屋敷の使用人たちの輪の中に躍り出てしまった。
冷たい視線が一斉にあたし一人に注がれて、あたしは急に酸素が足りない魚のように息苦しくなった。
みんな、怖いのよ。
表情と圧が・・・。
「ど、どうしたの?」
あたしはみんなに愛想笑いを振りまいた。
名付けて、『道化を装って、場を和ませよう作戦』だ。
「朝から辛気臭い顔をして! まるでお通夜みたいじゃない。」
「お通夜のほうが、まだいいさ。」
太郎さんが、少しトゲのあるキツイ言い方をした。
「この屋敷の使用人は、今日で全員解雇なんだぜ。」
「エエッ⁉」
全員辞めさせたら、このお屋敷の管理はどうするのよッ⁉
「それから、新しい使用人を入れ替えで雇うんだとよ。」
寿さんは苦々しくそう言うと、ペッと床に唾を吐いた。
「あ、あたし・・・そんなこと一言も聞いていないわ。」
一瞬で血の気が引いたあたしは、怒りと驚きで震えた。
幼い頃から姉たちと公爵家で女中として育ち、奉公期間後の楽しみのために少ない給金にはほとんど手を付けずに生きてきた。
あと2年で満期で相当額の退職金も出るのに、今日限りとはツレないにもほどがあるッ!
それにあたしの推しの菊子様が、何も言わない訳がない!
「あたしの主は菊子様よ。
私はお嬢様の口から聞くまでは、絶対に辞めないからね!」
「そりゃそうよ。」
たけさんは、1オクターブ声を張りあげてあたしを睨んだ。
「だって解雇されるのは『あんた以外の使用人全員』なんだからね!」
ハアッ?
「菊子様のお気に入りだからって、葛丸様にまで上手く取り入っていたとはね!」
苦々しく言い放つ声があたしの居場所を奪い、まるで絶壁の淵に立たされたような気持ちになった。
悪夢よ、これは悪夢だわ。
昨日、寝る前に洋菓子のつまみ食いなんかしたから、まだ消化しきれてなくて頭まで血が巡っていないのかも。
よく、頭は起きてるのに体は寝てる時は夢遊病っていうもんね。
ええい、夢なら早く醒めてよ!
その時、軽いノックとともに背広の男がスルリと入室した。
「取り込み中だろうけど、邪魔するよ。」
あっ、さっき部屋の前でぶつかった人だ!
細身で猫背で、薄茶色のくせ毛を持つ若い男。
前髪が目に入りそうなくらい長いけど、独特の雰囲気の色男だと思う。
でもこんな人、使用人に居たかしら?
「お前、誰だ?
見ない顔だな。」
寿さんが大股で若い男に無遠慮に近づいた。
「お前・・・葛丸様が雇ったっていう、新しい使用人か?」
ひええ、怖いわ、喧嘩だわ。
寿さんは大柄で腕っぷしも良いから、間近で睨まれたりすると、こっちが悪くなくても謝りたくなるのよ。
でも、若い男は寿さんの姿が視界に入ってないかのように無言で身を躱すと、ぐるりと部屋中を見渡してぶっきらぼうに喋った。
「田中かめ、居るか?」
「ハ、ハイ。かめはここでございます。」
あたしは思わず、その場でピョンピョコ飛びはねた。
かめです。間違いなくかめです。
もしもしかめよ、かめならここです!
この苦しい状況からあたしを救ってくれるなら、誰でもいいわ。
何なら悪魔でも構わない。
「葛丸様がお呼びだ。お前1人だけ、な。」
一瞬にして場が凍りつき、この場にいる全員の妬みやら僻みやらが最高レベルに増加したのを感じた。
焼石に水! 付け焼刃! 二階から目薬!
わーん、前言撤回よ!!
どんなにいい男でも、空気が読めないヤツは悪魔に認定させてもらうわ‼
雄鶏の鳴き声が雷のように全身を貫き、あたしは薄いボロ布団から跳ね起きた。
くぅ~、いい夢見てたのに。習慣って恐ろしいわね!
半分しか開かない寝ぼけまなこを擦りながら、薄暗い部屋で着替えを済ませ、納屋を這うように外に出る。
ようやく山の向こうが白んできたけど、日の出にはまだ早く、上着を羽織っても腕の皮膚に鳥肌が立つくらいには寒い。
ふあぁ、眠い。
虫が出るような隙間だらけの納屋でも、自分の体温で暖まった寝台を出るのは、名残惜しいのよ。
でも、歩いて十歩の通勤時間じゃ、遅刻もズル休みも出来ないのよね。
「おはようございます。」
いつものように屋敷の勝手口から元気に入った私は、途端に違和感に包まれた。
「たけさん、居ないの?」
いつもなら一番乗りで仕事場に立っているはずの、女中頭であるたけさんが居ない。
それどころか、厨房には火の気が無く、他の女中や使用人の気配すら感じられない。
いつもの慌ただしい朝の仕事風景は、一体どこに行っちゃたの?
ちょっと待って。
普通に、こんなのあり得ない!
ドキドキしながら台所を出て本館の通路に出ると、大広間の方から聞きなじみのある話声がボソボソと聞こえてきた。
なんだ。
みんな大広間に居たのね。
ホッとして通路から大広間の前にツカツカと移動する。
今日、話し合いがあるなら、事前に言ってくれてもいいのに。
恨み事を頭の中で組み立てながら両開きの開け戸を押そうとした時、部屋の中から怒号が響いた。
「葛丸の野郎、ふざけやがって!」
え?
それは料理長の寿さんの声音だった。
押そうとした扉の前で、あたしは唇を噛んで固まった。
当主である葛丸様を『野郎』だなんて・・・どういうつもり?
「葛人様はご存じなのだろうか?
最近、公爵家の羽振りが良くないとは感じてはいたが、こんな改革は無謀すぎる。
当主を受け継いだ途端、このような暴挙に出るとは・・・このままでは公爵家の未来は無いぞ。」
「私はこの屋敷に祖父の代から仕えているんだ。それなのに、慈悲の欠片も無いじゃないか。」
「私もです。」
「酷すぎる。」
やがて執事の太郎さんやたけさんの声、それに若い女中たちのすすり泣きも聞こえてきた。
まずいわ。
この部屋に入るべきではないと本能が言っている。
そうだ、聞かなかったことにしよう!
開け戸から手を放し後ずさろうと踵を返した瞬間、振り向いた先に居た人物に派手にぶつかった。
バイン!
跳ね飛ばされて思わず部屋の扉をぶち破ると、あたしは屋敷の使用人たちの輪の中に躍り出てしまった。
冷たい視線が一斉にあたし一人に注がれて、あたしは急に酸素が足りない魚のように息苦しくなった。
みんな、怖いのよ。
表情と圧が・・・。
「ど、どうしたの?」
あたしはみんなに愛想笑いを振りまいた。
名付けて、『道化を装って、場を和ませよう作戦』だ。
「朝から辛気臭い顔をして! まるでお通夜みたいじゃない。」
「お通夜のほうが、まだいいさ。」
太郎さんが、少しトゲのあるキツイ言い方をした。
「この屋敷の使用人は、今日で全員解雇なんだぜ。」
「エエッ⁉」
全員辞めさせたら、このお屋敷の管理はどうするのよッ⁉
「それから、新しい使用人を入れ替えで雇うんだとよ。」
寿さんは苦々しくそう言うと、ペッと床に唾を吐いた。
「あ、あたし・・・そんなこと一言も聞いていないわ。」
一瞬で血の気が引いたあたしは、怒りと驚きで震えた。
幼い頃から姉たちと公爵家で女中として育ち、奉公期間後の楽しみのために少ない給金にはほとんど手を付けずに生きてきた。
あと2年で満期で相当額の退職金も出るのに、今日限りとはツレないにもほどがあるッ!
それにあたしの推しの菊子様が、何も言わない訳がない!
「あたしの主は菊子様よ。
私はお嬢様の口から聞くまでは、絶対に辞めないからね!」
「そりゃそうよ。」
たけさんは、1オクターブ声を張りあげてあたしを睨んだ。
「だって解雇されるのは『あんた以外の使用人全員』なんだからね!」
ハアッ?
「菊子様のお気に入りだからって、葛丸様にまで上手く取り入っていたとはね!」
苦々しく言い放つ声があたしの居場所を奪い、まるで絶壁の淵に立たされたような気持ちになった。
悪夢よ、これは悪夢だわ。
昨日、寝る前に洋菓子のつまみ食いなんかしたから、まだ消化しきれてなくて頭まで血が巡っていないのかも。
よく、頭は起きてるのに体は寝てる時は夢遊病っていうもんね。
ええい、夢なら早く醒めてよ!
その時、軽いノックとともに背広の男がスルリと入室した。
「取り込み中だろうけど、邪魔するよ。」
あっ、さっき部屋の前でぶつかった人だ!
細身で猫背で、薄茶色のくせ毛を持つ若い男。
前髪が目に入りそうなくらい長いけど、独特の雰囲気の色男だと思う。
でもこんな人、使用人に居たかしら?
「お前、誰だ?
見ない顔だな。」
寿さんが大股で若い男に無遠慮に近づいた。
「お前・・・葛丸様が雇ったっていう、新しい使用人か?」
ひええ、怖いわ、喧嘩だわ。
寿さんは大柄で腕っぷしも良いから、間近で睨まれたりすると、こっちが悪くなくても謝りたくなるのよ。
でも、若い男は寿さんの姿が視界に入ってないかのように無言で身を躱すと、ぐるりと部屋中を見渡してぶっきらぼうに喋った。
「田中かめ、居るか?」
「ハ、ハイ。かめはここでございます。」
あたしは思わず、その場でピョンピョコ飛びはねた。
かめです。間違いなくかめです。
もしもしかめよ、かめならここです!
この苦しい状況からあたしを救ってくれるなら、誰でもいいわ。
何なら悪魔でも構わない。
「葛丸様がお呼びだ。お前1人だけ、な。」
一瞬にして場が凍りつき、この場にいる全員の妬みやら僻みやらが最高レベルに増加したのを感じた。
焼石に水! 付け焼刃! 二階から目薬!
わーん、前言撤回よ!!
どんなにいい男でも、空気が読めないヤツは悪魔に認定させてもらうわ‼
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