憧れのおねえさまは華麗に素敵な嘘を吐く~大正公爵令嬢×隻眼海軍少尉の秘密の花園~

ゆきんこ

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#19 猿渡うらら

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 どんよりした低くて厚ぼったい灰色の雲からは、冷たい雫がいつ落ちてきてもおかしくない空模様でした。

 下校時、私はひとりで五色邸へと自転車を走らせていました。
 実家へは徒歩15分くらいで着くのですが、五色邸に帰るには自転車でも30分はかかってしまいます。

 以前に紘次郎が自転車で走った近道を思い出そうとしても、あの時は頭がふわふわしていたのでどこをどう走ったのか自分の記憶に自信がありませんでした。
 雲が広がっているせいかいつもより辺りが薄暗かったので、街灯がある大きな通りを選んで走っていると女中の八重子とすれ違いました。


「あら、みつきさま! お帰りなさいませ。」


 買い物かごを腕に下げて澄まし顔で歩いていた八重子は、一度立ち止まってからその場でおじぎをしました。


「ごきげんよう。」
 私も慌てて自転車のサドルから降りて会釈しました。


「お買い物ですか?」


「ええ。豆腐屋のラッパが聞こえましてね。」
 振り返ると三輪車の荷台に大きな箱を乗せたお豆腐屋さんが主婦たちに囲まれていました。

 あの白い箱の中にはできたての豆腐や油揚げがぎっしりと詰まっているのでしょう。景気の良いラッパの音色に吸い込まれるようにどんどん人垣が増えていきました。


「それでは、またあとで。雨が降りそうですから急いでお帰りになってくださいね。」


 軽く頭を下げた八重子に、私はためらいつつも追いすがりました。


「あの、今日の麗さまのご予定はご存知ですか?」


 この一週間は麗さまと私はすれ違いの日が多くて、週末以外は顔を合わせないことが多かったのです。
 お仕事でお忙しいことは重々承知しているので、私からは予定を聞くことを避けていたのですが、今日は譲れない胸に秘めたことがあるので思い切って八重子に聞いてしまいました。


「いえ、今日のご予定は会議だと聞いていますから、そのあとの飲み会にも強制参加で午前様ですね。」


「そうですか・・・。」


 私はがっかりして、うなだれました。
 昼休みにようこと【猿渡】と名乗る少女のことを聞いて以来、麗さまと話をしたかったのに・・・。


「何回もごめんなさい。
 つかぬことを聞くけども、八重子は【猿渡】という女性について何かご存知ではありませんか?」


「【うらら】さまなら、今はお屋敷にいませんよ。」


 【うらら】は今は居ない?


 私は予想していなかった八重子の言葉に、ドキリとしました。


「【猿渡うらら】は女装しているときの麗さまの源氏名だと、私はうかがっていたのだけど・・・。」


 八重子がハッとした顔をしたあと、気まずそうに顔をそむけました。


「うう。あたしゃ、また余計なこと言っちゃいましたかね・・・。」


「お願いよ、八重子。私には大事なことだから教えてほしいの。
 その方はどんな方なの?」


「私から聞いたとは、麗さまに言わないでくださいね。」


 しぶしぶ前置きした八重子が、声をひそめて言いました。


「麗さまが、とても大切に思っているかたですわ。」


 ※


 その日の私は目が冴えてしまい、なかなか寝つけませんでした。

 【猿渡うらら】は、麗さまの【大切に思っている方】

 その方がなぜ、私を騙して偽の手紙を書いたり舞台から突き落とすようなことをしたのでしょうか・・・。
 しかも、女装をしている麗さまが【うらら】と名乗る理由は?

 考えれば考えるほどに頭の中は混乱して焦れったく、なかなか眠気はやって来そうにないのです。
 零時を少し過ぎたころ、私は身体を起こして枕元の灯りに手を伸ばしました。

 さて、これからどうしましょう。

 実家ならともかく、夜更けに不眠で徘徊している令嬢なんて、五色家では不良だと思われるに決まっていますから、廊下の突き当りにあるお手洗いに行って帰ってくるのが関の山でしょうか。

 私はそっと浴衣に羽織をひっかけて寝所を出てみました。
 素足のままで庭に面した廊下に出ると、木の床なのに氷を踏んでいるようです。
 足裏から伝わる冷気が全身を細かく震えさせて、余計に目が覚めてしまいました。

 
 スイッチ一つで電気が点く洋風の実家に慣れている私にとって、日本家屋の五色家の夜は灯りが乏しくて少し怖いように思えるのでした。
 特に歩くたびにミシ・・・ミシ・・・と音を立てる木の廊下は、余計な想像力をかきたてるのに充分すぎるほど。
 私はなるべく周りを見ないようにしながら、携帯ランプの仄暗い灯を手にお手洗いに行くことにしました。

 帰りもなるべく早く帰ろうと思いながら手水で手を清めていると、肩にヒヤリとした感触が・・・。


「キャ・・・。」


 思わず携帯ランプを投げ捨てて声をあげようとした私の口が、誰かの大きな手でふさがれました。


「ごめんね。」


 その手の主は、芳醇な果実のような匂いを漂わせた麗さまでした。
 軍服のシャツの胸元をはだけた顔はほんのり赤く上気していて、色気が増しているに見えます。


 私は麗さまの温かい手の感触を感じながら、携帯ランプを持ちなおしました。


「お帰りなさいませ。麗さまで良かったわ。
 私、もしやお化けかと。」


「お化け?
 ああ、みつきも見えたのかい?」


「エッ。」


「ほら、そこに足のない女性がひとり・・・!」


「ヒッ!」


 思わず麗さまの腕にすがりついて顔を隠すと「クックック・・・」と、頭の上から麗さまの含み笑いが聞こえたのです。


「冗談だよ。
 みつきがあんまりにも素直だから、イジワルしたくなるんだよねえ。」

 
 私は麗さまの引き締まった硬い腕から身を離すと、頬をふくらませました。
「ひどいわ、麗さまったら。私、実家に帰らせていただきますよ。」


「それはだめ。」


 私の浴衣の裾をそっと握りながら、麗さまが真剣な面持ちで言いました。


「冗談でも、そんなことは言わないで。」


「はい、あの・・・申し訳ありません。」


 前にも感じた、あのふわふわした心地よい感情に揺られながら、私は麗さまから目が離せなくなりました。
 この方は今は女装をされていないのに、どうしてこんなに魅惑的なの?


「ねえ、起きたついでに庭を一緒に散歩しない? みつきに見せたいものがあるんだ。」
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