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#6 悪い男

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 河川敷の横を走り小さな丘橋をこえると、もう錦町の住宅街が見えてきました。
 一時間弱はかかると思っていた道のりがあっという間に短縮されて、私はただ紘次郎の脚力と土地カンに感心するばかりです。

 そして、高台にある閑静な住宅街の一角で紘次郎はブレーキをかけました。
「到着です。」



 私たちは、桐の節目に歴史を感じる、立派な日本家屋の前に立ちました。
 まるで大名屋敷のような【型番所】がついている表門をあおぎ見て、紘次郎が私の顔色をうかがいます。


「みつきさま、こちらの住所に間違いはございませんか?」


「ええ。でも・・・。」


 私は戸惑いました。
 門の前に出ている表札には【五色】の文字。


「急なご用というのは、五色邸への訪問だったのですか?」


 紘次郎が重ねて聞くのも無理はありません。

 ここは【海軍の父】と呼ばれ、その功績から天皇陛下に爵位をさずかった勲功華族くんこうかぞく・【五色景八ごしきかげはち】侯爵のご邸宅。

 つまり、私が死ぬほど恐れている婚約者さまがいらっしゃるおうちなのです。


猿渡さるわたりさまのおうちだと思ったのに・・・。」
 予想外のできごとに、私は目の前が真っ暗になりました。

 何度、手紙を見なおしてみても、住所はこちらで合っているようです。
 呆然とする私を見て、紘次郎がたすけ船を出してくれました。


「もしかしたら、その猿渡さるわたりさまは理由があって五色家で同居や間借りをされている可能性もありますよ。
 ちょうど、今の私のように。」


 確かにそうです。
 紘次郎は親戚で同居していますが、苗字は違います。

 華族の邸宅なら使用人だけでも50人はいるでしょうし、うららさまが自分と同じ令嬢だと決めつけるのは早いかもしれません。

「家人に尋ねてみましょう。」
 次郎は表門の戸に備えつけられている電気式の呼鈴を押しました。

 押してからほどなくして『タタタ』と小走りにこちらに来る足音が大きくなり、門が少し開きます。


「はい。」


 少し開いた門のすきまから顔をのぞかせたのは、女中らしき細い目つきの女性です。
 思わぬ訪問者に、不審そうな表情で私と紘次郎を交互に見ました。


「アッ・・・。」


 緊張のあまり言葉がでてこない私の前に立ち、紘次郎はあたかも用意されたセリフのように言葉を紡ぎました。


「突然の訪問をお許しください。こちらに、【猿渡さま】という名前の方はいらっしゃいますか?
 お約束はしていませんが、お取り次ぎをお願いしたいのです。」


「お宅はどちらさまですか?」


「申し遅れました。私たちは綾小路公爵家の者でございます。
 こちらは綾小路みつきさま。私は書生の松平紘次郎と申します。」


「まあ。それは失礼いたしました。」


 女中はハッとして手で口を押さえました。
「みつきさまと言えば、お坊ちゃまの婚約者さまですね!
 少々お待ちを。
 ただいま確認をしてまいります。」


「その前に、ご相談なのですが。」
 紘次郎は女中にスッと近寄ると、人差し指を唇にあててあざとい困り顔をしました。


「ここだけの話、お嬢様は箱入り娘でして。
 もしご結婚前に婚約者さまのお宅に足を踏み入れたというような話が広まれば、公爵さまの怒りを買うかもしれません。そこで、できれば今回の猿渡さま来訪の件は、ご当主さまとご婚約者さまには内密にしていただけませんか?」


「それはちょっと、私の一存いちぞんでは・・・。」
 紘次郎はためらう女中の手を取り、その着物のそで身八みやぐちに無理やり手を入れました。


「何をなさいます!」


「初めてお会いしましたが、あなたはこのお屋敷でいちばん賢い方だとお見受けします。」


「こ、これは・・・。」
 気色けしきばんだ様子だった女中が自分の袖底にふれた瞬間、歓喜との両方の表情を浮かべたのです。


「・・・あなたみたいな見た目は優男のほうが、悪い男なのかもしれないわね。」
 女中は細い目をより細くしてニヤリと笑いました。


「ここは目立ちすぎます。裏門に回って下さいな。」


 そう言うと、女中は門を静かに閉めました。
 私は女中の変貌へんぼうぶりに、とても驚きました。


「紘次郎、あの女中はどうしてあんなことを言ったの?」


「マアマアな金額の【金】を握らせたからです。
 初対面の人間と距離を詰めるには、このほうがてっとり早い。」


「お金・・・。」


 涼しい顔で裏門へと自転車を押す紘次郎の後ろ姿が、急に大人びて見えました。
 でも、公爵邸以外の紘次郎の顔は、少し薄ら寒い感じがしました。


 ※

 裏門に回ると、待ち構えていた女中がご勝手の横の小さな扉に手招きしました。


「こちらから客間にご案内します。
 いま時間は中庭にある弓道場でお坊ちゃまが行射ぎょうしゃをされているのですが、いつも集中されると周りが見えないので、背後を通っても気がつかないと思います。
 私の後ろについて澄まして通ってくださいまし。」


 渡り廊下を歩くと、ずいぶんと広い中庭に射場がありました。
 南向きにまとが設置されていて、射場と的場の間にはサラサラとした黒い土砂が敷きつめられています。

 手前の板張りの射場には上半身は裸、下半身をはかまで包んだ男性がちょうど大きな弓を構えているところでした。
 遠目にも分かる鍛えられた上腕筋が隆起して弓を引きしぼり、限界に達したあとにパッと手を離した瞬間、見事に的のど真ん中を矢が射抜きました。

 思わず私は拍手をしそうになりましたが、紘次郎に手首をつかまれて制御されました。
 危ない。

 私は我にかえると、足もとの板を見ながらそろりそろりと廊下を歩ききりました。
 離れた距離で後ろ姿しか見えませんでしたが、あれが私の婚約者さま・・・。

 私は実の父の半裸にも嫌悪感をもよおして、直視できる自信はありません。
 けれども、あの婚約者さまの筋肉の腕や肩甲骨まわりは芸術作品のようで、不快だとはほども思いませんでした。

 ※

「それでは、こちらでもう少々お待ち下さい。」


 女中が用意した湯のみのふたを開けると、ふんわりと香り高いお抹茶の匂いに包まれました。
「いただきましょう。」


 少しの苦味がやんわりと緊張感をほぐしてくれます。
 紘次郎はお茶を飲み干しても落ち着かない様子で、周囲を見まわしています。

 日本庭園が美しい奥庭に面している奥座敷の客間。
 部分的に西洋化した住宅が多い中、このような日本固有の住宅様式はの情緒が感じられて、私はいぐさの匂いにもときめいてしまいます。

 なかなか女中は戻りませんでした。

 しばらくは、客間のガラスキャビネットの豪華な勲章やら古めかしい調度品を眺めたりしていましたが、それに飽きた私はひとりで庭園に出てぐるりと歩きました。


「紘次郎?」


 客間に戻ると、いつの間にか紘次郎が正座をしたまま寝息を立てて眠っています。


 (珍しい、疲れているのかしら。)


 と思っていると、私もあらがいがたい眠気に襲われました。

 おねえさまを待っている間に私たち二人は、あろうことか倒れるように寝てしまったのです。
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