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第四章「賢者と生娘の別れ」
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「エロナよ。そなたにひとつ、頼みたいことがある」
「……もしかして、エッチなお願いですか?」
エロナは、緊張のあまり声をうわずらせて内心わずかに身構える。
「いにしえより伝わるこの聖剣を、クライオ王子のもとへ届けておくれ」
「クライオ王子とは……?」
「始祖の血脈を受け継ぎし王家の落とし子じゃ。もはや、この道徳も倫理もなき乱れた世の中を正せるのは、帝位を継承する資格を持った童貞の王子しかおらん」
このころ、東方のアスタリア王国から大艦隊を率いて侵攻してきたエゼキウス王が、悪女ネラの呪いにかかって病床にあることは、いまだ世間に知れ渡っていなかった。
部隊の士気が下がることを恐れた参謀たちが、箝口令を敷いて容態を隠していたからだ。
当然ながら、皇太子アクセル二世が叔父のもとを離れて出奔した事実も伏せられている。
「よいか、エロナよ。これからは、わしのかわりにそなたが主君に仕え、陰ながらお支えするのじゃ」
「わたくしが、童貞の王子様を……?」
賢者グリフィムは、遠慮がちながらもおずおずと歩み出てきたエロナの腕を引き寄せ、王家伝来の剣を握らせる。
金ごしらえの鞘におさめられた小剣だ。短剣と言うには少し長く、長剣と言うにはいささか短い。
「……ですが、そのクライオ様と仰られるお方は、わけあって出自をお隠しになられた王家のご落胤なのでしょう? 今はどこで何をしているかも知れないのに、どうやって見つければよいのです?」
「すべての真実は、この本の中に書かれておる」
それからさらに賢者グリフィムは、合鍵を使って書斎机の引き出しを開けると、革製の表紙で綴じられた分厚い書物を手渡す。
これこそ、賢者グリフィムが未完のまま残した最後の作品であり、この童貞と処女の歌と題された物語の原典だ。
「じゃが、いずれ来たるべき時が訪れるまで、誰にも秘密を明かしてはならんぞ。もちろん当の本人たるクライオ王子にもじゃ。さもなくば、よからぬことをたくらむ輩にお命を狙われてしまうからの」
「いずれ来たるべき時とは……?」
「それは、クライオ王子がみずから童貞を捨てて皇帝となる時じゃ。はたしておのが仕えるべき君主にふさわしい人物かどうか、そなた自身の目で確かめるがよい」
ランタンに明かりをともして扉を開けると、満ちた月にまだらな雲が立ち込める不穏な夜だった。
今しがたようやく雨が上がったものの、地面は泥だらけでぬかるんでいる。
出かけ際におんぼろのローブを羽織らされたエロナは、正体を怪しまれぬようにフードをかぶって長耳を覆う。
「さあ、早う行け。夜が明けてしまうまえに」
「ですが、ご主人様は……」
「わしのことなら心配するでない。今はただ、一人きりにさせておくれ」
「しからば、しばしのあいだお暇をいただきます」
エロナは、雨に濡れぬよう胸のうちに書物を隠したままお辞儀をする。
エプロン姿のまま腰に剣を帯びた出で立ちは、はたから見ても不格好と言うほかない。
戸口に立ってエロナの旅立ちを見送ったあと、誰もいない真っ暗な我が家に取り残されたグリフィムは、脱ぎたての靴下を匂ってにわかに発作を起こし、うっと胸を押さえて倒れ込む。
「女神様よ、お許しくだされ。わしの中にも、邪悪な心が……」
「……もしかして、エッチなお願いですか?」
エロナは、緊張のあまり声をうわずらせて内心わずかに身構える。
「いにしえより伝わるこの聖剣を、クライオ王子のもとへ届けておくれ」
「クライオ王子とは……?」
「始祖の血脈を受け継ぎし王家の落とし子じゃ。もはや、この道徳も倫理もなき乱れた世の中を正せるのは、帝位を継承する資格を持った童貞の王子しかおらん」
このころ、東方のアスタリア王国から大艦隊を率いて侵攻してきたエゼキウス王が、悪女ネラの呪いにかかって病床にあることは、いまだ世間に知れ渡っていなかった。
部隊の士気が下がることを恐れた参謀たちが、箝口令を敷いて容態を隠していたからだ。
当然ながら、皇太子アクセル二世が叔父のもとを離れて出奔した事実も伏せられている。
「よいか、エロナよ。これからは、わしのかわりにそなたが主君に仕え、陰ながらお支えするのじゃ」
「わたくしが、童貞の王子様を……?」
賢者グリフィムは、遠慮がちながらもおずおずと歩み出てきたエロナの腕を引き寄せ、王家伝来の剣を握らせる。
金ごしらえの鞘におさめられた小剣だ。短剣と言うには少し長く、長剣と言うにはいささか短い。
「……ですが、そのクライオ様と仰られるお方は、わけあって出自をお隠しになられた王家のご落胤なのでしょう? 今はどこで何をしているかも知れないのに、どうやって見つければよいのです?」
「すべての真実は、この本の中に書かれておる」
それからさらに賢者グリフィムは、合鍵を使って書斎机の引き出しを開けると、革製の表紙で綴じられた分厚い書物を手渡す。
これこそ、賢者グリフィムが未完のまま残した最後の作品であり、この童貞と処女の歌と題された物語の原典だ。
「じゃが、いずれ来たるべき時が訪れるまで、誰にも秘密を明かしてはならんぞ。もちろん当の本人たるクライオ王子にもじゃ。さもなくば、よからぬことをたくらむ輩にお命を狙われてしまうからの」
「いずれ来たるべき時とは……?」
「それは、クライオ王子がみずから童貞を捨てて皇帝となる時じゃ。はたしておのが仕えるべき君主にふさわしい人物かどうか、そなた自身の目で確かめるがよい」
ランタンに明かりをともして扉を開けると、満ちた月にまだらな雲が立ち込める不穏な夜だった。
今しがたようやく雨が上がったものの、地面は泥だらけでぬかるんでいる。
出かけ際におんぼろのローブを羽織らされたエロナは、正体を怪しまれぬようにフードをかぶって長耳を覆う。
「さあ、早う行け。夜が明けてしまうまえに」
「ですが、ご主人様は……」
「わしのことなら心配するでない。今はただ、一人きりにさせておくれ」
「しからば、しばしのあいだお暇をいただきます」
エロナは、雨に濡れぬよう胸のうちに書物を隠したままお辞儀をする。
エプロン姿のまま腰に剣を帯びた出で立ちは、はたから見ても不格好と言うほかない。
戸口に立ってエロナの旅立ちを見送ったあと、誰もいない真っ暗な我が家に取り残されたグリフィムは、脱ぎたての靴下を匂ってにわかに発作を起こし、うっと胸を押さえて倒れ込む。
「女神様よ、お許しくだされ。わしの中にも、邪悪な心が……」
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