24 / 74
ゲイバーアンビシャスへの再来前日譚
7
しおりを挟む
***
「逝っちゃ駄目だ!」
「落ち着け、周防。医者のおまえが取り乱してどうするんだ?」
「だって――」
「大丈夫、気を失っただけだと思う。これだけ躰にダメージを受けていたら、とっくの昔に気を失っているはずなんだ。それなのに……」
御堂は話しかけながら、冷たくなっていく患者の衣服を元に戻して、応急処置のために付けていたゴム手袋を外し、自分が着ている上着をかけた。
医者として当たり前のことをした先輩を、周防は尊敬の眼差しで改めて眺める。
学会のために、隣町に来ていただけの自分。持ち物は必要性を感じた資料や本だけを持ってきた。
学会が終わった打ち上げと称して参加した宴会にはなにも持たず、手ぶらでここに来たというのに、先輩の御堂はいつも持ち歩いている小ぶりの鞄を、肌身離さず持ち歩いていた。
牛革製のそれはお洒落なデザインだったせいで、医者が日頃使う道具が入っているとは思いもしなかった。今回の応急処置に、それが大活躍したのは言うまでもない。
「俺はいつまでたっても、御堂先輩の足元には及びません。医者としての心構えや大事なことがなにも分かっていない、研修医の頃のままだった」
周防は片手で握っていた患者の手を両手で握り直し、自分のあたたかみを分けるように撫で擦ってあげる。
「同じ小児科医でも、俺は救急専門だからな。互いの立場の違いがあるだろうし。でもさ」
「はい……」
「おまえが患者に向かって、一生懸命に話しかけていただろ。ギリギリまで意識を保つことができたのは、周防のお蔭だと思う」
(だけど俺が、さっさと応急処置をしていたら――あるいは御堂先輩とふたりで治療をしていたら、間違いなく生存率が上がっただろう。声をかけて励ますなんて、誰にでもできたことなんだ)
「救急車が近づいてきたな。周防、乗り込むだろ?」
「……俺は乗る権利があるのでしょうか」
聞き慣れたサイレンの音が、周防の迷う気持ちに拍車をかけた。
不安に苛まれる瞳を宿した後輩を横目で見るなり、御堂は容赦なく周防の頭をぐちゃぐちゃにする。手荒な宥め方に、周防は肩をすぼめてやり過ごした。
「乗ってもらわなきゃ困るんだな、俺が」
おどけた口調で笑いかけた先輩の言葉を聞き、周防は乱された髪の毛をそのままに、目をパチパチ瞬かせた。
「ほらほら、アルコールが入ってる俺が説明するよりも、素面のおまえが説明したほうが、説得力があるだろ」
「さっき救急車を呼ぶのに、電話をしたのは御堂先輩でしたけど」
「周防が病院で説明している間に、夜勤で頑張ってる綺麗なスタッフに、ねぎらいの言葉をかけなきゃならない仕事が待っているんだ」
片手をぎゅっと握りしめながら遠くを見て決意を新たにする御堂に、周防は思いっきり呆れた表情を浮かべた。
「御堂先輩、俺が付き添いをしなきゃいけない理由を、無理やり作らないでください。そういうところがなければ、素直に尊敬できるのに」
「なにを言い出すかと思ったら。他の人が寝ている時間に細かな雑用をこなしつつ、患者の世話をしているスタッフをねぎらうのは、医者として当然の行為だろ」
「どうせ、いつものようにナンパする気なんですよね。分かりました、お供いたします!」
周防ががっくりとうな垂れながら了承を口にしたタイミングで、目の前に救急車が横づけされた。
いつもの調子を取り戻した周防と御堂、そして意識を失った高橋を乗せた救急車が、近くの病院に向かっていく。
それをぼんやりとした面持ちで、もうひとりの高橋が見つめていた。
辺りは野次馬や警察官がわんさかいて、騒然となっている。歩道には高橋が刺されたときの血痕が、大量に残った状態だった。
(もしかして俺は地縛霊として、ここに留まらなきゃならない運命なのか……)
半分に透き通った両手をしげしげと眺めていたら、まばゆい光が高橋を包み込む。あまりの眩しさに、目をぎゅっと閉じた。一瞬だけ躰が浮いた感覚があったけど幽霊になってしまったせいだと考え、浮遊感がなくなってから薄っすら目を開けてみる。
眩い光はすでになく、月明かりがほんのりと高橋を照らしていた。
「な、なんだこれは!?」
なぜだか夜空に浮いた状態で突っ立っていて、見渡す限りの無数の星が自分に向かってキラキラ瞬き、足の下には薄い雲が風に流されていた。その隙間から、どこかの都市の明かりが光って見える。
状況が飲み込めないでいる高橋に、下弦の月が囁きかけたのだった。
「逝っちゃ駄目だ!」
「落ち着け、周防。医者のおまえが取り乱してどうするんだ?」
「だって――」
「大丈夫、気を失っただけだと思う。これだけ躰にダメージを受けていたら、とっくの昔に気を失っているはずなんだ。それなのに……」
御堂は話しかけながら、冷たくなっていく患者の衣服を元に戻して、応急処置のために付けていたゴム手袋を外し、自分が着ている上着をかけた。
医者として当たり前のことをした先輩を、周防は尊敬の眼差しで改めて眺める。
学会のために、隣町に来ていただけの自分。持ち物は必要性を感じた資料や本だけを持ってきた。
学会が終わった打ち上げと称して参加した宴会にはなにも持たず、手ぶらでここに来たというのに、先輩の御堂はいつも持ち歩いている小ぶりの鞄を、肌身離さず持ち歩いていた。
牛革製のそれはお洒落なデザインだったせいで、医者が日頃使う道具が入っているとは思いもしなかった。今回の応急処置に、それが大活躍したのは言うまでもない。
「俺はいつまでたっても、御堂先輩の足元には及びません。医者としての心構えや大事なことがなにも分かっていない、研修医の頃のままだった」
周防は片手で握っていた患者の手を両手で握り直し、自分のあたたかみを分けるように撫で擦ってあげる。
「同じ小児科医でも、俺は救急専門だからな。互いの立場の違いがあるだろうし。でもさ」
「はい……」
「おまえが患者に向かって、一生懸命に話しかけていただろ。ギリギリまで意識を保つことができたのは、周防のお蔭だと思う」
(だけど俺が、さっさと応急処置をしていたら――あるいは御堂先輩とふたりで治療をしていたら、間違いなく生存率が上がっただろう。声をかけて励ますなんて、誰にでもできたことなんだ)
「救急車が近づいてきたな。周防、乗り込むだろ?」
「……俺は乗る権利があるのでしょうか」
聞き慣れたサイレンの音が、周防の迷う気持ちに拍車をかけた。
不安に苛まれる瞳を宿した後輩を横目で見るなり、御堂は容赦なく周防の頭をぐちゃぐちゃにする。手荒な宥め方に、周防は肩をすぼめてやり過ごした。
「乗ってもらわなきゃ困るんだな、俺が」
おどけた口調で笑いかけた先輩の言葉を聞き、周防は乱された髪の毛をそのままに、目をパチパチ瞬かせた。
「ほらほら、アルコールが入ってる俺が説明するよりも、素面のおまえが説明したほうが、説得力があるだろ」
「さっき救急車を呼ぶのに、電話をしたのは御堂先輩でしたけど」
「周防が病院で説明している間に、夜勤で頑張ってる綺麗なスタッフに、ねぎらいの言葉をかけなきゃならない仕事が待っているんだ」
片手をぎゅっと握りしめながら遠くを見て決意を新たにする御堂に、周防は思いっきり呆れた表情を浮かべた。
「御堂先輩、俺が付き添いをしなきゃいけない理由を、無理やり作らないでください。そういうところがなければ、素直に尊敬できるのに」
「なにを言い出すかと思ったら。他の人が寝ている時間に細かな雑用をこなしつつ、患者の世話をしているスタッフをねぎらうのは、医者として当然の行為だろ」
「どうせ、いつものようにナンパする気なんですよね。分かりました、お供いたします!」
周防ががっくりとうな垂れながら了承を口にしたタイミングで、目の前に救急車が横づけされた。
いつもの調子を取り戻した周防と御堂、そして意識を失った高橋を乗せた救急車が、近くの病院に向かっていく。
それをぼんやりとした面持ちで、もうひとりの高橋が見つめていた。
辺りは野次馬や警察官がわんさかいて、騒然となっている。歩道には高橋が刺されたときの血痕が、大量に残った状態だった。
(もしかして俺は地縛霊として、ここに留まらなきゃならない運命なのか……)
半分に透き通った両手をしげしげと眺めていたら、まばゆい光が高橋を包み込む。あまりの眩しさに、目をぎゅっと閉じた。一瞬だけ躰が浮いた感覚があったけど幽霊になってしまったせいだと考え、浮遊感がなくなってから薄っすら目を開けてみる。
眩い光はすでになく、月明かりがほんのりと高橋を照らしていた。
「な、なんだこれは!?」
なぜだか夜空に浮いた状態で突っ立っていて、見渡す限りの無数の星が自分に向かってキラキラ瞬き、足の下には薄い雲が風に流されていた。その隙間から、どこかの都市の明かりが光って見える。
状況が飲み込めないでいる高橋に、下弦の月が囁きかけたのだった。
応援ありがとうございます!
0
お気に入りに追加
50
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる